ヨブ記 13:6-12

 言い過ぎではあっても、ヨブの指摘は重要である。神のためにと語るのか、と。友人たちは不正を語ろうとしているわけではないし、ごまかしをしようとしているわけでもない。また彼ら自身は、神のために発言しているつもりでもないとは思う。だが、実態として言えば、彼らは確かに、神を擁護するようにして語っている。神は人にかばってもらう必要などはない。そういう必要があると思うこと自体が、明らかに神に対する不遜ですらある。護教論という概念があるが、もしそれが本当に擁護するためのものなのだとしたら、それは適切な姿勢ではない。この教えをしっかり語ることによって人々にその真実が届くようにしたいという、伝道的な意味合いからならば良いのだが、防御的である必要性はない。神は誰からも傷つけられたりはしない。人が神を守るのではなく、神が人を守ってくださる。この位置関係を間違えると深刻な事態にも至り得る。

|

ヨブ記 13:6-12

 ヨブは言いすぎだと思う。著者は、そういう印象になることを分かっていて、ヨブの言葉を設定しているのだろう。友人たちは決してヨブに対して悪意を抱いているわけではないし、神に対しても逆らうつもりはない。追い込まれているヨブは、人なら誰でもそうだろうが、口にすべきではない方へとすべり始めている。悪とまでは言わないが、こういう弱さを、人は誰でも持っている。ヨブは義人だが、でも、ヨブもまたただの人、でもあるということを、この書は意識して彼の言葉を形成している。偉大な人もあるし、高潔な人もある。だが、人が人である限り、そういう至らなさがあることを、よく知っておきたい。

|

ヨブ記 13:1-5

 ヨブも友人たちも答えを見いだせない状況に陥っているのだが、ヨブはかろうじて、道が切り開かれ得る可能性を見ている。いや、本人は意識できていないという話のようだが、でも、最終的にはこれが答えになる。ヨブは友に言う。黙れ、と。彼らの言葉はむしろ、妨げになっていると。友人らとしては腹が立つだろうが、でも、彼らも、ヨブも、答えを見いだせないのだから、それなら、黙ることは必要であろう。そしてヨブは神に向き合いたいと言う。そう、ここまで、神はヨブに何も告げていない。この時点でのヨブは、まだまだ、神に前の沈黙しているけではない。が、その激しさも伴う言い方の中に、実は答えがある。神が語って下さる以外に、道は開かれ得ないのだ、と。

|

ヨブ記 13:1-5

 ヨブと友人たちと、どちらが真理を見いだし得るのかを競ってみても、何の答えにもならない。友人らは、自分たちは真実を語っているのだからヨブは聞くべきだと言っていた。ヨブとしては自分のほうが分かっていると言っている。両方とも、それぞれに真実も語っているが、実はこの出来事の真相は知り得ていないので、的外れの問答になってしまっている。悩ましいことだが、これが人の世にあるほとんどの混乱と対立の原因である。どちらかだけが極悪の場合もあるけれど、そうとは言い切れない、でも衝突し、解決が見えないことがあるのだ。ヨブ記はある種の設定の中で語るのだが、それによってこの世界の厄介な混乱が映し出されている。

|

ヨブ記 12:7-25

 一言で言うなら、自分たちは神の手の平の上にあって、そこから抜け出すことなどできる者などいるはずがない、ということだ。神の偉大さが次々と語られているが、この箇所のヨブはそのことの意義を受け止めていない。どうにもならないのだといううめきと絶望が、彼を虐げているようである。希望は必要である。どんな時も、大丈夫だと思えるような時でも。ヨブの心は枯渇しそうになっている。それは自分の悟りでは満たされ得ない。ただひたすら、神ご自身によって満たされていくのでなければ。

|

ヨブ記 12:1-6

 このヨブの言葉、聞き方によってはずいぶんと傲慢、高慢。自分は神のことを分かっている、お前たちよりも分かっている、という言い方。嫌な奴だと思われてしまうかもしれない。だが、ここまでの話の筋を思い出してみよう。そうすると、友人たちはヨブのことを何もわかっていないのだと語られてきていた。ヨブは、これほどまでに神に叱られるようなことは思い当たらない。だからこそ、ごめんなさいと謝ることもできない。それはそうだ。真実を見極める方の前で、心にもない謝罪など、それこそ恐くてできない。それなのに友たちはヨブを神の前にひざまずかせようとする。だからヨブは怒っている。そう、ちゃんとした対応をしてもらえないと、その人の心は非常に屑つく。ヨブの言い方を批判するよりも、これほどに言わせてしまっている友人たちの持ち込んでいる闇を必死で考えたい。

|

ヨブ記 11:16-20

 良い人は良い状態を、悪い人は悪い状態を。勧善懲悪とも言うが、それが理想的であるのは、私もそう思う。だが、現実には、それは理論であって、必ずしもそうではない。いや、しばしばそうではない。そしてヨブ記は、実に何とも、こんな理由で苦しむのかと言いたくなるような設定をして、つまりは、本人の善悪とは全く関係なく苦難が存在するという枠組みの中で、この話を形成している。実際にはこんな無茶なことを神はなさらないけれど、大事なのはヨブの場合の理由ではなくて、わけの分からない事態は起こりえるという点だ。神は結局最後まで、なぜヨブが苦しんだのかを語らない。それは設定であって、真の解決とは関係がないからだ。ともかく、友人の言い分は正しいのだが、でも、ずれている。

|

ヨブ記 11:13-15

 これもその通りである。だが、その通りであるなら、そこで出てくるべきヨブに対する進言は、赦しを求めて神の前にひれ伏すことではなくて、このわけの分からない事態そのものについて、ただひたすら神に助けを求め、あるいは、その理由を尋ねたいのであれば、そのように願うことだ。勝手に自分たちで、私が悪かったです、と結論を出してしまうのではなく、である。思い浮かべたら分かるだろう。友人が朝から顔をしかめている。何か怒っているぞと考えて、それで、ごめんなさい、私が悪かったと謝罪するとする。実は友人は、歯が痛くてイライラしていたのだとしたら、友人は尋ねるだろう、何だ、何かしたのか、と。その時、よく分からないけれど、自覚していないけれど、たぶん、何かしたのだろうと考えて謝っている、と言ったら。間違いなく友人は本当に怒るだろう。その謝罪が真実なものではなく、単にご機嫌取りのものだから。自分に対して真剣に向き合っているのではないから。そんな奴だとは思わなかった、と縁を切られてしまうかもしれない。自覚の有無とは別に人の罪深さを認めることとは全く別の話だ。ヨブ自身も実は尋ね求めていない。何が原因ですか、と。人はすぐに自分たちで結論を出そうとする。違う。神にこそ尋ねるべきであり、それがすぐに示されないのであれば、勝手に先走るべきではない。それは神の主権を認めていない姿だ。

|

ヨブ記 11:7-20

 ツォファルの言っていることは、それ自体としては確かに正しい。だが、ヨブにとっては的を外している。なぜか。まずは、神は一切のことをご存じで、掌握されているという言い分。その通りである。けれど、だからヨブは自分で理解しているかどうかに関わらず、神の前に謝罪すべきだという話は、実はその言い分からずれている。神はすべてをご存じだ。ということは、友人たちが考えていること、ヨブが悪いことをしたから苦しめられているのだ、という理論、人間の目にはとてもまっとうな意見に見えているのだけれど、でも、それが実はとんでもない大間違いであるということも、友人たちは全く気づいていないのだが、でも神には分かっているということになる。神の全能を語り、神の主権を語るのであれば、あくまでも神の判断にこそ依拠し、どれほど正しく見えていたとしても確信していたとしても、人間の理念や感覚を絶対視すべきではないはずだ。むろん、考えはする、こうだろうと思いもする。何も考えず、常に無であることなど、人にはできない。ただ、それでも常に自覚しておくべきなのだ。私の確信している正しさは、しかし、勘違いかもしれない、ということを。まあ、ヨブも自分の確信を握りしめてはいる。だが、友人たちは正しさを語り、けれどその言葉自体が彼らの行動を否定する。

|

ヨブ記 11:1-6

 もう一つ、友人たちの言葉がヨブに届かない理由として、それはこの書全体のテーマにもつながるのだが、彼らが人間の知恵と力による解決を目指しているからだろう。一般論としては、そういう努力は好ましいことであり、探求されるべきだとは思う。だが、それでは済まないこともあるのだということを、人はわきまえておく必要がある。それとも自分たちは万能であるとおごり高ぶるのか。考えてみると、友人たちの説は、ヨブの中に間違いがあったということを指摘しようと探ってはいるけれど、それならどうすれば良いのかということについての答えが見えてこない。罪を認めて謝罪すればこの事態は打開され得るのか。ヨブ記はその解決方法は認めていないようだ。ヨブはもともと常に罪のためのささげ物をしていた。彼は自分の気づいていないことについても罪があることを、神の赦しが必要であることを認めていた。でもこの事態である。友人たちは結局ヨブのために打開策を示してはいないのだ。その言葉が届かないのは当然とも言える。

|

«ヨブ記 11:1-6