ピリピ 1:12-18

 福音の前進と言っている内容の一つ目は、ローマ側の人たちが、パウロはキリストのゆえに投獄されているのだと知ったこと、だとある。明らかになっただけなので、信じたかどうかは別の話である。ただそれによって人々は気づかされることになる。キリストに対する信仰というものは、牢に入ることも覚悟するほどに、少なくともこの人たちは価値を見出しているものなのだ、と。むろん、そんな大変な目には遭いたくないという否定的な反応を引き出す可能性も大きい。でも、毒にも薬にもならない、という言い方があるように、誰も真剣になっていないようなものだったら、人々は見向きもしないのだ。人々の注目を集めたことを前進と語るパウロは、何とかしてこの福音が人々に届けられるようにと切望している、その思いがよく分かる。

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遅延

 すみません。正月明けに体調を崩して、更新ができていません。1/20には再開できるようにと思っています。

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ちょっとお休み

 始めたばかりですが、クリスマス本番に差し掛かりますし、ちょうど区切りが良いところなので、ここでひとまず切っておきます。ピリピ書冒頭の心温まる箇所まで、ですね。ここから、色々と課題なども指摘されていくわけですが、すぐさま深く掘り下げていく言葉が続きますので、年明けになってからまた、ゆっくり読んでいくことにしましょう。2020年の1月6日からの再開とします。明日からはぜひ、クリスマスに関わる箇所を読み直してみてください。そうですね、一日、一つの段落くらいで。それでマタイとルカを一通り読もうとすると、ちょうど良いくらいではないか、と思いますが。ではでは。

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ピリピ 1:9-11

 ピリピの人たちに深い愛の思いが備わっていること、それが彼らの豊かな力になっていることをパウロは確信している。それだからこそ、その思いが単なる感情で終わらずに、確固たる土台を築いていくことができるようにと願うのは、当然でもあろう。そのためには、何が福音の真実であるのかを見極めることも必要になる。信仰は単なる情熱とか神への熱意ではなく、神の約束に基づいた応答、信頼だからである。知識と識別力、がまだまだでも信仰も救いも確かではある。でも、それらが支柱になっていくことで、より安心して進んでいけるのは事実なのだから。

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ピリピ 1:7-8

 もう一つの、堅持を確信する理由は、パウロ自身が彼らのことを「心に留めている」からだと言う。それはつまり、神はパウロの願いに応えてくださるという確信だ。むろん、御心にかなう願いだという確信が前提になっているが、このような点についてパウロの思いは揺らがない。私達はとかく、他者の心の内は分からないと言い、他の人の信仰について保証などできないと言ったりする。それも真実であるけれど、パウロはそこで踏み込んでいく。それは神に対する絶対の信頼と期待であろう。むろん、先のことなど人にはわからない。でも、それも含めて主に全面的に委ねているからこその確信には、大いに見習うべきだろうと思う。

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ピリピ 1:7

 ピリピの人々について、その信仰と救いを確信する理由について、二つのことが挙げられている。その一つはピリピの人たちが、パウロが苦境にある時にも変わることなく、この福音に生き続けたことである。新約時代も、苦境の中で戸惑い、ためらう人たちは少なくなかった。それゆえにしばしば励ましや警告がなされているのだが、ピリピの人たちは福音の確かさを確信し続けたようである。むろんそれは彼ら自身の力ではない。そのようにしてくださっている神がおられること、神の働きかけがあることを思うと、この信仰、この救いは絶対確実と言い切れるのだと、パウロ自身も心励まされる思いであったのだ。

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ピリピ 1:6

 この言葉、そして堅持については、いったん信仰を持った人が、でもそれを捨ててしまった場合にはどうなるのか、という議論が出てくる。それに関する厳しい言葉も聖書には出てくるわけで、神の保証の範囲を抑制的に考える説明も見られる。ただ、仮定の話をしても意味はない。それとも保たれるなら信仰を捨ててみよう、危ういなら捨てずに頑張ろう、ということなのだろうか。それはもはや神にふさわしい程度とは言えない。それから、他の人について勝手に判断すべきでもない。すべては神の御心の内にあり、だからこそ私たちにできるのは、その守りと回復を切に祈り続けることのみであり、結末について論議することではない。この信仰も、私たちの生き様も、一切は神の支配のもとにあるのだと知っているのなら、自分たちの不安定さではなく、頑張りでもなく、神にこそ寄り頼みつつ、が何よりである。

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ピリピ 1:3-6

 6節の「良い働き」を、5節を意識して、伝道活動というふうに受け取る読み方もある。つまり、その伝道活動を神は最後まで守り導いて下さるのですよ、という励ましとして、である。ただ、この言い方からするとやはり、それよりももっと根本的なこと、つまり、人の内に主が始めてくださった一番のこと、そう、救いそのもののことと考えた方が自然だ。人は様々に迷ったり混乱したりするのだが、神はそれをはるかに超えて、その人を最後まで守り導いてくださる。ウエストミンスター信仰告白などにおいては「堅忍」という言葉を使うが、私は「堅持」という表現のほうがしっくりくる。神は決して手放したりはせず、最後まで必ず堅く持ち続けて下さるということである。この励ましがなかったら、弱く迷いやすい人間など、どうして立ち続けることができるだろうか。

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ピリピ 1:1-2

 冒頭は定型的な書き出しの部分だが、パウロがテモテと一緒にいたこと、そして、ピリピの教会の人たちに向けて書いていることが分かる。個人的な手紙ではなくて、教会全体を意識しているということも、心に留めておきたい。教会には様々な人たちがいる。多様な事情を抱えている人に向けて語るのは容易ではない。一個人に対する言葉のほうがずっとやりやすい。この手紙には、鋭い語りも出ていて、聞き手次第では混乱や取り違えが生ずることもあるわけだが、それでもなお万人向けにこうして語られていることの覚悟と意義を意識しつつ、読んでみてはどうか。その点では、ピリピの事情をさほどには意識せずに、あるいは知らずに読んだとしても、十分に受け止められるものだとも言えるだろう。

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ピリピ 1:1-2

 今日からピリピ人への手紙を読んでいく。この手紙はパウロがローマで幽閉されていたとき(使徒28章)に書き送ったものである。別の説もあるが、書かれている事柄からすると、もっともすんなり受け止められるのは、やはりローマ時代という理解だろう。後の人々は、パウロがその後解放されて、また伝道旅行に勤しんだことを知っている。あいにく使徒の働きはそこまで書き留めておらず、ローマ到着までを説明すれば良いという意図があったのだろう。パウロが殉教するのは、第二テモテを書いた後ということになる。が、とらわれの身であったパウロ自身にとっては、この先どうなるか、何も分からない状況だったわけで、それがこの手紙の内容にも深く影響してくることになる。むろんこれはパウロ個人の事情というだけではなくて神の言葉としての意義があるわけだが、語られた時点での背景も意識すると、より深く理解できるだろう。では、順次読んでいくことにする。

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