ヨハネ 19:30

 霊を渡す、という表現を考えすぎると、神の御子ご自身が自らの霊を手放したのか、というふうになってしまう。だが、この言い回しはもっと単純に、死なれた、ということを表すものであって、息を引き取ったとか、そういう言い方とさほどの違いはない。この言葉が告げようとしているのは、神の御子が人と同じように、死を受け止められたということである。ちょっと死んだふりとか、そういうことではなく、というものだ。渇く、と同様の意図が込められている。死すべき人間たちの救いのためには、御子ご自身の「死」が必要だということである。イエスの神としての威厳を重視しようとして、御子は死なない、などといった説を持ち出すことはしばしば見られるので、聖書の語っていることをしっかり受け止めていく必要がある。

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ヨハネ 19:28-30

 聖書の成就、ということについては、しばしば触れているが、預言されていた通りにして、その通りになったぞと示すため、といった部類のものではない。それは預言そのものの価値を否定することにもなる。神の預言は、この世の側が何かを行うことで実現させるのではなく、何も意図しなくてもそうなる、という部類のものである。それにこの「預言」は詩篇22を意識しているが、そこで歌われているのは、救い主の偉大な御業ではなく、人の弱さと痛み、苦しみであり、その中で神に助けを求めるものである。詩篇22の通りになってしまっては、イエスはただの人間に過ぎず、弱き存在、助けを必要としている存在ということになってしまう。そんなことを意図しているはずもない。詩篇22を引き合いに出しているのは、御子である方が、ただの人間と同じようになって苦しみを受けられた、ということを指し示すためである。ヘブル2章などにも出てくるテーマである。

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ヨハネ 19:28-30

 磔になった時点では、イエスはぶどう酒を拒んだ(マルコ15:23)。鎮痛剤的な効能があって、覚醒した状態を望まれたから、と説明されることが多い。そっちは没薬入りであったと記されているので、ここのぶどう酒とは異なるのかもしれない。おそらく兵士たちが飲料用に置いていたものだろうとも語られている。そのあたりの厳密な解明はともかく、完了した時点においては、イエスは「渇き」を口にし、それを潤すためのものを受け止めたということは明らかである。まさにそれは、なすべきことは終えたから、である。なお苦しみ続けるべきなら、それが使命の一環なら、イエスは渇きを訴えることはなかっただろう。事は完了した、のである。

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ヨハネ 19:28-30

 完了というのは、人々の救いが成就したということではなく、ご自身がなすべき業をなし終えた、という趣旨になる。救いに関わる事柄を事細かに分割するのはふさわしい受け止め方ではないが、イエスご自身が、まずはご自分の使命に取り組まれる、という点を意識されていた様子はうかがい知れる。それは、人々の側でそのことに応じようとしなかったとしても、それでもなお犠牲は払われていくのだということでもあり、救いの成就にとっては重要な点である。何しろこの時点では、十字架の意味を理解するものはなく、弟子たちは逃げ去っていたのでもあり、せっかくの祝福が野ざらしになっているようなものなのだから。それでもなお、神は事を推し進められている。

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ヨハネ 19:25-27

 イエスが家族に対して「冷たい」態度を取ったということが知られている(マルコ3:32-)。けれど、その実を言えば、イエスは30歳まで親に尽くしたのだし、このようにして母の行く末を思っておられる。とすれば、あれは「冷たい」のではなくて、人々に対する呼びかけとしての意味であることが分かる。言葉の表面ではなく、その意図を受け止めていきたいと思う。

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ヨハネ 19:25-27

 愛する弟子、はヨハネのことである。そのように明記されてはいないが、この福音書を読む者たちはそのことを十分に理解できる。ヨハネは他の弟子たちに比べると実家の関係からも安定を保ち得た。彼自身は果敢に突進し続けているが、それでもマリアを守り支えることはできた。兄のヤコブでも可能だったろうが、ヤコブはすぐに殉教する。最善の選択であるのだ。それにヨハネの殉教はずっと後で、確実に、マリアの寿命が尽きるよりも後である。神の深い配慮があることを思う。

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ヨハネ 19:25-27

 イエスの母マリアは、クリスマスの時に圧倒的な混乱の中に引き入れられた。御子誕生のためだった。それゆえ神は、彼女の守りと支えを示し続けておられたのが、クリスマスの出来事に記されていた。そして今、イエスが死に至る。母マリアにとってはまたまた大混乱である。すでに彼女は、その子が特別であることを意識していただろうが、だからといって彼女一人で乗り越えられる事態ではない。神は再び、彼女のために守りと支えを与えている。主の約束は変わることがない、のだ。

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ヨハネ 19:24

 そうすると、なぜ詩篇22が引き合いに出されるようになったのか、が問われる。すでに述べたように、イエスご自身が詩篇22:1を意図して叫ばれたのだとは、マタイなどには書かれていない。後の人々は、なにゆえ、ご自身の意図を越えて結びつけたのか。詩篇22はあくまでも人間の叫びである。救い主の姿が示されているわけではない。だが、十字架での救い主は神の子であるにもかかわらず、人としての痛みを受け、苦しみを受けておられる。それを見た人々が、まさに人と同じくなって苦しみを受けてくださった主の姿を、詩篇22の叫びと重ね合わせることによって表現しようとしていた、ということになるだろう。そこにあるのは、ピリピ2やヘブル2にあるのと同じ、御子である救い主が人と同じ痛みを担われたという、この救いを語る際に大切なテーマである。

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ヨハネ 19:24

 なぜ、ヨハネはこの箇所を引用したのか。詩篇22:1に類似する言葉を記録するマタイ27:46などは、詩篇を引き合いに出してはいない。とすると、イエスの言葉そのものは、詩篇を引いたわけではなく、単にそのように叫ばれたということで、それを、他の福音書より30年くらいは後に書かれているヨハネの時代には、その言葉と詩篇22との類似性が意識されるようになっていて、それでこういう扱いになっているのだと考えられる。

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ヨハネ 19:23-24

 詩篇22の言葉は、イザヤ53とは違って、救い主の業を指し示すための預言としての目的で語られたものではない。詩篇22全体は、キリストの姿に合致するわけではない。ただ、22:1はイエスの十字架での言葉に類似しているので、注目されてきた。そのことはマタイなどでよく知られていたので、ヨハネはその言葉には言及していない。衣を分けたことは他の福音書にも出てくるが、この言葉に関連させているのはヨハネだけであり、22:1への言及の代わりに、ということなのだな、と理解できる。

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