イザヤ 3:13-15

 神は民の指導者たちに向き合い、激しく、厳しく語られる。彼らがその役割を果たさないどころか、守り支えるべき相手から奪い取り、虐げているから、だと言う。こういう状態が生じている時、その社会は神から離れているのだと預言者たちは語り続けている。たとえ祭儀が行われていたとしても、そこには神への真の心は存在していないのだと。人は、社会は、自分たちの有様を顧みて、はたしてどうかと問いただすべきである。そうすれば、とんでもないところに陥っていることに、あるいは気づくかもしれない。

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イザヤ 3:12

 こういう言い方に反発する人はあるのだろう、と思う。「幼子」や「女」を侮辱するのか、と。そのような抗議に対しては、その通りですね、と言うのみである。誰それが、と個人を特定して、ああいう者が世界を治める光景を思い浮かべさせて、そうやって事態の深刻さを語るのであれば、それで良いのだろうが、一般的な表現で語るのは、誠実な人々も含んでいるのだから、適切ではないと指摘されるならば、抵抗する必要はない。もし神が、21世紀の現代にイザヤに語らせたのなら、そのような語り方をしただろうとは思う。ただ、そういう表現の是非を論議するのはそれで良いとしても、だからといって告げられていることの深刻さを後回しにするわけにはいかない。津波警報のニュースでアナウンサーの言い方がひどすぎると批判されたことがあった。言い方については、後でどれほどでも謝罪するだろう。でも、より重要なのは、人々が呼びかけられていることに注目し、尋常ではない事態が発生しているのだと気づくこと。そのために必要なら、罵声でも何でも、である。

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イザヤ 3:8-12

 そういう知恵なき人が権力を握ったら、社会は破綻する。でもここでは、神がそういう人を上に立たせるのだと言われている。むろん、害が噴き出す。でもそれは、人々が神を捨て、悪事を働き、互いを虐げ、しかも、そのことを恥じ入ることもなく、隠そうとすらしない。そんな状態になっているとき、神の対処は、人々が好き勝手に振る舞うままに放置して、自分たちで世界を壊し続けていく、そういうふうにさせておくのだと、そのように語られている。悪を糾弾するのではなく、悪によって人々が我が身を滅ぼすままにしておく、というのだ。本人が、好き勝手にさせろと言い張り、神の介入を拒み、正しきあり方への導きを拒絶するからである。これは最も過酷な扱い、神からの罰である。だからこそ、この事態の深刻さに気づいている者たちは叫ぶ。どうか、この愚かな民を哀れんでください、と。その訴えが預言書の基軸にもなっている。

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イザヤ 3:8-12

 社会が混乱し、崩壊していく原因として、力なき者、知恵なき者が好き勝手に権力を振り回す状況が語られている。4節からの話だ。未熟なのはだめ、とか、そういう表層的な話ではない。腕力に置き換えて語ると、その意味合いがわかりやすいかと思う。岩をも砕くほどの腕力を持っている人がいるとする。知恵あるとされているのは、その力を上手に発揮して、益をもたらしている人である。知恵なきとされているのは、腕力はあるけれど、それをどのように調整すればいいかわからず、リンゴを拾おうとするとぐしゃっと潰してしまうような人である。あるいは、その力を好き勝手に振りかざして、人々を殴りつけて従わせたり、気に入らないことがあると通りすがりの家の壁を殴りつけて破壊するような人である。ここで語られている知恵なきとは、そういう姿を言う。

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イザヤ 3:4-7

 若者が社会をリードすることは、老害という言葉があるように、それ自体は意義がある。でもここで言われているのは、何の知恵も知識も技能も経験もない者、という趣旨での「若い者」である。現代風に言うなら、幼稚園の子に車の運転を任せると思い浮かべたら良いかもしれない。神がそれを是となさるというのではなく、そんなことしかできなくなる、という意味である。1-3節にあるように神が奪い去った結果でもあろうし、あるいは、真の英知を無視する人々の愚かさがもたらすものかもしれないし、人々から請われる人自身が気づくと言う。そんなこと、できるはずもない、と。いや、現実社会では、7節の言葉すら出てこないままに、ふさわしくないはずの人がリーダーとなり、そして皆が道に迷う。良き羊飼いとは正反対の状況である。

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イザヤ 3:1-3

 社会が保たれ、人々の暮らしが支えられていくためには、必要なもの、そして人々がある。ふだんは忘れているのかもしれないが、もし、それらが奪い取られたら、もはや身動きもできなくなってしまうのだ。後にバビロン捕囚の時、国の指導者層、知識階級、職能を持つ者たちが捕囚となった。残された民には、かろうじて日々を暮らす程度、社会を建て直すこともできないままに、崩れ去る未来しか持ち得なかった。この預言の言葉からすれば、その時、人々は気づくべきだったのだ。自分がどれほどはかない者に過ぎないかを。でもあの時は、人々はその思いすら持たず、おごり高ぶりのままであった。

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イザヤ 2:19-22

 神の真実な栄光に気づくとき、人々はようやく、役にも立たないものを大事にしてきたのだと気づいて、それらを放り出すのだと言う。でも、それだけではどうにもならず、だから、逃げて隠れずにはいられない。そして思い知るのだ。人間がいかに小さなものであるかを、何の頼りにもならないものに過ぎないのだということを。鼻で息をする者、と人間を呼んでいる。息をしなければ生息すらできない程度の者、という意味でもあろう。一方で、鼻からいのちの息を吹き込んでくださったのは神ご自身である。与えられたいのちを生きている者、そのこと自体はもちろん尊い。だが、与えてくださった方を見失ってしまったら、せっかくのいのちも息も、無為に終わってしまうのである。

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イザヤ 2:12-18

 神の前にひれ伏すべき「高ぶっている人々」は、神の民と呼ばれているユダだけではない。それは諸国、諸民族も同様であるのだと語られている。誰もが皆、おごり高ぶっている。神の憤りは、人々が異教の神々を拝んだから、というのでは説明が足りない。他の神々がどうこうと言うよりも、もっと深刻なのは、人が神を軽視して、自分たちのほうが神よりも上だと考えている、行動している、そういうふうにして生きているから、である。実のところ、様々な神々に対する人の姿勢は、その相手に隷属して支配されているか、そうでなければ、自分たちの都合の良いように利用し、人が神々を支配している、そういうものになっている。頂点に立つのは人間様だ、ということである。

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イザヤ 2:10-11

 神を崇拝する者としての助けを求める訴えのはずなのに、神からの答えは、思い上がるな、である。自らの罪の結果として苦境に陥った民に対して、神の助けを願うよりも前に、まずは逃げを図った方がましだと告げる。全体的な論理としては、悔い改めて神にすがるのが筋であるのだが、この段階ではまだ人々は、自らの過ちを自覚せず、その結果としての悲惨さであることに気づいていない。だから、まず告げられるのは、神の厳しさは目の前にあるのだから、何とかして逃げるしかないのだ、という言い方になる。この箇所だけから神のご計画のすべてを認識するのは適切ではない。こうやって厳しく語ることで、その先にあるあわれみを、ようやく人々は知り得るのだから。だから、まずここでは、神の前に震撼すべきであろう。

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イザヤ 6:6-9

 イザヤ書は、神からの宣告と、人の側からの訴えが交差するようにして提示されている。つまりは、神がそのような表現手法を望まれ、それが人々により確かに御心を示すために有益だと判断されたということである。ここは人の側からの訴えである。イザヤ自身の声かどうかは疑問だが、それなりに主なる神を思う人、そういう立ち位置からの訴えである。神の民とされていたはずの社会の中を、偽りの神々を拝む者たちが数多く歩き回り、勢力を誇っている、その事態に憂い、神はこんな状況を認めるはずがない、と叫んでいる。もっとも、6節にあるように、こうなったのは神がその民を捨てたから、である。捨てられた理由があるわけで、それは人々の罪の結果である。だから、こういう訴えは当然に見えるし、神を信じる者の適切な訴えにも見えるのだが、しかしイザヤ書は告げている。その訴え自体がずれている、と。これは非常に過酷である。ハバクク1章とも重なるものがある。

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