一時休止

 すみません。今週はこのまま休止にします。3/1から再開して、歴代誌もあと少し、最後まで読み通したいと思います。

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第二歴代誌 28:5-8

 アハズに対して、神は明確な形で厳しい処置を下している。父の時代までは平穏が保たれていたのだから、ここまで一気に悪化したことを見るならば、それが自らの悪行のゆえであることは理解できるはずだ。むしろ神は、ガツンとやって、アハズを思いとどまらせようとしたのだと考えても良い。6節には、アハズだけでなく、民もまた主を捨てていたとの指摘もある。ユダ王国を襲ったのは、アラムの王であり、さらに徹底したのが北イスラエルの王である。せっかく北との関係も安定したのだが。そして両国の関係が壊れれば、アッシリアからすれば、まさに狙い目である。北王国も滅亡目前となっている。

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第二歴代誌 28:1-4

 ウジヤ、ヨタムと、偶像には手を出さなかった王が続いたのに(77年間である)、アハズ王は反転して、盛大に異教の神々を崇め奉った。彼は自分の子どもをいけにえにしたと書いてあるので(3節を、形だけまねたのだと理解することも可能だろうが)、徹底的にという様子である。なぜ彼がそこまで堕ちたのかについて、ここには何も記されていない。だが、どれほど安定した状況の中でも、時に人は、どうしようもないほどに悪になることがあるのを、私たちは知っているはずだ。アハズについては、そのような者だったのだと言う以外にはない。ただ、これを民全体の事として考えるならば、そういうアハズを止める者が誰もいなかったことの中に、ユダ王国全体の状態が悪化していたことを推察させられる。

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第二歴代誌 27:1-9

 ヨタム王についての記述は短い。歴代誌は彼の歩みについて、良き傾向を報告するのみである。父のウジヤと同様に彼は主のみを礼拝し、そして、父とは違って、自分が祭司の役割を果たそうとするような思い上がりもしなかった。6節の「主の前に自分の道を確かなものにした」という表現はとても好ましく感じられる。詩篇90:17の願いを思い出させられる。だが、2節には「民は依然として滅びに向かっていた」とある。それは後の推移を知っているからこその言葉であるが、これだけ穏やかな日々を過ごしていたのに、でも、民は転げ落ちていこうとしていたのだという指摘は、読む者たちに対して、強い警告となったことだろう。

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第二歴代誌 26:22-23

 ウジヤ王が統治できなくなったので(こういう事態はいくらでもありえる)、息子のヨタムが代理として統治をした。27:1には25歳で即位したとあるが、これは正式に王になった年齢だろう。国として幸いだったのは、そうやって取り組むことのできる息子がいたことである。王たちの墓地の野、に葬られたのは、病気のことがあるからである。現代日本のように火葬であれば問題はないが、イスラエルは土葬、それも土の中に埋めるわけでもなく、洞穴に安置するというものだから、王家の墓では、後々まで影響が出てしまう。ウジヤを虐げたのではなく、必要な処置だったのである。

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第二歴代誌 26:19-21

 ツァラアトについては、その正体は限定できない。旧約聖書が語る現象は様々な面があって、今日の病名などでは特定できない。だから、いわゆるハンセン氏病も含んでいただろうが、それとは異なる皮膚病も、あるいはある種のカビの類も、そういったものをツァラアトと呼んでいた様子である。当時の人々には対処ができなかったので、広がることを警戒して、隔離するという手段のみが用いられた。これはどのような病気、あるいはカビの類でもなされることで、対処法があれば向き合えば良いのだが、それが難しけれど広がらないことのみを目指すしかない。今でもワクチンのない疫病の類は同様になされている。こういう対応がなされているので、ある種の象徴的な扱いを聖書はしているが、それは決して、ツァラアトになった人を否定したり、捨て去るというものではないことは忘れてはならない。律法はそのような扱いを告げてはいない。ツァラアトに対する過酷な扱いが示されているのは、新約に入ってからである。ここでもウジヤ王は隔離されたが、捨て去られたわけではない。

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第二歴代誌 26:21

 この事態は、ウジヤ王に対するさばきである。彼は自らに滅びを招いた。だが、同時に思わせられる。神はウジヤが決定的にだめになる前に押しとどめられたのだとも。ウジヤが何歳で病になったのかは不明だ。隔離された者として残りの生涯を、多分、それなりに長い日々を歩むことにはなった。でも、彼はそのことによって、決定的に神に逆らうことからは引き戻された。これはさばきであるが、同時に神からウジヤに対するあわれみでもあるように思う。この生涯がすべてではなく、その先もあることを考えるとなおさら、である。

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第二歴代誌 26:19-21

 ウジヤに対する処置は神ご自身がなさったと歴代誌は告げる。彼はツァラアトに冒された。天からの火で焼き尽くされたのではない。ツァラアトは死病とは言えない。だが、事がまさに神の御手の中にあることを示すという意味では、圧倒的な意味合いを持っていた。祭司たちはそれ以上王を責めていることはなく、彼を連れ出して、ふさわしい対応ができる場所に移した。この様子は、祭司らが王を憎んでいたわけではなく、まさに、王の過ちを正そうとしたのだということをうかがわせる。祭司ら自身もショックを受けている様子である。そしてウジヤ王自身も、自分に起こったことの意味を悟り、抵抗せずに、すぐに神殿から退出している。彼は心の底まで堕落していたわけではなく、まさに思い上がりだったようだ。

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第二歴代誌 26:17-18

 祭司アザルヤたちは、まさに勇敢であった。彼らは王の権威を知っていたが、でも、祭司として告げねばならないことがあると理解し、だから、王に対して苦言を呈した。それは間違っている、と。サムエルがサウル王に対して告げたのと同じである。サムエルだって、あの後、サウル王による弾圧の可能性を考えていた。こういう行動は簡単ではない。だが、どうしても必要なことである。だから、神がこのような人々を置いてくださったことを、深く感謝したい。

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第二歴代誌 26:16-21

 歴代誌は明確に、この事態の意味を記している。彼は高ぶって、そして、自分の身に滅びを招いたのである。自壊、自滅である。神によって助けられて立っている者が、神を忘れるならば、事は瓦解する。彼は神を否定したわけではなく、偶像に手を出したのでもない。だが、身をわきまえなかった。神が定めた礼拝のあり方を、自分は王なのだから何でもできるのだと考えた。神を礼拝する行為なのだから構わないではないか、と考えてしまうのである。でもそれは、自分が何者であるかを忘れる行為である。サウル王が同じ部類の過ちに陥ったことを思い出す。礼拝は良いことである。だが、そのことと、自分が物事を掌握していると考えるのは別の話である。

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