ハガイ書終わり

 ハガイ書は短いので、これで終わりです。民は、ハガイに励まされて、神殿再建に取り組んでいきました。その様子はエズラ記で読んだとおりです。ハガイ書と同時期に告げられたのがゼカリヤ書ですが、しばらく旧約を読み続けたので、また改めて読みたいと思います。ゼカリヤ書は幻の類もたくさん出てくるので、ダニエル書やエゼキエル書とも関連して考えたほうが良さそうですし。それに、まだイザヤ、エレミヤという大きな預言書には手をつけていませんでした。あのあたりに取りかかると、1年では終わらないかもしれませんから、奮起が必要になりそうです。ともかく、少し、新約に戻ってみようと思います。それにしても、まだまだこの連載で読んでいないところはたくさんあります。最初のマタイを始めたのは2009年2月でしたので、もうすぐ11年ですか。書の数では22、全部で66ですから、それだけでもまだ倍。長めの書も未読なので、最後まで続けられるかどうか。まあ、行けるところまで行きましょう。次はピリピにします。12/15からの再開とします。

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ハガイ 2:20-23

 その月の24日だから、同じ日に告げられた言葉、ということになる。これは総督ゼルバベルに対して告げられた励ましの言葉である。総督として、ペルシアとの交渉にも苦労し、民を治めるのにも苦労し、さらには信仰的なリーダーシップという面での労もあり、ゼルバベルが疲弊したとしても何の不思議もないことだ。詳しくは記されていないが、彼は自らの立場に戸惑い、落胆し、疲れ果てていたのだろう。神はそんなゼルバベルに呼びかけて、必ず道は開かれるのだと約束しておられる。「わたしがあなたを選んだ」という言葉は、神の前に歩んでいこうとするすべての人にとって、大切な礎となるだろう。

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ハガイ 2:10-19

 それで、10節からの問答との関連だが、祭司らの論は神の前に誠実なものだったが、それは自らのありさまを率直に見ていこうとするならば絶望しか見いだせないものであった。彼らの論理が間違っていたのではない。人の目から見る限り、それが結論だった。そして、こういう現実をしっかりと見ていくことは、罪深き人間としては必要なことでもある。私たちは闇の中にいる。そしてこの失望は、民を身動きさせなくする。そのままでは、とうてい立ち返るような勇気も出てこない。でも神は、そんな人々の思いを越えて、彼らにご自身のほうから呼びかけ、彼らを奮起させ、彼らに希望を与え、祝福を備え、そして、神のもの、聖なるものとして歩み進むことができるようにしてくださる。第9の月の24日は、人々が自らの現実を思い知り、そして、神の祝福の確かさを思い知る時である。それこそが真の力になり得るものだから。神はやがて、人類全体に、闇の中に座す者たちに、希望の光である救い主を到来させてくださった。この幸いは、聖書が常に語っていることでもある。

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ハガイ 2:15-19

 神は人々に問い掛けておられる。人々が神殿建設を諦めてしまっていた頃、それで事態は何か好転したのか、と。否、民が苦労して働き、頑張って収穫を手にしていこうとしていたのに、でも、状況は全く良くならなかった。神殿よりも生活の確立、と考えていたけれども、そこには何も良い展開は見出されなかった。しかも人々は、その事態によって気づかされて神のもとに戻ってくることもしなかった。そう、苦しみだけでは、人は神を見出すことはなく、立ち返りもしない、のだ。でも、神が人々に呼びかけ、その言葉に人々が目を覚ました時に、工事は再開され、人々は神のもとにまた集い始めている。神は、離れてしまっていた民をも見捨てずに呼びかけ、そして、民が主と共に歩み始めた時、改めて祝福を宣言して行かれる。工事が再開されて3か月後の場面である。神は民を励まし、後押ししておられるのだと読むことができる。

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ハガイ 2:10-14

 ハガイは、祭司らの答えを了承したように見える。祭司らの論理に従えば、民の状態は決して好ましいものではなく、すでに補囚にされてしまうほどに神の前に立てないはずのもの、つまり汚れている、ことになる。だとすれば、彼らの手によって建てられていく神殿は、とうていせいなるものになりえないという話になるだろう。神殿自体が聖なるものだから、それに関与するものは聖なるものに・・・、ならないのだというのが祭司の答えであった。この指摘は、祭司をはじめ、民にとって衝撃的なものだったはずだ。彼らがどんなに頑張ってみても、汚れは広がり、聖なるは広がらないのだとすれば、もはやどうにもならない、ということになってしまう。本来はそうなのである。それが人の現実である。だが、15節から後に、神はこの論理を覆すことを告げてくださっている。

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ハガイ 2:10-14

 12節にある問いは、律法の中で明確に言及されている事例ではない。出エジプト29:37によると祭壇に触れたものはすべて聖なるもの、つまり、神のものとなるとあり、それを適用すれば、答えは「是」になりそうなものだ。だがそれだと、まるで祭壇などが「聖なる」という性質を他に移す効能を持っているように見られてしまい、本来の「聖なる」の趣旨からずれてしまう。神にものとして用いるからこその「聖なる」であり、それに何らかの付加価値をつけるための「聖なる」ではない。祭司たちの答えは、事の真の意味合いを注意深く受け止めた、適切なものだったと言える。13節も微妙な問い掛けで、汚れとは本来、神の前に立って仕えるのにふさわしい状態かどうかを問うもので、病原菌とは違うのだから次々と伝染する部類のものではない。とすれば、「否」という答えもありそうだが、祭司らは厳格さを意図したのだろう。この当時、人々は補囚の経験もあり、物事はできるだけ厳格に考えることを正しさとして受け止めていた。

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ハガイ 2:10-14

 謎かけのような語りかけで大切なことを告げるのは、旧約によくある手法だ。祭司への問い掛けとなっているが、民全体への呼びかけであるのは言うまでもない。わかりにくい問答なので、その意味合いから考えてみよう。まず、「聖なる」と「汚れ」の理解を整理しておきたい。聖なるとは、その対象が立派だとか、価値があるという意味ではなく、「これは神のもの」という趣旨である。だから、その事態は粗末な土器だとしても、神のために用いられるならば、それは他のものとは違って(宝石に輝く器よりも)聖なるもの、である。汚れは、その対極にある概念だから、神のものではなく、神の前に持ち出すべきではないもの、ということになる。人の目から見てそれがよごれているかどうかとか、罪深いかどうかとは、本質的には関わりがない。だから死体が悪いものというわけではなく、ただ、いのちと希望に満ちた神の業をなす際には、人々を引きずり下ろそうとする死からは身を離しておく、という趣旨になる。もっとも、キリストの復活によって死の意味が変革された私たちは、死を恐れる必要もなく、失望の象徴とする必要もなくなっているので、葬儀に関わると神の前に立てないなどということはない。

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ハガイ 2:6-9

 神の与えたこの約束はどのようにして成就したのか、と考えてみた。信仰的な輝きということならば、神殿の再建、あるいはその後のネヘミヤたちの活躍などによって、ユダヤには神への真摯な信仰が回復して行っているので、人々はこの輝きを体感しただろうと言うこともできる。だが、もっと目に見える形での繁栄という意味で考えると、この時の神殿も、後にヘロデが建て直した時にも、神殿が世界の中心となって輝いているという様子は、誰も見たことがない。これを、世の終わりにエルサレムが世界の首都となるという預言だと受け止める人もあるが、聖書全体の論調からすれば無理がある。やはりこれは、建物としての神殿ではなく、その機能にこそ目を留め(ソロモンもそう祈っていた)、主なる神を世界の人々が礼拝するようになっていくありさまを語っているのだと受け止めるのがふさわしい。それはまさに、御子キリストが到来して、この信仰と祝福が万人のためのものであることが明らかになったことで推進されたもの、である。別段、ここにある宮を教会に読み替えなくても良い。人々が神を崇めていくありさまそのものが、この場所に栄光が、平和が、と告げられた光景なのだ。

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ハガイ 1:15b-2:9

 引き続き、神殿再建工事への励ましを語られる神の言葉である。長い中断を経て、人々が工事を再開したのが第6の月の24日である(1:15)。それから約1か月後に、再び、神からの呼びかけがなされているということは、工事は順調に進んではいなかったということだ。この文面からすると、それは民の怠慢などではなく、外圧の厳しさから来るものだろう。でも、だからこそ神は人々に栄光を語り、この宮には祝福が満ちるのだと語られる。人の目には困難に見えたとしても、神の業である限りは、もうだめ、ということはないのだ。この部分は、民に対する励ましの言葉と受け止めて良い。6-9節の言葉は人々の顔を上げさせ、勇気と希望をよみがえらせるものとなったに違いない。聖書という神の言葉には、励ましという要素が伴っている。厳しさもあるが、単なる断罪ではなく、その先にある希望が込められていると思って読んでいただいて良い。

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ハガイ 1:12-15a

 幸いなことに、この時のユダヤの民は、ハガイを通して告げられた神の呼びかけに聞き従った。彼らは神の偉大さを思い起こし、困難はまだ解消していなかったけれども、神によってこそ歩んでいくことを思い起こして、神殿建設に取りかかっている。ハガイが最初に語ってから24日後であるから、その間、ハガイは必死になって人々に呼びかけ続けたのだろう。事は決して簡単ではなかったということがよく分かる。ハガイも苦労したし、民もまた、動き出すためには多くの力が必要とされたのだ。神の助けによって、何年も止まっていた工事が再び動き出している。そして神は、「私はあなたがたと共にいる」と宣告してくださっている。幸いなことである。

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