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2009年2月

マタイ 3:14

 ヨハネの姿を見ていると、ある人の意義とか価値というものを測る尺度として、どれだけその人自身が謙虚になり、いや、自らの真の意味合い、位置づけを間違いなく見定めていくことができるか、ということが、非常に重要であることを思い知らされる。
 ヨハネは明確に、キリストの前にひざまずこうとしている。このとき、その相手は、彼の前に低くなっていたのである。弟子たちなどは、これに気をよくしていたかもしれない。周りにいた見物人は、「さすが、ヨハネ先生」とささやいていたかもしれない。でも、ヨハネが見ていたのは、ただ、目の前のお方と、そして自分の姿のみ。だから、この方よりも上に立つなどありえないと確信し、主の求めに対してすら尻込みをしている。結論としては、御子ご自身の意志が優先された。でも、自らの姿を的確に受け止めていたヨハネこそ、真に良き業をなしえていたのである。これは、しばしば、人の目、人の噂に振り回される私たちにとって、大きな教えとなるだろう。

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マタイ 3:13-17

 私たち自身のバプテスマの意味を考えると、イエスの行動は意味合いが異なるようにも思う。罪を離れ、悔い改めの思いを持って、神と共に生きる道を新たに選択する、というようなことは、イエスには当てはまらないからだ。それでも、キリストはここで重要な分岐点を、私たちと共有されている。それは、ここに人生の大きな転換点があるのだということ、そして、この新たな歩みは、しっかりと神ご自身と結びつれられていくものでなければならないのだということ。キリストの別名はインマヌエルだが、この新たな取り組みは、間違いなく、インマヌエル(神と共に)でなければ、何も動かないことを必須とするものなのだ。
 私たち人間は、神から離れてしまった。それで大丈夫だと思いこみ、神などいらないと、あるいは、自分が神に成り代わるのだと言って。でも、私たちはもう一度、神のもとへと戻ろうと願ったのだ。だとしたら、信仰の歩みが、再び神なしでも成り立つようなことが、どうしてありえるのだろうか。クリスチャンたちは、自らのバプテスマ・洗礼を、繰り返し思い起こすべきだ。神の手に、我が身を委ねることに幸いを見いだしたはずの、あのバプテスマを。

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マタイ 3:9

 当時のユダヤ信仰は、形骸化や、マンネリ化に陥っていたわけではない。彼らは熱心だったし、自分たちの宗教的立場が脅かされることに激しく抵抗していた。アブラハムの子孫、つまりは神の民と呼ばれる存在であることに、強い誇りを抱いていたのだ。
 けれどヨハネは、人々の熱心が本当の意味で神と向き合いものになっていなかったことを指摘する。彼らが見ていたのは実は自分自身の熱意であり、自分の出来不出来の問題であった。それは、真に神と向き合い、神が何を望み、何を教えておられるのかに答えていこうとする姿勢ではなかった。たとえば、自分たちが事細かに定めた安息日の禁止事項に抵触しないかどうかには熱心だったけれど、神が私たちの人生全体において指し示し、推奨し、勧告しておられる生き方が、その大切な安息日において十二分に発揮されるかどうかには、全くと言ってよいほど関心を抱いておらず、規則を守りつつも、しかし、神の御心から遠く離れたところで生きる者となってしまっていたからである。これでは、神から離反した人の罪は何も解消されていない。だから、悔い改めよ、とは、単に「良い人になれ」とか「悪事を働くな」というだけではなく、「神ご自身の思いの中にこそ歩むべきことを見いだせ」という、必死の呼びかけであるのだ。

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マタイ 3:1-12

 バプテスマのヨハネという人物の存在は、救い主キリストの存在にとって重要な意味を持つ。ルカにあるクリスマス関係の記事でも、すでにヨハネの存在がキリスト降誕と絡められているように。しかし、聖書に出てくる限りのヨハネの言動を見ると、彼自身は必ずしも特異な存在とは言えない。本人が言うように、到来する救い主の言動とは全く異質な、次元の違うものなのだ。ヨハネのしたことは、神を語り、神に従うことの必要性を語り、神への悔い改めを語り、悔い改めた者としての生き方を語ることだ。つまり、旧約の預言者たちと同じ種類のものである。キリストが指し示した救いや赦しや愛の道筋には至っていない。いや、むしろ旧約預言者のほうが、福音につながる事柄を含めて語っていたと言えるのかもしれない。
 でも、そういうヨハネが、御子の先触れと呼ばれ、道を備える者と呼ばれている。だとしたら、私たちがこのちっぽけな力で、弱々しい心で、それでも何か、神に対して誠実に生き、人々との関わりでごまかしやいい加減さ、あるいは、勝手な諦めに埋没するようなものではない生き方をしているならば、そのことが誰かのために、キリストへの道備えをするものとなりえることになる。ヨハネほどの影響力はなく、あるいは誰か一人だけかもしれないけれど、それでも、私たちもまた、キリストへの道を整える者としての意義を発揮しうるのだ。

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マタイ 2:19-23

 幼子イエスの動静には、「これは預言者たちを通して・・・と言われた事が成就するためであった」という言い方が繰り返されている。この出来事全体が神の御手の中にあることを告げる言葉である。もし、私たちの直面する事柄が単に世の中に振り回され、ただただ思いがけな事態というだけだったら、こんなに不安なことはなく、神が共におられる場合でさえ、目の前に起こる出来事に必死で対応するということになってしまうように思う。でも、聖書は一貫して、一切の物事は神がご承知のことであり、決して、神の意表を突くようなことはなく、まさに想定内のことであるのだと告げている。それは必ずしも、神が計画し、神の意図通りに進むということだけではなく、人が罪を犯す場合のように、神の心に全く反する場合もあるのだけれど、それでもやはり、神が思いがけないことが起こったと言って、驚き慌てるようなことはないのである。だからこそ、神の臨在を知り、神と共に歩むことの意義を知る者たちは、自分自身は様々に驚き慌てることがたくさんあるけれども、それでもなお、「大丈夫、道はすでに用意されている」と確信することができる。

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マタイ 2:16-18

 ヘロデの行動を見ても、当時の人々はさほど驚かず、眉をひそめて首を振る程度だったのではないか。ヘロデは自分の家族ですら猜疑心から殺す人であったので、寒村に差し向けられた一隊の行動は、ユダヤの歴史に記されるほどのものではなかったはずだ。けれど、聖書はしっかりと、これが大きな惨劇であることを語り、預言の言葉までも引用しつつ、事の重大さを語っている。時に、個々人の命が社会ではさして意識されないことがある。聖書の時代はなおさらである。でも、神の目はやはり、そのひとつひとつに注がれていることを思う。
 それにしても、御子の誕生がこのような残虐さにつながるとは。神が最善のことを推し進めようとされている真っ最中に、けれど人は、この世界をますます混乱させ、誰かを傷つけ続けているのだということを、痛感せずにはおられない。でも神は、こんなことになるなら御子を送らない方が良かった、などとひるんだりはなさらない。救いのためのご計画は、生きている者、先に死んだ者、そのすべてにとって、どうしても達成せねばならないことであるからこそ。

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マタイ 2:13-15

 ヨセフという人物に、御子の養父としての役割が託された意義を、痛感させられる。彼は、生まれてきた御子に社会的な位置づけを与える役割だけでなく、こうして、具体的な保護をもたらすべく備えられた人であったのだ。むろん、神が奇跡を用いて襲いかかる兵士をなぎ倒すことも、あるいはヘロデの寿命を閉ざすことも不可能ではない。だが、御子はあくまでも人間の一人として、つまりは、人の持つ弱さ、無力さの中に、あえてご自身を限定しつつ、ご自分が救おうとされている人々と共に歩むことを目指して、赤ん坊の姿でこの世に来られた。だとしたら、ここで格別の力を発揮するわけにはいかない。神はヨセフに託されたのである。
 世界から兵器をなくすことも、飢餓を一気に解消することも、すべての人に福音を伝えることも、それを奇跡で実現させることは神にとっては十分に可能な話だ。けれど神は、そういった取り組みを人に委ねて、人の営みが結果を出すのを待っておられる。「地を支配せよ」と言って、人類にこの世界を託そうとされた神だからこそ、神はこんなにちっぽけな私たちに、大きな、大きな期待を寄せておられる。

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マタイ 2:12

 博士たちが別の道から帰っていったのは、神からのお告げがあったからだ。もし、何も知らされなければ、彼らは大喜びでエルサレムに戻り、ヘロデ王に話をしてから、帰国していったはずである。彼らはキリストに出会い、良き礼拝の時も持ち、心からの献身の思いも表明した。でも、だからすべてのことについて間違いなく行動できる、わけではないのだ。神との良き関係を持っていた彼らであるが、その土台に加えて、さらに具体的に、神からの指示が必要とされている。
 もともと、彼らが最初にヘロデ王を訪ねたのは、決して何か悪い思いによるものではない。ユダヤに生まれた王である以上は、都にいるのだろうと考えたのは至極当然ではある。彼らの心は、ごくごく純粋であった。けれど、どれほど清らかな思いであり、決して責められるべき点はないのだとしても、なお、人には行動や理解を正されていく必要があるのだ。
 今日、もしも私たちが、神を信じ、神との良き関係を持っていると自覚していたとしても、それでもし、聖書の言葉によって問われ、正され、導かれていくことの重大さを無視したり、忘れていたりするとしたら、そのまっすぐな心を抱きつつ、ヘロデのもとへと向かう可能性もあるのだと、自戒しておきたい。

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マタイ 2:11

 博士らの捧げものは、その後の推移を見ると、単なる象徴的行為というだけでは終わらなかったことが、十分すぎるほどに推測できる。すぐ後で、ヘロデ王の探索を逃れて、ヨセフ一家はエジプトへ落ち延びる。彼は大工であったと言われるので、現地で生活を立てていくことは、それほどむずかしくはなかっただろう。でも、旅の費用、あるいは、エジプトで落ち着くまでの費用は、どうしてもかかる。彼らは家畜小屋にしか泊めてもらえない経済状況である。とすれば、この宝物は、間違いなく有効活用されたはずだ。神は、不思議な方法で、ヨセフ一行のために必要な資金を用意して下さったということになる。主の導きを信じて従うとは、こういった守り支えも含めて、主が全てを支配されていること、物事を動かして最善をなして下さることを信頼して、歩み進んでいくことを言う。

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マタイ 2:11

 博士が捧げた3つの贈り物、黄金・乳香・没薬は、それぞれに意味が説明されることは多い。「王様への捧げもの」「神への捧げもの」「癒し主・救い主への捧げもの」であるとか、「神の権威」と「祈り」と「十字架の死」であるとか、のように。聖書には、それぞれの意味するところについては必ずしもはっきりと告げられてはいない。けれど、お生まれになった御子の意義を考えるには、こういった推測は、ちょうど良い示唆になるとは思う。
 でも、それ以上に、この箇所自体から言えば、やはり、博士たちがそれぞれに心からの、かなり高価なものを捧げたのだという点が、重視される。むろん、金額が高ければ尊い、ということではない。しかし、博士たちの身分を考え、あるいは、この後、すぐに立ち去ることになる状況を考えると、こうやって高価な贈り物をすることに、自分たちの真剣な思いを込めるというのは、少なくとも彼らにはふさわしいやりかただった。ここで、どこにでもあるような日用品を贈ったとしたら、あまりにも場違いで、真意が疑われることになるのは、おわかりになるはずだ。
 何が適切かは、その人の状況によって違う。だから、自分自身に問いかけたい。自分は、この方、神の子救い主である方に対してふさわしい、自分なりの信仰表明をしているだろうか、と。

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マタイ 2:9

 博士たちの歩みは、星に導かれたものだったことを、聖書は強調している。学者たちの報告も役に立っただろうが、結局、星がなかったら、彼らは御子にたどり着けなかったに違いない。それはつまり、神ご自身が彼らを招き寄せ、御子に出会わせてくださったということを意味する。人が神を知り、神の心を知り、神に出会っていくことができるかどうかは、神からの働きかけ次第であると、聖書は繰り返し告げる。もちろん、人の側の取り組みも問われているのだが、信仰もまた神からの賜物だとさえ書かれている。信仰者たちは、これが確かに自分自身の現実であることを、痛いほど分かっているはずだ。主のあわれみによって、初めて、今、自分はここに立つことができているのだ、と。だからこそ、これからも続けて、主の導きを祈り求め、主が歩ませてくださることを受けとめていこうとするのである。

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マタイ 2:3

 ヘロデ王が猜疑心が強い人であったことは有名で、博士の知らせに王が激しく反応したのはわかる。けれど、町の人々も同様であったとの記述は衝撃的だ。学者たちの言葉からも分かるように、この知らせが約束のメシヤに関連する可能性は意識されていたはずだ。けれど人々は、平穏であることのほうがよいと考えたことになる。何か素敵なこと、大切なことが起こるよりも、何事もない日々のほうを選ぼうとするのは、しかし、今も私たちにも共通するものかもしれない。事なかれ主義という言葉を思い出した。ヨハネ1章にあるように、キリストはさっぱり待ち望まれてはいなかったのだ。

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マタイ 2:1-12

 マタイが記録した、キリスト誕生に立ち会った人々が、東方の博士たちであることは、とても興味深い。マタイの福音書はユダヤ人読者を意識したものと言われているのに、彼ら博士たちは、ユダヤ人からは信仰的なことでは意義を認められていなかった異邦人である。投書の読者たちはどんな印象を抱いたのだろうか。こんな連中の話では意味がないとあきれたか、それとも、キリストの到来に向き合ったのが、ユダヤ人自身ではなく、自分たちが軽蔑していた異邦人であったことにショックを受けたか。
 しかし、マタイの福音書自身の持つ意味合いとしては、その終わりのところ、28:19で、あらゆる国の人々を弟子とせよ、という言葉が出てくることを思うと、ユダヤ的と言われるこの福音書の内容、しかし、その全体は間違いなく、ユダヤの枠を越えて、全世界へ向けられていたことを考えないわけにはいかない。
 全世界を意識する時、しばしば人は、自分の持つ伝統や歴史を捨て去って、回りのものへ目を向けることに終始しやすい。だが、マタイの福音書が見せている態度は、自分たち固有のものを大切に、大切に受けとめつつ、だからこそ世界へ、という視点を示してくれているようである。

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マタイ 1:25

 この言葉には、イエス誕生の後、ヨセフとマリヤの関係は、ごく普通の夫婦に戻されたことを指し示してもいる。二人にはその後、ごく普通に何人もの子どもたちが生まれたことを、聖書は告げている。御子の誕生はあまりにも特別なことであったけれど、だからといってヨセフは、マリヤを神聖視はしなかったし、二人の関係を特殊なものにするつもりもなかった。確かに、特別な使命は委ねられた。神の特別な思いが宿ったのは事実。けれど、それが自分やマリヤという存在全体を、何か特別なものにしたというふうには考えていない。
 ともすると、何か特別な使命を与えられた時、存在そのものまでも特別だという思いにとらわれやすいことを思う。けれど、両者は別の話なのだということを、ヨセフはよくよく理解していたようである。一例を挙げれば、牧師というのは信仰者たちの中にあって、確かに特殊な役割、使命を与えられているだろう。だから、特殊な形で行動すべきことも多々ある。けれど、それは役割における特別性であって、存在そのものが特別なものであるわけではない。このあたりを自他共に誤解し、過度の特別扱いをしたり、あるいは反対に、特別扱いされるべき使命の部分について、その意義を忘れるということに陥ったりすることになりやすいのを、痛感する。同様のことは、他の全ての信仰者にも当てはまる。ヨセフに見習いたいものだ。

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マタイ 1:24-25

 この箇所を読むたびに、ヨセフの静かな強さを思う。彼はマリヤを妻として迎えることにした。けれど、二人が実質的な夫婦になるのは、まだまだ先である。それはヨセフが、自分に与えられた役割を謙虚に受けとめたことの表れだろう。今の自分たちに必要とされているのは、約束の御子が誕生することに何よりも専念することであり、だからこそ、処女降誕などというあまりにも特異なことが起こっているのだと、彼は理解した。であれば、自分のなすべきことは何か、とヨセフはよくよく考えたのだ。
 時に、私たちは神の御心に触れた時、その大きさに驚愕し、あるいは歓喜し、いずれにしても先走って、我が思いで物事を推し進めようとする。だが、ヨセフの行動はごくごく静かなものであり、淡々と歩み進んでいるものに過ぎない。でも、彼がしていることはまさに神の告げられたことであり、それ以上でも、それ以下でもないということに、よくよく注目しておきたい。今、自分がなすべきことは何か。それをしっかりと見据えるものでありたい。

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マタイ 1:23

 神が共に、ということ。これは、私たちが神のところまでたどり着いたら、一緒にいられますよ、ということではない。神が私たちのところに来てくださる、ということである。
 二つのよく似た話があることに、私は大いに興味を抱いている。一つは有名な「蜘蛛の糸」。地獄に堕ちた人を、お釈迦さんが助け出してくれるという話だ。蜘蛛の糸が下ろされ、彼はそこを登って極楽までたどり着こうとする。ヨーロッパの昔話に、ペテロの母親が地獄に堕ちて、それをキリストが助けてくれるという話がある。趣旨は同じである。一緒に助かろうとする人々を蹴り落としていったために、どちらも地獄に戻ってしまうのである。
 けれど、違いがある。ペテロのほうは、天使が遣わされて、母親を抱きかかえて、天国まで連れて行ってくれようとする。一方は自分で登る。一方は連れて行ってもらう。仏教の理念とキリスト教の理念に、ちょうど良く合致していることに、ほほう、という思いを抱いたものだ。
 インマヌエルである救い主は、天国で待っていて、優しく迎えてくれるのではない。神はこの世に来て、ここにいる私たちと共に歩んで、そして救い出してくださろうとなさった。

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マタイ 1:23

 インマヌエルという言葉を強く意識するようになったのは、神学校でヘブル語を学び始めてからであった。この言葉が、まさにそのまま「神は私たちと共におられる」という言葉なのだと気づいたとき、この言葉をご自身の名前としてこの世においでくださった方の大切さ、尊さを、強く考えさせられたものである。神が共にいてくださる。様々な問題が、周囲にも、自分自身の中にもあることを思うとき、私たちはとまどい、恐れ、失望落胆するのだが、しかし、インマヌエルである方こそ我が神、我が救い主であることは、深い、深い喜びである。

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マタイ 1:20-21

 ヨセフにとって、天使が告げた言葉は、彼が進むべき道をはっきりとさせるのに十分なものであったようだ。その内容は、この出来事が神の御業であること、神は人々を救うためにこの出来事を起こしておられるのだ、ということである。ユダヤの民として、ヨセフは神がなそうとしておられることが、どれほど特殊なことであるのかは、よく理解できたはずだ。であれば、今、目の前に起こっている不可思議な事態も合点がいく。彼はそのように納得したのだと思われる。
 それにしても、「これは神の御業なのだ」と告げられて、それで受け止める気になったというあたりは、ヨセフという人の信仰姿勢に感嘆せずにはおられない。目の前にあることがどこから出ているものなのかがわからなければ、不安を抱き、驚き慌てるのも当然だ。けれど、それが明示され、しかも信頼し畏敬の念を抱く神から出ていることだとわかったとしても、それでもなお、あれこれと言い続けることが多い私たちであることを思う。
 そう言えば、モーセは、神からのお告げだとわかっても、なお、あれこれと言い続けていた。それに対する神の応答は、ご自分が共にいる、ということであった。この後の23節に出てくるインマヌエルという言葉につながる。

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マタイ 1:20

 ヨセフは、実に見上げた人物であったと思う。そんな彼が、ぎりぎりの判断の中で選択したのが、マリヤを内密に去らせることだった。これ以上の可能性はないと、ヨセフは決断したのだ。けれど、最善の道は、全く違うところにあった。そして、その道筋は、神ご自身によって指し示されることで、初めて明らかになっていく。神の介入がなかったら、この二人の道筋も、誕生してくるキリストが置かれる境遇も、全く違ったものになっていたはずなのだ。人は最善を尽くすべきではある。だが、真に良きことのためには、神ご自身の介入を、私たちは必要としている。

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マタイ 1:19

 ヨセフが正しい人であった、という言葉は、実に考えさせられる。私たちが思う正しさは、しばしば、曲がったことを拒み、正義を貫き通す、ということになる。もちろんこれはすばらしい態度だ。けれど、だとしたらヨセフはマリヤを告発し(彼は身に覚えがないのだから)、戒律で定められた通りの処置をするようにと要求することになっていたはずだ。けれど、ヨセフは別の道を選んだ。たいしたことではないと忘れることにしたのではないし、優しく受け入れてあげるということでもない。彼が選んだ道は、まさに正しい人としての道。それは、我が子である可能性を否定しないまま、なお、父親としての役割を放棄するもの、つまりは、自分の社会的信用を完全に失墜させるようなものだった。
 私たちはふつう、正しさとは筋を通し、我が身の潔白を前面に押し出すことだと思っている。しかめ面をして、厳格な人、というイメージだろう。けれど、ヨセフの正しさは全く違った。彼は、自分自身がとてつもない悪評を背負い込むことによって、可能な限り、マリヤをカバーしようとするものだった。神は、実にすばらしい人物を、キリストの父親役として任じられたものである。マリヤを選んだのでもあろうが、マリヤの婚約者がヨセフであったこともまた、この役目が与えられた大きな理由なのだと思わずにはおられない。

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マタイ 1:19

 ヨセフの行動は複雑な思いが交錯した結果である。彼は両立しない思いを抱えていた。さらし者にしたくない、とはつまり、マリヤを愛おしく思い、彼女が決して間違ったことをしているはずがないことは確信していたということだ。けれど、それはごく当たり前の人間の常識とは完全に矛盾していた。一方で彼は正しい人であり、だから、物事をうやむやにして、何もなかったことにしてそのまま結婚することはできなかった。その結果が、内密に去らせる、である。それは、自分が生まれてくる子の父親である可能性を世間に対しては否定しないまま、父親としての役割を拒むことを意味する。つまりは、無責任なひどい奴の役割を担うことにした、ということだ。これは明らかに、正しい人、ということとは矛盾する。でも、彼に考えついたのは、ここまでであった。彼は必死で考え、誠実なことを目指した。それでも、真の解決は、神の介入なくしては実現しなかったのである。

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マタイ 1:18

 マタイの記録するキリスト誕生の出来事は、ヨセフの側から始められている。この箇所を読むと、ヨセフはキリストの父親ではない、ということがはっきり指し示されているのに気づくだろう。二人はまだ一緒になる前であり、現代のように勝手気ままな社会とは違い、当時のユダヤにおいては、この表現は、二人の間には何もなかったのだということでしかない。この後のヨセフの行動を見ても、彼は微塵も、自分の子どもである可能性を思い浮かべていないのがよく分かる。
 神は、キリストの誕生において、いわば全く無関係で、何の責任も担う必要性のない人物を、育ての父親として呼び寄せておられるのだ。マリヤに比べて影の薄いヨセフであるが、神のなさる大切なことであるならば、自分にできることを背負って、その業に加わっていこうという、彼の静かで、しかし、堅固な信仰があることを、感嘆の思いをもって見ずにはおられない。

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マタイ 1:12-17

 キリストの系図は、11節のバビロン補囚のところまでは旧約聖書でもおなじみの有名人たちが並んでいる。けれど、ダビデ王家が崩壊した後に出てくる人々は、聞いたこともない名前ばかりとなる。まさに間もない人々、である。けれど、17節にあるように、アブラハムからダビデまでの有名人も、ダビデ王家の王様たちの名前も、そしてこれらの人々の時代も、同じように並べられている。この17節だけを見れば、キリストへの系譜には3つの時代があるという印象のほうが強くなる。あいにく、その第3の時代については、ほとんど何も情報を得られないのだけれど。
 神の子であるキリストは、人となってこの世に来られた。それは、族長たちの一員としてでもあるし、王たちの一員としてでもあるし、そして、ごく普通の市居の人としてでもある。人間たちは、その人の身分とか、有名かどうかなどで、見る目が変わってくるけれど、神にとってはそれらは大きな問題ではない。いずれも人間たちの様々な姿の一つに過ぎず、そして、同じように神の助けを、救いを必要としている人間の姿なのだと、この系図は呼びかけているようにも思う。

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マタイ 1:3-6

 キリストの系図に登場する女性のうち2人は、社会道徳的に言っても、かなり問題がある。ユダの子を産んだタマルとは、彼の息子の嫁である。彼自身にはそういう意図はなかったにしても。出来事そのものは創世記を読まないと、一言、二言で片付けられる話ではないが、醜聞であるのは間違いない。ダビデの後継者を産んだのは、ウリヤの妻である。この紹介の仕方そのものが、重大な問題があったことを告げている。
 先祖に何があっても気にしない、という意志の表れだろうか。それにしては、先祖を重視するユダヤの伝統に則って、この福音書は系図から始めている。彼女たちが書き記されているのは、もっと積極的な意味があると思う。つまり神は、この混乱した世界、眉をひそめる程度では済まないほどの醜悪な世界に、真正面から取り組み、断固として事態を打破する決意を持って、キリストをこの世に送られた。そういうことだ。私たちはこれから、神が世界の罪と混乱に対して、どのように立ち向かわれるのかを見ていくことになる。

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マタイ 1:5

 なかなか先に進まないので心配されている方もおありだろうが、先は長い。のんびりと行こう。
 キリストの系図には、マリヤを別にして4人、女性が登場する。男女の扱いに大きな差があった当時の感覚からすると、これは驚くべきことである。けれど、それ以上に考えさせられるのは、5節に出てくる2人の異民族女性の存在である。ラハブはエリコ攻略の際に手助けをして、その功を認められて助け出されたカナン人の女性である。ルツはモアブ人である。しばしば、イスラエルの信仰は民族的な純粋性を問うものだと言われる。けれど、救い主の系譜には、明らかに異民族の血統が入っている。この方によってなされる救いの業は、民族とか血筋とか、その前歴、社会的背景などといったものには関係ないことが、よくわかるだろう。ヨハネ1:13でも同様のことが告げられている。では何が問われるのか。それは、その人自身と神との関わり、その結びつきがどのようなものであるのか。ここを忘れて、キリスト教社会に属しているから、ということで済ませていると大変なことになるのは、歴史が物語っている通りである。

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マタイ 1:1

 キリストを紹介するもう一つの言葉は、ダビデの子孫、というものである。これもまた、強い意味を持つ。血縁的にキリストの先祖と言える人は、ほかにもいくらでもいるのだが、なんと言ってもダビデなのである。
 ダビデの特徴は、数多くの問題を抱えていた人、ということである。彼は決して立派な人ではない。誘惑には弱く、政治的にも混乱もあり、当時のイスラエル民族にとって、この世的に言えば、最善の王と言いにくいものがある。たしかに、彼によってイスラエルは解放され、平穏を取り戻した。でも、こういう成果を上げられる王というのは、しばしば、極端でもある。ダビデも同様だと思う。彼は、親友であったヨナタンと比較した場合、人間としての資質という意味では、とうてい及ばない。
 それなのに、なぜダビデなのか。それは、彼が神との間に持っていた深い結びつきにある。良き人、立派な人、ということではない。彼にはとてつもない罪もある。だが、彼は最後の最後まで、神との関わりにしがみつく人であった。神との密接さを手放さず、華変わり続けた人であった。前任者のサウル王が神なしでもやっていけるぞ、という思いを抱いていたのとは正反対であった。
 キリストによってもたらされる救い、神との関わりは、そこにどれだけ密接な思いがあるかに、非常に関係してくる。神が人への思いを「愛する」という言葉で表現されたのも、このことを思い出すと、なるほどと大いに納得できるはずである。

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マタイ 1:1

 キリストがアブラハムの子孫と紹介されているのは、けっこう大きなことだ。イスラエル最初の人、というだけではなく、彼は神への信仰のあり方を最初に体現してくれた人であり、神ご自身もまた、アブラハムという具体例を通じて、信仰の道を指し示してくれているからだ。彼の信仰が持つ特徴は、「まだ見ぬものを、神の約束として信じて期待する」ことにある。大切な神の約束の存在だ。闇雲に信じ込んでいれば、信念の力によって世界が開けるというのではない。目の前に、私たちに真剣に関わってくださる、信頼できる神がおられることが、何よりの土台となる。キリストは、その信仰に応えるために、この世に来られた救い主、ということが、この福音書の冒頭で告げられていることになる。

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マタイ 1:1

 キリストは神の御子であると、聖書は力強く語っている。けれど、マタイ冒頭にある紹介の言葉は、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫」である。ユダヤにとって重要な名前ではあっても、それはやはり、人の名前に過ぎない。神である方とは、比べられるはずもない者たちの名前である。ヨハネなどは明らかに、神としてのキリストから語り始めているというのに。
 私たちはもちろん、キリストが神であることを忘れてはならない。この点を捨て去ったら、福音は完全に瓦解する。ご自身に、明確な自覚がおありだったことも疑うべくもない。けれど、そのような方があくまでも一人の人間として、小さな存在の一人として、この世に姿を現されたこと、そしてまた、生涯のほとんどを、人間としての存在の範囲の中で歩まれたことを、私たちは忘れてはならないのだと、マタイは告げるようである。神である方が人となられる。そこから、この救いの御業は始まっていくのだ。だとしたら、福音書が様々に語っている人としての姿、その力の限界や、直面された苦悩などを、私たちはよくよく見ていく必要がある。
 そのとき、私たちは気づくはずだ。神はどれほどよく、ご自分が助けようとしている者たちの有様をご存じであられたのかということを。その限りない問題を知りつつ、それでもなお、このような者たちを助けようと決意なさっているのだということを。

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