マタイ 5:23-26
昨日、義憤の類は除外した話をしたけれど、それに続くところでキリストは、ひどいことをされて、そのために誰かを恨むようになったケースを取り上げている。そして、その怒りが解消することの必要性を告げている。そう、どのような理由であっても、そこに怒りが宿り、誰かを恨み続けるような事態は、本人も周りも、厳しい暗黒へと引きずり込むものとなってしまうのだ。この事態はなんとしても解決せねばならない。
ただし、今度は、怒っている本人ではなく、怒らせている側にその責任を問うている。だから、仲直りをせよ、と告げられている。これは、その方がいいと思うよ、という呼びかけではなくて、せよ、という命令であることも、よくよく傾聴しておきたい。その後に続く警告には、この命令を放置するならば、徹底的に責任を問われるのだということが指し示されているのだ。
神を礼拝することを後回しにしても、と言われている。ユダヤ社会で、礼拝は何よりも優先されるものと理解されていたはずだ。だが、それよりもまず、とある。誰かを怒らせ、恨みの炎を燃えさせているままでは、神を礼拝する者としての基本的な資質を欠く、ということでもあろう。日曜の朝、礼拝に来る前に、きちんと自らを反省し、謝るべきは謝るのだ。あるいは、赦されて受け入れられることを切に祈り願うことを、私たちは絶やしてはいけないのだとも言えるだろう。
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