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2009年3月

マタイ 5:23-26

 昨日、義憤の類は除外した話をしたけれど、それに続くところでキリストは、ひどいことをされて、そのために誰かを恨むようになったケースを取り上げている。そして、その怒りが解消することの必要性を告げている。そう、どのような理由であっても、そこに怒りが宿り、誰かを恨み続けるような事態は、本人も周りも、厳しい暗黒へと引きずり込むものとなってしまうのだ。この事態はなんとしても解決せねばならない。
 ただし、今度は、怒っている本人ではなく、怒らせている側にその責任を問うている。だから、仲直りをせよ、と告げられている。これは、その方がいいと思うよ、という呼びかけではなくて、せよ、という命令であることも、よくよく傾聴しておきたい。その後に続く警告には、この命令を放置するならば、徹底的に責任を問われるのだということが指し示されているのだ。
 神を礼拝することを後回しにしても、と言われている。ユダヤ社会で、礼拝は何よりも優先されるものと理解されていたはずだ。だが、それよりもまず、とある。誰かを怒らせ、恨みの炎を燃えさせているままでは、神を礼拝する者としての基本的な資質を欠く、ということでもあろう。日曜の朝、礼拝に来る前に、きちんと自らを反省し、謝るべきは謝るのだ。あるいは、赦されて受け入れられることを切に祈り願うことを、私たちは絶やしてはいけないのだとも言えるだろう。

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マタイ 5:21-22

 殺人を禁ずる教えは、おそらく世界の大半のところに存在するだろう。人の命というものが、この社会を形成する基本要素でもあるからだ。自分の都合で誰かを殺し、その存在を排除してもかまわないという話がまかり通ったら、人の世界は崩壊する。
 何をもって殺人とするのかは、一つの重要な課題であるけれど、キリストはここではその点には踏み込まず、「腹を立てる者」についての言葉を告げている。それは、実際に命を奪った場合だけでなく、それと類似する思いが私たちの心に宿ることの重大さを勧告するためである。ここで腹を立てるというのは、悪を行っている者に対する義憤などではなく、自分の思うとおりにしないといって怒ったり、単なる好みの問題、または、自分の利益を守るためということで相手を排除しようとする感情を指す。大きくまとめれば、自分の都合によって相手の存在を拒否しようとすること、とでも言えるだろうか。
 そのような心が放任されるなら、ある人は命を奪うことでそれを達成しようとし、別の人はもっと巧みな方法で相手の存在を抹消しようとするだろう。そう、権力や財力を持つ者は、何も殺人を犯さずとも、いくらでも相手を排除できる。力がないほど、直接的な行為に走る。でもそこに宿っている思いそのものは何の違いもない。殺さなければいいなどということはあり得ない、人の存在を排除する意志は許されない、とキリストは指摘されるのだ。

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マタイ 5:21-26

 一連の、律法に関するキリストの言葉が続く箇所だ。キリストが指し示す基準は、当時のユダヤ人(一般的に言って、現代の私たちよりも厳格な基準の中に生きていた)にとっても厳しすぎると感じるほどに、重たいものとなっている。こんなの無理だ、という悲鳴が聞こえてくるのかもしれない。けれど、よくよく見ていくと、キリストが語られたことは、決して従来の律法をさらに厳格にしたわけではなくて、律法が告げたことの本来の意味を、丁寧に受け止めていくものに過ぎないことがわかる。ごまかしていたのは私たちのほう、神の告げられたことを、適当に割り引いて、このくらいはいいだろう、と自分の都合に従わせていたのだと気づかせられる。
 それぞれの指摘の意味は、この後順次考えていくが、まず、神の基準は、そのまままっすぐに受け取るべきなのだということを、自分自身に言い聞かせておきたいと思う。そしてまた、神の示す基準は、私たち人間にはとうてい及びのつかないもの、頑張れば達成できるというようなものではないことも、意識したい。そう、キリストが指し示す道は、人が人の力で自らを完成することではなくて、後にキリストが言われるように、「罪人を救う」ことにある。おごり高ぶっている人間たちは、神の厳格さにふれることで、自らの至らなさをかみしめる必要がありそうだ。

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マタイ 5:20

 この言葉は慎重に考える必要がありそうだ。まず、御言葉に対する姿勢において、私たちはパリサイ人らとは違ったものである必要があるということだ。彼らは御言葉に関する知識は深く、その熱心さも強烈なものであった。けれど、彼らは結局、神の言葉を重視すると言いつつも、そこにあるのは自分の思いであり、自分たちの考える神への道筋であって、聖書そのものの指し示すものではなかった。立派ではあるけれど、神の言葉そのものへの応答ではなかった。私たちは彼らとは違うアプローチを必要とする。
 彼らの義にまさるようにと言われている。うーむ。パリサイ人たちは大いに立派で、熱心で、よくやっていた。人間的に言えば、彼らにまさるのは難しい。けれど、彼らが忘れていることがあった。神に頼り、神に聞き、神による救いをこそ待ち望むことだった。頑張っていた分だけ、彼らは自分の力に頼るものとなり、神に頼ることを忘れていた。目指す義は、自分の義となってしまっていた。それは違うと言われている。
 そして、彼らは真の義の意味を見失っていた。真の義は、罪深い自分たちを救い出してくださり、赦しといのちを与えてくださる神により頼むことである。もし、私たちがパリサイ人よりも立派にと考え、彼らの言う義の達成度合いを競うのだとしたら、それは彼らの義に従属するものでしかない。目指すべきものは、全く別のところにあるのだと気づくかどうかは、大きな分岐点となる。

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マタイ 5:19

 まず、神の御言葉を他の人に語る時の責任ということを思わせられる。ヤコブ3:1.その他のところでも、そのことは強く指摘されているのだけれど、話のうまい下手ということよりも、神が告げられたとおりに人々に伝えることにこそ、語り手が果たすべき使命は問われているのだと言えそうである。もちろん、よりわかりやすく語ることも、人々が受け止めやすいように語ることも必要であるのだけれど、何よりも問われることは、正確さであろうか。様々な技法そのものを否定するつもりはないし、それらも大いに研鑽を積まねばならないと思っているけれど、この正確さ、神の告げられたままに届けることが曖昧になったら、いかに良き演説であっても、それは説教とはなり得ないのだと、自戒したい。
 同時に、この言葉は、いわゆる語り手、それを役割としている人だけでなく、すべての信仰者にも問いかけるものだ。つまり、その人の生き方、歩み方が問われる。もし、ある人が御言葉に真剣に関わり、告げられていることを自分に当てはめつつ、時には嬉々として踊り上がり、時には悔いの涙を流し、そうやって神の言葉が自分にとって重要な意味を持っていることを、自らの生きる姿を通して表明しているとしたら、それはきっと周りの人々に、神の言葉は大切なものなのだということを、強く意識させるものとなるだろう。でも、その反対だったら、人々は思うのだ。何だ、神の言葉と言っても、そんなに気にしなくていいのだな。あの人は神を信じていると言っているけれど、そんなに深く意識しているようには見えないものな、と。恐ろしいことである。

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マタイ 5:18

 聖書の言葉は成就するのだ、というキリストの断言は、キリストを信ずる者としては、よくよく覚えておかねばなるまい。正直なところ、私たちは聖書の全体を詳細に把握し、理解しているわけではない。時々、理解の難しいところもあることは、第二ペテロ3:16で、あのペテロですら告白していることである。私たちは、このすべてを確かであると断言できるほど、検証してはいない。
 でも、私たちはこの聖書を確かなもの、間違いのないもの、どの部分をとってもおろそかにはできないものであるのだと認めている。なぜか。それはキリストがそのように告げているからだ。私たちはキリストを信じている。この方が神の子であることを信じている。その方が聖書は確かなのだとおっしゃるのであれば、少々、自分の頭で理解するのには荷が重すぎる場合ですら、そこに書いてあることの確実性を土台として、この言葉を読み進めていくことができる。
 とすれば、キリスト教関連の様々な事柄について、私たちが考えるべきこと、検証すべきことは、そのことの是非を判断するというよりもまず、その話は本当に聖書で語られていることなのかどうか、神の告げられたことに合致しているか、反してはいないか。そのあたりを見定めることだ。もし、間違いなく書かれているとしたら、今はまだ十分に理解できなくても、きっと神の深い御心が込められているのだろうと信頼することができるし、書かれていないとしたら、(だからといって、すぐさま間違いだというわけではないけれど)、よくよく気をつけて、安易に信頼しすぎないように、警戒心を保ち続けることが望ましいのである。それが、牧師たちの言うことであっても、である。

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マタイ 5:17

 キリストを、古い体制を打破して革命を起こした人、というふうに受け止める人たちがいる。確かに、当時のユダヤ指導者層にとっては、自分たちの権威を脅かす異端児に見えたのかもしれない。でも、キリストご自身は全く違うことを宣言されている。ご自分は、旧約の言葉を打破するつもりなど全くなく、むしろ、それを実現させるために来たのだ、と。
 とすれば、である。時々、旧約はキリストの福音に生きる者にとっては必要がない、とか、せいぜい参考程度のものだという言われ方があることは、とんでもない間違いになってしまう。確かに、最初に読むのには、日本社会に暮らしている私たちとしては、おそらく新約の方が理解しやすい。でも、旧約に書かれていることは、キリストに直結するものであり、その意味をより深く知るためには欠かせないものである。幸いにも旧約の半分くらいは、物語というか、歴史の記録として書かれている。子どもの頃、礼拝で語られる親父の説教に関心がなくて(笑)、それでも礼拝なのだから遊んでいるのもどうかと考えて、旧約の物語を読んでいたことを思い出す。小学生の頃の話だ。預言書には手を出さなかったけれど、あの経験は、後々まで、聖書全体を意識する上では、大いに役に立ったものである。説教を聞かずに、という部分はお薦めできないけれど・・・。

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マタイ 5:14-16

 光としての役割は、周囲を照らして、人々が神に思いを傾ける機会を提供すること、であると言われている。私が誰かを助ける、ということの価値ではなく(それが否定されているわけではないけれど、この箇所が注目するのは、私自身がどうかではない)、生きて働かれる神がおられることを、人々が意識することができるように、ということだ。
 とすると、偉大なる人物になり、立派なことをなして、「あんな人の信じている神はすばらしい」と言わせることだけではないのだろう。時に迷い、時に悩み、時に失敗も犯すけれど、けれど、その人が確かな神を常に見上げて、神の導きと支えを信じて生きているとしたら、そのこともまた、人々にとっての神を意識する機会となるはずだ。
 つまりは、私自身が必死で神と向き合い、神と関わって生きているかどうか、暮らしているかどうかが、世の光と言われるものに少しでも近づけるかどうかを左右する。だからこそ、私たちは神の言葉に関わり続け、神の思いを知り続け、そのことに何とかして応答していこうとし続ける必要がある。光であれとの言葉を読み直して、自分がいかに神の御心を知らずにいるかを、痛感する。その通りに行動します、などとは言えなくても、知ること、気がつくこと、そのことを、こうして日々、聖書を開くことを通して、求めていきたい。

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マタイ 5:14

 光は、本来、神ご自身を象徴するときに用いられる言葉だ。それが、私たち人間のあり方として指し示されている! 神と人との違いは決定的なのだけれど、それでも聖書は繰り返し、神と人とのつながりを語る。創世記でも人は神のかたちに造られたと記されている。ヨハネ17章では、人と人とが一つになっていくことは、父なる神と子なる神との一体性と重ね合わせられている。
 決しておごることなく、けれど、私たちはこのような神の思い、人に対して抱いている・・・、なんと言えばいいだろうか、人のありさまを考えると、期待という言葉を使うのもためらわれるのだけれど、それでも、神の熱い思いが込められていることを、よくよく受け止めねばならないと思う。神は、人と共にいること、共に存在し、関わり続けていくことを、切に求めておられる。そのことを深く考えていくとき、神が救いのためにここまで犠牲を払われたことも、人の祈りを求められたり、人が御言葉を聞くことを喜ばれたり、そしてまた、地上での日々が終わった後に、さらなる場を備えてくださっていることも、大いに合点がいくようになるだろう。神を愛することが問われているのだけれど、私たちは神が自分に対して注いでおられる思いの大きさについても、もっともっと、語り合うべきではないか。

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マタイ 5:13

 続く、世界の光という言葉と、意図は同じである。同じ趣旨のことを別の表現で繰り返して語るというのは、ヘブル人の表現方法の中に見られる典型性の一つだ。その上で、塩ということの意義を考えると・・・。
 塩は周囲に塩気を与えるものだと言われている。つまりは、感化をもたらすもの、従来とは違った理解や意識が備わっていくように働きかけること、である。朱に染まれば赤くなるとか、友達を選べと言われるのは、人と人との関係には、こういうつながりがあるからだ。
 話の流れからすれば、キリストは真の幸いを生きるあり方とは何か、についていくつもの点を告げてこられた。それらは、この世では忘れられ、あるいは否定されているものだろう。だが、神の前に生きることを思うならば、どうしても必要とされる、生きる基盤となる感覚である。まずは、自分自身がそういった生き方をちゃんと身につけ、理解していますというだけでなく、言動の中にいつでも意識され、あるいは格別意識せずとも、その方向に歩み出していくような、そう言うものでありたい。そうすれば、私たちの存在そのものが、きっと他の誰かにとって、地の塩となり得ることだろう。そういう自分たちが、自ら塩気を失ったら、つまり、神から離れてしまっているとしたら、これほど愚かで情けないことはない。

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マタイ 5:12

 新約聖書は、預言者たちが迫害されたことに時々言及する。旧約を読めば、それが頻繁であったことは一目瞭然であるが、新約時代のユダヤ人は、それが自分たちの祖先、ひいては自らのしてきたことであるのを忘れて、自分たちは良き民であるという自負心を抱いていたようだ。
 誰かを批判するという形で、神の前にまっすぐ生きる姿を語ることは、比較的しやすい。彼らはだめだけれど、自分たちは頑張るのだという呼びかけは、聞く人々の自負心を刺激して、共感されやすいだろう。一時的には、それが良い方向への動機付けになる場合もある。けれど、神の前に義を生きる心は、そういった優越性や他者との比較によっては、真に育まれるものではない。神が呼びかけているのは「悔い改めよ」であって、他者ではなくて自分自身の過ちを認めて、神の前に悔い、赦しを請い、そして、そこから立ち上がっていくことができるようにしていただいた幸いを覚えることである。
 あなたがたは預言者を迫害したのだ、という指摘は、聞いていた人々を不快にさせただろうが、この不快感を経ずしては、義への道は確立しないのだと言える。

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マタイ 5:10-12

 放映中の上杉謙信は義に生きた人と言われているけれど、義とは規則を守っていますとか違反行為はしていませんという正しさではなく、本当に大切なこと、どうしても譲れないこと、人間としての核心に関わることを指す言葉だ。そしてキリストは、神の前にまっすぐに生きることを「義」と呼んでいる。
 当時のユダヤ社会は、戒律を守ることには必死になっていたけれど、人として神の前にいかにあるべきかという本質からは目をそらしていた。だから、戒律に反しなければというごまかしがあったと指摘されているし、隣人を愛することや、神ご自身を愛することが忘れられ、何より、自分たちがただ神のあわれみによってこそ受け入れられるのだという点が、見失われていた。
 私たちは、真に意義のあること、どうしても必要なことに取り組んでいるのだろうか。それとも、自分の勝手な思いとか、世の中が勝手に価値ありと騒いでいるものを追い求めているだけだろうか。誰も、迫害されたり、苦しんで利するのが好きなはずはない。義のためだからこそ、これをごまかしたり、譲るよりは、あえて苦しみを受けようということになるのだ。としたら、今、自分が何のために必死になっているのかを、よくよく見定めていく必要があるはずだ。

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マタイ 5:9

 この言葉をよくよく心に刻んでおきたいと思う。戦争をなくすことだけでなく、人と人とが真に和解し、互いを思い合って歩んでいくことができるようにと、そのために何か自分にもできることをしていきたいと、そういう願いを込めて日々を歩み、自らの仕事にも取り組みたいものだ。
 それは、ある一部の人たちだけの役割ではない。たとえば、社会に安心できるおいしい食材を提供する農家も、流通も、その社会に安定と平穏をもたらす大切な役割を果たすのだし、それぞれの家庭に笑顔と安らぎを生み出す力にもつながる。農業が疲弊し、あるいは流通が滞って、食料が行き渡らなくなったらどうなるかを考えてみたら、こういった仕事がどれだけ平和に貢献しているかを思い浮かべられるだろう。他の様々な仕事もそうである。自分たちはこの世に平安をもたらすのだという心意気を、切に望みたい。
 そして、聖書が語る何よりの平和、平安、和解は、人と神との関係である。だから、誰かに神のことを紹介し、時にそこにある誤解や混乱を解きほぐしてあげることができるとしたら、その取り組みは豊かな平和を作り出すことにつながる。福音を伝えよ、と聖書は語る。それはまさに、神ご自身の御心、神の御業。神の子は、父鳴神の業を行うのだと告げられたキリストご自身と、共に取り組んでいこうとするものとなる。

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マタイ 5:8

 清さというものが低く見られている社会である。清濁併せ飲む必要が説かれ、清さを大切にする人々は堅いとか、融通が利かないとか、そんなことでこの世は成り立たない、とか非難される。物事が杓子定規的な善悪論だけでは扱いきれないのはその通りだと思うし、間違ったことをしている人を見下したり、自分は違うと言わんばかりに身を避けるような態度には、賛成できない。
 それでも、物事について考え、判断、選択をしようとする際に、まず第一に考慮すべき点として、清さや正しさということを掲げることは、どうしても必要なことだと思う。さもないと、仕方がないとか、他の利益のためには、という言葉にあっけなく流されて、ただ力の強いほうへと押し流されていくだけになってしまう。そのまま進めば、自分が何かの利益を手に入れるためには、ほかの人を傷つけ、害を負わせても仕方がない、という論理もまかり通ることになってしまう。簡単な話、人をだまし、あるいは人から盗んで、裕福な暮らしを手にしても良い・・などということを認めようとは思わないはずだ。
 神は清い方である。その神と関わり、神の祝福を享受しようと思うのなら、神の意図される社会が形作られることを、自分もまた願いとすべきではないのか。完全な清さが達成されるかどうかが問題なのではない。それは、人にはできないし、神は罪深い者たちを救われる方。自らの不十分さに絶望することも、他者の問題をただ批判攻撃するのも、主の御業とは相反する。それでも、私たちはやはり、主が指し示される清さを、大切な礎として受け止めて、追い求めていかねばならないのだと思う。

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マタイ 5:7

 あわれみという言葉は嫌いだ、と言っていた人がいた。なんだか、見下しているような、かわいそうな相手を助けてあげている、というふうに聞こえるから、ということだった。そういうあわれみが横行しているのは事実だ。給付金を与えてやるのだ、という印象がぬぐえないように。けれどキリストの告げるあわれみは双方向である。私たち自身もまた、誰かから哀れみを受ける必要のある存在。何よりも、神からあわれみをかけていただき、助けを与えられ、赦しを与えられる必要があることは、聖書の最重要テーマでもある。
 だとすれば、誰かをあわれむことの大切さをどれだけ自覚しているかは、そのまま、自分自身がどれだけあわれみを必要としているのかを意思表示するものとなる。人にあわれみをかけるには、それなりの労力と犠牲が必要だ。簡単なことだとは思わない。でも、もしそこで、こんな相手に関わっている余裕はない、と切り捨てるなら、自分もまた顧みられることなどありえないのだと、救いの道、その可能性を自ら閉ざしてしまうという意思表示になる。だからこそキリストは告げられる。あわれみ深い者は本当に幸いである、と。
 情けは人のためならず、という言葉を思い出す。もちろん、いつのまにか浸透しつつある奇妙な意味合いのほうではなく、本来のもののほうであるが。

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マタイ 5:6

 義に飢え渇いているのだろうか。この言葉を読むたびに、我が身を振り返らずにはおられない。一般論としては、正しさは大切だと認めているつもりだが、飢え渇いているのかと問われたら、それとはかけ離れたところにいる自分に気づかせられる。まあ仕方がない、こんなものさ、世の中そうそう変わりはしない、人々のことは放っておけ、自分自身はきちんとしていよう・・・。でも、こんなことを考えていると、結局は、義に立つことへの感覚が鈍り、自らもまた、まあいいや、と思い始めてしまう。そういう思いの結果が、この世界の歯車を崩し、一切の崩壊を招く序章となっていくことを、私たちは知らないわけではないはずなのだが。
 満ち足りる、と約束されている。義を本気で願っていても、失望落胆させられるばかりだと思っているた私たちであるけれど、神は確かに約束しておられる。その渇望は必ず満たされるのだ、と。この世の終わりの、最後のさばきの時、というだけではない。もっと身近にも、他の人々の姿、この世に動きの中にすら、もし、私たちが飢え渇いて、願い求め続けているならば、その思いが少しではあっても適っていく姿を見つけるに違いない。道を歩く子どもたちが何気なく手助けする姿に、災害ボランティアの中に、あるいは、声なき声に必死で耳を傾けてくれる人々に出会うときに。
 混乱した世界に絶望し、どうせ無理だとあきらめるべきではない。この世は神が造られたもの。だとしたら、私たちが神に祈り、願い求め続けている「義」は、きっと姿を現してくれるはずだ。それが神の約束だから。

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マタイ 5:5

 この言葉は、世の成功者たちの失笑を買うだろう。柔和さの価値を認める人は多いだろうが、地を受け継ぐ、つまり、この世界を手中に収め、我がものとするためには、それではどうにもならないと考えられている。力が必要で、あるいは強引さも必要であるのだと。「正しいことをしたければ偉くなれ」というドラマの台詞もあった。平和を実現するためには、圧倒的な力を誇示するのが得策だと、政治家たちは考えている。
 それなのにキリストは、柔和な者こそが地を受け継ぐのだと言う。一つには、真の掌握はやはり、人の心を勝ち取ることであって、力で黙らせても解決にはならないことがある。声の大きい人、立場の強い人が、他の声を押しつぶすことはよくあるが、そこに良きものは生まれ得ない。へりくだり、人の言葉に耳を傾け、そういう対話の中でこそ、真実を届けようとするならば、時間はかかり、苦労もするだろうが、もしも受け止めてくれたら、その呼びかけは相手の心の中にしっかりと根を下ろすはずだ。
 けれど、このこと以上に思い浮かべるのは、キリストご自身のなさり方である。神である方が、この世を掌握するために来られた。力を発揮し、人々を圧倒し、反対者をなぎ倒すことで、この世を神のもとへと引き戻すことは不可能ではなかった。でも、キリストは十字架という犠牲を払い、人々のために尽くし、なかなか顧みられないとわかっているのに自らの命すらも投じた。そのようなキリストを知った時にこそ、人は変わる。変えられていく。神のもとへと連れ戻されていく。しかも、自ら喜んで。「私の国はこの世のものではない」と語り、自分を守るために剣をふるう弟子を押しとどめられるキリストは、確かに柔和さが真の力であることを、体現された。

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マタイ 5:4

 悲しみなんて、ない方がずっといいのです。慰めを求めて、人は神にも願っているはずです。共に泣くことは、主の教えられた徳性の一つでもあります。それなのに、どうして「悲しむ者は幸い」なのか。
 理由は、ここでも続きの言葉から判明します。「慰められるから」とあります。そう、悲しみ続け、悲しみの中に埋没してしまうことなど、決して幸いではない。でも、たとえ一時は悲しんだとしても、それが慰められ、力を与えられ、再び立ち上がることができるとしたら、そのときに人は、より大きな幸いを知るのです。
 生涯、不幸を知らずに済むのだったら、それはありがたいことです。でも、まずそう言うことはありえない。私たちの人生は、常に問題や混乱、痛みや悲しみが点在するものです。それらにぶつからないように上手にすり抜けていくことを勧めるのも結構ですが、現実的には、むしろ、痛みと悲しみに直面する時に、そこからどうやって立ちなおっていけるかを考えた方が意味があります。そしてキリストは言う。神はその人を慰め、再び立たせてくださるのだ、と。
 ペテロが捕縛されたキリストに背を向けた時のことを思います。彼は大きな悲しみを背負いました。そんなことにならないほうがずっと良い。でも、人にはこういった挫折があります。だとしたら、彼にとっての、いいや、人間誰しもにとっての幸いは、「あなたのために祈った」と言ってくださる救い主がおられること、です(ルカ22:31-32)。悲しいかな、あのときペテロは、私は大丈夫です、と豪語するのみでした。悲しみを回避するのではなくて、それに打ち勝っていく道筋を手にすることのほうが、ずっと幸いでしょうね。

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マタイ 5:3

 心の貧しい者は幸い、という言葉は、有名であるけれども、世の中の大勢からはまず同意されることのないものなのだと思います。だって、貧弱であるよりは、心豊かな日々を過ごせた方がずっといい、でしょう? 少しくらい貧しい方がいい、と言えるのは、そこそこに豊かだからで、今日、明日、食べるものがない人はからしたら、空腹も良いものだなどという言葉は、不愉快なものでしかないはずです。まして、心の貧しさなど。
 キリストの意図を知るためには、「天の御国はその人たちのもの」という部分に注目する必要があります。似たような言い方があります。「御国は子どもたちのもの」です。決して、子どもは純真だからなどという意味ではありません。子どもも十二分に邪悪で、罪深い存在です。ただ、子どもが大人と違うのは、力がなくて、いつでも助けられ、支えられてこそ成り立つ存在だということです。残念ながら、人は自信を持ち、そこそこの状態になると、とたんに胸を張り、自慢げになり、そして言います。「神などいなくても大丈夫。私は自分の力でやっていける」と。これでは、どんなに立派なことをしても、神の御国にはふさわしくありません。それよりは、たくさんのだめさを持っていても、だからこそ、神に祈り、神に願い、神に頼る者こそ、御国にはふさわしい。
 心の貧しさは残念なことです。でも、もし豊かであるために神を忘れてしまうくらいなら、貧しさの中で苦闘しつつ、神に祈り求めている方がずっとまし。それが神の示されている価値観です。

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マタイ 5:1-12

 山上の説教と呼ばれている一連の教えが、この5章からしばらく続いている。珠玉の教えとも呼ばれ、考えさせられること、心を刺されることの多い言葉が語られていく。ある人は、これを理想論だと言い、現実的ではないと言う。だが、キリストの言動を見るならば、この方が大いに現実主義者であって、決して、実態からかけ離れた机上の空論を取り扱うような方ではないのがわかるはずだ。キリストは本気で、これらの言葉を人々に問いかけておられる。
 別の人は、これらの厳しさを考えるとき、キリストはむしろ、これらの言葉を聞く人々が、自らの至らなさに失望落胆し、いかに自分が罪深いのかを思い知ることを意図されたのだと言う。確かに、そういう感覚は、これらの言葉に正面から向き合おうとする時、必ず生ずるものだと思う。もし、これらの教えを、自分はそこそこやっているぞ、という思いになるのだとしたら、これほどキリストの心を曲解するものはあるまい。
 それでも、できない自分を悟るだけでは、これらの教えはあまりにももったいない。やはり私たちはここに、自分たちが進むべき方向性を指し示しておられる神の呼びかけを聞き、多くの限界と力不足を痛感しつつも、それでもなお、神によって支えられ、力を与えられつつ、このような歩みに取り組んでいくことに、必死で向かっていかねばなるまいと思う。とりわけ、自分が大きな罪深さの中から償いもせずに救い出された幸いを知っている者であるのならば。

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マタイ 4:23-25

 キリストが十字架という最終的な使命に至る前の段階で、どのような活動に取り組まれたのかは、この箇所にまとめられている。そこにはもちろんのこと、福音を伝え、人々を教え、そして、17節にあったように、人々を神のもとへと立ち返らせる働きかけがなされていった。と同時に、ここを見ると、キリストは多くの人々の病気をいやすという業に、大いに取り組んでおられたことがわかる。そこには、奇跡を行い、神の力を示すことで、ご自分の呼びかけがまさに神から出ていることを指し示す意味もあった。が、この箇所の書き方を見ればわかるように、それにまさるキリストの思いは、この苦しんでいる人々を何とかして助けたいというものであったのである。
 最終的には、人はキリストによる魂の救いがなければ、どうにもならないことを、聖書は明言する。けれど、魂の救いがあれば、他は放置されても良い、というのは、人を愛し、人をあわれまれた神の心には全くつながらない。病気にしろ、食べ物の問題にしろ、あるいは何かの社会的な要因にしろ、目の前にいる人々の魂の救いを願う者としては、その人が直面する様々な課題についても心を痛め、なんとかしてと願うのは当然のことである。
 だからこそ、多くのクリスチャンたちは、人を助け、人々の抱える苦しみを少しでも和らげるような役割に、真剣に取り組んできた。奴隷制度や労働環境の改善、あるいは、アフリカの奥地で医療活動に従事することなどに、彼らは必死で取り組んできたのである。戦後、日本にやってきた保守バプテストの宣教師たちの中にも、岩手の寒村で医療活動を展開しつつ、この国の人々と取り組んだ方々がいたことを思い起こす。
 私たちはキリストではないから、すべてのことに関わる力はないだろう。私も牧師をしながら、同時に、医療に携わったり、社会的弱者のために法的、政治的な取り組みをするだけの賜物はない(たまに、両方できる賜物が与えられている人もあるけれど)。でも、神の目はすべての事柄に注がれていることを忘れず、自分にできることに向き合っていくことは、決して手放してはならないと思う。

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マタイ 4:18-22

 マタイはこの出来事を、ルカ5章にある奇跡の話を省いて記録しているが、その分だけ、弟子たちに呼びかけた言葉に、読み手の焦点が合っていくはずだ。キリストは、2つの点を告げている。
 まずは、ついてきなさい、である。キリストは、単に人々に道を指し示す存在ではない。旧約の預言者は、何よりもまず人々に、神の言葉を語り、神への道を指し示す役割であり、そこから先は、人々が自ら歩み進んでいくしかなかった。預言者は、自分に目を向けさせようとすることはない。でも、キリストはご自分を中心に置かれる。当時のユダヤ社会では異例のことだったけれど、自らに人々の注目を集め、そして、ご自分がなすことにこそ意味があるのだと告げられた。一歩間違えば、ただの傲慢、不遜な態度でしかないのだが、むろん、キリストの中に、そういった傲慢さを見る人はいない。キリストははっきりと自覚して、自らこそが人々を救うのだということを、意思表示しつつ行動しておられる。
 もう一つは、人間をとる漁師にしてあげよう、という言葉である。これが、漁師であったペテロたちを意識して使った表現であるのは間違いない。誤解しないでほしい。漁師をするよりも、宗教的な役目に就く方が尊い、などという意味ではない。キリストは職種とか立場によって上下の差をつけるようなことはなさらない。だが、キリストを信じ、キリストに従って生きていこうとすることは、それ以前の自分が大切だと思っていたことから、別のものに移っていくことを意味する。この言葉は、彼らの生き方全体の大転換を呼びかけるものと考えるべきで、まさに、彼らの人生が一変した瞬間と言える。

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マタイ 4:17

 キリストが教えられた事柄は、聖書にたくさん記録されているが、その始まりに当たるのが、この箇所にある一言である。これを、そのまま第一声と考えるか、それとも、キリストの教え全体を総括するものと理解するかはどちらとも言えないが、いずれにしても、興味深い言葉である。
 悔い改めよとは、方向転換をせよ、という意味だ。何が間違っているのか。それは、天の御国、つまりは神ご自身とのつながりに関わる。聖書が語る罪とは、単に、悪事を働いたとか、正しさに欠けているということだけではない。それは、創世記の初めから、神との関係を損なうこと、神に敵対すること、もっと言えば、神にそっぽを向いて、神との関係を捨て去ってしまうことを意味する。神から離れていく生き方、それを改めて、もう一度、神のもとへと戻っていくこと。戻ってきなさい、というのがキリストの第一声であり、戻ってこられるようにしてあげよう、というのが、キリストが人々に指し示した救いの約束である。あの放蕩息子の例話にも出てくるように(ルカ15:11-)、神のもとへと立ち返ること。ここに、キリストを通して神が告げられた切なる願いは集約している。
 それなのに、人は、自分勝手に別の方向に方向転換をして、相変わらず、神には背を向けて、御許から離れ去っている。救ってあげようと差しのばされた御腕を振り払い、自分の力で神に到達してみせると胸を張る。キリストの呼びかけは今もなお、同じ叫びを響かせている。「悔い改めよ。せっかく、神の救いが届いているのだから」と。

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マタイ 4:12-16

 キリストがガリラヤの地を活動の出発点になさったことは、成し遂げようとされていることの意味に、深く結びついている。キリストの時代にはガリラヤもユダヤ民族の住む場所であったが、歴史的に言えば、ソロモン王の後、国が南北に分かれてから、ガリラヤはユダヤ民族にとっては異国(兄弟国とはいえども)であった。さらに、北イスラエル王国滅亡以降は、民族的にも信仰的にも異なった土地となってしまっている。最も近い、以前は深い関係もあった、しかし、異質なもの、である。
 けれど、約束の救い主は、その地から到来する。人々には無視され、価値なしと見られ(少なくとも信仰面では)、神からは遠い存在だと受け止められていた場所が、神の祝福の始まりとなる。これは、キリストの救いそのものと同じ性質のものだ。キリストは正しい人(少なくとも本人としては神に近いつもりだった人々)ではなく、罪人(神からは遠い存在だと自他共に認めている)を招き、そこにこそ救いをもたらすのだと告げられている。こんなことが実現できるのは、人の力や業績によってではなく、ただ神ご自身の一方的な祝福と助けによるしかない。だからこそ、私たち自身、決して神の前に認められ得るようなものを持ち合わせていない者たちもまた、この救いを手に入れることができるのである。
 キリストがガリラヤを出発点に選ばれたことは、ご自身の提示する福音そのものにつながっていく。

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マタイ 4:12-16

 今日はちょっと、聖書の表現、特に、翻訳に関するコメントをしてみよう。14節で、「成就するため」と訳されている言葉は、誤解を生みやすい言い回しかもしれない。キリストは、預言に合致させることを目指して行動している、というように。しかし、誕生の場面その他、関わっている人々が意図して動かせないものにおいても、「預言は成就」しているのであって、決して、預言という進行指示書に合わせて行動しているわけではない。預言は、芝居の台本ではないのだから。そのことを考えると、「これは・・・預言が成就するためであった」という言い回しは、「こうして、預言が成就した」という言い方にしたほうが、日本語においては、誤解が少ないようにも思う。「ため」という日本語は、少し強すぎる感じがする。新改訳聖書にはけっこう頻繁に、「ため」が出てくるけれど、「こうして、こうなった」というふうに、目的意識ではなくて、単純に、始まりと結果をつなげるだけで考えた方が良さそうなところは、案外多いように思っている。
 それはともかく、様々な出来事は、確かに、神の預言通りに進んでいく。それは、人が意図する、しないをはるかに超えて進んでいく。聖書は明確に、この世界が神の御手の中にあること、神の支配があることを指し示している。たとえ人々が神に背を向け、神から離れていたとしても、である。将棋の駒を動かすようにして神が操作しているのではない。それでもなお、御心はなる、ということは、一口では説明できない不思議だけれど、聖書を読み進み、あるいは、世界の動きをよくよく見ているならば、きっとそれが真実であることを痛感するようになるだろう。

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マタイ 4:8-11

 第三の試みは、二つの段階の意味を考えさせられる。まず、広く一般的には、この世の栄誉とか権力などを手に入れるために、悪魔に魂を売り渡すのかどうか、という選択である。しばしば人間たちは、この誘惑に屈して、我が身を滅ぼしてしまうことになる。いや、悪魔に売ったつもりはなくても、権威権力や支配権を最優先に考えていると、同じ道をたどるだろう。権力や財力そのものが悪いわけではない。けれど、それらはあくまでも手段に過ぎず、目的ではないことを自覚していないと、自分がそれらの奴隷に成り下がってしまう。立身出世はいい。だが、何のためにということを、常に忘れてはならないのだ。
 もう一つの、より掘り下げた厳しさについても考えねばなるまい。キリストはこの世を神のもとに取り戻すためにおいでになられた(支配権そのものは神にあるのだが、世は神から離れていたので)。悪魔はこの世の支配者と自称し、一定の力もふるっていた。その力を放棄して、悪魔が自ら撤退するとしたら、この世は容易に神のもとへ戻りやすくなる・・・とも期待できる。もし、一時、悪魔に頭を下げるならば、と。
 良いこと、すばらしい目的のためには手段を選ばない、ということが、しばしば語られる。かつて、ヒトラーを排除するためには暗殺もやむなしと言って、有名な牧師であったボンヘッファーはその計画に荷担した。ヒトラーを抑えるためには原爆を作るしかないのだと言って、科学者たちはまさに悪魔の兵器を作り出してしまった。必要悪という言葉が語られ、規模は違え、人々は本来ふさわしくないはずの手段に手を出していく。でもそれは、真に神の望まれることか。神の目指しておられる事柄か。キリストは、「違う!」と断言された。

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マタイ 4:5-7

 第二の試みは、神を信頼することの意味合いについてである。悪魔は聖書の言葉を引き合いに出しつつ、「信じているのなら、飛び降りられるはずだ」と詰め寄っている。神を信じない人は、笑止!と片付けるだろうが、熱心な人ほど戸惑うのではないだろうか。
 実はこの類のことはよく見られる。「仲間なら、一緒に万引きをしよう。できない? 何だ、仲間じゃないのか」とか、「信じているのなら、この爆弾を抱えて、自爆テロをしなさい」とか、昔の話を持ち出すなら、「日本人ならお国のために堂々と死んできなさい」とか。話題になった京都の教会で、不道徳がまかり通っていたのも、この類の圧力によるものだった。
 神が約束通りに支えてくださると信ずるのは良い。神の言葉は信頼できるものだ。でも、神の言葉は私たちに、用もないのに飛び降りてみろとは言っていない。神を信頼しているかどうか、自分を試してみろとも言っていない。神が約束を果たすかどうか、神に挑戦してみろとは言っていないのだ。神の約束を信頼するのなら、勝手に引用するのではなく、神が告げていることそのものを直視していかねばなるまい。さもないと、信頼すると言いながら、実は神に全く目を向けようともせず、自分勝手に歩んでいるだけ、ということになってしまう。
 神を信頼して飛び降りるべき時とは、モーセがエジプト王に談判に出かけたときとか、ザビエルが遠い異国の地に福音を伝えるために日本にやってきたとき、あるいは、身近なところで、誰かに福音を伝えるために勇気を出して口を開くとき、などを言うのだ。

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マタイ 4:3-4

 第一の試みは、物欲か精神的なものかの選択だと、しばしば理解されている。「人はパンだけで生きるのではない」という言葉は、世間でもそのように受け止められている。それも大事なことだ。
 けれど、より詳細に読み取っていくなら、悪魔の意図は別のところにあり、キリストの答えもまたしかりであることがわかる。悪魔は言う。「あなたには力があるのだから、自分でこの空腹から脱出できるはずだ。何も我慢して苦しんでいる必要はない。さあ、自分の力を使いなさい」と。キリストは答える。「人は自分の力で生きているのではない。人は皆、神によってこそ支えられ、神によってこそ生かされている。だとしたら、人が生きるために最も必要なことは、自分の力をどうやって発揮するかではなく、神を信頼し、神に期待することである」と。
 キリストの言葉の背景には、荒野で毎日与えられたマナがある。これは毎日、その日の分だけ与えられ続けた食べ物で、明日も神が降らしてくださるか不安だから貯めておこう、というのは不可能な食物であった。イスラエルはしばしば神に逆らっていたけれど、その基本的な食物は常に、神によって日々支えられ続けていたのである。神の守りなくしては今日の自分はあり得ないのだと気づくか、それとも神よりも自分の力だと言うか。ここには決定的な違いが生ずる。アダムたちが神の教えよりも自分の判断を優先したように。

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マタイ 4:2

 悪魔が近づいてきたのは、長期の断食の後であった。当然ながら、肉体的にはかなりの疲弊を生じている時であり、食物に対する強い欲求が激しくなっている時である。そしてキリストは、こういう状況が悪魔にねらわれやすいものであることも承知しておられた。
 断食にそれなりの意義があることは確かだろう。世間では、精神が研ぎ澄まされて、より深く、霊的なことを思うのに有用だとも言われており、そういった効用を思うからこそ、聖書に記録されている人々もしばしば断食を行っている。ただし、この箇所からすれば、断食には危険性も伴うことも、よくよく肝に銘じておく方がよさそうだ。身体が弱るときは、人の精神も弱り、霊的な部分でも耐性が劣化する。神は人を、肉体も内面的なことも、両方を持つ存在として創造されたから、どちらかが力を失えば、その影響は他にも及ぶのである。
 だから、もし、断食の効用を求めるのだとしたら、よくよく気をつけていなければなるまい。そして、もっと日常的には、身体的状態をより健全に保っていくこともまた、主の前に心安らかに歩んでいくための、基礎的な取り組み方と言える。

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マタイ 4:1

 キリストが荒野へ行き、断食をした理由について、マタイは「悪魔の試みを受けるため」と記している。ということは、ここで悪魔と対決することは、主ご自身の意志によるもので、決して、悪魔からの思わぬ攻撃に防戦したというものではないことになる。時に、様々な試みが私たちを襲うことはあるのだが、忘れてはいけない、物事の主導権は常に神の側にあり、決して悪魔が自由に引っかき回すことなどはできないのだということを。むろん、悪魔そのものは私たち人間よりもはるかに強い。だが、私たちが神のもとに留まるかぎり、悪魔に勝機は皆無であることを確信していよう。だからこそ、主との関係がしっかりと結ばれているかどうかこそ、私たちが真に関心を持つべきことと言える。

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マタイ 3:16-17

 この言葉を口にすると、父なる神が御子に対して抱いておられた愛情の深さを、強く思わせられる。「我が愛する子」。試しに、自分の愛する誰かに、そう呼びかけてみたらいい。「お前こそ我が愛する・・・」。その幸いを何よりも大切と思い、全力で実現したいと願い、いとおしく抱きしめるような思いを感じる。
 けれど、父なる神が御子に与えた使命は、その生涯の道のりは、「愛する子」という言葉とは全く食い違ったものとしか言いようのないものだ。多くの苦労を背負わせ、他の者のために犠牲とし、その命すらもうち捨てるのであるから。「どうしてお見捨てになったのですか」という叫びが思い出される。だが、そのことはつまり、神が私たち人間に対して注いでおられる思い、なんとしても救い出したいのだという思いが、どれほど激しいものであったのかを、はっきりと物語る。父なる神、子なる神、そして聖霊が、私たちに傾けられた愛は、「我が愛する子」というこの言葉よりもさらに大きな声で、呼びかけられているのである。
 もう一度、父が子に向けた呼びかけを口にしてみよう。それから、こう置き換えてみよう。「人間たちよ。お前たちは我が愛するもの。私が切に求めるもの。私はこのために、全力を尽くす」と。

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