« 2009年3月 | トップページ | 2009年5月 »

2009年4月

マタイ 7:28-29

 キリストは権威ある者のように語られた。当時のユダヤでは、信仰に関する事柄は、人々は決して自分の主義主張としては語らず、誰か先人、あるいは聖書の言葉によって語るのが常だった。彼らは神のもとにあるということを信じていたから、そんな自分たちが何か新しいものを生み出すなどあり得ないと自覚していたのだろう。このあたり、仏教のように悟りを開くことを目指す生き方とは、大きな違いがある。
 でもキリストは、ご自身の言葉として語られていたのだと言う。内容的には、旧約の教えと別物ではない。キリストは常に、ご自身が旧約に示された神の御心のもとにあることを明言しておられた。それなのにキリストは、物事をご自身の言葉、ご自身の教えとして語られた。それはつまり、旧約にある神の言葉の権威と、自分の権威とは同じであるという意思表示でしかない。こういうあたりでも、キリストはご自身の神としての位置づけを、明らかに告げておられるのだ。
 当時のユダヤの感覚を知る者であれば、このようなキリストの態度は、「傲慢の極み、神をないがしろにする暴挙」と取られるか、あるいは「この方こそまことの神」と受け取られるか、どちらかでしかあり得ないことは分かるはずだ。神ではないけれども偉大なるすばらしい方、という選択肢はありえない。

|

マタイ 7:24-27

 土台が問われる、というキリストの指摘は、大いに考えさせられる。私たちの目は、どうしても表面的な様子に惹きつけられてしまい、それによって判断を下してしまう。いや、回りにいる者たちが何に注目するかは二次的なことだ。自分自身の歩みを考えて、ちゃんと土台を築いているかどうか、そこに最大の関心を払っているかどうかが、問い質されている。
 キリストの告げる「土台」は、キリストの言葉を聞くこと、そして、それを行うこと、だと書かれている。行うことについてはすでに述べたので、ここでは聞くことについて。自分の勝手な思いこみや熱心ではなく、キリストご自身がどう告げられたのかを、真剣な思いで尋ね求めていくこと、である。
 そのためには聖書を読み、自分にできる程度に応じて、その理解を深めていくことに努める必要がある。このブログもそのためにあるし、数多くの参考書も出ている。あるいは、人々との語らいや、絵画や音楽といったものも役に立つ。何も手元になければ、同じ箇所を続けて8回読み直すというのも有効だと聞いたことがある。そうやって、神が何を告げておられるのかを少しでもよく聞き取るようにすれば、大事な土台が築かれて行くに違いない。

|

マタイ 7:21-23

 御心を行う者であるかどうかが、判別の基準であると言われている。その人がどれだけ神の名を叫んでいるかではなく、と。22節には、さらに詳しく、様々な業を神の名によってなしていたとしてもなお、違うと言われてしまうものがあるのだ、とも指摘されている。
 表面的に見て、また、周りの人から「すばらしい信仰者ですね」ともてはやされているような、そういう者に対して、キリストは強い警告を発しておられる。断食などについても、その視点からも言われていた。むろん、本人はごく純粋に行動しているだけなのに周りがもてはやしいるだけ、という場合もあるから、周りの反応で決められるわけではない。でも、そういうもてはやしに対して、どういう態度を取っているかでも、本人の意識はいくらでも見定めることはできるだろう。
 それにしても、神の名によって奇跡をし、預言をしていたとしても、なお、違うと言われるのだとしたら、いったいどのようなあり方が、「御心を行う」というものに当たるのか。私たちはそこで、キリストの告げられた新しい戒め、を思い起こす。「互いに愛し合うこと」、あるいは別の箇所では、「互いに仕えること」も同様の意味合いで語られていた。そのようなことに目を向け、志し、取り組んでいこうとすることは、確かに、その人が御心を生きようとしているかどうかを表して行くに違いない。時にそれは、ごくごく地味な行動であり、誰にも評価されずに終わってしまうかもしれず、世界を変えるみたいなことにはならず、かもしれない。でも、どのような結果が生ずるかは神の御手に委ねて、今の自分がなすべきことを歩んでいこうとするのであれば、そのほうが、派手で大々的なことをしている人々よりもはるかに、「御心を行う」に該当するはずだ。信仰とは常に普段着の歩みとしてなしえるものでなければ、よそ行きの場面だけのものであってはならないのだぞ、と常々思っている。

|

マタイ 7:15-20

 実によって見分ける、というのは、キリストが何度も告げておられる観点である。毒麦のたとえでも、実ってからのほうが正しく見分けられる、ということを指摘しておられた。
 ぱっと見たところでは、それが真に神のもとにあるものなのか、それとも、全く別のところから出てきたものであるのかを見分けることは、決して容易ではないのである。その本人がだましてやろうという悪意を持っている場合だけでなく、本人もまた取り違えてしまっている場合も含めて、案外良さそう、ということは、しばしばあり得るのである。
 キリスト教の世界でも、しばしば、これがいいというふうにして、何らかの手法がもてはやされることがある。だが、しばらくして下火になったり、熱心に関わっていた人ほど反発を強めるというようなことが起こるケースが少なくない。何とかしたいという熱意が、そうやって飛びつく傾向を生んでいるのかもしれないが、どんなに熱心でも、手にしたものがよくないのだとしたら、それでは何にもならないはずだ。
 ここで言われている「実」というのを、たとえば不道徳とか、そういった罪が生ずるかどうかということだけで考えるのは短慮だと思う。残念ながら、人はしばしば間違いを犯す。決して容認されるべきではないけれど、その人の善し悪し、あるいは、その人の説いていたことの善し悪しとは別に、こういう事態は生ずる。問われるべきは、その後の姿勢だろう。率直に過ちを認め、悔いて神の前にひざまずき、適切に他の信仰者の助けを受け、そうして立ち直らせていただくことを求めていくのであれば、その人はきっと、正しい道を歩いていて、それでいて踏み外してしまったのだろう。だが、そういう取り組みが見られないのだとしたら、その人はもともとからして、適切ではない道を歩いていて、当然のごとく挫折したのかもしれない。
 短絡的に言うのは危険だ。でも、だからこそ、しっかりと見定めて、それが真に神からのものなのか、それとも他のところから、人間の思いが作り出しただけのものなのかを、尋ね求める必要がある。その鍵は常に神の御言葉、聖書に照らすことにある。

|

マタイ 7:13-14

 有名な一言は、しばしば誤解されている。受験などで使う「狭き門」は、多くの人が入りたいと望み、しかしあまりにも難しすぎて入れない、というものだ。その門の前には、多くの人が列を作っていることだろう。キリストが言うのは、多くの人には望まれず、見向きもされず、歓迎もされない、そういう部類の門のことである。
 神が指し示してくださっている門は、入りたいと心から願う者は、誰でも歓迎される。その人の出来不出来は全く問題ではない。神の国に入りたい、つまりは、神と共にいたい、神の助けを受けたいと願うならば、その人は、神が指し示している道筋を、喜んでたどるだろう。力不足などと言うことがないのだったら、なおさらである。そう、神の国の門は、広く開かれているのだ。マタイ11:28の言葉の通りである。
 けれど、実際には、この門をくぐろうとする人は少ない。理由は、初めから神を求めていないか、幸いは望むけれども神の助けには頼りたくないと考えているか、あるいはまた、神の指し示す道筋には納得せず、独自の方法でたどり着くことを目指しているか、など、ようするに、神の呼びかけを信頼せず、歓迎もせず、つまりは、神とは別のところへと進んでいく道を選び取っているからである。
 その方が、世の中的に言うところの、人間らしい生き方ができるから、だろうか。ヒューマニズム宣言というものがあるけれど、その中には、神に頼ったりするのではなくて、人間自身の力で世界を切り開いていくことが提唱されていたかと思う。聖書によればそれは、はるかな大昔から人間たちが目指してきたものであり、神を拒み、神を退けて歩もうとしてきたものと大差ない。それで、「見いだす者はまれ」ということになってしまう。見た目は、確かに広いと言われている道の方が良さそうに思える。自由に、勝手気ままにできるのだし、自分が神となれるのだから、実に心楽しいものだろう。でも、それが多くの破綻を産んでいることを、私たちは気づいていないはずはない。神は大歓迎しているのだが、自ら目をそらしている私たちなのである。

|

マタイ 7:12

 この言葉は独立して語られていることが多いように思う。特に、他の人を愛することとの関連で告げられている場合が多いはずだ。でもこの箇所では、神に願い求めることとのつながりで、この言葉が告げられている。
 とすれば、他の人にもしてあげるべきことは、願い求められたときに、ちゃんとそれに応じていくこと、ということになる。必ずしもOKではないとしても、真剣に答えていくこと。NOと言うべきであるのならば、本気で向き合って、そして、そのことを伝えてあげるべきこと。私たち自身が神にそうしてもらいたいのであれば、私たちもまた他の人に対して、そのようにせよ、ということになる。
 人間関係の破綻は、相手の言葉をちゃんと聞かず、受け止めず、応じようとしないことから始まる。一方的に自分の思い、自分の願い、要求を押しつけるだけになってしまったら、そこには神にある関係は成り立たない。神が人間同士の間に築いていこうとされるのは、父なる神と子なる神との関係に見習うものであるのだと、聖書には出てくる。そこんなことは無理だと思うのは当然だけれど、方向性はそっちにあるのだと知り、そのような志をもって歩もうとするかどうかは、決定的な意味がある。
 ふと、息子との会話を思い出した。息子はよく、「話を聞いて」と求めて来る。無視しているわけではなく、食卓などでは、息子の話の合間を縫うようにして妻と話をしたり、あるいは、教えるべきことを息子に語りかけているのだけれど、それでもなお、聞いて、と求めてくる。パーセンテージを計算したら、大いに聞いているつもりではあるけれども、常に関心を持ってほしい、常に応じてほしいというのが、息子の願いであるようだ。確かに、ほんの些細なことでも、語りかけたことが無視されたら、応じてもらえなかったら、大人でも心傷ついたり、寂しいものである。まあ、大人の場合、四六時中ではなく、相手の都合も考慮しつつ語りかけているのだから、なおさら、そういう少ない機会への対応が心許ないと、痛みは大きいのだろうが。
 小さなこと。けれどそこに、神の指し示す大切な教え、関係の回復の道が告げられている。

|

マタイ 7:7-11

 7節の言葉は躍動感あふれるものと思う。おやつのお菓子に当てはめてみようか。求めるというのは、「おやつが食べたい。今日はクッキーがいい。おせんべいがいい。やっぱりアイスにして」と願うこと。目の前に親がいる、というイメージだ。捜すというのは、親が出かけていて、でも、おやつが用意してあるはずだと思い、「どこだ、どこだ」と戸棚を開け、冷蔵庫を開けて、家中捜しに捜すことである。なかなか見つからなければ、タンスの引き出しからものを放り出し、まるで泥棒が物色したかのようなありさまにしてでも、なんとしても見つけるぞ、きっとあるはずだ、と信じて求めていくことである。そしてたたくというのは、親の仕事場に出かけていって、「おやつはどこ?おなかがすいた、ねえ、おやつ!」と、仕事の都合も考えずに願うことである。
 最後のものは、通常の感覚で言えば、何ともひどい態度であり、そんなことをさせてはいけない、躾がなっていないと言われてしまうものだけれど、神に対してはそれでもいい、というのである。もちろん神は、NOという答えをなさることはある。でも、そう言われるまでは、神の都合など配慮しなくて良いから、ともかく願っていくことを、神は望んでおられる。すごいことである。そこまでできるのは、間違いなく答えてもらえると確信しているからこそである。邪魔だと言われるのではないか、無視されるのではないか、と不安があれば、こんなことはできない。心からの信頼があるからこそできることである。
 そう、こういった願いは、私たちが神をどれだけ信頼し、信用しているのかを如実に表すものとなる。そして、神は私たちの無鉄砲かもしれない願いに、ちゃんと応じてくださるのだと確約しておられる。子どもに蛇を与える親は、残念ながら、現代、あるいはいるかもしれないけれど、でも、神はそんなことは決してなさらない。「良いものをくださる」と告げられているように、私たちの願い通りではないかもしれないけれど、「良いもの」が間違いなく用意されていくのである。

|

マタイ 7:6

 不思議な言葉である。前後とのつながりもわかりにくいし、しかし、鋭い響きをもって迫ってくるものだ。いくつかの意味合いを考えたい。
 一つは、神の教えといえども、必ずしもすべての人にとって、すぐさま意義を持ち得るわけではない、ということをわかっておくべきということだ。キリストの語りかけですら、人々に受け入れられず、反発を買っていたことを思うならば、私たちが語っても何の効果も見られないように感ずる可能性は大いにある。私たち自身にも当てはめて、自戒する必要もある。せっかく聖書を読んでいても、私たち自身の心が整えられ(ローマ12:2によれば心の一新が必要とされる)、ちゃんと神の言葉を受け止めようとしていなければ、せっかくのものが風に飛ばされて流される可能性はあるのだ。4つの種の話も思い起こしたい。
 次に、もし、相手がどうしても聞こうとしないのであれば、他のところに行って、聞きたいと思っている人に語りかけるべき場合もあるのだということもわきまえたい。キリストは弟子たちに、「訪ねていった町が受け入れないなら、足のちりを払い落として、他の町に行け」と言われた。私たちに与えられている時間も機会もわずかでしかないことを思うと、聞きたがっている人々を待たせておくけにはいかないのである。これは厳しい言葉であるけれど、聞こうとしないのはその人自身の責任であり、自分だけでなく、他者にまで損失を及ぼすことを(聞く機会を奪う)許しておくわけにはいかないのだ。
 もっとも、キリストご自身は、いっこうに応じようとしない人々に対して、決してあきらめることなく、語り続けておられる。神は世界の始まりの時以来、この人類に語りかけ続けておられる。聞かない連中は捨てて良い、などとは、神は全く考えておられない。あくまでも、私たちの力の限界と考え合わせた上でのことだ。だとすれば、可能である限りは、決してあきらめずに語り続け、あるいはまた祈り続けることも、主の御心にかなうことである。

|

マタイ 7:1-5

 他の人の罪や過ちに口出しするな、という意味ではない。この箇所から裁判官のような職に就くことを否定するとしたら、キリストの意図を全く誤解している。問われているのは、自分自身に対してしっかりと目を向けているか、ということだ。私たちは他者の問題には意欲を持ちやすいが、自らのありさまについては気がつかず、あるいは気づいていたとしてもなお、見なかったことにしてしまう傾向が強いのだ。
 でもそれでは、どんなに頑張って、他者の問題を正そうとしていたとしても、真に良きものを生み出すことはできない。その批判は、単なる欲求不満の解消に過ぎなかったり、自分の意にそぐわないというだけであったり、または自分の受けた被害に対する復讐心であったり、目指すべきものからずれていることが多い。それに、こういう姿勢で臨む限りは、その相手が心から悔い改めても、その復帰を認めようとするに至らなかったり、あるいは、もともとからして、相手の回復をさっぱり望まないものであったり、ということになりかねない。
 そして、自分自身の問題を無視し続けるならば、結局のところ、自らが回復を得られずに倒れていくことになる。他者を助け出すために自らが倒れていくのならば、まだしも意味がある。でも、他者を倒し、自らも倒れていくのでは、どこにも救いがない。こんな悲しい事態はあるまい。
 キリストの言葉通り、自分の目の中にある梁を取り除くことに、ちゃんと向き合いたい。幼い頃、この言葉を縫い針と考え違いをしていたけれど、むろん梁とは、家の屋根を支えている大きな柱のことである。そんなものが目の中に入るはずもないのだけれど、でも、人の起こしている罪の大きさは、人間の力、領域をはるかに超えるほどの、それ自体が私たちを押しつぶしてしまうほどのものであることを痛感させられる言葉だ。今、世界にある核爆弾が、全世界を何度も滅ぼすことのできるほどの量だという話は、人の愚かさを表すわかりやすい例だ。自衛のためでも、あるいは相手を倒すためであったとしても、せいぜい、一度、倒せるだけの分量で十分なのに、相変わらず人は、使う当てのない軍備のために、他に回せる力を消費している。人は見ず科の作り出したものによって押しつぶされているのだ。

|

マタイ 6:34

 明日のことを心配しない、というのは、先々について計画を立てない、という意味ではない。よくよく先を見通して、ちゃんと準備することの大切さは、キリストご自身も指摘されていることだ。行き当たりばったりの生活も、宵越しの銭は持たないという生き方も、決して神の望まれているものではない。
 けれど、明日のことが不安で右往左往すると、今の自分がなすべきことにも手が着かず、結局は翌日も、その翌日も混乱させてしまうことになる。もちろん、私たち人間は先が見えず、明日のことも、1分先のことも定められないのだから、見えない不安というものを抱くのは自然なことではある。だからこそ、そこで神を信頼し、神に期待をするのか、それとも、自分の力の限界の中だけで終わりにしてしまうのかは、全く違う結果へとたどり着く。神に頼ることを無責任な生き方だと言う人もある。けれど、とうてい安心と言えない自分に頼るばかりで、もっと確実な方に期待することをおろそかにするのは、それこそ無責任で、危険な生き方と言うべきではないのか。
 計画は必要である。今日、あるいは明日、来年、何をなすべきかを見定めていくこと、神の導きを求めていくことは必要である。けれど、その計画が神の御心に適うものだと確信するならばなおさら、今の自分がなすべきことをしっかりと見定めて、しつかりとした歩みを続けていかねばなるまい。なるようになるさ、というのと、今の自分がなすべきことはこれだ、というのとでは、全く違うのだと言うことを、覚えておきたい。

|

マタイ 6:31-33

 忘れてはいけないことがある。食べ物も着る物も、私たちには必要なものだ。衣食足りて礼節を知るという言葉があるけれど、平穏な日々を歩むためにはやはり、暮らしを支えるものが欠かせない。人は霞を食って生きているわけではなく、だから神は、あのエデンの園においても、神の祝福を一杯に受けている時にも、人々が何一つ困らずに食物を得られるように、豊かな果実を用意してくださっていた。衣服がなかったのは必要性がなかったからだと、わざわざ明記されている。
 そしてキリストは言う。それらが必要であることを、神はご存じである、と。だから続けて言う。神はちゃんと与えてくださるのだ、と。そうすると、何が問題なのかが、はっきりとわかる。選択肢はこの二つである。
 一つは、神に期待し、神がちゃんと与えてくださると信頼し、だから、決して慌てず、騒がず、神をほめたたえながら、自分のなすべき業をしっかりとやっていこうとする生き方である。遊んでいるわけではない。なすべき務めはそれぞれにある。今の自分が果たすべき役割をないがしろにして、神を信頼しています、などとは言えるはずもない。けれど、決して自分の力を誇らず、まして、神に反するような策を弄することなどは考えない。そんな必要はないと、信頼するのである。
 もう一つは、神の存在は忘れ、無視し、ただひたすら自分の力にのみ頼り、だから他者などは顧みることなく、誰かを犠牲にしようがなんだろうがお構いなしに、ともかく、自分に必要なものを確保することに専念する。遠慮していたら、必要なものを逃してしまうかもしれない。譲り合ってなどいられない。自分の益を考え、自分のためにということを最大の標語として生きていく。批判するのは夢物語に生きているやつらだとあざけりつつ、である。
 このどちらを選びますか、というのが、キリストの問いかけである。物質を望むか望まないか、ではなく、どうやってそれらを手に入れるつもりか、が問われている。

|

マタイ 6:26-30

 空の鳥、野の百合という語りかけは、色彩豊かな絵画のようにも感じられ、のんびりとした田園風景の中に憩う思いにもなるのだが、繰り返し読み直すと、神に信頼することにおいて、どれほどつたないものに過ぎないのかを、深く意識させられる言葉である。
 そう、鳥も百合も、世界の造り主である方がきちんと整えていってくださるのだということを、ごく自然な、当然のこととして受けとめて生きている。「いやいや、そういうものたちは心配するという機能を持ち合わせていないだけだ、人間はもっと高等な存在で、そう簡単にはいかないのだ」などといった反論は無意味である。自然界のものは、生息と繁殖に関して、それこそ本能的な志向性を持っている。そのために不利益なことなど、選ぶ可能性すらない(まさに人間とは違う)。それなのに、鳥も百合も、この世界の中で神が与えてくださったものをきちんと受けとめて歩むのみで、決して、自分が何とかしなければと必死になることはなく、不安の中で身も心もやせ細るようなこともない。
 私たちの心は、いつも騒いでいる。不安や戸惑い、先が見えない恐れというものを、いつも意識している。神の御手の中にあるのだから大丈夫、という平常心を見失うことが、どれほど多いことか。そして、自分の力に頼り、それにしがみつき、だから、自ら混乱の中に陥ってしまったりする。人生を選び取り、何が最も幸いかを見出すことができる能力を有していると豪語している人類が、実は最も迷い、恐れ、自分の足につまずいて倒れやすい。答えは自分にではなく、神にこそあることに気づくまでに、いったい何度、転んだら満足するのだろうか。そう書いている自分自身が、明日もまた思い煩う者に過ぎないことを、深く意識させられる。

|

マタイ 6:25

 二つのことを考えさせられる。まず、私たちが真に目的とすべきもの(ここでは生命)を大切にすることを忘れて、単なる手段に目を奪われていることがあまりに多いのだな、ということだ。食物は本来、健康に生きるためのものであるのに、暴飲暴食の問題や、あるいは、食の安全性がこんなにまでおろそかにされている事態というものは、生命と食べ物と、どちらが大事なのかをすら見失っている私たちの愚かさを露呈している。食べ物や衣服に限らない。教育とか社会の制度、あるいは時には、礼拝などの宗教的行動もまた、その目的が見失われて、全く別のことで左右されていることを自戒する必要がある。
 けれど、この言葉を読んで、自分は目的と手段を取り違えてはいないぞ、と思う人もあるだろう。からだが衣服に優先するのは当然、食物は生命のためにこそある。よくよく分かっていて、けれど、問題は何も解消しないのだとしたら、それはつまり、選んでいる手段を徹底的に間違えているということだ。衣服や食物だけではない。心の問題、例えば信仰などにおいても、人が最善の誠意と熱意を注ぎ込んでいても、それでも何の解決にも至らないことがある。しばしば社会は、その人の頑張りというものばかりを評価して、うまくいっていなくても、まあ、よしとしよう、ということがある。気持ちはわかる。でも、そこで留まるならばただのごまかし。真の価値は、熱意だけで決まるものではなく、現実性が必要だ。今、手にしている魂の食物、衣服は、真に良いものなのだろうか。

|

マタイ 6:24

 そう、大切なことは、二人の主人に仕えることはできないのだ、という点である。一人の主人に仕え、他のものは、その足下に従わせていけば良い。財産とか物質的なものの存在そのものが悪などとは聖書は言っていない。いわゆる精神主義ではない。けれど、それらは皆、神の足下に置かれるべきものなのだ。
 こういう構図である。まず、神が一番上におられる。その下に私たちがいる。そして、その下に財産が置かれていくのだ。財産は私たちの主人ではなくて、神のもとで私たちが有効に用いて、その意義を発揮させていくべきものである。きちんと手綱を握っておくべきなのであり、その足下にひれ伏すのは本末転倒だ。
 それなのに、人は選ぼうとしている。神に仕えるか、財産に仕えるか、と。こんな愚かなことはない。神を抜きにして、自分が財産の主人になればいい、と考える人もある。理論的には成り立つが、実際には無理である。人はいつでも何かを自分よりも上に見て、その元で生きることを必要とする。だから、神を除外すれば財産が上に来る。そのほかにも、他の人間だったり、国家だったり、上になるものはいろいろあるけれど。でも現代人には、財産が主人になる構図が一番身近なはずだ。愚かで悲しきことに。
 何を否定するかではなくて、何を主人とするのかを、真剣に選び取っていきたい。

|

マタイ 6:21-23

 宝の話と、目の話と、どういうつながりがあるのかな、と思う人もあるだろう。ようするに、私たちの思い、私たちの意識がちゃんと真に価値あるものを見ることができているかどうか、である。聖書の時代、目はガラス窓のようにして、心のなかに外からの光を導き入れる機能があると思われていたらしい。だから、もし、目がよけいなものによって曇っていたら、人は道に迷い、倒れ付してしまうことになり、人生にとって非常に危険な状態になる。
 たとえば、砂埃のひどいところに、用もないのに出かけていく人はあるまい。泥の中に顔を突っ込んで、目を開く人はあるまい。そんなことをしたら目が傷ついて、何も見えなくなってしまう。いや、時にはそういう危険を冒してでも何かを探す必要があることは事実だ。でも、それはよほど価値のあるもの、本当に必要なもののはず。なのに、人々は朽ちていく力程度の、真に人を生かすわけでもなく、それがないと生きられないけでもなく、むしろ、そこに思いを傾けていると問題が生ずることが多すぎる、そういうもののために泥の中に顔を突っ込んでしまっている。こんな愚かなことを見過ごしにはできないと、キリストの言葉は厳しくなっていく。そう、一連の箇所に感じられるキリストの厳しさは、私たちを案じ、放ってはおけないという、切なる思いの表れなのだ。

|

マタイ 6:19-21

 今は、聖書の当時よりも、宝のはかなさというものを、よく知り得るようになっているはずだ。金銀宝石であればそうそう朽ち果てることはないし、頑張って防御したら、それなりには盗賊からも守ることができる。でも、現代の宝は株価であり、土地の価格。その価値があっけなく崩れ去ることも、巧妙に奪い去られることについても、痛い思いしながら知らされているはずだ。でも、その経験を生かすこともなく、相変わらず、いや、昔よりもさらに、人は地上の宝に執着し、それがすべてであるかのように振る舞う。
 物質的なものが不要だなとどは言われていない。人は食べるものも、着るものも、住むところも必要であり、財布が空っぽの状態で生きていくことは無理である。けれど、だからこそ、そういう基本的なもの、しかも、自分にとって本当に必要なもの(ぎりぎりに節約して暮らす、という意味ではなくて、時には遊び楽しむことも含めての話だけれど)というものにこそ目を注ぎ、そこにこそ価値を求めて暮らしていくことを心がけていくこと。そうすれば、宝に支配それ、振り回される日々ではなくて、自らが幸いに生きていくためにこそ、神が与えてくださるものを用いるのだ、という、本来の健全な財産の持ち方というものができるように思う。
 そういう暮らし方を築いていくうえで、献金には大切な価値があると思っている。主に捧げることを最も基本的な経済活動の一つとして行っていくなら(米を買うのと同じように)、私たちの意識は、ずいぶんと整えられていくのではないだろうか。

|

マタイ 6:16-18

 良いことをするのに、人の目を気にするべきではない、というあたりまでは、少なくとも話としては、多くの人が同意するのだろう。けれどキリストの語っていることはもう一歩先を行く。積極的に隠せ、というのだ。より正確に言えば、他の人に知られないようにせよ、ということである。顔に油を塗って元気そうなふりをするのだから、偽装をしてでも、ということになる。そのくらい、私たちの思いは、高ぶりと自慢に陥りやすいということか。そんなことはありません、と胸を張って言いたいのだけれど、キリストの言葉が鋭く真実を指摘していることを、認めざるをえない。
 そうやって自分の「犠牲的行為」を高ぶるようになれば、他の人の価値を見下げるようになる。あるいは、何か見えるような犠牲的行為をしているかどうかで、人を測る愚かさにも陥る。そして、どっちが立派に見えることをしているかで競うようになる。そういう姿勢は、結局、神が罪人に注いでくださった愛とあわれみを忘れて、我が身の功績によって神からの報酬を勝ち取るようなことを考えてしまう。周りにたくさんあるせっかくの良き祝福を台無しにしてしまうのだ。
 そして、何のために断食をするのか、その本来の意味、意義を失うことになる。断食の効用は、思いを整えて、大切なことに集中することにあるはずだが、その効果を人にどう見えるかに注ぎ込んでいるのだから、その断食は全く無駄ということになる。断食は体にも負担をかけるわけだから、暴飲暴食をしているのと何ら変わりがない、ということになってしまうのだ。

|

マタイ 6:14-15

 この言葉は重い。告げられているのは当然のことで、人を赦しもしない者が、自分だけ赦してもらおうなどというのは、誰が考えても認められるはずがない。10000タラントの借金を赦してもらった人が、仲間の100デナリ(60万分の1に当たる)の借金に冷たい対応をした人物には、大半の人が反発を感じるはずだ。赦すことと赦されることは公平であって当然だと皆は思う。
 けれど、自分自身に当てはめて考える時、これほど恐ろしい言葉はあるまい。だって私たちは、赦すことが苦手で、冗談ではないと息巻くことも多々あって、だから、赦さなければ赦してはもらえない、と言われてしまったら、絶望に陥らざるを得ないのが私たちの実情であるからだ。キリストは罪人を招く方であるから、私たちのこの実態はご存じだ。人を赦せない罪深い者を、それでも受け入れて、赦してくださるのが神でもある。
 ただ、私たちは思い出す必要がある。赦してください、と祈る時、それがどれほど無茶なことをお願いしているのかを思い起こし、赦してくださる神の偉大な恵みを思い、そして、こんな自分でも人を赦していく者とされていくことを、切に祈り願い続けていくことを、自らに問い続けるべきだろう。私の罪を赦してください、と神に祈るのだから。

|

マタイ 6:9-13

 主の祈りについては様々な機会に語っているので、このブログでは簡単に済ませておこうと思う。この祈りは、大きく分けて、二つの部分で成り立っている。前半が神ご自身の力と御業、その支配を幸いと思い、喜び迎え入れる思いが語られるものだ。神への心からの信頼、神のなさることは最善であり、私たちのことを心底大切な考えてくださっているのだと知るのでなければ、本気で祈ることなど怖くてできないだろう。あっ、もちろん、そこまで信頼できない時でも、神に訴えたり、問いかけたり、というような祈りはできる。でも、「よろしく頼みます、お任せします」とは言えないと思う。祈りは、私の願い通りにしてください、といって神に指示書、計画書を渡すものではないからだ。だから、信頼しています、という思いが、この前半には強く表されている。
 後半は、私たちにとって最も基本となる願い、必要な事柄について、神に「よろしく」と求めるものとなっている。物質的な必要について、キリストは決して無視していない。それは大切な要素だ。いや、物だけでなく、私たちが生きていく上で必要な様々な事柄が、ここには込められていると言える。そしてまた、罪の赦しと、悪へと陥ってしまいやすい自らを守り支えてくださるようにとの願い。これもまた、私たちが生きていく上での欠かせない部分である。私たちの実際の祈りはもっと様々あるし、あってよいのだけれど、基本部分を忘れては大変である。

|

マタイ 6:7-8

 熱心に祈り続けることと、同じ言葉を繰り返すこととは、どう違うのか。キリストが告げるのは、一度祈ったら、もはやそのことについては祈るべきではない、という意味ではないはずだ。
 そこで、祈りというものの意味が問われる。いわゆる願掛けは、私たち人間の側の熱心さとか、努力、そのために注ぎ込んだがんばりの程度が、結果を左右する。50回祈るよりも100回祈った方が効果がある、ということである。その場合、願いをかなえる主体は自分自身であって、神(かなにか)は力を貸すだけの役割に過ぎない。でも祈りは、神に呼びかけ、神にその願いを受け止めてもらい、そして、神ご自身が判断して、対応してくれることを求めていくものだ。だから、1回だけの祈りでも、100回の祈りでも、適うかどうか、その可能性に差が生ずるわけではない。私たちが繰り返し祈り、祈り続けるのは、あくまでも神にこの思いを伝えたい、ということであって、1回余計に祈ったから可能性が1%増える、というものではないのだ。
 キリストはここでも祈りというものの本来の目的、意味を思い出せ、と指摘されている。私たちが、せっかくの神との関わりを愚行にすり替えてしまうことに心を痛めておられる主である。創世記4:26で、人が自らの弱さを悟ったときに神に祈り始めているのを、見失ってはいけないのだ。

|

マタイ 6:5-6

 道を歩きながら、携帯電話で大声で話している姿は、何とも格好が悪い。誰かとの個人的な話のはずなのに、全く無関係の人にまで、その中身がさらされることになる。会話は、その相手にさえ聞こえれば十分であり、他の人に聞かせるものではない。祈りは神との会話だ。礼拝などで皆を代表して祈る場合や、祈祷会などで心を合わせて祈る場合を別として、私の祈りは神ご自身に聞いていただくためのものであって、他の人に聞かせる必要のないものだ。
 とは言え、現代の日本に暮らす私たちの場合は、祈りをひけらかすかどうかよりも、むしろ、ひた隠しにしかねないことのほうが問題かもしれない。もしあなたが誰かと語り合っていることをあえて隠すのだとしたら、それは、その人とつきあいがあることを恥じているとか、世間的に差し障りがあると言う場合だ。「彼はあなたの友達だよね」と問われて「えっ、そんな人は知らないよ」と答えるのだとしたら、その友の心はどれほど傷つくかを思い浮かべてみれば、神と会話していることをまるで恥じているかのように隠すことが、どういう意味になるのかに気づくだろう。
 会話は、会話そのものの目的、その相手と親しく心を通い合わせていくという、そのためにこそ存在する。他の目的、理由を混ぜていくと、大切な会話がまがい物となってしまう。

|

マタイ 6:1-5

 善行はもちろん価値のあることで、意義のあることだ。けれど、その動機は何か、何のためにしているのか、との問いかけである。
 「施し」とはつまり、助けを必要としている人に経済的な支援をすること、である。とすれば、その目的は、ただひたすら、その人が助かることを願ってのもの、そのために、自分にできることがあるのなら協力しようということのはず。だから、困っていた人が少しでも楽になり、笑顔が広がるならば、それで目的は達成されているはずだ。けれど、私たちはその善行を、誰か他の人に、社会にも知ってもらい、そしてほめてもらいたい、評価してもらいたい、と考える。おかしいではないか、とキリストは問う。
 人から評価されることそのものは悪いことではない。でも、それは良い成績を取ったり、すばらしい絵を描いたり、毎日ラジオ体操を続けたりと、何か自分自身に関することで努力して、その結果を認めてもらえばよいこと。誰かが困っている事態を、自分の益のために利用する。そんな見にくい話はない。火事場泥棒という言葉を当てはめたら、厳しすぎるだろうか。そんなふうではありたくないと、キリストの言葉に心から同意したいものだ。
 時々、教会には、キリスト教関係のイベントに関して協賛広告を求める呼びかけが届くことがある。単純に、応援してください、献金してください、ならば、好意的に検討したいと思う。著名な人や教会であれば、その人が応援しているイベントなのだよ、ということを明示するのも意義があるから、堂々と名前を出すのも良いと思う。けれど、その他大勢の無名な存在が協賛広告を求められるのは、非常に情けない思いがする。

|

マタイ 5:48

 完全であれ、という言葉に、様々な戒めに対して自分にできる程度の、そこそこの対応をしている私たちは、愕然とさせられるはずだ。キリストは、自分たちの達成度によって神に評価されることを求めていたユダヤ人に対して語っている。日本人も同様の傾向があるかもしれない。でも、キリストは言う。もし、そうやって自分の出来を見てくれと言うのならば、人間たちが勝手に作った水準ではなくて、神ご自身の持っておられる基準によってこそ問われるべきだ、と。それは完全、である。そして私たちは、できない、ということにようやく気がつく。
 出来の良さを誇るというのでないとしても、私たちが追い求め、めざし、願いとするべきものは何かということも、神の完全さにこそあるのだということを、思い出したい。どうせ自分たちにはできないのだから、ということで、それなりの程度で私たちはごまかし、これでいいや、と言っている。けれど、神は完全。だとしたら、神を慕い求め、神に願い求めていくべきことは、私たちに可能な程度のものではなくて、やはり、神ご自身の崇高さ。決して、自分の力で達成しようというのではない。そんなことをしたら、あっという間につぶれてしまう。これは祈るべきこと、神に求めるべきことだ。神ご自身が働きかけて、事を動かしてくださって、そして不可能に思われたことが実現していく様子を、この目で見たいとは思わないか。それなら、安易にごまかすべきではない。

|

マタイ 5:43-47

 聖書にある言葉の中でも、最も難しいと受け止められている箇所だろう。憎い相手、恨みに思う相手だからこそ敵であって、その対象を愛するなど・・・。
 まず、敵との和解が実現するかどうかは、ここでは何も言われていないことに注目しよう。仲直りできたら、その相手はもはや敵ではない。心を通い合わせることができるようになっていたら、その人は友であって、敵とは呼ばない。とすれば、そうやって和解した相手を愛するのは、「敵を愛せ」には該当しない。もちろん、和解を目指すべきであるのだが。だから、敵に良い感情を抱くかどうかが求められているわけではない。
 そう、好きになれと言われているのではないのだ。愛せ、である。つまり、決意と覚悟を持って、その相手のために益を図ることである。ここには祈れ、ともある。感情は、自分自身でも思いのままにならないものだ。その怒りや痛みはなかなか消えないかもしれない。でも、受けた害に見合う対応をするのではなくて、こちらから一方的に幸いを届けようとする覚悟が問われている。こんな例はどうか。あなたはケーキ屋さん。おいしいケーキを作り上げて店で売っている。憎い敵が買いに来る。こんなやつに食べられるのは腹立たしいと思うかもしれない。だが、店を開いている者の義務・責任として、笑顔は出せないけれど、黙々と売ることは大いにありえるはずだ。敵のためにも善を図ることは、神が私たちに与えている責任・役割である。私たちの気持ちではなくて、覚悟が問われている。

|

マタイ 5:38-42

 目には目を、は有名な言葉だが、誤解されていることも多い。その真意は、過度の復讐をしてはならない、相手がした程度に限定せよ、ということで、争いの拡大を防ぐ意図がある。だから、決して悪い定めではない。今でも私たちはこの水準で問われる必要があるはずだ。
 けれどキリストは、その先を語っている。この言葉をいわゆる無抵抗主義として受け止めるのは、意味合いを表面的に考えすぎているような気がする。ここで取り上げられている態度を順に並べてみるとわかる。まず、怒りにまかせて相手のした以上の復讐をする。次に、相手がした程度までの復讐でとどめ、怒りの分を上積みしない。その次に来るのは、単なる無抵抗ではなく、害を及ぼす相手に対して、害を持って応ずるのではなくて、善を持って応ずる姿になるはずだ。ローマ12:20-21にキリストの意図通りの呼びかけがある。
 悪をもたらす相手に、何とかしてその人のためになることをしてあげようとする。これは非常に難しいけれど、でも、争いが真に解決する糸口はここにしかあるまい。そしてこれは、より積極的な行動であり、相手にされるままじっと我慢することではない。何が相手のためになるかと必死に考え、全力を投入して取り組んでいこうとする。復讐ではなく、幸いを持って応じていくのだ。キリストの存在そのものがこの行動であることを、私たちは忘れる訳にはいかない(ローマ5:6-11)。

|

マタイ 5:33-37

 自分の力を過信することへの戒めとして、まず読みたい。誓ったことを果たそうと取り組むのは大切だけれど、「大丈夫です」と言うのはつまり、私には達成する力があると胸を張っているのと同じ。天・地・エルサレム・頭と並んでいるが、人はどれも自由に動かせはしない。確証もないのに誓いを立てるのは、傲慢、不遜と言うべきだろう。できもしない約束をするのは、嘘と同じである。
 とは言え、誓うという行為そのものを全面拒否するのがキリストの意図ではない。私たちは結婚式でも誓い、信仰の告白という誓いも立てている。だから、そういう誓いをするときには、決して自分の力に頼らず、普段以上に神に祈り、神ご自身の助けと支えがあってこそ私はこの誓いを全うできるのだ、という表明が欠かせない。結婚の誓いが神の前でなされるのも、神に対する責任というだけでなく、神による守り支えを願い求め、神に委ねる思いを込めてのものであることを、そこに立つ二人には、強く呼びかけたい。
 そして、「はい、いいえ」とだけ語れと言われているのは、真実をそのまま素直に語れ、という戒めとして受け止めたい。複雑な言い回しによって、様々な条件をつけている誓いをして、ごまかしを謀るということがどれほど多いことか。契約書に綿密に書くのはよいことだけれど、複雑すぎて素人にはわからないのをいいことに、様々な付帯条件をつけて責任回避をすることを意図するようだったら、これは明らかにキリストの教えに反する。

|

マタイ 5:31-32

 当時、夫たちは正式に妻と離縁すれば(書面を渡すのだと書いてある)、それで結婚という関係から解放されて自由なのだ、と言われていた。本来、離縁状を出す責任を課したというのは、夫たちが好き勝手に妻を捨てることを認めないための防止策だったのだが、人間はいつでも物事を悪用する。書きさえすればいいのだというふうになってしまっていた。だからキリストは、結婚という結びつきの本来のあり方に基づいて(死が二人を分かつまでは一心同体である)、正式な離婚手続きをすれば自由だという考えは間違っていると指摘される。
 では、昨今問題となっているDVなど、結婚生活の継続が困難になっているケースはどう考えればよいのか。この箇所の意図は離婚が姦淫の罪をもたらすという話であることに注目すると、その結婚関係は解消されたとしても自由の身に戻ったわけではないのだから、それからは一人で生きていく、つまり、他者との再婚や関係はしないということであれば、この箇所の指摘する姦淫の罪には当たらないはずだ。この点は第一コリント7章とも併せて考えていく必要がある。
 なお、キリストの言葉は決して、不貞の理由ならば離婚すべきだという趣旨ではない。ここにあるのは姦淫の罪を犯させるなということであって、すでに生じた問題への対処は別の話である。いずれにしてもここでもキリストは、人々がこんなものだろうと考えていた基準を、神ご自身の基準へと戻させている。

|

マタイ 5:29-30(その3)

 この箇所を、一つ、実際的に使うとしたら、それは償いとしてではなく、予防措置としての意味合いである。事後の対処はできないけれど、事前段階で、少しでも罪の被害を食い止めようとする努力は意味がある。
 私たちはよく、自由と言う言葉を口にする。これは自分たちの権利である、自由だ、悪いことをしているわけではないのだから、好きなようにやる自由があるはずだ、と。言っている内容そのものが実は悪事であるとしたら、それはもう、議論の余地はなく間違っている。けれど、事実、そこでなされようとしていることそのものは悪事ではないという場合もある。
 この場合に、この箇所でキリストが告げられることを考慮したい。確かに悪事でない限りは自由である。けれど、もしもそのことが悪事に陥りやすくする危険性を抱くとしたら、その自由は放棄した方がよいことはないか。ちょっとした自由を満喫するのを我慢して、それで悪事への落とし穴を少しでもふさぐことができるのなら・・・。これはかなり慎重な判断が必要で、悪のきっかけになるからと言って禁止していったら、何でもだめだと言うことにもなり得る。だから、全体としての禁令は望ましくないと思う。ただ、自分自身を考えて、特に弱い部分、陥落しそうな部分については、自発的にその自由を放棄し、道を少しでも閉ざしておくのは、意味があるはずだ。崖っぷちにあえて立つのは、あまりにも愚かで危険なことであるから。

|

マタイ 5:27-30(その2)

 右目や右手を捨ててでも、という言葉を文字通りに受け取ってしまったら、キリストの意図を見失っているとしか言いようがない。冷静に考えてみよう。その悪事をしているのは、右目か右手の責任か。いいや、その人全体の問題であり、もし、どこかの部分に限定するのなら、そう言った行動を指示した頭脳にこそ責任がある。とすれば、切り捨てるべきは頭であり、あるいは体全体と言うことになる。それでは生きていられない。トカゲのしっぽ切りは何の意味もない。
 手や目を捨てても何の意味もないと気づくとき、自分には悪事の償いはとうていできないことに、私たちは気づくだろうか。あるいはまた、自分という存在がどれほど罪に染まっているのかということを。罪の奴隷という言葉が聖書には出てくるけれど、私たちの実態はまさしく奴隷であり、自らの力では自由になり得ない。誰かに助けてもらわない限りは。キリストの辛辣な言葉は、私たちの強い自覚を要求している。
 時折、何かの悪事をしてしまった者が、自らを痛めつけることで償いをしようとすることがある。世の中は、そういう姿勢に好感を抱くかもしれない。でも、聖書はそういった行動には意義を認めていない。罰が下されるべきならば、それは自らではなく、誰か他者から科せられるものなのだから。

|

マタイ 5:27-30

 一連の箇所は、キリストの基準が厳格なものであることを示している。私たちは通常、自分たちにぎりぎり可能な範囲の中で、物事の規範を定める。不可能なことを掲げても意味がないから、法律などに関しては当然の姿勢であるし、倫理・道徳ということでも妥当な話だとは思う。人間同士の話としては、これでよい。
 だが、問われているのは神との関係だ。ユダヤ人は、神に認められ、合格だと言われることを目指して、その律法に取り組んでいた。とすれば、そこに掲げられるべき基準は、あくまでも神ご自身の基準に則って指し示されることになる。もし、私たちが神に認められ、神から評価されることを目指すのだとしたら、そこで求められる基準は自分らが勝手に決めた基準ではなく、あくまでも神ご自身のもの。私たちは自らの姿をその基準に照らすとき、困惑と落胆、自分のがんばりによっては神から合格点をもらうことなどはできないのだということを、悟ることになる。天国は善男善女の行くところだと言われるけれど、天国に見合う程度に善人である者はいない。
 厳しい話だと思うだろう。けれど、神が私たちに差し出すのは救いである。お前のがんばり次第だぞ、ではなくて、助けてあげる、である。それを見失っている人類には、神の基準と向き合う経験が必要だとキリストが考えたのは、至極当然であろう。

|

マタイ 5:23-26(その2)

 この箇所を読むとき、犯罪の被害に遭った人々のことを思う。彼らが加害者に対して怒るのはごく当たり前のことだと理解されているし、昨今は、裁判でも被害者自ら訴えることが認められてきている。確かに、その怒りは正しく、権利があるとは思う。でも、はたしてその怒りや恨みを相手にぶつけることだけで、何か、意味あることが生ずるのだろうか。いいや、どれほど相手を罵倒しても、相手に復讐をしたとしても、それで何かの解決になるわけではない。一時的にはすっきりしても、それは、傷跡をかきむしりたくなるのと大差ない。結果、自らがますます傷つき、その痛みはどこまでも続くのだ。
 我慢しなさい、とその本人を説得するのは、あまり意味がない。キリストは、被害をもたらした者こそが、その怒りを解消する責任があると告げられたが、同じ趣旨で、周りにいる者たちの役割も考えさせられる。被害者の側に立つ者たちは、その怒りをあおり、応援するのではなくて、と言って、怒ってはいけないと戒めるのでもなくて、何とかしてその傷が癒えるために、あるいはもっと悪化しないように、我が身を呈して、必死になって被害にあった人を守り支え、助けていく必要がある。そうでないと、人はいつまでも「腹を立て」続けてしまう。加害者を罰すべきならば、それは被害者自らのなすことではなく、周囲の社会こそがその役割を担い、まっとうな形で刑罰を執行することも、被害者を守り、怒りと恨みを増大させないための、大切な業と言えそうだ。

|

« 2009年3月 | トップページ | 2009年5月 »