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2009年5月

マタイ 10:24-27

 何度も繰り返し告げられているのは、問題と戦うのは私たち自身ではないということだ。私たちの考えが、相手側の間違った考えと対決しているのではなく、戦うための力もまた、私たちの力によるのではなく、あくまでも神ご自身の力。私たちが悪く言われるのも、何も私たち自身が憎いからではなく、神を憎むからこそ、その神を信ずる者たちのことも毛嫌いしている。そういうことなのだ。
 だからこそ、私たち自身が恐れる必要はないのだ。この対決の主導権は神が担っておられるのだったら、何をどうするかは、神が考えていてくださる。神はまさか、人を屋根の上にあげて、はしごを外してしまうような方ではないと、あなたは信頼しているだろう。だとしたら、案ずるには及ばない。この安心感なしには、信仰を歩んでいくことはできないと思う。

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マタイ 10:23

 キリストの言われたことからすれば、無用にいのちを投げ出して、殉教すべきではないのかもしれない。もちろん、踏みとどまるべき時がある。大切なものを捨てて逃げてもよいと言うのでもない。神を捨てて妥協したり、間違ったことに流されるわけにはいかない。
 でも、今の自分がなすべきことは、ここでいのちをかけることではなくて、もっとほかのところで労し、そっちでこそ我が身を犠牲にすべき場合もある。その役目を忘れて、ただ、目の前のことだけに拘泥するとしたら、これもまた神の御心に反することになるだろう。ほかのことは全部済ませて、これが最後ですなどということは決してない、とキリストの言っておられるのだから。
 独りよがりの犠牲的精神ではなくて、神が自分に何をさせようとしておられるのかを、よくよく受け止めていくものでありたい。

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マタイ 10:19-20

 だからといって、ちゃんと心備えをしたり、御言葉を学ぶことを放棄して良い、ということではない。第一ペテロ3:15でも、準備をしておくようにと告げられている。
 でも、私たちが語るようにと求められているのは、自分の考えではなく、自分の言葉でもない。そこにあるのは、神が人間たちに告げられたこと。それを受け取り、そしてまた、他の人にも伝えていく。伝言ゲームのようなオウム返しではないけれど、基本的には似たようなものだ。聞いたことを伝える。しっかりと伝える。そこまでが、私たちの責任だ。
 私たちは、救いを語り、神の祝福を語る。でも、それを実現させるのは私たちではない。実現させると神は約束された、ということを伝えるのが私たちの役目であり、まるで自分が助けてあげるみたいなことを言うとしたら、かつてモーセが「岩から水を出してやろう」と言い放ったのと同じことになる。
 案ずるには及ばない。その約束を実現させてくださるのは、神ご自身であるのだから。

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マタイ 10:16-22

 厳しい事態が待っているのだ、と告げられている。キリストの指し示す祝福がこの世界の流れと違っているから、いや、そうではない。この世が、本来あるはずの神の国と違ったものになってしまったから、だから、厳しさに直面することになる。もし、キリストにある祝福に価値を認めず、どうでも良いものと思うのなら、こういう衝突は回避するのが得策だ。でも、それが大切なものだと思うなら、先へと進んでいくしかない。歯の治療は痛くて嫌かもしれないが、治したければ、歯科の椅子に座るしかないのである。
 ただし、キリストはここで、蛇のようにさとくあれ、とも告げている。単に正面衝突すれば良いというものではなく、よくよく知恵を働かせて、主の道を歩むために何が最善であるのかを、どこでこそ衝突すべきかを、よくよく見定めていくことも教えられているのだ。鳩のようにすなおに、とあるから、決してごまかしてお茶を濁すのではない。それでも、考えもなく猪突猛進して、それで混乱を倍加させているのなら、それは主の御心に沿うこととは言えない。目を開き、自分の前にちゃんと用意されている真に正しき道を、踏みしめていきたい。

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マタイ 10:14-15

  この言葉はつらい。耳を傾けない者は自業自得だというふうにして、清々したといって立ち去るのだとしたら、それは全く意味が違う。時々、面倒な人は棚上げにして、みたいな言い方がされることがある。人間関係の極意としては意味があるとしても、キリストの言葉の真意とは違う。もし、立ち去るのだとしたら、ちゃんとそのことを表明して、「君たちは間違っているのだ」と宣言して、その上でのこととなる。相手のさらなる反発は必至である。それだけの覚悟をもって、つまりは、立ち去ることを通して、相手に対する決定的な呼びかけをする。そうでなければ、単なる逃避であり、あるいは、回避にすぎない。
 けれども、神ご自身、この頑固な人類に対して、決して、「もう知らない」といって放り出したことはない、ということは忘れてはなるまい。神は忍耐深く、耳を傾けようとしない者たちに呼びかけ続けておられるのだ。私たちは時に安易すぎ、あるいは、逃避するばかりであるのかもしれない。

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マタイ 10:12

 平安とは何だろうか。心安らかでいられること、だけではあるまい。昨今は「癒し」が重視されていて、それはそれで良いものだと思うのだけれど、神の平安は、この程度で留まるものではないと思う。平安という言葉に、神が込めておられる思いは多岐にわたるのだと思うが、この言葉が、神との和解、あるいは他の人との和解ということにつながって語られていることを思い起こす。和解とは対立の解消であり、赦しであり、ということは、そこに相手のために犠牲を払うという姿があり、尽くすことがある。
 神の平安とは、そういう犠牲がお互いに払われていく状況であろうし、また、そういう取り組みをするようにと、自分自身が整えられていく、そのための素地、力が与えられることにつながるものだ。自分がいい状態であることで満足して終わってしまうとしたら、それは平安ではない。真実な平安を私たちは願い求めているのだろうか。

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マタイ 10:12-13

 相手に平安が届くかどうかは、私たちが判断することではなく、神ご自身がお決めになること。だとしたら、私たちが先走って判定を下し、この人は神の祝福にふさわしい、この人にはその資格はない、などと選別する必要もなければ、してはならない、ということになる。それはそうだ。私たちにそんな能力はない。さばいてはいけない、というキリストの教えを思い出す。社会の仕組みとして、犯罪を罰したり、もめ事の解決を目指すのは必要なことだ。けれど、そうやって社会レベルでの対処をするとしても、神の平安がその人に留まるかどうかまで決めつけるのだとしたら、それは、神の対処は信頼が置けない(甘すぎるとか)と言っているのと大差ない。神の確かな正義と、そしてまた、そのあわれみを信ずる者として、人々に神の平安があるようにと、私たちは祈り続ける責任がある。

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マタイ 10:9-11

 この言葉の背景には、当時の社会事情も関連している。こういった神の業をする者は基本的に支えるのだという社会全体の認識があるからこそ、何も持たずに旅をすることができたのであって、仙人ではないのだから、霞を食って生きよと言われているのではない。
 だからこの言葉は、周囲の者たちこそ真剣に受け止めるべきだと思う。ある取り組みが神の御心に適うものだと信ずるのであれば、自分にできることをして、その業を支援することは基本的な要素とされているのだ。むろん、すべての業を支援することはできない。ここで求められているのは、自分の町を訪ねてきた人であり、自分の家の門を叩いた人を支援することである。そういう責任を自覚する人々によってこそ、一つの大切な業(しかもそれは自分の町のためになされている業なのだ)は安心して進められていく。キリストの描かれた図式はそのようになっている。

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マタイ 10:5-15

 キリストの業に取り組む際の具体的な指針がいくつも出てくる。
・今、自分に与えられていることに取り組むこと。すべてはできない。
・神から与えられているものを提供していくこと。私たちの役割は届けることである。
・その取り組みが神によって支えられることを信じて、尻込みしないこと。
・信頼できる人と共に歩むべきこと。一人ではできない。
・神の平安というものが、大切な要素となること。単なる平穏や穏便ではないけれど。
・撤退、転進の必要もあるのだということ。神の時がある。
 うーむ、考えさせられる。

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マタイ 10:4

 十二弟子の中に、イスカリオテ・ユダの名前があることは、とても印象深い。マタイ自身も、そのことを強く意識しているからこそ、「イエスを裏切った」という説明書きがつけられている。当然それは、神ご自身の意図でもある。
 ユダが裏切ることになるのを、キリストがご存じなかったはずはない。寝首をかかれたのとは全く違う。一方で、十字架への道筋をつけるためにユダの存在が必要だった、という見方も、あまりにも勝手な推論だ。キリストは、誰かが罪に落ちて滅んでいくのを利用なさるような方ではない。
 だとすればなぜ? ユダが十二弟子に加えられた最終的な理由は、残念ながら人間にはわからない。あのときまでの彼は十分に役立つ者であったからかもしれないし、裏切った後でも回復の可能性はしっかりと用意されていたからかもしれない。一つだけ言えることは、ユダがここにいなくても、十字架の道筋そのものは進んでいったことは間違いない、のである。
 今はただ、ユダですら、キリストのすぐ側に置かれていたということを覚えていたい。そして私たちには、人の心の内も、その人の行く末もわかりはしない。だとしたら、何か問題を覚える相手がいたとしても、安易に切り捨てたりするのではなく、神が共に置いておられるのであれば、その中でちゃんと関わり続けるべきだろう。

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マタイ 10:1-4

 十二弟子が登場する。すでにペテロなどは出てきているが、キリストによってはっきり任命されたのはこの時である。多種多様な人々がいたこと、それから、当時は軽く見られていたガリラヤ地方出身者が多かったことが特徴であるが、後に「私があなたがたを選んだのだ」と告げられたキリストの言葉を痛感させられる。
 なお、彼らの使命について、人々を助けるための様々な業を執り行うため、と記されていることに注目したい。十二弟子とは、ご自身の側近を持ちたいとか、理解者を育てたいということではなく(教えを継承すべき人々ではあるのだけれど-使徒1章)、より多くの人々のために、神の業を提供するためのスタッフという意味合いが、ここでは告げられているのだ。実際キリストは、この後に出てくるように、弟子たちを派遣して、ご自分が行っていた事柄を担当させている。地上におられるキリストには、身体的な制約があるためでもあり、そしてまた、こういった業は、まさに信仰者たちが担っていくべきものでもあるためだ(救いの御業はキリストにしかできないが)。今の私たちもまた、キリストの弟子であろうとするのならば、神が何を委ねようとしておられるのかを、よくよく見定めておきたい。私たちは、神の祝福が人々に届けられるためのスタッフであるのだ。

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マタイ 9:35-38

 十字架にかかった時、キリストの身体は疲弊しておられたと言われる。この様子を見れば納得だ。キリストは人々を助けるために、文字通り身を粉にしておられた。理由は「羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」からだ。
 働き人が必要だ、と告げられている。誰でも良いわけではない。そういう人々を顧みて、何とかして助けたい、支えたいという願いを持つ者が必要とされている。能力や訓練の問題もあるけれど、何よりも大事なことは、キリストの教えの通りに、人を愛し、人を思い、仕え、尽くそうとする志を抱くかどうか、であろう。だからキリストの言う働き人とは、いわゆる専門家だけの話ではなく(それも少ないことを痛感するのだが)、神の前に生きようとする者たち、一人一人に問われていることである。

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マタイ 9:32-34

 続けてここでも、キリストの奇跡に接した人々の姿が記録されている。対比されているのは「群衆」と「パリサイ人」である。つまり、神に対して、ごく一般的な程度の理解と知識を持っている人々と、強い意欲と取り組みを持ち、回りからも専門的な人々だと認められていたような人たち、である。そして、前者はごく素直に驚いているのに対して、後者は難癖をつけている(この内容については12章で詳しく出てくる)。
 考えてみてほしい。音楽を愛し、必死に取り組んでいる者は、街を歩いていて聞こえてきた音色に、その他大勢の人よりも強い関心を示し、感動を覚えるのではないのか。描く人々は、美術館に通うことに、人一倍のワクワクドキドキを覚えるのではないのか。それがぶつぶつ文句を言い、批判ばかりを口にしているのだとしたら、その人の情熱は何なのだろうか。驚嘆を忘れてはなるまい。

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マタイ 9:30-31

 人々を助けるキリストの業に、回りの者たちがどんなふうに反応していたのかを考えさせられる箇所だ。目を癒してもらった二人は、キリストの制止を無視して、奇跡を触れ回った。うれしいのは分かるけれど、ご本人が困るとおっしゃるのに、自分は言いふらしたいのだ、というのは、尊敬や崇拝につながるのだろうか。神はすばらしいと歓喜していれば、神が教え、望んでおられるのとは違うやり方で、活動しても構わないのだろうか。それは、ただのわがまま、自分勝手。神と楽しくおつきあいすることはできるかもしれないが、神を礼拝する姿勢、神の前にひれ伏す姿勢とはつながらない(実際に地に突っ伏するのでも、心の姿勢としてでもよいのだけれど)。でもこれが、キリストによって認められた信仰を示していた人々の態度であることに、私たちは強い自戒を覚えねばならないと思う。

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マタイ 9:27-31

 癒しの奇跡はいくつも記録されているが、この出来事の特徴は、「あなたがたの信仰のとおりになれ」という言葉にあるように、助けを求めた人々自身の信仰に注目されていることだ。神に期待する、神には力があると認める、きっと応じて下さる、無視したりはなさらない、そのように信頼して、願い求めていくことを、キリストは強く求められる。奇跡そのものなら、人の思いなどと無関係に、神ご自身の意志だけでも実行は可能だ。天地創造に人の願いは関わっていない。時間的に言っても当たり前のことだが。キリストの十字架も復活も、人々の切望の結果ではない。神は必要なことは誰が何と言おうと、何も言わなくても、遂行なさる。でも神は、人の思いを望まれる。人との関わりを喜び、人との応答を楽しみとされるからだ。神と人との関係を「愛」という言葉で指し示すのも、それとつながっている。人間たちの無関心、そっけない態度ほど、神にとっての悲しみはないのだ。

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マタイ 9:18-26

 この出来事、キリストの偉大さを示すものであることも間違いないが、私はこの会堂管理者、ヤイロという名前であるけれど、彼の姿勢に惹きつけられる。死にそうな娘のために、キリストを呼びに来たのだ。途中で邪魔する者は、誰であろうと殴り倒してでも排除し、ともかく娘のところへと願ったとしても不思議ではない。立ち止まったキリストにも、激しい怒りを覚えるとしてもありそうなことだ。死んだということは、途中で知らされたのだと、他の福音書では詳しく説明してある。だとしたら、その時点でキリストには見切りをつけて、娘のところへ走ったとしても何の不思議もない。
 でも彼は、最後までキリストと同行した。間違いなくいらだっていたはずであるが、それでも、キリストを捨てることはしなかった。これが最後の頼みの綱であったからだ。ほかに可能性は皆無。でもキリストには何かがあるかもしれない。期待できるのが0.1%だとしても、彼には捨てられなかった。私たちの信仰が彼のようにはいかないのは、私たちは安穏しているからか。彼ほどぎりぎりのところに立たされたりしていないからか。この方よりほかになし、とは思っていないからだろうか。うーむ。

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マタイ 9:16-17

 よく知られた箇所の一つだが、昨日の言葉の続きであることを考え合わせると、単に、TPOは大切だみたいな話ではないと気づくはずだ。また、物事、新しいものを、ということでもない。
 ようは、何を求め、何を目指すのか、である。断食にこだわり、形にこだわっていた人々は、つまりは神の前でも形の出来不出来で評価を決めてもらおうとしているのであり、でもそれは、全くもって神の心には合致しない。それでは、キリストがこの世に来られた意味がないのだ。だから言う。もし、キリストによる救いをこそ願い求め、助けていただくことを望むのだったら、それにふさわしい神への関わり方があるだろう、と。自分の功績を誇り、こんなに頑張っているのです、と胸を張るのではなくて、だ。善行にしても、私はよくやっていますよ、ではなくて、神に導かれているから、力を与えられているから、こんなにも成し遂げられました、すべてはあなたのおかげです、という姿勢だったら。私たちは、相変わらず、別のものを目指す時と同じ態度を取り続けている、悲しいことに。

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マタイ 9:14-15

 断食に大きな価値を置いていた当時の風潮に、キリストは賛同していなかった(マタイ6:16-)。ここではさらに推し進めて、意味のある断食と意味のない断食の区別を指し示しておられる。ここにある事例で言えば、断食するかしないかは、何の意味も持たない。けれど、ある人が、自分の心に宿る悲しみを表明するために、断食という手段を用いるのだとしたら、その行為ではなく、その心にこそ注目全てものはある、ということである。別の例を挙げれば、回りの人もしているからと言って、長々と祈っていたとしてもそれには意味はなく、しかし、もしそこに切なる思いが込められ、神への言葉が尽きることなく心の中から出てきて、その結果として長い祈りになるのだとしたら、それには意味がある。私たちはつい、何をしたか、ということで評価を決めようとする。だが、神は心をご覧になる。この違いを貫いていくならば、私たちの行動は大きく変化するのではないか。

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マタイ 9:10-13

 この言葉ほど、世間一般の、とりわけ信心深いと言われるような人々の感覚と食い違うものはないだろう。神の国は善男善女のものという意識は浸透しており、立派に生きられた人に神からのご褒美があるのだという理解は、万国共通のもののはずだ。だから、「こんな自分は教会にはふさわしくありません」と言って近寄らない人は多い。
 現実としては、確かに、何かの問題を抱えているような人ではなく、そこそこにまともに生きている人の方がつきあいやすいわけで、人間関係も安定するし、教会の諸活動も円滑に進む。取税人などがいると、どうしても衝突が生じやすく、それこそ、小さな者に対するつまずきは大きくなる。だから、頭ではわかっていても、その相手を蔑視するわけではなくても、やはり避けてしまうというのは、自然なことではある。大声で太鼓を叩きながら歌う礼拝をしたい人と、静かにゆっくりとした讃美歌を用いたい人が一緒にいるのは、互いにストレスでしかない。
 だからそういう点では知恵も必要で(神は人間に考える能力を与えられたのだから)、罪人と呼ばれていた人々にしても従来通りで良いのではなくて、きちんと暮らすことを目指す必要もあって、それと共に、根本においてどれだけ互いを、主の前に大切な存在として受け止めているかどうかをよくよく問い続けねばなるまい。決して容易なことではないのであるが。

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マタイ 9:9

 マタイは自分自身がキリストに出会った時のことを書き記している。収税所に座っていた時、である。用事があって銀行の窓口にいました、というのではない。彼が取税人として仕事をしている時に、ということである。取税人という前歴は、ユダヤ社会では明らかにマイナスである。だが、その自分を省みてくださった神の恵みを知るものとして、マタイはむしろ喜びの表れとして、このように記録する。
 自分が神と出会ったこと、与えられた恵みということについて、他の人にも語るというのは(つまりは証しと言われる類のもの)、有意義なものである。自分自身も信仰の原点を確かめられるし、他の人は神が生きて働いておられることを、より具体的に見ることができる。それは決して、自分のしてきたことを何でもかんでも公にする、ということではなく、人のことを根掘り葉掘り知りたがる野次馬根性は信仰とは無縁だ。けれど、具体的なことを言う、言わないを別として、自分が受けた幸いを土台とする時にこそ、この信仰、この福音を誰かに伝え、知ってもらうことができるようになる。
 マタイにとって、この瞬間は、生涯忘れることのできない歓喜の時であったのだ。神は、ユダヤ社会全体から神にふさわしくないと断定されていた彼を、受け入れてくださったのだから。

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マタイ 9:1-8 その2

 病院を訪れる患者は、注射をしたり、薬を出したり、何か目の見える形での治療を行ってくれる医者を手厚いと受け止め、話は聞いてくれるけれども、具体的なことは何もしないで「様子を見ましょう」とか言われると、まじめにやってほしいと文句を言うのだと、聞いたことがある。まさか、さぼって手抜きをしているわけではないだろうから、様子を見ると言うのは、実は本当に必要な治療は何かを真剣に考えた上での対応であるはずなのだが、患者にはなかなか理解されない。
 それはつまり、ちゃんとやっているかどうか、適切な権威と力を持っているかどうかを、こちら側、助けてもらおうとする側が検証し、判断しようとしているからだろう。同じように、罪の赦しを宣言することよりも、実際に病気を癒して見せた方が、神としての権威と力を人々に見せるのには、はるかに「やさしい」。
 けれどキリストは、人々の目が単に癒しだけに注がれて、主が展開なさる業の全体像をしっかりと伝えるためには、罪の赦しを宣言することのほうが有意義だとお考えになった。それは、相手にもよる。通常、キリストは病気の人に赦しは語らない。けれど彼らは深い信仰をもってやってきた人々。だからこそ、両面の意義をしっかりと伝えようとなったのであろう。周囲にどう見えようと、今、大事なのは目の前の当事者なのだから。

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マタイ 9:1-8

 キリストはここで、病の癒しと罪の赦しとを結びつけている。悪いことをしたから病気になった、という話ではない。そういう因果的な発想は、ヨハネ9:3でも明確に否定されている。どちらの問題をも解決できる力と権威を、神はお持ちである、という意味で結びついているのだ。神は、どちらの痛みも、同じように重大に受け止めてくださり、そしてまた、助けを与えようとしてくださっている、ということである。魂の救いがあれば、肉体はどうでもよいとはおっしゃらないし、そしてまた、肉体的に平穏であれば、魂は後回しでも良いともおっしゃらない。両方とも、同じように大切なのである。
 私たちはしばしば、このどちらかを優先させ、どちらかをのみ重視しやすい。でも、そういう姿勢から出てくるものは、結局のところ、人としてはいびつなものとなってしまい、神の与えてくださった祝福の全体を受け止められなくなってしまうものとなる。たとえば、神の恵みを放縦に費やして自堕落となってしまったり、反対に、神の恵みを喜び楽しむことを見失い、つまらない人生を強いてしまったり。
 神は天地を造り、人間を造られたとき、人に神と関わることのできる霊を与え、そしてまた、この世界を生きる肉体を与えられた。だとしたら、その両面を大事にすることこそ、神にあって生きる姿と言える。

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マタイ 8:28-34

 町の人々が騒いでいるように、この出来事はかなり激しいものであったようだ。その衝撃を、周囲に住んでいた人々は迷惑としてて受けとめ、だから、頼むからよそでやってくれ、という反応になっている。一方の弟子たちにとっては、お師匠さんの偉大さを見せられた思いで、感嘆に打ち震えていたことだろう。いずれにしても、人々の思いは、イエスのすごさ、ということに集中している。
 でも、キリストご自身の思いはどうだったのか。それはただまっすぐに、この男の人、長く苦しめられていたこの人に注がれ、その人が助かること、立ち上がること、生き直していけるようになること、そこにこそ集中していたのではないのか。ご自身の神としての栄光が現されることも、確かに必要ではある。だが、それより、何より、この男性自身の救いと祝福こそ、キリストの願い、キリストの願いなのだ。
 このような方が私たちの主であり、救い主であることに、深い喜びを思う。

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マタイ 8:23-27

 嵐の中で、しかしキリストは眠っておられた、ということに注目したい。弟子たちは慌てている。もうだめだと思い、それで必死にキリストを揺り動かし、目を覚まさせようとしている。だが、神の子である方が、弟子たちや自身の命の危険を知らずに、ひたすら眠りこけていたということは考えられない。キリストは、眠っていて構わないからこそ、寝入っておられたのだ。つまり、弟子たちが動揺している嵐について、キリストは問題なしとの判断を、それこそ神としての権威のもとで下していたということである。実際に嵐を鎮めて見せたことは、その余波に過ぎない。
 私たちも、しばしば慌てる。神様、何とかして下さい、眠っていないで、と大騒ぎである。それはそれでも良い。私たちは力の弱いものであり、恐れや不安に振り回されるものにすぎない。だけれど、神ご自身が慌てることはあり得ないし、神が油断して失敗するということはありえないということだけは忘れてはならないのだ。必死で祈りつつ、しかし、主は必ず最善をなして下さるとの確信を保ち続けることができたら、どれほどの幸いとなるだろうか。これは、危機の中で習得するものではなく、神との日頃の関わりの中でこそ培うべきものであろう。

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マタイ 8:18-22

 ここにあるキリストの言葉は、出家という概念を思い浮かべさせるものにも見える。この方に従うぞ、と心を決めた以上は他の事柄に拘泥している場合ではない、全ての雑念を振り払って専心せよ、というふうにだ。けれど、キリスト教信仰には本来、出家というものは存在せず、それに、キリストのなさりよう全体を見ると、父親の葬儀に携わることを禁ずるというのは、ちょっと思い浮かべにくい。
 私はこの呼びかけを通して、具体的に何を放り出し、何との関わりを断ち切るかということよりも、私たちの生き方の基本になる事柄、いわゆる価値観ということに関する問いかけを思わせられる。もっと実際的に言うならば、神の言葉である聖書の呼びかけを、本気で自らの根幹としているかどうか、が問われているように思う。神を信じ、神に従うのだと言いながらも、私たちの生き方はしばしば、神とは別のものによって導かれ、その価値観が重視され、神の言葉はせいぜい良き助言程度の扱いを受けていることが少なくない。でも、だとしたらキリストは私たちの「主」ではなく、参考意見でしかなくなる。それは、少なくともキリスト教信仰においては、決して、本気で従っている、ことにはならない。失敗や混乱、時に、反発が生ずるのは避けられない。でも、ご意見拝聴しました、という姿勢はあり得ないのである。キリストはこの人々のそういう姿勢を問うていたのではないか。

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マタイ 8:14-15

 ペテロのしゅうとめが、キリストによって熱病をいやしてもらった話は、3つの福音書に出てくる。有名人の家族の話だから載せておきましょう、というわけではないので、この出来事がペテロにとって大きな意味を持っていたことがうかがい知れる。彼とキリストとの関わりは、これ以前に始まっていたけれど、ペテロにとってはこの出来事が、さらに深く結びつけられていく分岐点になったのだろう。
 人にはそれぞれ、神との関わりを堅く結びつけていく何らかの分岐点があるはずだ。劇的な出来事とは限らないけれど、本人にとっては大きな意味のある何かの時。私たちは、ペテロのように、そのときのことをちゃんと覚えていた方がよい。時に迷ったり、とまどったりするとき、その分岐点は、もう一度自分の信仰を整え直す良い手がかりになるだろうから。
 ただし、その出来事が信仰のすべてにはならない。この後のペテロの言動には、キリストはしゅうとめを助けてくれた方、というイメージは全くといって良いほど感じられない。それはスタートであって、もっともっと多くのことをキリストから受け取り、彼の信仰は広く、深く、進んでいったということだろう。初歩に留まっていないで、とは、パウロも告げていた言葉であった。

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マタイ 8:14-17

 福音書は、繰り返し、繰り返し、キリストによる癒しの出来事を記録している。御利益宗教という言葉を思い浮かべてしまう現代の私たちは、救い主キリストには、もっと高尚な教えを説いていてほしい、という思いを抱くのかもしれない。だが、17節にあるとおり、こういった業に取り組まれる姿は、この方が「救い主」であることを明確に指し示すものであって、キリストにとっては、決して片手間の話ではないのだ。
 神がこの世に働きかけられるとき、それは理念とか観念の領域だけに留まることはない。それは常に具体的である。いわゆるたましいの世界だけに関心を持っておられるのではないのだ(古代ギリシャには、霊的な世界と物質的な世界を区別して、霊を上位、物質を下卑たものと見なす思想があったが)。
 キリストが人々に与えた教えもまた、それを物語る。愛することは常に具体的な行動を伴うものであり(決して、物資を与えれば愛の表明になるわけではないけれど)、だからこそ初代教会の人々は、持ち物を分かち合って暮らしていた。何をどうするのかは、具体的であるほどに、その時代、その状況によって大きく変わって当然であるが、キリストに従う者であろうとするならば、それぞれのなすべきことをする必要がある。信仰とは思いこみではなく、あるいは単なる情熱でも、心の高まりでもない、のである。

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マタイ 8:10-13

 百人隊長であるから、ローマ市民であろう。まだ、ローマ市民権が帝国全体に拡大する以前なので、特権的な意味合いもあったはずだ。でもそれはユダヤ人からすると、異邦人と呼ぶ、自分たちとは違う者たち、さらに言えば、神とは別の世界にある者たち、という扱いがなされる部類の人であった。
 それなのにキリストは、彼が神の御国に入るのだと語り、アブラハムたちと席を並べるのだと語る。それは、当時のユダヤ人が思っていた神観念、信仰というものの意味合いに、真っ向から対立するものだった。これをユダヤ人に対する批判であるとか、革命であるとかと考えるのは、あまりにも小さい。それは結局、ユダヤの枠の中に留まる感覚に過ぎない。
 キリストが指し示しているのは、神の本来の計画、人類全体に対する語りかけ、取り組み、すべての人が神によって造られたのであり、そして、その救いの対象であるということを前提とした、当然すぎるくらいの扱い方であるのだ。
 ふと、弟子たちの反応を想像してしまった。「私はどうなのですか」と彼らならば聞いただろうか。いつも、自分は、自分は、というところから始まっていく弟子たちの発想。だが、私たちの出来不出来を越えたところで、神の御業こそが実現するというところにこそ、こんなちっぽけな、問題だらけの私たちにも希望が生まれ、神の祝福が届くようになる鍵がある。それでも私たちは、いつも、いつも、小さな枠の中だけにしか、神を見ようとしない。自分の民族、自分の教会、そして、自分一人、というように。この百人隊長のように、もっと大きなもの、もっと遠くを見るものでありたい。

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マタイ 8:5-9

 この出来事は、二つの大事なことを伝えているので、今日は一つ目を。それは、神の御業というものの確かさと、壮大さを、ちゃんと意識しておくことである。
 病気の時、キリストが隣に来て、手を置いて祈り、いやしてくれたら、それは確かにうれしいだろう。キリストは決して、そういう接触とか、物理的な近さというものの意義を無視してはおられない。ツァラアトの人にはさわられたのだ。
 でもこの百人隊長は、そういう物理的な近さは神の御業にとっては本質ではないことを、しっかりと受け止めていた。神がこの世界の創造者であり、支配者であり、今ここで、自分の家来を助けられる方であるのならば、近かろうが、遠かろうが、そんなことは何の障害にもならず、同じように事を実現してくださるはずだと考えている。考えてみれば、至極当然のことであるのだが、けれど私たちはよく、そのことを忘れているように思う。
 教会堂にいるときだけの神、一歩外に出たら、別の基準に従って生きていくことを当然のようにしてしまっている私たち、日曜は神の基準に生き、平日は社会の基準に生きる。それはつまり、神は限られた世界の中だけに留まる存在で、普段の暮らしとは関係がない、力は及ばないのだということだろうか。時々、困ったことに直面して、そのときだけは普段の生活に神を引き入れ、だから、何とか断ちなどを行って、今だけは神との関わりがありますよ、というふうにする。もちろん、事が済めば、そうやって築いた神との関わりは解消し、再び、日曜だけの神に戻してしまう。
 この百人隊長にはあきれられるだろうね。彼は、世界全体の中で生きて働いておられる神を知っていたのだから。そういう方だからこそ、期待し、信頼して、家来を任せようとしていたのだから。

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マタイ 8:1-4

 キリストの時代に取りざたされていたツァラアトという病気は、周囲から激しく差別され、嫌悪されていた。その背景に旧約の律法があるのは事実だけれど、旧約に出てくる現象は必ずしも新約に登場する人々の状況とは合致しない。結局人は、自分たちの勝手な思いによって、神の言葉を悪用していくのだと思わせられる。
 けれど、キリストはそういう事態に、真っ向から立ち向かわれている。近寄ることも忌まわしいとされていた人々にさわり、いやしを実行なさる。人々は、決して直らないと思いこんでいたのに(旧約には直った場合の対処が書かれていて、その点でも新約の現象とは食い違いがある)、まさに神の力、奇跡によって事態を改善した。それは、病気をいやすというだけでなく、その人の人生そのものを取り戻す意味があった。
 聖書には繰り返し、ツァラアトの人々に対するキリストの取り組みが書かれている。それはつまり、人生を失いかけ、いや、人間的に見れば完全に失われてしまった人々に対して、激しいまでの思いが傾けられていることと、それを根本から変革する、刷新する、新生させる力と決意が、神のうちにあることを表していく行為であったと言える。
 人は様々な部類の、痛みと困惑を抱えて歩んでいる。自分でもどうにもならないと絶望していたり、周りからだめなのだと決めつけられていることも少なくない。だが、神にとって不可能はない、という言葉のとおり、私たちの思っている「終わり」は、決して終わりではないことを、ちゃんと知っておきたいと思う。

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マタイ 8:1-4

 新改訳聖書第三版の中でも、評判が今ひとつの訳語がここには出てくる。ツァラアトである。訳とは言えない。音をそのまま載せただけのものである。この言葉の採用には、かなり苦心したと聞いている。元の訳語には重大な事実誤認が含まれており、かつ、差別的意味合いが出てきてしまっていたからだ。もっとも、その現象の本来の意味とは別に(旧約のそれは、必ずしも病気とは言えない)、新約の時代には人々から差別的に扱われていたことは事実である。結局、第三版では、この問題の当事者と言える人々の選択を尊重した。その結果がツァラアトである。
 この用語の是非はさておき、決め方については、私はそれで良かったのだと、この言葉を見るたびに考えさせられる。時に、神の告げられることは、私たちの理解を超えることがあり、十分に把握しきれない場合がある。だとしても、それを無理に自分たちの理解できる範囲の中に押し込めるのは、あまり適切ではあるまい。それは結局、神の言葉を人の言葉に変質させる危険を招きかねないからだ。一方で、物事を語る時には、単に正確さということだけではなく、人々の思いを考え、とりわけ、痛み傷ついている人々のことを考慮しつつ語ることに、必死である必要があるはずだ。決して、事実をねじ曲げてはいけない。だからこそ、どうすればよいのかということに対して、私たちは大いにエネルギーを費やし、必死で取り組むべきなのだと思う。
 自分の思いだけが優先されるというような風潮がどんどん高まっている時代であるからこそ、なおさらのこと、聖書の言葉に向き合う時には、神の指し示すあり方を大事にしていきたい。

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