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2009年6月

マタイ 13:22

 いばらの中の種は、この世の心遣や富に代表される事柄によってつぶされていくものを指すとある。優先順位というか、何が自分の生き様の基軸なのか、ということを、私たちはもっともっと突き詰めていかねばならないのだと思う。物理的なことでは、私たちは身体は一つしかないのであり、神に直結することではないものに取り組むのが先、ということもあるだろう。だが本当は、仕事にしろに、人間関係にしろ、何にしろ、それらはすべて神の前でなすことであり、神と共になすことなのだと分かっているなら、いばらにつぶされるのではなく、むしろ、いばらとどう関わっていくのかを見定めて、積極的に取り組んでいくことになるはずだ。神と共に歩けば人生バラ色、安楽などとは聖書は言っていない。困難も厳しさも、そして課題も常にある。でも、それもまた神の御手の中にあることなのだから。

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マタイ 13:20-21

 岩地の種は、反応はした。芽は出した。でも、それがあっけなく枯れてしまう。理由は、根がないためだと言われている。神との関係における根。根は地中深く広がっていき、はびこるものとなっていく。神との関係も、「信じました」だけでは足りない。その意味、その意義、その実践について、多種多様、様々にぶつかり、戸惑い、考え、試し、そうやって取り組んでいく中でこそ、簡単には枯れない信仰に進んでいくことができる。信仰を、同好会かサークル活動の一種だと思っている人は少なくない。だが信仰とは「道」である。伝道と言うではないか。道を伝えるのだと。この場合の道は、武道、華道、茶道のように生き方全体を左右する部類のもの。神にあって生きる、暮らしの様々な場面も、仕事も人間関係も、遊ぶことも。それでこそ「道」であり、そして、岩地からの脱却につながるだろう。

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マタイ 13:18-19

 せっかくなので、4つの種、一つずつ考えてみよう。道ばたの種は、せっかく神からの呼びかけが届けられたのに、何の反応もなく、置き去りにされているために、さっさと消し去られてしまうということである。神のなさることを邪魔できるものはいない。サタンにはそんな力はない。でも、せっかくの働きかけも、人が受け取ろうとせず、関わりを持とうとしないのであれば、そこには神の力が働かない。「キリストを信じなさい」と車載スピーカーでがなり立てても意味をなさないようなものだ。とすれば、である。信仰者たちは自らに問うべきだろう。自分は神の言葉に反応しているのか、と。何でも「はい」と従います、とは言えないのだとしたら、なぜ無理なのか、だめなのかを、必死で神に訴えるくらいの気概が必要だ。だって神は、私たちに必死に呼びかけてくださっているのだから。

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マタイ 13:16-17

 あなたがたは預言者よりも幸いだ、と告げられている。神の言葉をその耳で聞いた預言者よりも、である。理由は、キリストを知っているからであろう。ヨハネ1章にあるように、御子の到来は、人々の前に、神ご自身のお姿とその心を、はっきりと見せるものとなった。私たちと旧約の人々と、基本的には同じだ。同じように主を信じ、主に従うのみである。ただ、私たちははるかによく、神を知ることができるようにしていただいている。この幸いを安易に放り投げているわけにはいくまい。だから、もし神がわからなくなったり、戸惑いを覚えるなら、キリストの姿に立ち戻って、その言動に注目するのが良い。せっかくの「幸い」がそこにあるのだから。

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マタイ 13:10-15

 たとえを用いるのはわかりやすくするため、と考えるのが自然だ。でもキリストは、隠されているためであるというようなことをおっしゃる。隠すため、ではない。悟らないのは、人々の責任であるという言い方だ。種と土地の話ともつながる。どんなに良い種でも、土地次第では、全く意味をなさない。提示はされている。でも、人々にその気がなければ、神の呼びかけを必死で受け止めようとする気がなければ、それは届かないのだと告げられる。聖書は必ずしもわかり良くはない。箇条書きで数項目、にまとめられた信仰内容だったら、多くの人にとって理解しやすいものになるかもしれない。でも、理解することと信じて受け入れることは違う。簡単かどうかではなく、主を求めるつもりがあるかどうかが、信仰が花開いていくかどうかを左右するようである。

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マタイ 13:3-9

 気になるのは、せっかく蒔かれても実らない種もたくさんあるのだな、ということである。種そのものは良いものであるはずだ。それでも、結果は違ってくる。キリストは、良い地にだけ蒔けと言っているわけではない。農夫が不注意で種を無駄にしたとも言っていない。しかし、土地の状態次第では、良き結果にはつながらないこともあるのだと告げられる。だとしたら、この話を聞く者としては、土地を少しでも良くしていきたいものだな、と考えるのが自然だろう。種は良いのだから、土地が耕されていけば、きっと期待できるのであるから。福音を語る際に、ちゃんとその相手を見て、その心を見て、その人にふさわしく語りかけていこうとすることは、何とかしてこの人に神の祝福があるようにと願う、それこそその人を愛する思いにつながっているはずだ。

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マタイ 13:1-3

 キリストの話は、目の前に映像が浮かぶような形でなされることが多い。当然と言えば当然で、その時代、書物を手にすることなどできないのだから、私たちのように聖書を読む習慣などは存在しない。安息日に会堂へ行き、そこで朗読されるのを聞くのみである。その代わり、人々は語られていることをしっかりと心にとどめ、そのことを日々の歩みの中で思いめぐらしていたはずである。今、私たちは幸いにも、いつでも手元の聖書を開くことができる。でも、目で追うだけでなく、心にとどめて思いめぐらすことを放り出してはいけないのだと思う。今日の聖書の言葉が、心の中で繰り返し回転していくものでありますように。

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マタイ 12:46-50

 現代は、「家族」という言葉が持つ意義が、かなり薄れてしまった。だが昔なら、遠い親戚が地方から出てきたというような場合でも、家に居候させてやり、というようなことがあったし、戦国時代なら、それこそ国の安心をかけて、政略結婚がなされたものだ。家族であるということは、その相手を大切にし、できうる限りの犠牲を払ってでも助けていくのが当然とされる、そういうつながりがあることを意味した。この箇所を読んでも、だからといってキリストが家族に冷たい、と評する人はいない。キリストは十字架の上ですら、母マリヤの身を案じた。むしろここは、キリストが目の前にいる人々を、どれほど大切に思っておられたのかを指し示す。家族。私たちは他の人を、回りの人々を、あるいは教会を、我が家族、と思って関わっているのかどうか。キリストの言葉は私たちに問いかけてくる。

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マタイ 12:43-45

 この警告には震え上がらずにはおられない。身をきれいにするだけでは意味がない。悪を取り除こうとするだけでは意味がない。悪霊を追い出しました、というだけでは何にもならない。大事なことは、そこに神ご自身がおられて、ちゃんと中心にいてくださるかどうか。こうも言える。様々な思想を取り除いても仕方がない。禁止しても意味がない。それよりも、神の御言葉そのものがどれだけその人の心にあるか、御心と共に生きているかどうか。
 カルト集団の洗脳からようやくのことで抜け出させた人は、しかし、その心に、真実なものが宿らないと解決にならないそうである。そのまま酒浸りその他の退廃へ進むか、さもなければ舞い戻ってしまう。人の心は、空っぽのままでは済まないのだ。

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マタイ 12:38-42

 昔からそうなのだな、と思ってしまう。しるし、つまり、奇跡を見れば信じるぞ、という風潮である。神を見ることができれば、奇跡を起こしてみせれば、と。現実は違う。奇跡を見ても、人は神に従おうとはしないし、神から直接呼びかけられても、だから信じるとは限らない。旧約のイスラエル民族も、キリストの周りにいた群衆も、そのことを露呈している。むろん、ある人にとっては、病気の癒しが信仰のきっかけになっていることはある。でもそれは、単なるきっかけにすぎない。きっとその人は、何もなくても信じただろう。そしてキリストははっきりとおっしゃる。最も意義あるしるしは、ご自身の存在であるのだと。この方の存在と言動にこそ、人の思いをはるかに超えた神の働きかけが目の前にあることを実感できるものはある。だから福音書はキリストを語り、キリストを紹介し続けている。私たちが注目すべきものは、そこにこそある。

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マタイ 12:33-37

 発される言葉というものについて、神は相当に厳格な見方をなさっていることが、聖書のあちこちに見出される。もちろん、単なる冗談とか、おふざけ的なことについてまで、いちいち、目くじらを立てるわけではない。キリストご自身、皮肉たっぷりの発言をなさることもあり、上品かどうかよりも、真実が伝わることを優先されている。言葉の用法とか、言葉遣いの話ではなく、問われているのはもっと核心の部分である。本音とは別のところにある、たんなる表面的な発言、というふうには、神はご覧になっていない。そこには必ず、本人の心の内が反映されている。無意識のものであるとしても。だから、問われるべきなのは、その場の言葉だけではなく、心の内にある思いそのものなのだと。何よりも、自分自身の言葉を振り返りたいと思うし、そしてまた、言葉を正すためには、心が整うことが何より大事であることを、強く思わせられる。

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マタイ 12:30

 こういう言葉を読むと、何だか偏狭に思えてくるかもしれない。時々、キリスト教には独善という批判が投げかけられたりもする。でも、こう考えてみてほしい。目の前に血を流して倒れている人があるとする。救急車が来て、大急ぎで病院に運ぼうとしている。そこに、別の人が出ていて、「おいしいケーキ屋さんがあるから一緒に行こう」と言って、けが人の腕を引っ張るとする。あるいは、「人生には勉強が必要だ」と言って、学校に連れて行こうとする。「遊園地に連れて行ってあげるよ」と誘いをかける。救急隊員は、断固として言うだろう。「邪魔です、どいてください、妨害しないでください。あなたはこの人のために害をもたらしている」と。悪事に誘い込むのでなければ、人生に様々な呼びかけがあっても良いだろう。でも、どうしても必要なことへと進んでいくのを妨げてしまうなら、それは邪魔者と呼ばれても仕方がない。

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マタイ 12:22-32

 悪魔の仕業だと思っていることを歓迎する人はいまい。ごく稀に、悪魔に魂を売り渡そうとする人はあるとしても。このパリサイ人はキリストのしていることを悪魔の自作自演だと言っている。つまり、こんな助けはいらないと、断固拒否しているのと同じである。泳げない人が浮き輪なんか窮屈だといって、あるいは、色が気にくわないと言って手を離してしまったら、それは我が身の滅亡を選ぶのと同じこと。だからキリストは言う。御霊に逆らう冒瀆は赦されない、助からないぞ、と。パウロも、キリストの業をこの世から消し去るべきものだと思っていた。でも彼は悟らされた。目の前にあるのが、神からの大切な助けであることを。その時彼は、救いを手に入れたのである。

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マタイ 12:15-21

 人々を助けるけれど、そのことを宣伝するなとおっしゃる。人間の力、世間での評判が真偽を決するという感覚のパリサイ人たちの姿勢と、真っ向から対立する姿勢である。この点、現代の伝道にしても、その意図を間違えないようにしたいものだ。伝道は、キリスト教の評判を高めるためのものではなく、人気が出て影響力が強まるためでもない。福音を伝えるのは、それを聞く人が神と出会い、神の呼びかけに心を開くため。いわば、とても個人的なことのためである。医療その他の支援活動も、キリスト教への好感度を上げるためではなくて、目の前に苦しんでいる人がいるならば助けたいという、信仰者としてごく自然な感情から出るものだ。この区別に、キリストご自身が強い関心を示しておられることを、心しておきたい。

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マタイ 12:10-14

 ここも同じテーマの話であるが、それにしても、ここまで明確に告げられているのに、キリストを排除することを考え始めている面々のことを思うと、人間のおぞましさを痛感させられる。もし、何が何でも安息日戒律は守るべきだと確信し、それこそ神の祝福に至るものだと言うのなら、正々堂々、その意見を述べ、そして、自分はそのように生きれば良い。この病気の人自身が、明日まで待ちます、と言うのは、何一つ非難されるされることのない態度である。だが、パリサイ人たちはキリスト排除を意図する。力で抑えることを考え、何が正しいかではなく、神はどうお考えかでもなく、人間としての力の強い方の考えが真実、という道を進んでいこうとする。この時、もはや彼らは、神の前に生きる者ではなくなってしまったのだ。

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マタイ 12:8

 神の前に清く正しく生きようとすることは大切である。そのために、様々な教えもあり、決まりもあり、それらをきちんと考えて暮らすことも欠かせない。ただ、目的を忘れてはいけない。決まりを守り、正しく生きるのは、そのことを通して神ご自身と共に生きる道を進んでいきたいと願うからこそだ。罪を憎み、悪を拒むのは、それが神から遠く離れたものになってしまうからだ。神とは無関係に清く正しく生きる態度もありえるけれど、聖書はその類のものについては全く関心がない。安息日を大事にすごそうとするのも、それによって神との近い関係を培うためであって、戒律を守っていれば叱られない、のではない。注目すべきはキリストご自身。それをこそ追い求めよと、聖書は語る。私たちは、時々、ずいぶん違ったものを追い求めてはいないだろうか。

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マタイ 12:1-8 その2

 安息日問題を離れると、道を歩きながら畑の麦の穂を摘んで食べるのは、ユダヤの社会できちんと容認されていた行為であることにも、注目しておきたい。むろん、勝手に人様の畑の麦を刈ってははいけない。それは泥棒だ。でも、おなかのすいた人が、その場で腹の足しにするくらいのものは、いっこうにかまわないとされていたのだ。旧約には、刈り入れの際には、わざと刈り残したり、落ちた麦穂は拾わずに残しておき、生産手段のない人たちが少しでも食料を得られるように、ということも命じられていたくらいである。こういうおおらかさを失った現代は、人を思いやることから遠く離れてしまっているように思う。そして、パリサイ人の姿勢は、安息日は大事だと言いつつも、神の定めた人を思いやる生き方を阻害する方向にあったのである。キリストの怒りは当然か。

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マタイ 12:1-8

 パリサイ人の感覚は、簡単に言えば、失敗しないことを目指すもの、である。だから、細かい規定を作って、いくつもの禁止事項を並べて、危険に近寄らないことを教えていた。だがキリストは、何が良いことで、益となり、自分にも他の人にも幸いをもたらすことか、を目指していくことを、信仰の生き方として指し示しておられる。もちろん、悪いことをするのは論外だ。それは皆を害することで、まあいいよ、というおうようさはありえない。でも、幸いをもちらすことを、安全のために禁じておきましょう、という生き方には、決して同意なさらないだろう。これはなかなか難しい生き方ではある。「ごめんごめん、失敗だ」では済まない危険もある。それでも、主は前を向いて、幸いを追い求める生き方を人々に教えておられる。

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マタイ 11:28-30

 教会の前に掲げてあることも多い、有名な聖句だ。休息所が提供されているだけの話ではない。明日まだ頑張るための、一時的な憩いを差し上げましょう、というのでもない。この救いを実現するための犠牲は、神ご自身が支払ってくださっているからこそ、大丈夫、と告げられている。何もしないで遊んでいればいいよ、とは言われているわけではない。この信仰には様々な厳しさがあることは、幾度も警告されている。それでも、事を始めたのは神ご自身であり、道を指し示しておられるのも神ご自身であり、その方が、安んじて良いのだとおっしゃる以上は、「心配はいらない」と胸を張って言いたい。まずは自分自身に対してこそ。

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マタイ 11:25-27

 神を知り、神に出会うことは、人の知恵によるのではない、という呼びかけが、聖書のあちこちに繰り返されている。せっかく探求心を持って取り組んでいるのに、と不満もあるだろう。キリストの呼びかけがユダヤ人一般(熱心な人々だった)に受けが悪かったのも道理である。でも、もしも神の祝福が人の頑張り次第なのだとしたら、到達できたレベルに応じて与えられるものなのだとしたら、どうなるのか。こう言えば、自分の真実な姿を悟っている人は、自分にはその資格はない、と気がつくに違いない。神からの呼びかけは、無償の「恵み」を与えるというものであって、出来に応じた報酬を与えようという者ではない。ここは、決して曖昧にできない大事な点だ。

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マタイ 11:20-24

 責めた、と書いてあるけれど、これは嘆きでもあろうと思う。せっかく神の呼びかけがあり、時に、目に見える形での提示もあり、それでも心を固く閉ざしている人々に、神の心は傷つくのだ。これは例えば、迷子になった羊をようやく見つけて、一緒に帰ろうと手を差し出しているのに、そっぽを向いて崖に向かって歩いていくようなものだ。やりきれない思い、である。
 それと共に、ここには、「知っている者、知識のある者、分かっているはずの者」に対しては厳しく向き合うという旧約からよく見られる傾向がある。知らなかったから軽い罰で済む、という話ではない。そんなことはあり得ない。でも、知っている者たちへの神の問いかけは鋭い。せっかく知らされていたのに、その恩恵を受けていたのに、それを地に投げ捨てる者に、神は厳しく問われるのだ。日本の私たちは、聖書を手に入れるという点でも、字が読めるという点でも、世界的に見て、どれほど恵まれた環境にあるのかを思い出そう。

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マタイ 11:12-19

 12節の言葉は、その意味合いをどう受け止めるのか、今ひとつ、諸説がまとまらない。けれど、この箇所全体の意味するところは明らかだ。それは、ヨハネにしろ、キリストご自身にしろ、せっかく良きものを人々にもたらしているにもかかわらず、素直にその言葉そのものを受け止めようとせず、人々はただ、難癖をつけたり、自分の勝手な思いで批評するばかり。これでは取りほど偉大な呼びかけがなされていても、どうにもならないではないか、と、そういう鋭い勧告がなされているのである。
 18-19節にある人々の言い分は、自分たちの語っていることがどれほど愚かであるかを、痛感させられるものではないだろうか。決して、じっと黙って信じろ、と言っているのではない。文句を言うなとか、反論するなと、力で押さえつけられているのでもない。だが、反発したいのであれば、まっすぐに神ご自身の告げられたことに対してこそ問うべきであり、その他の事柄であれこれ言っていても、何も始まらない。いやむしろ、そういう神ご自身の呼びかけそのものと向き合いたくないので、私たちは結局、別のところで騒いでしまうのだろうか。

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マタイ 11:7-11

 キリストはバプテスマのヨハネを高く評価された。それは彼が旧約の預言通り、救い主への道備えをする人であったからだ。王などのように、どれほど高い地位の人に会うことよりも、ヨハネのような人と語り合い、指し示される道を見いだしていくことのほうが、はるかに意義があるのだと告げられる。他の人々の価値を無視するわけではないけれど、私たちは、神を知り、神と関わるために役に立つ人々と過ごす時間というものを、あまりにも軽視してはいないかと思わせられる。
 ただしキリストは、そういった役割を果たしたという実績よりも、さらに大切なこと、意義あることとして、一人の人が神を信じ、神のもとに立ち返ることを指し示しておられる。11節の言葉は、その点を指し示している。これはルカ15章にも見られるもので、その人の出来不出来に心がとらわれてしまう私たちの愚かさを、改めて痛感させられる。
 ちなみに、こういったキリストの言葉からすれば、ヨハネ自身があがめ奉られたり、教会の歩みの中で特別視されるのは、とうてい考えられないことだ。ヨハネ自身も、自分はキリストの出現と共に消え去って良いのだと語っているのであるから。

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マタイ 11:4-6

 キリストの答えを、ずいぶん素っ気ないと感ずる人もあると思う。でも、「私はキリストだ」という宣言だけでは、事は済まない。だからキリストは、ご自分のしていることを指し示された。
 ただしこれは、これだけすごいことをしているのだから当然キリストだ、と豪語しているのではない。この言葉を聞いたユダヤ人は、すぐに旧約の預言を思い出したはずである。約束のキリストが到来した時には何が起こるのか、についての預言である。キリストはヨハネに、そのことを意識させようとしている。単に目を見張るような奇跡がある、という話ではない。神が約束したとおりのことが起こっているという点こそが重要なのだ。
 たとえそこに、ローマ帝国軍を腕の一振りでなぎ倒す力を発揮する人が出現しても、空を飛んでみせる人が登場しても、それだけではキリストとは言えない。神の約束をしっかりと実現して行かれる方こそが、重視されるべき方なのだ。キリストが私たちに、「私の教えを行うことによってこそ、人々はあなたがたを私の弟子と認める」と告げられたことも、大いにつながっていく話であろう。

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マタイ 11:1-3

 ヨハネは、キリストにバプテスマを授けた人であり、「神の小羊」と呼んだ人である。だからこそ、獄中にあって、自分の指し示した相手が間違いなく本物であるかどうかを、確認したいと考えたのだろう。当時、キリストに関する世の中の風評は混乱していた。ヨハネに届けられる情報も錯綜していたに違いない。彼の弟子たちは師匠の上前をはねている、と感じていたかもしれない。直接、キリストと向き合うことができないヨハネが困惑を覚えたのは、無理のないことである。
 だが、彼は最も良いことをした。つまり、直接尋ねたのである。自分で勝手に考え込むのではなく、仲間内で相談するのでもなく、あるいは、どうせ分からないのだからとあきらめるのでもなく、キリスト自身に尋ねた(獄中にいるから使いを送るのは仕方がない)。結果、最も必要な答えを手にすることができたのである。
 私たちには聖書が与えられている。神が人に対して告げるべく用意された書である。神に関して、戸惑ったり、よく分からなくなったりするのは、大いにありそうなことだ。だとしたら、ヨハネのように問いかけるのが良い。聖書にある答えを求めて。

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マタイ 10:40-42

 神のもとで生きると周囲と対立するということが語られたので、一転して、神と共にあるからこその幸いも広がるのだよ、という話を告げたのだろうか。述べられていることそのものは、さほどむずかしいものではない。けれど、なぜキリストは、あえてこのようなことを告げられたのかは、少々難解である。
 思うに、やはりキリストは、信じ従う者たちを励ましておられるのだろう。数多くの厳しい事柄が待ち受けているとご存じだからこそ、負けてはいけないぞ、という激励だけでなく、守り支えがあることを伝えてくださったのだと思う。神に従って生きることを、時に孤軍奮闘というようにして必死にならざるをえないと思っている私たちに、聖書は「違うぞ、決してひとりではないのだぞ」と告げている。神の全面的なバックアップの中でこそなのだという約束を、私たちは信じて歩んでいきたい。

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マタイ 10:34-39 その2

 キリストのもとに歩もうとするとき、他の人との衝突が生ずる場合はある。だがそれは、私たちが引き起こす対立であってはならない。私たちは、どれほど異なった考えの持ち主とでも、平和に歩むことを願うべきであり、相手の心を変えたいと願う場合でも、決して、力で相手を屈服させることを目指すべきではない。それはキリストご自身のなさったことでもあるのだから。
 そのことを考えつつ、改めて、この箇所を読み直してほしい。ここには、神の祝福が真に実現することを望むのであれば、対立は避けられないと語られている。そして、十字架を背負うこと、つまりは、犠牲を払うことが必要になるとも書いてある。では、何のための犠牲か。神のために犠牲を払って、悪なる者と戦え、ということか。そうではあるまい。真の幸いのために対決を余儀なくされるとしたら、そこから生ずる不利益は、私たち自身が受け止めるべきもの。対決している相手に負わせるのではなく、私たち自身が背負い、そして、何とかしてその相手にも神の真実が届くようにと取り組む。それがキリストの教えであり、求めておられることのはずだ。
 このことは、信仰者として生きる上での様々な場面で、数多く問われていくべきものであることを思う。

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マタイ 10:34-39

 キリストは決して、対決を勧めているのではなく、戦いを推奨しているのでもない。自分を犠牲にして、神のために尽くせ、という教えでもない。それらは、勝手な思い込みであり、この教えの真の重さから逃げるものでしかない。
 剣がもたらされるのは、キリストが真実を語り、人々につてどうしても必要なことを語るからである。結果、それは罪の中に生きる人類は反発し、だから「十字架につけろ」の大合唱ともなった。キリストが物事をごまかして、迎合すれば、あの対立は事なきを得たかもしれない。だが、平和のためにはそのほうがよかったと考える人はあるまい。それはまがい物の平和にすぎないのだから。
 逆恨み、というものがある。警官は犯人に恨まれる。風邪をひいた子どもに注射をする医者は、その子から涙目でにらまれるかもしれない。でも、その責任は彼らにはない。いや、なすべきことをしているからこそ、そういう対立が生じているのだとも言える。キリストは人々の救いを思うからこそ、人々にとって嫌なことも語られるし、真実を指し示すこともなさる。ただし、それで生ずる衝突は、キリストご自身をこそ襲ったのであって、決して人々を打ち負かすためのものではなかったことは、覚えておきたい。(明日に続く)

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マタイ 10:32-33

 神との関係は、大切な人との関係に置き換えてみると、すっきりと見えてくる。
 もしあなたが、自分の伴侶を人前に出すことをためらい、あるいは、知り合いに紹介することをためらい、外を歩く時にはまるで他人であるかのような振る舞いをするとしたら、いくら家の中では大切に扱い、「愛しているよ」と心の底から呼びかけていたとしても、二人の関係には間違いなくひびが入り、早晩破局に至ることだろう。どれだけ尽くしてくれるかではなく、貢献の度合いでもなく、そこにある関係はただ、愛することを起点とする結びつきだからだ。
 神とのつながりは、何よりもそういうところにこそ、要の部分があるのだと知りたい。

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マタイ 10:28-31

 人ではなく神を恐れよ、と言われているけれど、実は恐れが問題なのではないことに、お気づきだろうか。人々はからだしか殺せず、神は魂を滅ぼせるから、神の方が力があって怖いから、それで神に従う、のではない。神は私たちの髪の毛すらも数えておられ、一つ一つを大切にしておられ、神の赦しなしにはいかなる敵も害を及ぼすことはできず(ヨブ記を見よ)、そうやって最後の最後まで守り支えてくださる方だからこそ、一時的には大きな恐怖に見えるかもしれないものよりも、この神を優先する。問われているのは、神の腕力の前に屈服することではなくて、慈愛に満ちた神の幸いを決して見誤ったりしないで、選び取っていくことなのだ。畏怖ではあっても、それは決して恐怖ではない。この違いを日々体感したいものだ。

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