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2009年7月

マタイ 15:21-28

 キリストの対応を冷たい、と感じる人は多い。そして、この女性の応答を引き出すために、あえてこんな態度を取られたのだというふうに考える人も多い。そうかもしれない。けれど、別のことも思う。
 地上に、人としておいでになられたキリストは、神としての資質に関して、多くのことを制限しておられた。その気になれば全知全能であるにしても、実際問題として、その行動範囲はあの地域一帯に限定され、日本列島はおろか、ギリシャにもローマにも及んではいない。そして、その時点で、地球の各地で同じように助けを必要としている人々はいた。でも、キリストはそれらの人々の病を癒すために世界を飛び回ることはしていない。その活動が3年に過ぎないこともまた、なしえたことがわずかであることに関係する。1000年ほど生きて、人々を助けて回って、その上で十字架に、とはなさらなかった。だからキリストは、ここで語られた言葉通りに、直接助ける人々については制限されるのだということを、やはり自覚しておられたのかもしれない。
 でもそれは、助けがない、という意味とは違う。人として来られたキリストが直接助けなくても、完全な意味で全知全能を継続しておられる父なる神はおられ、神への祈りはいつでもどこでも可能である。もちろん、目の前に姿が見えるキリストに求めるのも良い。だが効果そのものとしては、神への祈りでも同じはず。目に見えるものにばかりしがみついていることもまた、神への信仰としては決して喜ばしいものではないのだから。

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マタイ 15:12-14

 彼らのことは放っておきなさい、という言葉は、冷たいようであるけれども、重大な話である。見知らぬ土地で道を尋ねられたら、「ごめんなさい、私もわかりません」と答えるのが誠実で、自分も一緒になって土地の人に尋ねにいくのが最もふさわしい。それを、訳知り顔で「それはね」と応じるのは、明らかに間違っている。道を知らないことが悪ではないし、「わかりません」と答えることも何一つ劣っていることにはならないのだけれど。
 パリサイ人に必要だったのは、彼らもまた人々と一緒になって神に教えを請い、助けを求めていくことであった。それなのに、自分はまだ知り得ていないのだとということを認めようともせずに、他の人を巻き込んでいくようなことをしているのだとしたら、そんな人には関わるな、放っておけ、と言われてしまう。
 世の中に、さも真実を知っているかのような顔をして、まことしやかに教えを広める人がある。だが、人はどこまで行っても人である。生涯、神に尋ね求め、聖書の言葉に尋ね求め続けていこうとしている人でないとしたら、そのような相手は放っておくのが良い。その人が「良い人」であるかどうかは関係がない。残念ながら、神の教えを適当に、都合の良いものへと改変してしまうというのが、私たち人間に備わっている、ぬぐいきれない習性であるのだから。

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マタイ15:10-20

 私たちは罪や悪の問題をばい菌の話と勘違いしているのだなあ、と思わせられる。まるで、消毒液を手放さず、危ないものは近づけずにいさえすれば、罪を犯さずに済む、悪に染まらずに済む、と思いこんでいる。あの規則を守り、この規則を守り、あそこは邪悪な霊があるから近寄らないで、こっちは邪悪な人がいるから感染しないように気をつけて、というように。
 でも、どれほど頑張って、悪いものを周りから排除し、悪魔を退散させることに必死になってみても、それだけでは真の効果は期待できない。理由は簡単である。罪を生み出す源は私たち自身の心にあり、外からやってきて感染させるものではないからだ。どれほど周囲を清潔にしても、自分自身が悪をまき散らしていたら何の意味もない。それなのに人はいつも、罪や悪の理由をどこかほかのところに探し続け、自分自身にこそ責任があることを認めようとしていない。
 罪は防御すれば済むものではない。光である神ご自身と共にいてこそ初めて、闇は消し去られる。

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マタイ 15:7-9

 偶像礼拝の問題は、神ではないものを神とする裏切りであると共に、神を拝むと言いつつ実は自分の思い通りにしているだけ、という高慢さの問題でもある。そこには神への真剣な敬服はなく、自分の考えを実現させるために神をかたっているだけ、という、とんでもない悪行が伴われてくる。だからイザヤの預言が引き合いに出されている。そこには真実な礼拝などなく、「人間の教え」を生きるだけであるとの指摘は、激しく、また切ない。ピリピ3:19で、「彼らの神は彼らの欲望である」と告げられているのも同様のことだ。神様、神様と言いつつも、神を見ず、神の言葉を聞かず、自分の思いを勝手にぶつけているだけなのだとしたら、それは愛情表現とストーカー行為を取り違えているのとも似ている。

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マタイ 15:4-6

 親に対する話は、人のごまかしを鋭く指摘するものだ。冷静に考えてみよう。テレビを買って、10万円支払う約束になっているとする。一方で、10万円の献金をしようと決意したとする。ではどうするのか。簡単な話だ。財布の中から20万円出すのである。献金することにしたからといって代金を踏み倒すことが認められるはずはないのだから。献金しようと志すのは良い。だが、その話に親に渡すお金を巻き込んでしまうところにごまかしがある。結局は自分が楽をしたいだけ。もし、親に渡すべきものを献金に回したのだとしたら、それは親が捧げたものであって、自分の献金ではない。キリストの叱責は、神の名前を使い、神をだしにして自分に都合の良いことをしようとする姿勢へのものでもある。十戒に、「御名をみだりにとなえてはならない」とあることを、しばしば私たちは忘れている。

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マタイ 15:1-9

 本来、「言い伝え」とは、神の教えを守りやすくするための補助機能のようなものだ。それなのに人々は言い伝えに注目するばかりで、神が告げていることそのものを見ようとしない。理由は簡単だ。人の作った言い伝えのほうが守りやすい。楽とは限らないが、心の奥底を問われなくても済む。手を洗うかどうかは、ずぼらでなければ守れるのだ。でも、神の教えは、具体的にはおおざっぱにしか問われていない場合でも、それに従うかどうかで、その人の信仰姿勢そのものが問われることが多くなる。だから、言い伝えを問うばかりで神の教え・戒めを放り出している傾向に対して、キリストの叱責はとても強くなる。何の意味もなくなってしまうのだから。このことは、聖書にある教えに対して、私たちがどのように向き合っているかにも関わる。表面的に違反しないだけではなく、御心の真意に応じて行くことに取り組んでいてこそ、主の言葉に生きる者と言えるはずだ。

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マタイ 14:34-36

 何度も繰り返される光景である。バプテスマのヨハネ殉教の件で心痛めておられたキリストである。5000人のパン事件で、弟子たちもまた肉体的にも疲労していたのである。ようやくのことで人々から解放されて、いや、解放されるためにも湖を渡ってきたのに、そこでもまた多くの病人が押し寄せてくる。いったいキリストは、いつ、休息をとられたのだろうか。嵐の舟の中で眠っていたのも、あるいは弟子たちがゲツセマネで眠りこけたのも、なるほどと思わせられることばかりだ。それでもキリストは、集まってきた人々に手を差し伸べている。同じようにしましょう、などと簡単に言うつもりはない。そんなことは不可能にも近い。けれど、キリストはそうなさっていた、ということは忘れまい。それは、私たち自身にとって何よりの励ましであろうから。

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マタイ 14:32-33

 キリストが波と風を支配される様子を見て、弟子たちは強い感銘を受けたようである。時折キリストは弟子たちの前でこういう姿を示し、ご自分の持っている権威を伝えて行かれる。それは単に奇跡に心を奪われるという話ではなく、真に神を信じ、神に期待するためには必要なことなのだ。後に書簡は繰り返し、「キリストを死者の中からよみがえられた神」という表現を使う。それは、人にはできなくても神にとっては可能だ、ということを明示するためのものである。今の私たちは、直接的な奇跡を見る機会は少ないけれど、自然界などを見渡したり、人々の心が変えられていく姿を見ながら、神の力、神の権威というものを、ちゃんと見知っておきたい。それは自分自身の信仰にとっても、有意義な支え、励ましとなるのだから。昨日は日食があった。そのような宇宙の不思議に接することもまた、偉大な神を思う良い機会となるだろう。

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マタイ 14:28-31

 愛すべき存在ペテロ、ということを思う。何も無理して水の上を歩こうとしなくても良いのだ。そんなふうにして自分の信仰をぎりぎりの場所に追い込まなくても。でもペテロは単純に考えたのだろう。キリストが歩いているなら、その力があるなら、自分もまた歩かせてもらえるはず、この経験はのがしてなるものか、と。
 そう、キリストを信じて、キリストに期待を込めて歩き出したのである。だとしたら水の上にいられる理由のすべては、ただ、キリストにのみあるはず。それなのに周りを見て、風の強さ、波の高さにびくついて、キリストから目を離してしまう。ありがちである。ただキリストから始まった信仰なのに、クリスチャンとしての歩みなのに、いつのまにか自分や回りばかりを見ている。それではうまくいくはずがない。ペテロを笑おう。そして、自分自身の考え違いを笑おう。それは違うだろう、と突っ込みを入れよう。

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マタイ 14:26

 嵐の夜だから、湖上を歩くキリストの姿を判別できなかったのは当然かもしれない。でもそのとき弟子たちが「幽霊だ」と叫んだのは、なかなか興味深い。時は移り変わり、場所が異なっていても、やはり人は、自分の理解を超えた出来事に直面すると恐怖を覚え、そして、何か自分たちが勝手に作り出した化け物を思い浮かべてしまうようだ。
 子どもたちのために肝試しをやるのは意味がある、と思っている。ただし、様々な脅かしアイテムは用いず、お化けも登場させず、ただ、暗い野外を一人歩かせることだけに絞り込むのが適している。誰でも暗さや知らない場所は怖いし不安がある。それをなお、胸張って歩いていくことができるかどうか。それは、いつでも共におられる神の存在を信じられるかどうか次第である。たくさん護ってあげるのも良いけれど、時には恐怖心と向き合わせてやることも必要かもしれない。信頼を養うためにも。

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マタイ 14:24-33

 水の上を歩いたこと、嵐を鎮めたこと。この二つの出来事を通して、弟子たちは「あなたは神の子」と告白している。時にキリストは、自然界の法則を覆しておられる。もちろん、必要がなければおもしろ半分にそんなことはしない。空腹を満たすために石をパンに変えることもない。でも、世界の造り主である以上は、その気になれば、その必要があれば、この世界を揺り動かすことは可能なのだということを忘れるなよ、というように、聖書は時々、このような出来事を記録している。
 キリストについて、その優しさとか愛の深さということに注目することは多い。だが同時にキリストは、ご自身の力を明確にすることを無視してはおられない。ローマ8:38-39に、どのようなものもキリストの愛から私たちを引き離すことはできない、とあるが、それを実現させる圧倒的に力をお持ちなのだ。神のことを何か、心のちょっとした動き程度にしてはいけないのだ。

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マタイ 14:22-23

 なぜだろうか。キリストは弟子たちだけを先に送り出し、自分は後に残って群衆を解散させている。その後で、一人、山で祈っていたと書いてあるので、弟子たちとも離れて一人になりたかったのか、というふうに考えられないことはない。無理はない。この出来事、バプテスマのヨハネが殺されたという知らせが届いて、心を痛めて、一人になろうとしていた中での話だ。やっとのことで、ではある。
 けれど、それでもなお、キリストは弟子たちのことを思いやっている。師匠なのだ。後片付けは弟子に任せて自分はさっさと山にというのが、どこの世界でもよくある話だ。けれどもキリストは、弟子たちよりもはるかに大きな心の痛みを抱えながら、なお、弟子を先に休ませようとしている。「私は仕える者」と告げられていたことを思い起こす。私たちの主がこのような方であることに、深い慰めを思わずにはいられない。

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マタイ 15:15-21 その5

 そして、キリストが増やした食べ物を群衆に配って歩いた弟子たちのことを忘れまい。5000人である。配るだけでもどれほどの苦労であったことか。そしてキリストは、増やすという奇跡は行ったけれど、それを人々の手元に出現させるという奇跡はなさらず、弟子たちに苦労をさせたのだ。
 神の御業はいつも、それに賛同する者たちの手を煩わせ、苦労させることによってこそ人々に届いていくのだということを、決して忘れまい。赦しや救いそのものは、十字架はもちろん人間たちには何もできない。でも、信じるために神の約束を伝えるという点については、ひたすら人間たちの頑張りを求められるように。やはり神は人々を同労者として意識しておられるのだ。

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マタイ 15:15-21 その4

 この奇跡で興味深く思うのは、余りが出たことだ。それも12籠も。神の御業なのだ。ちょうどぴったり、必要なだけというのがありそうな話ではないか。神の奇跡なら、人数とおなかの具合と、すべて把握した上での分量を見定めて出してくださってもおかしくはない。なんだかずぼらな、おおざっぱな御業だなあと感じる人もあるだろう。
 でも、有り余るほどに豊かに、ということが、神の祝福の性質であることを思い出す。けちったりはしない。空腹が満たされればそれでいいなどとは言わない。満腹するまで与えてくださる。それが神のなさり方であり、神は私たちに喜び楽しんでもらいたいとお考えなのだ。しかめっ面をして耐えるのではなくて、である。

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マタイ 15:15-21 その3

 今日は、「あなたがたが何とかしてあげなさい」と告げられた言葉に注目したい。もちろん、最終的には神が事を動かして助けてくださるのだ。でも神はいつもおっしゃる。あなたがたが関われ、と。自分のことで精一杯だと言うのが普通であり、あるいは、他者のことにまで関わるのは余計なこと、良くないことであるというふうに言われる場合もある。ここでも、食べ物の話なのだし、飢饉の中での話ではないのだから、弟子の言うように、それぞれが対処すれば済む話だ。でもキリストは、その役割を周りにいる者たちに求める。一人の人がまっすぐに生きられるためにも、神を信じるためにも、何かの問題に立ち向かえるためにも、それを助けるのはまわりの責任なのだと告げられる。責任といってもうまくいかなかったときの問題ではない。今ここで、あなたには他の人のためになすべきことがある、という話である。

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マタイ 14:15-21 その2

 祈りと御言葉に専念、という言葉を思い浮かべると、弟子たちは余計なことをキリストのところに持ち込んでいるような気もする。空腹だの、ご飯の話だのは、いちいちキリストを煩わす話ではないはずだ。けれど、キリストはその必要に正面から応えておられる。人々の、それこそ胃袋の問題、欲求の問題に向き合っておられる。日用の糧を与えてください、と祈るように教えられた方なのだから当然かもしれない。それを忘れて、何か高尚な話の世界に神を閉じこめてしまっている私たちは、愚かなだけであろう。様々欲求の問題もまた、神の取り扱われる領域だ。としたら、その欲求が健全であるためには、神にこそ求めていくのが一番である。

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マタイ 14:15-21 その1

 この出来事が4つの福音書すべてに登場するのは、奇跡としての派手さだけではなく、込められている意味合いの大きさが関係しているように思う。せっかくだから、一つずつ、取り上げてみよう。
 まずはキリストがお持ちの神としての力の大きさに圧倒される。5つのパンから5000人分である。それはこの世界の法則を根幹から覆しかねないほどのものだ。そんなことができるのは、世界を創造した神以外にはありえない。この奇跡を行い、この奇跡を記録することを通して、キリストご自身も弟子たちも、ここにまぎれもない神である方がおられることを告げているのだ。私たちは時に奇跡を無視しようとするが、人間と同程度のことしか行えない相手にすがってみても何か意味があるのだろうかと言いたい。

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マタイ 14:13-14

 ヨハネはキリストにとって、親戚に当たる。そして、神の業をなす人として高く評価していた相手でもある。その死はキリストにとっても大きな悲しみであったはずだ。寂しいところに一人で行こうとしたように、その心は傷ついていたのである。それなのに、群衆は遠慮がない。自分たちの願いをかなえてもらおうと、どこまでも追いかけてくる。ひどい話である。うるさい、今は一人にしてくれ、と怒鳴りつけたとしても、そんなにおかしなことではない。
 でも、キリストは彼らをあわれんで、すぐさま助けていかれたと書いてある。身も心もぼろぼろにしてまでも。そういう方が私たちの神、救い主であることを、心の底からありがたいと思う。

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マタイ 14:6-12

 ヘロデはヨハネに関心を持ち始めていたのだ。それなのに、自分の無思慮な言葉を取り消す勇気を持たないままに、自らいのちを奪ってしまった。もう二度と、その教えに耳を傾けることもできない。かすかに残されていた道を、自分で閉ざしてしまったのだ。どんなに「心を痛めて」も何の意味もない。
 ヨハネのような勇気を持てないとしても、せめて、自分にもわかっている程度でも良いから、それを実行する覚悟を持ちたいと思う。悪いとわかっているならしない、良いとわかっているならする。ここをごまかし続け、逃げ続けているとしたら、ヘロデと同様に、我が身を滅ぼすのだと知っておきたい。

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マタイ 14:1-12

 バプテスマのヨハネは王の力も恐れることなく、悪いものは悪い、と言い切ることをためらわなかった。その結果、殺されてしまう。この出来事をどう思うだろうか。まっすぐな姿勢に敬服するか、それとも、もっとうまく立ち回らないとね、と思うか。殺されたい人などはいない。そんな結末を自ら望むとしたら、ずいぶんおかしなことである。それに誰だって怖い。でも、もしもヨハネは愚かだと言ってしまうなら、この世界に真実や正義が語られることを否定し、罪と悪が横行して人々が傷つけられていくことを、まあ仕方がないね、ということになってしまう。ちっぽけな、ちっぽけな思いに過ぎないけれど、すぐに逃げ出すかもしれないけれど、それでもヨハネの毅然とした姿勢をこそ、高く評価し続けたいと思う。

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マタイ 13:58

 人々が信じなければ、神の全能の力をもってしても何もできないのだ、ということを、よくよく考えておきたい。当然である。この関係は愛であり、信頼であり、それこそ「関係」であるのだから。相手の思いを無視して、ただこちらの考えだけで押しつけるのは、どれほど良いものであっても関係が培われることはない。キリスト教は愛の宗教だと言われる。それは決して、優しさとか、温かさを標榜するものではない。真剣に、必死で関わり、相手の反応を、応答を切に願い求める思いが、ここには込められている。そう、神は人に向かってプロポーズしているのであって、人が何かの返事をするまでは、何も動かないのだ。

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マタイ 13:53-58

 どうして人は、何でも自分が一番よくわかっているのだ、という顔をしたいのだろうか。すべてのことは自分の理解の中に収まるのだという思いこみが、せっかくの良いものをたくさん排除してしまっている。キリストの幼少期を知っていた人々は、この方が自分たちの思いを越えてしまっていたことを認められなくなり、結果、大切な機会を失ってしまった。もっと謙虚に、自分の限界をちゃんとわきまえていたら、どれほど大きな幸いを得ることができたのか。自分が自分の神となり、支配者となることから決して離れようとしない。神はいい、教えもすてきだ、上手に活用しよう、とまでは言う。でも、手を離して神に委ねる覚悟がなかったら、何も始まらない。

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マタイ 13:51-52

 私は今、ある団体の理事をしている。時々、スタッフにあれやこれやと、その団体の事情について問いかける。現場の仕事で忙しいのだし、そういう質問は面倒で邪魔だろうなと分かってはいるのだが、やめるわけにはいかないと思っている。単なる興味ではないし、知識欲でもない。もちろんのこと監視するためでもない。事情が分かってこそ、理事としてその団体のために何ができるかも、これからの可能性についても、見出していけるからだ。
 何も知らなくても、そこそこには恩恵にあずかることができるだろう。神の祝福もあるだろう。でも、天の御国について知り、その意味、その意義、その性格を知るようなれば、どれほど人々のために手を貸してあげられるようになり、自分もまた多くの危機や難題を乗り越えられるようになる。こんな幸いを、みすみす逃してしまうわけにはいくまい。聖書を読め、と繰り返し告げられているのは、この価値あるものを手にしてほしいからこそ、なのだ。

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マタイ 13:47-50

 毒麦の話と似ている。今現在の世の中は良いものと悪いものが混在しているのだ。それは、途中で選り分けられるものではないし、その必要もない。最後の段階で、ちゃんとより分けられるのだからと告げられている。だから決着の話でもあるし、と同時に、今の世の状態を考える上でも、よくよく心しておきたい指摘である。
 そう、今は混在しているのだ。そして、簡単に分類などできないのだ。少なくとも人には。キリストの話でも、「御使いが来て選り分ける」と言われていた。だとしたら、真実や正しいことや清いことを堂々と表明するのは必要だけれど、それで人々を判別したり、良い悪いと決めつけてしまうのはまずいだろう。あるいは、我が身を清く守るために、安全な押し入れの中に閉じ籠もっています、というのも。私たちのいる世界は混在しているのだからと、キリストが告げられているからには。

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マタイ 13:44-46

 二つの話に共通するテーマは、「何としても手に入れるれぞ」という決意、覚悟である。二人とも、持ち物全部を売り払ってでも手に入れようとしている。
 注目していただきたいのは、なぜ、どうしてそこまでして、という点だ。そう、得になるから、である。二人とも損をするつもりなど全くない。神のためには犠牲を払いましょう、などという健気さもここでは関係がない。ひたすら、そのほうが得だからだ。信仰とか、神のことは、何か高尚な損得とは別次元の話だと思っている人は多い。でもキリストは、もっと単純に考えろと勧める。もちろん、目先の得ではないから、御利益的な話ではない。でも、聖書は繰り返し言っているのは、まさに何が得かの話だ。いのちを求める道を進むのか、それとも失う道を進むつもりか、考えるまでもないではないか、との問いかけに、私たちはどう答えるのだろうか。

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マタイ 13:36-43

 24節からのたとえ話について尋ねてきた弟子たちに、イエスが語られているのだが、強調点が変化していることに気づかせられる。話そのものでは「待て」ということがテーマだったのに、解説では「決着をつける」ことが中心になっている。聞き手が側近の弟子たちになったことが大きな理由だと思う。そして、この強調点はキリストの心を知り、その教えを知るためには、どうしても必要なことでもある。
 神の優しさはすばらしいことだ。忍耐強く私たちを顧みてくださることも実にありがたい。それらの約束はもちろんのこと真実である。けれど、どうして神が待ってくださるのか、あきらめずに呼びかけてくださるのか、その理由は、決着の時があるからだ。何もないのだったら、まあ何でもいいよ、適当にしておけば、で済むのだ。もし、神の心を知り、その言葉の真意を掘り下げたいと思うなら、「決着」という要素に覚悟を決めて向き合う必要がある。

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マタイ 13:34-35

 たとえを用いる理由については前の箇所でも告げられていたが、今日は聖書全体の語り方とも結びつけて考えてみたい。
 聖書はいわゆる教科書的な語り方をしていない。律法の部分はその気があるが、それだって当時の社会状況を土台として告げられているわけだから、祭壇の構造のように今の私たちも同じ寸法で作れ、という話ではない。大半の部分は出来事の記録であり、そういう物事の推移を通して神の御心を指し示すものである。神学論文のように考えられがちな書簡も、当時の何かの課題に対して書かれたものとして提示されている。
 だから、いわゆる定義とか法則のような形では語られていないのが聖書である。わかりにくい、という評判もある。入門書の類はだからこそ、もっと解説的な形で書かれることも多い。けれど、解説的な言い方は時代が変わり、物事の表現の仕方が変わると、どうしても書き換えが必要になってくる。「信仰告白」や「信条」の類が書き換えられていくようにである。けれど、神の言葉である聖書は書き換えるわけにはいかない。だからこそ神は、説明的な表現ではなくて、このような形態の表現によって、ご自分の御心を指し示して行かれたのだろう。そしてだからこそ、聖書を勉強し終わりましたということがなく、生涯、読み続けるものでもあるのだ。

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マタイ 13:33

 前日と趣旨は同じだけれど、見ている側面が変わる。パン作りには詳しくないので素人的な言い方しかできないけれど、パン種そのものが大きく成長するわけではなく、粉、小麦粉のほうがふくらむという話だ。つまり、天の御国そのものが大きくなるのではなく(その話は前日)、私たち自身のあり方が、天の御国に刺激されて、信じられないほどにふくらんでいく、ということが語られている。
 自分たちなどこの程度のもの、と思っている。その観察は、現状認識としては正しい。でも、それがすべてではない。もっと大きな可能性が秘められている。すばらしいことが、私たち自身の歩みを通して実解されていくことが待っている。もし、パン種が作用するなら。
 そう、植物とは違い、粉そのものに増え広がる素質があるけではない。粉は粉にすぎない。でも、神はこの程度のものを、はるかに大きくしてくださることができる。「人にはできない。けれど、神にとってできないことはない」という、聖書に繰り返し出てくる言葉を思い出したい。

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マタイ 13:31-32

 次の節と、基本的には同じ意図だけれど、違う側面を示しているように思うので、分けて読んでみよう。
 まずは、全く予想していないほどに大きなものが待っている、ということを知れ、ということである。今、私たちが見ているものは、ごくわずかなものにすぎないだろう。最初の弟子たちなど、多く見積もっても幼稚園一つくらいの人数に過ぎない。それが世界中に広がるなど、常識的には想像できるはずもない。子のいないアブラハムが、子孫は星の数のように、と言われたことと似ている。あるいは、神が与えてくださる幸いについても、私たちが気づいているものは、ほんのわずかな部分に過ぎないということだ。信仰に入るとき、人は皆、ここに魅力を感じて近づいてくるのだけれど、そのときに見ているものは、ごくごく一部分にすぎない。その先には、もっともっとすばらしいものが待っているということを、私たちは知っておくべきだろうし、そして、待ち望んでいきたいものである。

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マタイ 13:24-30

 間違っているものに対して、断固とした姿勢を持つことは必要だ。曖昧だったり、仕方がないとあきらめるのは、聖なる神の前にふさわしいことではない。けれど、間違っているものを撲滅することに必死になるのは、神の御心ではないようだ。もともと、この世にある限り、悪を消し去ることはできない。完全な殺菌を目指すなら、特別な部屋に自分を隔離するしかないのとも似ている。それに、全力で撲滅に取り組んでいると、ほかのものも傷つけてしまうのだとキリストは告げられている。「悪を成敗するためには多少の犠牲はやむを得ない」などという論理は、神の前には存在しないのだ。
 ではどうするか。忍耐である。ただし、じっと耐えるのではない。覚悟を決めて、悪の害悪を必死で食い止めるべく、我が身を犠牲にしてでも取り組むこと。キリストの場合は、悪を排除することでこの世を浄化するのではなく、ご自身が犠牲をはらって世を救われたことを思いだそう。

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マタイ 13:23

 良い地というのが最も幸いであると言われていることは、この話を読む人ならすぐにわかるだろうが、では、何が「良い」なのか、である。それでよくよくキリストの語られたことを見てみると、「御言葉を聞く」こと、そして「悟る」ことが、良い地と呼ばれ得る人の姿になっている。だとしたら、もし私たちが神のおっしゃる幸いを手にしたければ、この2点に注目すると良いだろう。
 神の語られていることを聞く、という点の重要性は、ローマ10:14.などでも告げられているが、事そのものはそれほど難しいことではない。ただし、神など嫌いだとか、神に教えを請う必要はないとか、神など信用できるものか、という反発をするつもりならば、聞かないだろうが。私たちはこの大事さに対する関心が低すぎるのかもしれない。御言葉を毎日読むことは(このブログも「毎日、聖書」だ)、義務とかお勤めではなくて、私たち自身の幸いと直結する話として、聖書は語っているのだ。
 悟ると聞いて、自分には難解すぎると尻込みする必要はない。難しすぎる話だったら、神は私たちに、自分で悟れとは言わず、教えを請え、とおっしゃっただろう。でも、悟れと言う。つまり、ちゃんと手の届くところにある、ということだ。素直に、素朴に読み、感じ、考えるところから、この信仰はいつでも始められるということだ。私たちは自分の手で、聖書も信仰も、小難しくしすぎているのかもしれない。

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