« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »

2009年8月

マタイ 18:19-20

 この言葉は、大切な、大切な励ましである。私たちの祈りについて、神がしっかりと受け止めてくださることは、何よりも大きな支えであろうし、確信ともなる。が、同時に忘れてはいけない。この箇所が言うのは、共に祈ることについての話であることを。一人の祈りは聞かない、というわけではないけれど、ここでキリストが強調しているのは、共に祈ることについて、であるのだ。信仰に孤独はあり得ず、一人で生きる道はないということを、改めて申し上げておきたい。このブログをお読みの皆さんには、ぜひとも、共に祈る仲間を、漠然とではなく、しつかりと祈り合える仲間を見いだしていただきたいと、心から願っている。
 それから、ここにある祈り、話の流れからすれば、罪を犯した者を取り戻すための祈りが意識されているとも言える。まさに、何とかして友を得るための祈り、であるのだ。私たちは、そういう人のために、必死で祈らねばならないし、その人自身とも共に、必死で祈らねばならない。

|

マタイ 18:18

 教会は、そしてまたクリスチャン一人一人は、この言葉の重みを、よくよくかみしめておきたい。最終的には、神はむろん、ご自身の判断によってことを推し進められるだろう。人の判断には限界があり、しばしば間違うことはご承知なのだから。でも、神は人の祈りを聞き、人のとりなしを聞く。そう、私たちが真剣に判断し、決断していく事柄について、そのことを大切に受け止めてくださる。だからこそ神は、私たちの行動について、その責任を問うのだ。私たちが誰かに愚かな厳しさを科して、その結果つまずかせてしまうならば、そのことは神の前にも重たい意味を持つ。あるいは、誰かを放置して、自滅するのを見過ごしにしているのなら、そのことの責任は私たちに問われる。その重みをしつかりと受け止めて、だからこそ必死になって神の御心を尋ね求めて行動することを、神は私たちに、ご自分の民とした者たちに、自らのいのちと引き替えに救い出した者たちに求めておられるのである。それが神の子どもと呼ばれ、神にあって自由と言われる者の姿だ。それとも私たちは、単なる奴隷に成り下がろうとするのだろうか。

|

マタイ 18:17

 異邦人か取税人という例を挙げたのは、相手がユダヤ人だからであろう。聴衆にとっては、この例示はわかりやすい。つまり、つきあうな、ということである。攻撃せよ、と言っているわけではないし、撲滅を呼びかけているわけではない。無視する、という感覚の方が近い。つまり、教会の中で、彼らが何らかの影響力を発揮するようなことを認めてはならない、ということである。そうすることで、教会の歩みは健全に保たれるであろうし、また、本人は自らのしていることに恥じ入る機会を得ることになる。それをもし、周りが他の面を見て、問題点を見過ごしにして相変わらずちやほやしているとしたら(社会的地位だの、献金の多さだの、あるいは見た目の良さとか)、それは本人のためにも教会のためにもならないのである。厳しい話かもしれないけれど、このことは教会の価値観というものを問われるテーマでもある。教会の愛は、なあなあではなくて、真剣に、その人が立ち直ることを願い求めるものでなければならないのだ。

|

マタイ 18:15-17

 キリストは、何のためにこの話題をなさっているのか。誰かを処罰する際にはきちんとした手順を踏めということだろうか。そういえば警察もののドラマでは、逮捕状がどうとか、黙秘権の通告がどうとか言われる。でも、話の流れからすれば、キリストの意図はその点ではない。主が考えているのは、何とかして小さな者を助け出すことにある。つまり、問題を犯した人をどうすれば助け出せるか、救い出せるか、である。もちろん、罪を指摘して、責める必要がある。まあいいよ、と甘い顔をしていてはだめだ。でも、最初からみんなの集中砲火を浴びせるのではなく、一対一で静かに語り、その罪を認めさせる。悔い改めと、赦しを求める祈りへと導く。それにはやはり、一人で出かけたほうが良く、また、ごく数名にしておいたほうが良い。何とかしてこの小さな者を取り戻す。この箇所で、キリストの思いはそこに集中している。

|

マタイ 18:12-14

 神が小さな者を大切にしておられるという話が続いている。99匹を山に残して、1匹を探すというのは、常識的にはあり得ない話だ。損失はあまりにも大きくなってしまうし、勝手に迷いでなかった、つまりは良い羊である99匹としてはいい迷惑である。
 そんなことは神ご自身も分かっている。分かっているけれども、それでもなお、身勝手に迷い出た1匹を見捨てることなどできない、というのが神の心であるのだ。損得勘定でも、理屈でも、あるいは正義とか公平さということですらなく、ただひたすら、そのものに対して注がれている思い。それは聖書が繰り返すように、「愛」という言葉でしか表現できないものだろう。そして、だからこそ私たち自身もまた、救われ、助け出されるのだということを、よくよく噛みしめておきたい。忘れてはいけない。正義や常識、損得云々で言ったら、私たちなど決して顧みてはもらえない者なのだ。

|

マタイ 18:10

 守護天使という概念が、時々、話題になる。人にはそれぞれ、担当の天使がいるのだという話で、けれど、聖書にはそのことについて、はっきりとしたことは告げられていない。もともと、天使の役割そのものも、その全容が明らかになっているわけではないので、「かもしれないね」という程度に留めておいたほうがよいとは思う。
 この箇所も、何となく、守護天使的な感覚を意識させる言い回しであるが、この箇所だけで確定させてしまうのは心許ない。ここの中心テーマは、小さい者たちを見下げるな、ということである。その相手には力がないとしても、神ご自身がこの者を顧みておられるのだから、それでいて好き放題に扱うなど信じられない、ということである。そう、私たちは常に、目の前のことだけでなく、神ご自身の存在と関与を意識しておくべきなのだ。

|

マタイ 18:7-9

 この言葉を読んで、そのまま実行するのは短慮である。手や足や、あるいは目が、その部分単独で破滅をもたらすわけがない。何らかのきっかけにはなっているとしても、その破滅、その罪を犯しているのは自分自身の身体全体であって、一部分をトカゲの尻尾切りをしても何の効果もあるわけがない。
 だからキリストの言葉は、つまずきをもたらすものへの最大の警戒ということと、そしてまた、何としてもいのちに入ることに必死であるべきことを告げているのだと言える。
 もともと、手足や目、あるいは他の何かであるにしても、それを捨てればもう大丈夫と考えるのは、あまりにも安易すぎる。人の心に宿る罪は、人から来るものではなく、うちから出てくるものだとキリストも告げられた。だとすれば、防御を固めたり、腐った部分を排除することよりも必要なのは、自分自身全体が守られるように、主によってこそ満たされるように、祈り求めていくことであろう。

|

マタイ 18:5-6

 厳しい一言である。人をつまずかせて、神へと進む邪魔をすることについて、神が激しく憤られることがよく分かる。それはそうだ。人を救い、みもとに招き寄せるためにこそ、神は全力を注いでおられるのだ。それこそが人にとっての最も大切な幸いであると語られているのだ。それを邪魔するのは言語道断。それなのに私たちの感覚は、むしろもっと道徳的な事柄についてばかり厳しく問い質して、人との関わりの中での罪については、案外、あっさりしている。悪気はなかったのだから、とか。キリストご自身の価値観に、自分たちの思いを合わせているものでありたいものだ。
 なお、この箇所の流れからすると、自らを低くして他の人のために尽くす人々を大事にせず、見捨てるようなことは決してだめだ、という指摘としても考えたい。

|

マタイ 18:1-5

 子どものように、という教えはよく解説されるので、さすがに、純粋無垢的な誤解、誤読はなくなっただろうか。子どもとて罪深い存在。清廉潔白、いっぺんの曇りもなく、というような話ではない。ポイントは「自分を低くする」こと。子どもは自分が大人にはかなわないことを自覚している。当時の子どもたちは、大人に比べて、基本的な価値がとても低かった。そのようなものに過ぎないと自らを認めつつ、だとしたらとうてい他者よりも偉ぶることはありえず、そこにこそ、御国への道筋は開かれていくのだと教えておられる。だからこそ、きれいに立派に、みたいなことにはさっぱり自信がなく、縁遠い話に感じられてしまう私たちも、子どものようであるべきことについて、よくよく自らに問う必要があると知り得るだろう。詩篇8篇を思い起こす。

|

抜かしました。すみません。

 この連載は、書きためができるのですが、設定を間違えたようで、18日を抜かしてしまいました。毎日、読んでくださっている方、すみません。

|

マタイ 17:26

 子どもには義務はない、という一言は、キリストがご自分の立場を示す言葉の一つである。かつて、12歳の時、神殿をご自分の父の家と呼ばれた方は、今もまた、王の子どもである立場を示しておられる。ここで納めたとしても、それで御子としての立場に傷がつくわけではないけれど、この言葉はペテロに対する教育の一環と考えるのがよいだろう。
 それにしても、やはりキリストは、神としての偉大さを持ってこの世界に君臨される方である。その大前提があってこそ、十字架の贖いが確かな意義、意味を持つものであることがわかるだろう。

|

マタイ 17:24-27

 やってきた係の人は、何の悪意もなく、単純に役目を果たすつもりで来たのだ。だから、つまずきを与えないことに、キリストは心を配られる。それ自体悪いことではないとしたら、本来はこうなのだけれど、というのを少しくらい曲げても、その相手への配慮を進めて行かれるキリストである。この心を持たない者たちは、自分の考える「正しさ」を遂行することにしか、頭が働かない。
 ただ、気をつける必要はある。配慮がすべてではない。つまずきを与えないことが全てでもない。それ自体は悪くはないのだけれど、ということになるのかどうか、よくよく御心を尋ね求める者でなければ、この配慮はむずかしい。人を愛するつもりなら、人に優しくありたいのなら、なおさらのこと、御言葉によって神の御心をしっかりと受け止めることに邁進する必要がある。

|

マタイ 17:22-23

 16章と同じ話が語られている。キリストはこのようにして何度も繰り返し語り、弟子たちがそれを受け止められるようになるまで繰り返される。一度で悟れなどとはおっしゃらない。キリストは忍耐強い方で、それもそのはず、2000年にわたってイスラエルに語りかけ続けた神は、まさに忍耐強い方なのだから。
 今回は弟子たち、「そんなことを言わないで」と諫めたりはせず、素直に悲しんでいる。キリストのことばを きちんと理解したわけではなくても、厳しいことがありえるという印象はあったようだ。人は徐々に理解できるようになる。もっとも、復活の話もされているのに「悲しんだ」と書かれているあたり、まだまだではあるのだが。

|

マタイ 17:21

 この言葉は新改訳では括弧書きになっている。新共同訳では本文から外されている。学者たちは、この節はもともとマタイの書いたものにはなかったと理解しているようだ。
 このようなことは案外大事である。祈りと断食によらなければ、という言い方は、ごく自然に感じるし、マルコでは祈りという言葉は確かにある。でも、21節の言い方は、人間自身の頑張り(必死になって祈る功績の大きさ)次第であるというふうに受け取られかねない。あるいは、そういう感覚で書き加えられてしまった可能性もある。
 でもキリストの指摘は違う。弟子たちが頑張るべきなのは、神から託された業であるからで、そこにはすでに神の力が備わっているからである。問われた信仰とは、そのような委託を信じて取り組むことにあり、難行苦行の功績を求めたわけではない。括弧書きの箇所は理解する際に、よくよく気をつける必要がある。

|

マタイ 17:14-20

 弟子たちには、この類の助けを提供できる力が託されていたはずである。キリストでなければできない、という部類のものはごく限られている。だから、「信仰が薄い」と叱られている。なしえることであるのに、なお、キリスト直接の業に頼り続けるとしたら、弟子たちを召し出された神の御心を否定することになる。もちろん、全ては神ご自身の力によるものだ。弟子たちの頑張りではない。だが、それだからこそなおさら、自分たちに託された使命は確信を持ってやる、というのは、基本ではないか。今日、人を愛し、人に仕え、人を助ける業に取り組むようにと託しておられる神の御心を顧みず、ただ手をこまねいたままで、「自分たちにはできません。神様何とかしてください」と言い続けるだけだとしたら、キリストは再び嘆かれるだろう。

|

マタイ 17:9-13

 エリヤが来るはずだ、という弟子たちの言葉は、つまり、エリヤが姿を現したと分かれば、イエスがキリストであることを宣伝するのにも好都合だということだろう。けれどキリストは、もともとからして、そういう不思議さによってご自分を宣伝するつもりがないし、その必要性もないと考えておられたので、弟子たちの問いかけから少しずらした答えをなさる。
 不思議な出現をするエリヤではなく、もっとはっきりと人々の目の前に指し示された「エリヤ」がいるではないかとキリストは問いかけている。バプテスマのヨハネである。けれど、かつて人々がエリヤを受け入れなかったように、この時も人々はヨハネを受け入れず、その勧告、神の警告に耳を傾けない。だとしたら、いかなる不思議が示されても、人は心を開きはしないのである。このことは、現代にもいる、奇跡という啓示に依存しがちな人への警句でもあろう。

|

マタイ 17:6-8

 この箇所を読むたびに、キリストの優しさを深く思わせられる。父なる神ご自身にたしなめられて、弟子たちは震え上がっている。当然である。だが、その直後に彼らが見たのは、いつもと同じキリストの姿。慣れ親しんでいるなじみ深いキリストの、何も変わらない姿である。そして、「こわがることはない」と語りかける御手の温かさを、その肩に感じているのだ。
 正しさは必要である。正義は貫き通さねばならない。悪は糾弾し、罪を罰することも必要だ。黙示録に出てくるように、キリストは恐ろしい存在でもあられる。それでも、キリストは繰り返し、この弟子たちに対して、何度も失敗する弟子たちに、実に温かく接しておられる。私たちも失敗をするし、それは厳に悔い改めねばならないのだけれど、それでもキリストのこの温かさを見失ってはなるまい。

|

マタイ 17:4-6

 ペテロの願いはごくごく素朴なものだったと思う。すばらしい光景を見て、いつまでもこれを見ていたいと望むのはよくあることだ。これは16章の出来事とは違って、神のご計画を無視する行為というほどのものではない。
 それでも、神はペテロの思いをたしなめられた。強く叱責したわけではないけれども。なぜか。それは、この場所が彼らの留まるべきところではなかったからだ。キリストはここから十字架へと進んでいかれる。弟子たちもまた、その厳しさに直面しなければならない。そしてまた、彼ら自身の背負うべき十字架(使命)もある。どれほど心地よくても、そこは彼らの居場所ではなかった。幸いであること、良いものであることと、自分の歩むべき道として神が指し示されているものとは、必ずしも一致はしない。

|

マタイ 17:2

 光というのは、聖書においてはいつも、神ご自身を指し示すイメージが伴う。キリストのこの姿は、神という言葉こそ出てこないけれど、この方が神であることを、はっきりと指し示している。ちなみにモーセは神の栄光に触れて、その顔が光り輝いたと書いてあるが、あくまでも反射であって、自身からの輝きではなかった。
 聖書はキリストについて、その人間としてのお姿と、神としてのお姿の両面を語り伝えている。人間の感覚は、その両方を受け止めるのが苦手なので、ついついどちらかに偏りがちだけれど、どのような場面を読む際にも、意識して、両方の面に思いを馳せているほうが良い。そうしたら、キリストという驚愕すべき神の愛を、もっと深く知り得るようになるだろうから。

|

マタイ 17:1-8

 キリストがどうしてこの姿を弟子たちに見せたのかは、推測しかできない。ただ、第二ペテロに書いてあるように、この体験は彼らにとって、生涯忘れられないものになったようだ。今まさに十字架という大混乱に陥ることを意識して、少しでも弟子たちを励まし支えることを意図されたのだろうか。
 それにしても、モーセとエリヤが登場するのは、実に大きなことだ。彼らは旧約を代表する存在だ。それはキリストのなしていく事柄が、旧約から延々と続いている神様のご計画そのものであることを、はっきりと指し示している。キリストを革命児のように言う人は多く、社会を混乱させたように考える人もある。だが、キリストのなさったことは単に、人々の歩みを、神との関係を、元に戻すことにすぎない。変革とか大手術と見えてしまうのは、世の中のほうが、人々のほうが変わってしまったためである。今も私たち、聖書を読んでずいぶん刺激的だと感じるのであれば、それは自分たちのほうがずれてしまったのだと自戒すべきだろう。

|

マタイ 16:24-28

 この言葉を殉教というふうに理解してしまうのは、短絡過ぎる。いのちを捨てるとは書いてあるが、その前には自分を捨て、十字架を負って、従ってきなさいと書いてある。そう、生きるか死ぬかということよりも、自分を捨て、のほうに重点はある。「私が、私が」といって自分にしがみついている人は少なくない。犠牲を払う覚悟はあっても、自分の納得する筋道であれば、と条件付きにする。ペテロも、キリストのためにどんな犠牲でも払う覚悟はしていた。少なくとも自分の思いとしては。でも彼は、自分の考えているキリスト像と違うものには反発する。目の前におられるのは「主」であるということを、私たちは頻繁に忘れているのだ。主、主人の主である。「神に従う」ということの意味合いを、もう一度、考え直したほうが良さそうである。

|

マタイ 16:21-23

 せっかく良い評価があったばかりだったのに、と思いたくなる出来事だ。ペテロとしては何を叱られているのか分からなかったかもしれない。でも、十字架につくことを否定してしまうのは、キリストの生涯全体を否定することになるのだと、彼はまだ理解していなかったのだろう。
 自分の勝手な思いこみには気をつけたほうが良い。良かれと思ってのことだとしても、それが御心に反するようでは、目も当てられないのであるから。慎重に、そして、自分の感覚とは違っていたとしてもなお、神の言葉にこそ真っ直ぐに反応するものでありたいと思う。「しもべは聞いております。主よ、お語りください」の姿勢は、どうしても必要なのだ。あっさりと、神とは違うところへと進んで行ってしまう私たちなのだから。(大丈夫などという言葉は、エデンを知らないのかと問い質されておしまいである。)

|

マタイ 16:20-21

 キリスト、つまり約束のメシヤという呼び声には、当時のユダヤでは特定の意味合いが絡んでいた。つまり、ローマの支配から解放してくれる政治的、社会的な意味合いでの救世主ということである。すでに何度も、同類の話で決起した人々がいた。キリストはヨハネ18:36でも語られたように、そういった部類のものと混同されることを強く拒まれた。本来の意図、罪の贖いのためにきた小羊であることが見失われてしまうからだ。人気が出れば良いというものではなく、人が集まれば良いということでもない。確かに、何かを伝えるためには人々を寄せる必要もあるのだが、キリストは何度も手厳しい言葉を用いて、弟子たちに問い質すことをやめなかった。たとえ一時的に弟子が激減したとしても、である。明確な目標をお持ちだからこそ、だ。その目標にこそ注目する必要がある。

|

マタイ 16:18-19

 この言葉は、教派によって理解の仕方に違いが生じやすい箇所であるが、少なくとも新約聖書に出てくる初代教会の様子を見る限りでは、ペテロが最重要視されている様子は薄いので(12弟子筆頭としては不思議なことであるのだが)、やはりここは、彼個人ではなくて彼の表明した信仰、つまり、ペテロに限らず同じようにして主への信仰を告白する者たち皆のことを意識した語りかけとして受け止めるのが妥当だと思う。
 だが、その点以上にここは、そういった信仰者たち、あるいは教会に与えられている権能の大きさ、力強さ、幸いの深さということにこそ注目すべきだろう。初期の教会が、一息で吹き消されそうなくらいちっぽけな存在であったにも関わらず、堂々と胸張って歩んで行けたのは、そこに神からの豊かな約束が与えられていたからだ。私たちもこの約束を握りしめていたい。

|

マタイ 16:17

 この一言は、私たちの信仰について考える上で、とても貴重なものだ。キリストはペテロの信仰告白を高く評価されたが、同時に「それは神ご自身から与えられたものだ」と告げられた。つまり、ペテロが偉大なる宗教心とか、すばらしい探求心によって到達した真理ではなくて、あくまでも神が指し示されたものをペテロが受け止められた、というふうに見定めておられるわけである。しっかりと受け止めたペテロ自身も高く評価されてはいる。でも、野球で言えば、打者をきりきり舞いさせた剛速球を発生させたのはあくまでも神ご自身というわけだ。
 信仰というものは、しばしば人の崇高な精神から発生したものとして受け止められることが多い。そのような思想や宗教もあることは知っている。だが、聖書が指し示す信仰は、初めに神あり、であることを見失ってはならない。

|

マタイ 16:15-16

 あなたは、と問いかけたキリストの言葉に、ペテロは真っ直ぐに応じている。そう、私自身はどうなのかが問われる。
 彼の言葉は、キリストの定義として適確なものであったから、福音書でも最も有名な言葉の一つとなった。ペテロがキリストの全てを理解していたわけではなく、十字架のことだってわかっていなかったのはすぐに露呈する。私たちもキリストの全容を把握しているわけではなく、いつも驚かされてばかりであるのだが、それでもペテロの言葉には「ここに究極の権威があり、この方にこそ真実がある」という確信は込められているように思う。理解不足や状況の悪化でぶれることの多い私たちだけれど、キリストこそ我が土台、礎であることを忘れなければ、何とかなるのである。

|

マタイ 16:13-14

 ふーん、あんがいわかっているじゃない、と思う。世間の人々のことである。たしかに、核心には届いていない。でも、人々の噂が指し示しているのは、つまり、この方は特別な方、神の人、神から遣わされて神の言葉を伝え、人々に大きな変革をもたらすために来られた人。そういう認識はあったということである。いわゆる弟子たちのような「信仰者」でないと何も理解できないと思いがちだけれど、いやいやどうして、である。
 ただし問題もある。そういうふうに噂していたけれど、そのくらいまでは悟る目も心も持っていたのに、でも人々の反応、態度は、全く表面的。それだけの方ならもう一歩踏み込んで尋ね求めても良さそうなのに、野次馬的に群がるだけ。心を尽くし、思いを尽くし・・・て神を愛せとの言葉を思い起こす。

|

マタイ 16:5-12

 神の言葉ですら、ちゃんと聞いていないと大きく誤解してしまうのだなあ、と思わずにはいられない。キリストは間違った教えに気をつけよ、と言うためにパン種という言い回しを使ったのに(この表現はユダヤ人には馴染みのものだ)、弟子たちはパンの持ち合わせが足りないことを指摘されたと受け止めて、責任のなすりあいを始めている。キリストが、パンの不足など何の問題でもなかっただろう、と指摘してようやく、言葉の真意を悟っているありさま。
 気をつけておきたいものだ。自分の思いこみに走るのではなく、神が何を語られているのかをよくよく聞き分けられるように、詩篇131のように、心を静めて、神の前に座して、我が思いをこそ棚上げにして、御言葉に耳を傾けたい。

|

マタイ 16:1-4

 奇跡を見れば信じる、と誰もが言う。神の姿を見られたら、天から声が聞こえてくれば、病気が治ったら、と。だから不思議を行って人々を惹きつけようとする霊能者もある。ある手品師は、宗教的なコメントは避けつつも、自分たちは全く同じことを手品としてできる、と語っていたが。
 キリストはおっしゃる。私たちの前に指し示されているしるしは、ヨナのそれである、と。魚の腹から生還した話と重ね合わせてキリストの復活を思い起こすこともできるけれど、話の内容からして、そういう不思議な出来事を意図されたのではあるまい。12章にもあったように、ヨナがニネベの人に語り(奇跡など抜きで)、そして人々は信じた。ここに最も意義ある信仰の形態がある。使徒2章でもペテロが語り、その言葉によって人々が心を刺されて回心した。奇跡を見ても人は信じない。キリストの奇跡はむしろ、目の前の人々を助けたいだけのもの。奇跡は信じさせるためではなく、すでに信じていた弟子たちの信仰を励まし、あるいは教え、整えるためと言える。

|

マタイ 15:29-39

 14章と同じような出来事が起こっている。キリストの対応もほぼ一緒だ。記録する用紙だって高価な時代、割愛されても不思議ではないくらいだ。それほど、この姿勢がキリストにおいては特徴的だったということだ。つまり、目の前にいる人の声に耳を傾け、その瞬間の必要に応えずにはおられない、ということが。もっと高邁な理念を優先し、魂の救いに直接関わることこそ、と語られやすいのだけれど、キリストは身体のために、あるいは数時間後には効果が消え去る胃袋のために取り組まれる。
 でも、それが愛するということなのだ。愛するとは相手を思うことだから、目の前にいる人の今の必要に敏感に反応せずにはおられない。より究極的な幸いは大切だけれど、だからといって、目の前で「お腹が空いた」と言っている人を放っては置けない。もちろん、何でも願い通りではないけれど、それもまた、今現在の訴えそのものと向き合って、何が良いかと真剣に考えた結果として「その願いはだめだ」という答えになっているだけ。だからキリストは文字通り我が身を削って、人々を愛しておられる。神はそのようにして、私たちと向き合っておられる。

|

マタイ 15:25-28

 謙遜の姿が「立派な信仰」と言われたのではないと思う。むしろ大事なことは、彼女の必死さではないか。彼女にとって、娘を助けてもらうことが何よりも大事なことであって、それ以外のことは何でも良い。序列として後ろに置かれようが、こぼれ落ちたパンくずをもらうようなものであろうが、どちらでもかまいはしない。結果、助かりさえすれば。遊園地でお目当てのアトラクションが長蛇の列。もうだめかと思っていたら、自分の一人前までで今日はおしまいと言われて、でも、その前の人が「急用ができたから」と帰ってしまい、まさにおこぼれで最後の最後に入れたとしたら、だとしたらそれでいい。何も一番乗りできなくたってかまわない、というように。
 私たちには、この必死さ、真剣さが足りないのかもしれない。何もすべてを犠牲にしても、ということを問われているわけではない。それなのに、扱いがどうの、他の人と比べてどうの、ということにばかり必死になって、何を求めているのかを忘れている。

|

« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »