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2009年9月

マタイ 21:42-44

 この場合の石は、救い主であるキリストご自身を指す。この石は確かに祝福の源であり、堅固な建物の礎石ともなる。喜びを支え守ってくださる存在だ。けれど、それは石である。だから、破壊力も尋常ではない。高いところから飛び降りるのなら、できるだけ柔らかい地面がいい。丹念に耕された畑とか。コンクリートはごめんだ。たとえ生命が助かったとしても、どこかの複雑骨折は避けられない。
 それなのに人々は、石である方を無視して、適当にあしらい、捨て去り、まるでただのゴミか何か、紙くずか何かのつもりでいる。そして、馬鹿にして、そっぽを向いている。愚かすぎる。その石と衝突したら、無事ではいられないと知っている者たちは、そんな光景を見たら真っ青にならずにはいられない。
 だから、キリストの警告は必死である。風車に立ち向かったドンキホーテよりもさらに無謀で、愚かで、我が身を滅ぼす行動。自分のしていることが分かっているのか、と問いたいのである。

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マタイ 21:37-41

 話の筋は、誰が考えても農夫たちの暴挙としか言いようがなく、祭司長たちの応答も厳しいものになっている。問題は、話に出てくる息子である。この子を殺せば全ては自分のもの、と考えるのは、あまりにも軽薄である。主人が烈火のごとく怒り、厳罰を持って臨むのは誰が考えてもわかることだ。それなのに、安易に考えている。
 神に対して、人はどうなのだろう。罪のゆえの弱さ、したくない悪をしてしまう愚かさなどはともかくとしても、神などいらないと言い、神を捨ててもかまわないと言ってしまうのは、はたしてどうなのか。一般に地獄と呼ばれている世界の意味は、神がいない場所である。神と完全に切り離された場所。聖書はそれを恐怖を持って語るが、世の多くの人は、神がいなくてもかまわないよ、と安易に言っている。神を知らず、神を甘く考えることの重さを、よくよく考えておくべきだと、この話から痛感させられる。

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マタイ 21:33-36

 キリストの言葉は、しばしば辛辣である。弟子たちは、横でハラハラしていたかもしれない、などと思ってしまう。
 祭司長たちは、自分の正しさを語り、神の民であることを誇っていた。だが、旧約を見ると、そのような自慢はもろくも崩れ去る。そう、イスラエルの民は、繰り返し、神の遣わした預言者たちを殺して、神に対する徹底的な反逆を標榜してきたのだ。祭司長たちはもちろんそれを知っている。彼ら自身が、神に背く民の末裔なのだ。それなのに、まるで何もなかったかのようにして誇り、自分たちは特別だと言う。これほどの愚かさはない。
 戦時中に日本の教会が犯した罪を思い出す。もしそこで、「我らの罪を赦し給え」と祈ることを忘れてしまったら、どんなに立派なことを語っていたとしても、この祭司長たちと同じである。

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マタイ 21:31-32

 祭司長たち、社会的には立派に生きているとみられていた人々に、悔い改めた罪深い者たちのほうがずっとましだと告げている。これは彼らにとって侮辱として感じられる言葉だっただろう。でも、人は皆、罪人であり、神によって赦され、救われてこそ、ということを考えるならば、この指摘こそが真実なのだ。そう、どれだけ正しく生きているかではなくて、悔いること、そして神の約束を信じることがあるかどうか、にかかっている。聖書の他の箇所に、人は表面を見て、神は心の内を見るとあるが、それは単に心の中を見通すことができるというだけではなく、人間の見ているもの、評価の対象にしているもの、自分自身の基準にしているものと、神が求めておられるものとの違いということにも、深く関わっていると言うべきだろう。

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マタイ 21:28-31

 キリストが問いかけたのは、「父の願ったとおりにした」のは誰かである。態度の善し悪しではなく、もちろん、何を表明したかだけでもない。兄がどうして行かなかったのかは不明だ。もともと口先だけだったのか、それとも最初はそのつもりだったけれど、であるのか。でも、もしも彼が父親に対して誠実であるなら、力不足で行けなかったのなら、そのように告げたはずである。神に対してなら、「ごめんなさい。できませんでした」と祈る。考えてみると、この祈りがとても少ない。仕方がないと自分に言い訳をして、それでおしまいにしている。弟の態度と比べれば、それがどれほど不誠実かはすぐにわかる。弟のように、最初は嫌だというのは、まあ、態度としては良くないとしても、人間にはしばしばある。でもだからこそ、「悪かったと思って」という悔い改めが必要とされる。もし、信仰を生きるつもりであるならば、である。

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マタイ 21:23-27

 権威の問題は重要である。だから、キリストははっきりと、神の権威によって、と宣言しても悪くはなかった。他の場面ではそのようにしていることもある。だが、同時に、尋ねている者たちはどれだけ真剣に聞いているのか、ということも問われねばならない。バプテスマのヨハネに関する話からして、彼らは真剣に向き合う覚悟ではないことが明らかである。だとしたら、そのような者たちに語る必要性がない。答えても、投げ捨てられるだけであるから。
 もし、真剣に尋ねるのだとしたら、神の権威によってとこの方が答えた場合には、即座に行動を起こさねばならない。つまり、この方の前にひれ伏して、従いますと答えるか、さもなければ、ただちに捕らえて、神を冒涜する者だと宣言し、処罰するか。道は二つに一つなのだ。でも、この時の彼らにはその覚悟はない。やがて、裁判の席では、裁こうとしている者たちのほうが、逆に自らの態度を決することを要求されることになる。人はいずれは、このどちらを取るのかを、問われずには済まないのである。私たちもまた。

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マタイ 21:20-22

 弟子たちの思いは、キリストの視点よりも、目の前の不思議に引き寄せられている。まあ、人間とはこの程度のものではある。真に大切なことを見落として、自分たちの感覚に振り回されてしまう。それでもキリストは、きちんと彼らに教えてくださっている。
 弟子たちは不思議と言う。だが、神にとってはいかなることでも不思議ではない。口では、神は全能だと言いつつも、そのことを実感してはいないことがいかに多いことか。間違えてはいけないのだが、私たちの思うこと、願うことを神が必ず実行するという話ではない。それでは神はただの奴隷である。神は神のお考えに基づいて、よしとされることをなさる。その点では不思議などはないのである。
 信仰とは、そのような神の御心を尋ね求め、追い求めていくことである。だから、用もないのに「山よ移れ」と叫ぶのは信仰ではない。反対に、もしそれが神の御心だと確信するならば、祈りつつ、自分もまた、山を動かすべき何らかの事情の解決に取り組めば良い。座して山を毎日眺めながら、動いたかな、と見張っているのは信仰でも何でもない。

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マタイ 21:18-19

 いちじくは、葉が生い茂っている時には実もなっているものだそうである。つまり、このいちじくは見た目ばかりで内実のない、ごまかしの状態であったことになる。もちろん、いちじくには善悪はない。キリストは何も、いちじくそのものに怒られたわけではない。ただ、エルサレムという町の虚栄、神の都と呼ばれながら、その実態は人間たちの思いによってしか成り立っていないような状態に、感情を激しておられたキリストとしては、このいちじくは、エルサレムや人間たちの象徴としての意味合いをもって取り扱うことに、十分な意義を見いだしておられたのだろう。実際弟子たちは、この出来事に驚いて、キリストの心の内にあることへと誘われていくのであるから。黙示録3:15-16で生ぬるいことへの叱責をなさったことや、パリサイ人たちに対して白く塗った墓のようだと言われたことを思い出したい。神は人の弱さも足りなさもご存じである。それを叱りつけるだけの方ではない。だが、ごまかしと虚実については、厳しく対応なさることを、忘れてはいけないだろう。

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マタイ 21:17

 堂々とエルサレムの都にやってきたキリストが、しかし、夜になると外に出て行ってしまう。単に、ベタニヤ村の方が泊まりやすいということかもしれないけれど、今までとは違ってあえて人々の注目を集めようとなさったこととのつながりで言えば、つまり、王として都に来たのであれば、不自由でも留まるというのは、一つの意味合いがあるようにも思う。王とはそういうものだ。
 ある本を読んでいて、一つの可能性を示唆された。それは、キリストはこの時、まだ、王としての役目を果たしきっていない。確かに、戻ってこられたのだけれど、でも、十字架の使命、マタイ1:21にあった「ご自分の民をその罪から救う」という使命はこれから。だから、王として都に君臨する段階ではないということで、毎晩、都の外の出られたのではないか、と。ただ、それをなすために戻ってきたのだと人々に知らしめるために、あの入城行進がなされたのではないか、と。
 一つの可能性であるけれど、捕縛と十字架がキリストご自身の意図に基づいていることともつながっているように思われる。

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マタイ 21:15-16

 祭司長たちの怒りは、当時の感覚としては決して不思議ではないし、よく言われるような既得権の保持を目的としたものではないように思う。ダビデの子という称号は約束のメシヤにつながるものであり、神の約束された特別な存在であるから、簡単に口にすべきものではない。群衆を信仰面でリードする立場であれば、このような安易な叫び声はきちんと制御する責任があると考えたのは当然だ。ただし、彼らが見落としていたことがある。つまり、キリストと呼ばれているこの方が、真実、約束の存在であるならば、もちろん、その叫びを抑制する必要はない。堂々と語り、その賞賛を身に浴びる方が適している。オリンピックの優勝者が金メダルを遠慮して、「私などたいしたことはない」と言っていたら、それは他の競技者に失礼なだけだ。この方に関する対立には、確かにねたみや利権その他の思いも絡んでいたけれど、突き詰めて言えば、神の前にあってこの方は本物なのか、それとも偽物なのか、どちらであるのかという究極の選択に関わることなのだと、聖書は提示している。

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マタイ 21:12-14

 過激な行動は、ロバに乗った平和の王とは食い違うように思うかもしれない。でも、こういった売り買いがユダヤ人以外で神を慕い求めようとする人々の居場所でなされていたことを考えれば、合点がいく。ユダヤ人にとっては便利な存在であり、邪魔でも何でもない。だが、そこにいる異邦人はどうなのか。彼らにとっての礼拝、神を思う場の確保ということが全く意識にない実態は、小さなものを守れと告げられたキリストの心とは完全に食い違うのだ(18章)。14節にある障害を持った人々も、神殿ではのけ者にされていた部類になる。彼らのいやしは毅然たる主張だ。だからこそ祭司長たちは怒ったのでもある。後に弟子たちは言った。「神に従うべきか、人々の声に従うべきか」。その言葉は、キリストご自身から学んだものである。

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マタイ 21:6-11

 弟子を初めとして、エルサレムの民衆は驚喜している。それほどにキリストの評判は高まっており、期待もふくらんでいたのであろう。その中身は、神のご計画とは大幅に食い違っていたのだけれども。でも、人々は確かに大喜びしたし、賛成もした。であるのに、数日後には「十字架につけろ」の大合唱である。人間というものは信頼できない、とも言えるし、あるいは、それだけ人は流されやすく、弱い愚かなものにすぎない、という証明でもある。人の思い、人の熱意、あるいは信念を含めても、そういったものがどれほど危ういのかということを痛感させられる。しばしば、熱心な信仰のつもりであったものが争いの種となり、殺し合いをすらもたらし、あるいは人々の心を間違った方法で支配する異端に走らせてしまうこともある現実を、決して忘れてはならない。信仰は人の熱意ではなく、神ご自身によってこそ育まれるものなのだと、強く、強く自戒したい。

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マタイ 21:4-5

 ロバに乗って都にやってくるというのは、とても象徴的な話だ。王といえば権力者であり、かつ、軍事力の頂点に当たる存在である。だから、凱旋するときは騎乗の姿こそ似つかわしい。そこにある力強さこそが王としての姿である。
 だからキリストの選択は、人々の考えている「王」「救世主」のイメージに真っ向から対決されるものであった。柔和という言葉も、王とはかけ離れている。だが、神のなさる救いとは、まさにこれである。力で世界を支配して、恐怖かあるいは強制力によって人々を従わせるのではない。ひたすら待ち、傷つけられても待ち、何とかして人々が神を求めるようにと、自らの決断として立ち返るようにと、求め続けておられる。だからこそ柔和なのである。私たちは神を、救い主を誤解してはいないか。

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マタイ 21:1-6

 あらかじめ予約していた話なのか、それとも、知り合いまたは有名ではない弟子か支援者のロバであったのか、はたまた、全く無縁の人からこういう形で拝借できたということなのかは、ここだけではわからない。ただ、弟子たちの思いを越えたところで、キリストは何らかの備えをなさっていた(奇跡的というのも含めて)ことを痛感させられる。ロバを取りに行った弟子たちは、ちゃんと準備されていることに驚愕したに違いない。そういえば、最後の晩餐に使う部屋も同様であった。キリストは口だけの方ではない。ちゃんと物事を動かし、整え、そうして御業を推進されるのだ。信じていれば準備など関係がない、という感覚が時々あるけれど、それはキリストのなさり方とは全く違う。主は、全てを備えておられたのである。十字架の出来事ですらも、キリストにとっては決して異常事態ではない。

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マタイ 20:29-34

 もし、切実に願っているのなら、あきらめずに叫び続けるべきだ、ということである。キリストは他の箇所でもそのことを教えておられた。回りはうるさいと言い、あるいは、変なやつらだと軽蔑するかもしれない。だが、この二人がしていることは、ほんの一瞬のうるささに過ぎない。それはまあ会話に支障を来したかもしれないけれど、重大な迷惑などではない。だとしたら、狭量な人々ににらまれることなどは気にしないで、その必要を真っ直ぐに訴えたほうが良い。何しろ相手はキリストである。ちゃんと聞いてくださる方、応えるだけの力を持っておられる方。そしてこの方は、私たちをいとおしみ、あわれんでくださっている方。それなのに尻込みしたり、人の目を気にしているのでは、なんだその程度の必要なのかと言われてしまっても、ぐうの音も出ないだろう。

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マタイ 20:24-28

 より心が狭いのは、彼らに怒っていた回りの弟子たちかもしれない。苦労を背負い込むのだというキリストの言葉にも注目せず、あいかわらず「偉さ」の意味を見失っている。だから主は、仕えるということの意義と重要性を語られた。それは私たち自身のあり方、何をするにしても、どのような立場になるとしても、そこで常に自らに問いかけ、確かめている必要がある姿勢である。
 仕える。人と人との間にこの姿勢が優先されていくならば、どれほど多くの人を手助けして、崩壊の危機から救い出すことができるか。この世界の悲劇の大半は、人間自身が作りだしているものだと言われる。逆に、もし人々が真に相手を思い、自らの利益ではなくて、他者を思いやり始めるなら、世に存在するたくさんの理不尽にも思える災害があっても、それ自体は消滅しなくても、どれほど人々を助けられるか、よくよく考えてみる必要がある。仕えて尽くす。この意義を欠いた取り組みは根本的な土台を欠いているのだと知っておきたい。

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マタイ 20:20-23

 まったく母親というものは、などと言いたくもなる。彼女は悟っていないが、息子たちの殉教に同意しているのである。いや、本人たち自身が同意書にサインしているようなものだ。そして、十二弟子の中で最も早く、この兄弟の一人、ヤコブが殉教している。
 でも、そういう浅はかさはさておき(母に限らず父も、いや、人は皆同じであるのだが)、キリストのすぐそばにいたいという願望は、なかなかのものだと思う。当時のキリストは、決して社会的権力をもっていたわけではなく、その魅力はあくまでも神に由来するものである。ナンバー2になれば裕福な暮らしができるなどとは、誰も思わなかっただろう。「杯」の重さは理解していなかったとしても、それが心楽しいものではないことは、彼らだって気づいていたはずだ。こういう願望、誰よりもキリストの近くにという思いは、そういう優劣や比較の観念は間違っていたにしても、それでも、これほどの情熱を抱くことの輝きは受け止めておきたいと思う。

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マタイ 20:17-19

 キリストは何度繰り返し、弟子たちに教えておられたのかと思わずにはおられない。弟子たちの反応ははかばかしくなかった。叱られることさえあった。そして、十字架の時点で彼らは全く理解していなかった。でもキリストは、こうして繰り返し、弟子たちに予告し、語り告げておられる。
 この忍耐性は旧約においても見られるものだ。かたくななイスラエルの人々に、神はどれだけの犠牲をはらって(預言者たち)語り続けておられたことか。たとえ相手が受け止めなくても、そっぽを向き、反発したとしても、それでも語る。あきらめず、くじけたりせずに語る。もしそれが本当に必要なことであるなら、知ってほしいことであるなら、語り続ける。我が身を大いに考えさせられる。
 一つ、思い出してほしいことがある。弟子たちは十字架までは悟らなかった。でも、復活したキリストに指し示された時、彼らはこのような言葉の一つ一つを思い出し、それらによって大きく養われていった。神の言葉は、決して無駄にはならないのだ。

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マタイ 20:13-15

 これは神が人に対してなさる扱いを示すお話だが、これを聞いて、「だったら適当にさぼり、頑張ったりなどせず、それでも同じように祝福されるのだったら、ぜひとも怠けよう」というふうに思う人があるとしたら、その人は神に愛されているということを知らず、恩恵が与えられているのだということにも気づいていない、どうにもならない愚かさであると言わざるを得ない。
 この話、忘れてはいけない。夕方の人は、さぼっていたわけではなくて、働きたかったのにその機会が得られなかっただけなのだ。楽をしてもうけたい、と考える人々は一切登場していない。もし私たちが、神によって愛され、神によって祝福されることの意義と重みを、少しでも気づいているのなら、愚かなことを口にすることはないだろう。そして十二弟子は、そんなつもりは毛頭なかったのだ。

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マタイ 19:30-20:16

 後の者が先になる、という教えを伝えるための話である。ペテロは自分たちの頑張りを語り、キリストも彼らの取り組みそのものは評価し、喜んでおられた。けれど、忘れてはいけない、のだ。神はご自分が祝福したいと思う相手に恵みを施すのであって、貢献度が低い人にも同じように祝福を与えようとおっしゃるのである。よく頑張った人に不当な扱いをするつもりはない。ちゃんと十分なだけの祝福を与える。ただし、他の人にも同様にする。だから、他の人のことを見て、比べている人は不幸な気分になるし、自分と神だけを見ている人は、大いに満足し、喜びで満たされることになるのだ。後にキリストは、他の弟子との比較を口にしたペテロをお叱りになったが(ヨハネ21:22)、この教えの方向性はとても重要である。

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マタイ 19:27-29

 こういうことを臆面もなく言えるのは、弟子たちがキリストと本当に良い関係を持っていたからだろうと思う。いや、それはもしかすると、日本人的な「そんなみっともないことはできない」という感覚から出た感想なのかもしれない。だとしたら、この率直性はうらやましい。ちゃんと言えるからこそ、ちゃんと答えていただける。ほめてももらえるし、叱ってももらえる。適当にごまかして、本音を言わず、率直に祈ることも、求めることもしていなかったら、大切なことに向き合えずに終わってしまうのだから。
 キリストはペテロに、大きな祝福を約束してくださった。よくよく見ると、それは決してペテロだけに(あるいは十二弟子だけに)与えられるものではなく、神を信じ、神のもとに生きようとするすべての人にもたらされる幸いであると思う。神の約束は常に、他の人よりも上とか、多いとか、そういうことは捨て去った、まっすぐな幸いや喜びを指し示すものであることを、覚えておきたい。真の祝福は、比較するものではないのだから。

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マタイ 19:23-26

 この箇所を理解するには、当時、金持ちというのは最も天国に近いと考えられていたことを知る必要がありそうだ。つまり、彼らは良い生き方をしているから神に祝福され、豊かなのだというふうに考えられていたのである。それゆえ、キリストの言葉に弟子たちは驚愕する。金持ちですら天国に入れないのだとしたら、我々庶民にはとうてい無理だ、と。
 キリストの答えが最も重要である。人にはできない、けれど神にはどんなことでもできる。らくだ云々よりも、ここにこそ私たちが注目すべき真理がある。そう、救いは人にはできない。あの青年にもできない、どんな修行しても、神のために貢献しても、それでは救いは実現しない。人の罪は、何をしても償うことはできない。でも、神にはできる。どんな罪をも、神は突破できる。神にはいかなる人をも救うことができるのである。

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マタイ 19:16-22

 この青年を見ると、ローマ10章にあるパウロの嘆きを思い出す。彼は熱心だった、真剣でもあった、必死になって願い、永遠のいのちを求めていたのだ。それなのに、彼は目指すものを取り違えていた。方向が違った。これほど痛ましいことはない。だからキリストの言葉も、叱責するような様子は全くない。それでも、言わねばならないのだ。彼の目指す道では、何も手に入らないことを。持ち物を売り払えば永遠のいのちが手に入る、わけではない。これは彼個人に対する答え方だ。他の人であれば、キリストは別のことを言われただろう。目指すことは一つ、あなたの努力によってでは救いは手に入らないのだ、と指し示すことである。彼のその後について、聖書は沈黙する。だが、その答えは、私たち一人一人の応答にこそあるのだと言える。何もできない者を、だからこそご自身の犠牲によって救い出してくださった神の恵みに頼ることこそ、私たちが必死で追い求めるべきことなのだ。

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マタイ 19:13-15

 弟子たちが子どもを妨げた理由は、当時の社会において、子どもというものが軽く見られていたこと、何か意義あることができるわけではないと見られていたことが背景にある。現代でも、子どもの人権とかについてはだいぶ変化してとは言え、何ができるわけでもない、という感覚は同じであるように思う。
 でもキリストは、役に立つとか立たないとか、貢献の度合いとか、そのようなことは全く関係なく、ただそこにいる存在、神の造られた存在、神の愛される相手、そういう対象として、だからこそ当たり前のこととして受け止め、大事に関わり、御国は彼らのものだと語られる。
 ケーキを切り分けたら大きいのに手が出るように、私たちの目はどうしても、役に立つか、益になるか、という感覚から抜け出せずにいる。ケーキならそれでもいい。だが、人については、この感覚から自由になることを、切に祈り願うべきだと思う。

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マタイ 19:11-12

 独身の問題は、一言、二言では言い表せないものであり、別の機会にお話しするほうがよいと思う。ただ、世間一般に見られる、宗教的熱心さは妻帯を禁ずる的な扱いには、キリストは断固反対されるということは分かるし、その背景には、結婚ととか家族、もっと広く言えば人間関係というものが信仰を生きる上で大事な意義を持っているという、神の造られた世界の基本性質があることにも、気づいてはおきたい。修行というものはしばしば、孤独な状態を求めるものであるが、神の前に生きる信仰を突き詰めるつもりなら、むしろ、人々の真っ直中にあってこそ修行は意味があるのかもしれない。
 なお、キリストのこの言葉は、人々の身勝手な思い、自分にとって都合がよいかどうかで結婚するかしないかを決めようとする姿勢に対する、なかなか鋭い反論であることも覚えておこう。事は、本人の意図ではなくて、神の導きの中にこそあるのだ。

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マタイ 19:10

 弟子たちの率直な反応は、何ともほほえましく、また心地よい。むろん、彼らは間違っている。結局自分の権利を言うばかりで、結婚における相手の存在と意義を見失っている。それでも、キリストの告げられた厳しさを真っ直ぐに受け止めて、だからこそ「結婚しないほうがましだ」とつぶやくのは、まさに神の前に正直に歩み、御心、御言葉に率直に応じていこうとする姿であろう。
 神に対して慇懃無礼は似つかわしくない。正直にまっすぐに関わって、言いたいことは申し上げ、ただし、しっかりと神ご自身の語りかけに耳を傾け、単に指令書を受け取って言われたとおりにするという関係ではなく、正真正銘、神と共に生き、共に歩むことが、どうしても必要である。だってここにあるのは信仰であり、共に歩むと約束された神との関わりなのだから。

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マタイ 19:7-9

 それでもなお食い下がって、正当化し得る離婚の存在を認めてもらおうとする人々に、キリストはもはや言い逃れのできないことを指摘する。つまり、離婚とは姦淫の罪に当たるのだ、と。聞いていたのはユダヤ人だから、そこまで言われて、私には離婚の自由があると言い張れる人はいなかったはずだ。それは、私には罪を犯す自由があると言っているのと同じになってしまい、ユダヤ社会では全く認められないものであったから。
 それにしても自由を語る人々に対して、罪を語るキリストの姿勢には注目したい。私たちはしばしば自分の自由を語る。だがそのことが他の人、あるいは神ご自身にとって、どれほどの痛みと傷になるのかを考慮することがどれほど少ないか。自由を主張する前に、自らの責任を考えるべきなのである。

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マタイ 19:1-6

 結婚に関する聖書の呼びかけは、すっきりと明快である。この関係は神が造られたものであり、人間同士のあり方を見ていく上で基軸になるものであるということだ。神はここに、様々な関係の基本像を示そうとしておられる。だからこそ、それが壊されていくことに「まあ仕方がないね」とか「本人の自由だ」という論理は存在しない、ということである。キリストに問いかけてきた人々の論理は、どういう理由があれば結婚の解消が正当化され得るかということであったけれど、そんなものは存在しないというのが、この方の返答であることを覚えておきたい。
 むろん、結婚関係が終わってしまうことはある。それこそ死別すれば。つまりはそれほどの痛みと重みを伴うものなのだ。第一コリント7章からすれば、離婚というケースが皆無ではないことはうかがい知れる。けれどそれは、伴侶を死によって失うほどの衝撃と痛みを伴う、決してあってほしくない事態として認識されていて初めて論じ得る部類のものである。

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マタイ 18:22-35

 このたとえは有名で、そして、私たちにとって実に深刻である。自分が10000タラント赦された者であると自覚しているならば、私たちの言動はどれほど変わっていくのだろうか。一日の日当を1万円で計算するならば(その多少はさておき計算しやすいので)、100デナリは100万円に当たるから、「返せ」と要求するのは当然の話である。それでも、10000タラントは6000億円に当たるわけである。もっと身近に、6000万円の借金を免除してもらったのだとしたら、友に貸した100円を免除してあげるのに、どうしてためらうことがあるだろうか、と考えたら、庶民の私たちにはわかりやすいだろうか。キリストが、7回赦すなどと言わずに490回赦せと言われる理由が、すっきりとしてくるはずである。やはり、まずは自分が何をもらっているかを知ることから始める必要がある。

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マタイ 18:21

 おっちょこちょいのペテロと言われることが多いけれど、やはりペテロは、キリストのもとにあって、その思いは整えられていっていたのだ。つまずかせるなという話の延長として、あるいは、罪を犯した者を責めることについて語られている中で、赦しということを意識しているのだから。それに7度というのは、当時のユダヤで言われている一般的な格言よりも多く(3度と言われていた)、その意味でも、彼としては頑張った発言なのである。もちろん、神の心からすればとうてい十分ではない。でも、確かにペテロは変えられていっている。このような箇所を読むと、彼のようでありたいと思わずにはいられない。ローマ12:2の言葉。新改訳はちょっと違っていると思うけれど、御心をわきまえ知る者へと「変えられなさい」との勧めを、大切にしたいものである。

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