« 2009年10月 | トップページ | 2009年12月 »

2009年11月

マタイ 27:38,44

 マタイは、強盗の一人が回心した話にはふれていない。だが、当初彼らが行き交う人々と一緒になってキリストを罵倒していたことは記録している。自分も同じように十字架で苦しんでいるのに、である。けれどこれは、人の現実を物語るようだ。何か、とても厳しい事態に追い込まれる時、それが自分自身の責任であったとしても、人はどこかに逃げ場を求め、そして、攻撃できそうな相手を探し出して、全力で集中砲火を浴びせようとする。弱く、苦しんでいるから、他の人のことも思いやれる、となれば幸いなのだが、そうとは言えないということを、聖書は書き記しているのだ。常にそうだとまでは言われていない。だが、人の弱さの中には、そういう危険性がひそんでいることを、何よりも自分自身への戒めとしたい。そして、だからこそ主に祈り、試みに遭わせず、悪からお救いくださいと求めるのだ。

|

マタイ 27:38-44

 十字架の苦しみについて、聖書はこの点をしっかりと書き記している。そう、ののしられ、あざけられるということである。キリストの死は、人類の罪を背負う、身代わりの死である。だとしたらそれは、雄々しい、気高い雰囲気のものではなく、周り中から崇められつつ、惜しまれつつのものであるはずがない。徹底的に罵倒され、尊厳がずたずたにされる姿の中に、主が私たちの代わりに何を背負ってくださったのかを知ることができるはずだ。創世記で神が語られた通り、罪は人間関係を破壊し、つながりを否定し、殺伐とした世界をもたらす。でも、そこから救い出されたことを知っているのならば、今度は何とかして、混乱の渦の中で、わずかでも濁流を和ませ、関わりを回復させるための石となることを願っていきたいものではないか。

|

マタイ 27:37

 罪状書きについては、ユダヤ人が文句を言ったとヨハネ福音書にはある。それはそうだ。これでは、ユダヤの王が処刑されているかのようである。総督のピラトとしては、自分の意に反して事が進んでいる様子に、皮肉たっぷりの嫌がらせをしたということだろう。でも、キリストの真実、十字架の真実からすると、これはまさに事実であった。むろん、当時のユダヤ人社会の指導者という程度の話ではない。旧約から続いている大切な約束、救世主到来の約束を意味する、そういうユダヤの王であるが。裁判の時もそうだった。キリストは、神の子だと主張したがゆえに死刑の判決を受けた。今も、ユダヤの王として処刑されている。キリストの真実な姿そのものが、この十字架において繰り返し浮き彫りにされている。神がご自分のなさっていることを刻印なさっているようではないか。

|

マタイ 27:35-36

 番人たちは、キリストの着物を分けた。処刑人たちの役得であるらしい。旧約の預言につながる情景だが(詩篇22:18)、マタイはあまり詳しくは取り上げていない。
 でも、思うのだ。そうか、キリストはもはや、着物を必要としなくなる、そういう扱いを受けているのだ、と。ここから先に待っているのは死と、そして墓である。死はすべて奪い去り、すべてを失わせ、朽ち果てるものとしてしまうことである。人が死を恐れ、とまどわせ、震え上がらせるのは当然であろう。キリストの十字架を、何か格好の良い、きれいな光景にしてしまうのは、妥当ではない。この場面は、徹底的によごれているのだ。
 ただ、私たちは知っている。キリストの死も、私たちの死も、それでおしまいではないことを。神が備えてくださったよみがえりがあり、いのちがあり、そして、以前よりもはるかに強く、神の前にあって生きていくことができる約束が、私たちには与えられている。死はどう美化しても、あまりにも醜い。でも、キリストにあるときに、死はその醜さを根底から覆されるのだ。

|

マタイ 27:33-34

 いよいよ十字架の場面である。少しずつ、そのお姿をたどっていこう。処刑場について、執行人たちがしたことがまず記されている。はじめに、ぶどう酒を飲ませようとした。これは特別なもので、麻酔的な作用があったと言われている。これから死刑にする相手に麻酔とは、と不思議に思うかもしれない。だが、十字架の苦しさは半端ではなく、それゆえにあっけなく気絶し、絶命する場合もあったそうである。それでは、せっかく十字架につけて、徹底的に苦しめようとする目的には反する。だから、あえて痛みを軽減させて、この苦しみを長続きさせようというのである。人間の知恵は何とも恐ろしいところに働く。だが、それほどの苦しみをキリストは担われた、私たちの代わりに、ということを、よくよく覚えておきたい。身代わりの死と言っても、単にいのちを投げ捨てるだけではなく、この贖いに必要とされたのは、極限まで痛めつけて、いのちをすりつぶすようなものであったのだ。それが、私たち自身の罪の結果である。

|

マタイ 27:32

 十字架は恥であり、呪いであると受け止められていた時代である。何の関係もない者に、代わりに十字架を運ばせるなど、暴挙以外のなにものでもない。クレネ人シモンも愕然とし、また、我が身の不幸を嘆いたことだろう。今で言えば、精神的に激しいストレスにさらされて、深く心が傷ついてしまうような事態である。
 だが、伝承によれば彼は後に信仰を持った。そのとき、この事件に対する意識は一変したに違いない。彼は主の十字架を担うことができたのだから。他の誰も経験することのできない、偉大な業に携わることができたのだから。
 幸せ、不幸せを、簡単に切り分けてしまうことはできない。考えられないような悲劇が、栄光の冠となる場合もあるのだから。最善をなしてくださると約束された神を信頼し、必死にしがみついてでも待ち望むことは、かなり有意義なことであろう。

|

マタイ 27:27-31

 十字架の刑にとって重要な要素は、徹底的に馬鹿にするということである。人間としての尊厳をはぎ取り、文字通り、身も心もぼろ雑巾のようにして捨て去っていく行為である。この時代、人権だのという言葉は存在しないのだが、それでも、人間としての扱いというごく基本的な感覚はある。でも、十字架につけられるような者は、そんな扱いをしてやる必要がない、まったくのくずであるという、そういう取り扱いだ。もし私たちがキリストの受難を痛ましいと思うならば、それが私たちの身代わりであったことを思い出すべきだ。つまり、人の罪は、人間としての尊厳を完全にはぎ取っても当然、というほどのものであることを考えてみる必要があるだろう。

|

マタイ 27:25

 こんなことを言っているからといって、神の御子を磔にした責任をユダヤ人が背負うべきだというような論には、全く賛同しない。これはその場にいた人々だけの話ではなく、人類全体の事柄であるのだから。それでも、彼らの無責任な言動には愕然とさせられる。彼らは本気で、その責任をひっかぶるつもりだったのか。いいや、単なる放言、その場限りの感情的な言葉に過ぎない。それなのに、あまりにも重大なことを口走っている。何か責任を取るべき事柄に向き合う時には、必死に、真剣に考えるべきだと思う。安易に走らず、物事に本気で関わる覚悟を持って。そういう機会は、実はかなり多いのだと言うことを、私たちは忘れている。いや、特別な機会に限らず、この人生の全体が、その責任を問われるべきものであることを、忘れまい。

|

マタイ 27:24-26

 ピラトの行為は、形式的には成り立つかもしれないが、総督という立場であることを考えれば逃げとしか言いようがない。彼については、キリストへの好意的な態度からも評価する見方があるけれど、それは無理があると思う。結局のところ彼は保身のためにキリストを投げ出し、それも殉教がかかっているような究極の選択ではなく、面倒を避けるためにという感覚の、そういう身の引き方である。これで責任を回避できるわけがないと、私たちは肝に銘じておくべきだと思う。できないことはある。力不足も、そして、間違いもある。失敗を謝罪して、赦しを請うことはできる。でも、責任を転嫁し、回避しているだけならば、そこには何の解決も見出すことはできないのだ。

|

マタイ 27:15-26

 ピラトが、バラバと並べて「どちらを取るのか」と尋ねたのは、キリストを釈放するためであったから、人々がバラバを取るはずはないと見越しての問いかけだったはずだ。それほどこの人物は評判が悪かったのだろう。でも、人々はバラバを取った。自分たちの生活を脅かす悪党よりも、キリストを排除することを望んだ。キリストが何をしたのかを考えるほどに、この選択はあまりにも不可解である。でもそれは、人は神よりも自分を優先するためにならば何でもする、ということを描き出しているように思う。いつもそう。得になるからではなく、もっと良い生活を望むからでもなく、ただ神を排除したいだけのことで、人は神を拒み続けている。実に恐ろしく、そして悲しい。

|

マタイ 27:11-14

 イザヤ53章に、引かれていく小羊が口を開かない、という預言がある。裁判の席でキリストは、淡々と応じるのみで、弁解じみたことはもちろんのこと、ご自分には殺される理由などない、ということすら語ろうとされなかった。悪事を働いていた者が観念した場合には、何も語らずということはあるだろうが、もちろんのこと、キリストには当てはまらない。だから総督も驚いたと記されている。
 私たちは冗長に過ぎるのかもしれない。いや、キリストは決して寡黙ではなく、多くのことを語り続けてこられたのであるけれど、私たちの言葉数の多さとは目的が違うようだ。自分が、自分がというふうにして語る私たち、この人々に祝福を、祝福をと願うがゆえに語られるキリスト。この口から出てくる言葉について、よくよくその資質を確かめ直す必要がありそうだ。

|

マタイ 27:1-10 その2

 ユダの事件は、その結末が最も深刻である。残念だけれど、人は罪を犯し、時に神をも裏切ってしまう。その責任は重大で、まさに人には抱えきれないものではある。
 だが、だが、である。ユダの取った行動は、神の前には決してあり得ない、神が絶対にその価値も意義も認めない手段であることを、よくよく肝に銘じておかねばならない。自分で責任を取ってはならないのだ。そんなことは神の願いではない。もし、人が自らの罪を自ら引き受けて、死に至ることが可能性のひとつであるのなら、それが何らかの意義を持ち得るのなら、キリストの十字架は不要だ。人にはそれぞれ責任を取らせて、滅ぼしてしまえばいいことだ。でも神はその道は選ばなかった。だからキリストがおられ、十字架が遂行されていく。死んで責任を取る、という言い方があるけれど、神の答えは否である。それは決してあり得ないこと、なのである。

|

マタイ 27:1-10

 ここに出てくるユダの行動は、彼が本気でキリストを憎んだり、裏切るつもりではなかったのでは、という説につながっている。確信犯なら、今さら後悔はしないだろうから。もっと安易な理由での行動であったように想像させる光景だ。ある人々は、ごくごく単純に金目当てであったと言うし、別の見解では、彼はキリストを焚き付けるつもりでしたことだとされている。
 けれど、だとしたらなおさら、彼はあまりにも事態の重みを理解しなさ過ぎる。キリストがこの道を進んでいこうとされていることに全く気づかず、そしてまた、キリストが自分に対して発しておられた警告にも、全く気づいていない。彼の心があまりにも閉ざされていたのである。これほど危険なことはない。神の必死の警告に反応するためにも、私たちは心を開いておかねばならない。

|

マタイ 26:69-75

 ペテロがどんどん追い詰められている様子が手に取るようにわかる。そして、同じ立場に追い込まれた時、はたして何ができるのだろうかとも考えさせられる。
 彼がしたことは決して認められないことである。たとえば、車が突っ込んできた時、思わず大事な人を楯にしてしまったとするなら、被害の程度に関わらず、生涯悔やみ続けることになるに違いない。どんな理由があろうとも、仕方がないとは言えない話。でも、それでもやはり、自分なら毅然としていられると言い切れる人ははたしているのかどうか。
 人は弱いのだと自覚して、必要もなくぎりぎりのところに近寄らないことを教訓として考えておきたい。たとえそれが、気高い心から出たものだとしても、である。良かれと思ってしたことのために崩れ落ちてしまうなら、そのことを誰よりも嘆き悲しまれるのは、神ご自身なのだから。

|

マタイ 26:62-68

 キリストに対する裁判の判決は、核心部分をついたものとなった。人々は、このような結末は予定していなかったはずだ。こういう話題はむしろ面倒。でもキリストは、ご自分を神の子だと宣言したが故に、殺されたのである。他の理由では殺せなかった。あまりにも立派なことをしてきていたから。キリストを単なる慈善家と考えたり、人々に愛を提唱した優しい心の持ち主と考えるのは適切ではない。このかたは、ご自分を神だと語り、その故にこそ処刑されている。その点を見失っては、キリストの本質を見定めることはできない。人は皆、問われるのである。キリストは偉大なる神であるか、それとも自らを神だと称しておごり高ぶる極悪人であるか、そのどちらかでしかないのだということについて。ほどほどの感覚で、まあいいかたね、などという選択肢はない。

|

マタイ 26:57-62

 マタイの辛辣な筆には、読むたびに苦笑させられる。「偽証」が求められていたのである。そう、真実が語られてもキリストを死刑にする理由にはならないとわかっていた。だから、何か嘘の口実をもうける必要があったのだ。でも、それすらもまとまらないという事態に、議会の側としても準備不足であったというか、思いがけなく捕まえられたという感じであったことが伺い知れる。やはり主導権を握っているのは神ご自身である。人々の思いではないのだ。神殿の話は、おおよそは事実である。もっとも、それが神殿そのものを意味する言葉ではなかったことについては、どうやら議会の人々ですら気づいてたようである。そう、キリストの言葉はしばしば、反対者にもしっかりと覚えられ、意識されるものになっている。私たちはもっと聖書の言葉そのものをも、人々の手元に届けねばならないのではないか。

|

マタイ 26:55-56

 キリストは武力にものを言わせたことはない。奇跡の力は絶大だったが、人を傷つけたり、反対者を倒すために使われたこともない。それなのに人々は力で押し迫ってきた。奇妙なことをすると語られるキリストの言葉は、その通りである。いや、旧約において神は力を発揮して、間違ったことをしている者たちを圧倒された。そう、もし、真の力が発揮されて、捕らえようとする者たちを圧倒するとしたら、それはまさに神ご自身の力の現れ。それに、死者を生き返らせるほどの力を持つ相手を、どうやって力で圧倒できるだろうか。結局のところ、人々がどれほど気合いを入れたとしても、キリストご自身の同意がなければ、引いていくことすらできないのである。でも、園にいた誰もそのことに気づいていない。

|

マタイ 26:51-54

 彼はペテロであると、他の福音書に記されている。勇気を振り絞って、大事な先生を守ろうとしたのだ。でも、実のところ、それは何の効果もない。弟子たちもまた拘束される危険が生じるだけだ(この時点では祭司長らにとって弟子たちは眼中になかった模様である)。もちろん、キリストの意図にも反する。キリストは逃げるつもりはなかったのだから。ペテロの勇気はあいにく、何の意味も持ち得なかった。ただ、52節の言葉は、そういう諸事情だけでなく、より根本的な意味合いとして、キリストが剣による解決を拒んでおられることをはっきりと語るものだ。人間は繰り返し、武力での解決を目指す。それが最善だと考えている。でも神は全く別のことをなさる。詩篇46にも、拳を振り上げている人間たちに、強く、厳しく、「やめよ」と語られる主の言葉が出てくるのだ。真の解決は全く別のところにある。

|

マタイ 26:47-50

 キリストは有名人なのに、どうして手引きが必要なのか、と思ったことがあるが、考えてみると現代とは違う、あたりは真っ暗闇なのだ。街中での騒動を避けてとらえるつもりなら、確かに暗闇でも見分けられるほど身近な誰かの手引きが必要になる。キリストは事態をわかっておられた。それなのに避けようともせず、裏切りの弟子に身を委ねられる。神の御子が拘束される瞬間である。いや、このときだけではなかったはずだ。御子はこの世に生まれ、人としての体をもたれたあのときに、すでに身を縛り付けられていた。神からの自由を叫び、縛り付けられるのは嫌だと抵抗している人間たちを解き放つために、神ご自身がとられた手段がこれである。好みの問題として、神に対する思いはいろいろあるかもしれないけれど、この方が本気で、真剣に、そして必死で、私たちを助けてくださっていることだけは(つまり愛しておられることだけは)疑いようがない。

|

マタイ 26:36-46 その6

 キリストは3度祈られた。基本的には同じ内容である。少しずつ変化が見られるけれど、キリストは最初からそこが結論であることは分かっていた。その上での、父なる神との対話である。でも、分かっていた答え、ほかに道はないと、最もよくご存知の、このまま進むのがご自分の決意でも合った、それでも3度である。
 あっさりと祈って、ご報告しています、などというものでは、せっかくの祈りがもったいない。祈れと言われており、求めよと言われているのだから、精一杯、ぐたぐだとでも、神に訴え、語り、そうすることを通してまた、神の守りと支えを受けていくものでありたい。一度や二度の祈りで物分かり良くなる必要はない。何度も祈り、時を用いて、主が導いてくださるまで祈り続けていく。もしかするとそれは忍耐の要ることかもしれないけれど、人は自分の力で進んでいけるのではないのだから、キリスト以上に繰り返し祈るべきだろう。
 大学の先輩は、好きな人ができた時、所属教会の牧師から、少なくとも半年は祈ってから告白せよ、と言われていた。この忍耐、いや必死さ、大事なものであるほどになおいっそう。私たちは何事につけ、軽々しく扱いすぎているように思う。

|

マタイ 26:36-46 その5

 杯を過ぎ去らせてくださいとは、十字架の御業をやめましょう、ということである。それはキリストがこの世に生まれた目的を放棄すると言うことであり、昔から神がずっと計画し、準備してきた救いの御業を中断すると言うことである。それがありえないことは、キリストご自身がよく分かっている。いや、今さらやめられないと、ダムか何かのような意味で言っているのではない。そんなことをしたら人間達はそのまま滅びてしまう。そんなことは決してできない。分かりすぎるほど分かっていたことである。それでもキリストは「過ぎ去らせてください」と祈られた。神との対話、祈りというものは、これだけ率直で、まっすぐで良いのだということを思わせられる。それは御心ではないと理解していたとしてもなお、そのことを口にし、神と語り合い、そうすることで先に進んでいける。そう、祈りは定まったことの報告ではなく、陳情でもなく、時に相談事であり、時に悩みを打ち明けるものであり、戸惑い迷う心をそのまままにぶつけていくことでもある。立派な祈り、という表現は、祈りの本質に反するものだろう。

|

マタイ 26:36-46 その4

 そろそろキリストご自身に目を向けよう。この祈りをそのまま受け止めることを心がけたい。そうすると、まず、この十字架がキリストにとって、喜んでとか、雄々しくなどという態度で迎えるものではなかったことが分かる。命がけで誰かの犠牲になる、という話そのものは、世の中にいくらでもある。SPの人々は護衛する人のために身体を張って盾になるのだとも聞く。そうやって身代わりになって守り、ニコッと笑って死んでいく人もあるはずだ。そう、もしもし単に死ぬと言うことだけならば、あるいは肉体的な痛みだけならば、他の人のためにそれを引き受ける人はある。だが、キリストの態度にはそういう潔さ、雄々しさは見えない。神の御子が、である。つまり、この十字架にはそれだけの厳しさが、神をして震え上がらずにはおられないだけの厳しさがあったということだ。罪人の身代わりになるということの重みをよく考えたい。それは、自らが罪人として扱われるということ。後に来る人々の罵倒は、十字架の重い要素となっている。それが本来私たち自身のものであったことを忘れてはいけない。

|

マタイ 26:36-46 その3

 心は燃えていても肉体は弱い、という言葉は考えさせられる。ご存知のように、人は罪深い存在である。そのことを多少なりとも意識する者は、むしろ逆のことを思うのではないか。つまり、肉体的には少しは頑張れるかもしれないけれど、心は弱い。様々な良き行いは表面的にはできるかもしれないけれど、心の底から主を思い、主に従うことにはとうてい自信がない、と。
 そうではないのだ。もちろん心も弱い。だが、多少なりとも神を思う人々にはもっと別の危険も伴う。つまり、心には自信がなくても、日常の生活程度であればそこそこには何とかこなしえると思い込み、それで、良くないのだと自覚しつつも、心のことを後回しにして、ともかく目の前のことは何とかこなして、という生き方をしようとする。つまずくと指摘された時の弟子たちの反応もそうだ。彼らだって自分の心が完全ではないと知っていただろう。でも、まさかキリストを捨てるほどひどいことはするはずがないとたかをくくっていた。結果はご存知のとおりである。やはり私たちは、今のこの時を歩みわたるために、祈り、支えられる必要がある。

|

マタイ 26:36-46 その2

 キリストが弟子たちに求めたのは、「一緒に目を覚ましていること」であった。41節には「祈っていなさい」とも出てくるので、ただ起きていれば良いというのではないだろうが、でも、もともとの言い方からしても、何か特別なことをしてほしいとか、自分を支えて欲しいという言い方ではない。ともかく私の思いを知って、心にかけて、まあ、奏すれば信仰者としては当然に祈りになるわけだけれど、ともかく、こんなにも厳しいところへと進もうとしていることをちゃんと見ていて欲しい、せめてお前達には気がついて欲しい、そういうことだと思う。実際、弟子たちには何かができる力はなく、逃げ出すのみであり。それでもキリストは、捕らえられる姿を弟子たちにきちんと見ておいて欲しかった。ご自分のなすことのすべてが、彼ら弟子たちの、人々の救いと祝福に直結することを自覚させていたからこその態度である。だからヨハネ1:10-11の「知らなかった」ということほど、主にとって悲しきことはなかったであろう。

|

マタイ 26:36-46

 どうしてキリストは、この祈りの場に弟子たちを伴ったのか。彼らが眠ってしまうこと、とうてい支えにはならないこと、いや、事態の深刻さを理解で来ていないことはご存知だったはずだ。大事な祈りの合間に、別の心配をする羽目になっている。それでもキリストは彼らと共にいることを求められた。
 考えてみると、それが神の心であるのだ。神は人などいなくても困りはしない。むしろ、人と関わるほどに悩みの種は増えるばかりで、さっさと投げ捨ててしまった方がどれだけ話は簡単か。でも、神は人を求め、人と共にあることを望まれている。人に業を託すことを望まれる(ご自分でやったほうがずっと早く、確実なのに)。誰かを好み、誰かを大切に思うというのは、それによってどれだけ利益があるかとは全く別次元のもの。私たちはこういう神の心をもっと受け止めていきたいものだ。

|

マタイ 26:30-35

 自信満々であったのか、それとも、つまずくと言われて、強い危機感を抱いたのか、ペテロは激しく抵抗している。ある意味では、それは熱意の現れとも言える訳で、これほどの激しさをもって、「とんでもない、主を捨てるなんて」と叫ぶものでありたいとも思う。だが同時に、彼の自信がどれほど実態のないものであるかも思うとき、「大丈夫です」と言い張るのではなくて、「弱い私をどうか助けてください」と願うことのほうがはるかに意味があると悟るのだろう。マタイは明確には記していないが、キリストはこのとき、ちゃんとペテロの回復についても語っておられる。ここでも、ガリラヤでの再会を語っている訳で、つまずいても、挫折しても、それでも「再び」と言われていることを、大切に受け止めておきたいと思う。

|

マタイ 26:26-29

 聖餐式の教えが弟子たちに与えられた場面である。パウロがコリント書で書いているのよりも、福音書が語るのは、もっとあっさりとしたものだ。食事の最中に、目の前にあったパンと杯を用いて、であることを忘れてはなるまい。ただし、そこに込められた意味は、非常に重かった。
 聖餐式は天国での祝宴ではなくて、十字架を前にした心騒ぐ状況の中でのものである。つまりは、生活の様々な混乱の中にいる者たちの、その真っ直中でこそなされているものである。弟子たちは相変わらず混乱しているし、言い争いもあるし、そして、ユダが待ちかまえている。でも、そこに神の御業は万事整いつつある。そして、救いは確実に実現される。
 今の私たちが聖餐式を行う時も、たぶん、様々な混乱があって、心が乱れて、でも、主の救いは確かに供えられていることを知るのだ。

|

マタイ 26:20-25

 要するに弟子たちは、キリストの発された警告を、ずっと先のこととして受け止めていたのだろう。だから、自分ではないかと尋ねたのだし(10年後の自分のことはわからないから)、ユダに対して「お前だ」との言葉があっても、それで大騒ぎにはならなかったのだろう。キリストは時々、ある弟子を矢面に立たせて、他の弟子も含めた話をなさる。ユダの隣にいた弟子は、「お前だってよ、気をつけなさいよ」と笑って肩を叩いていたのかもしれない。
 でも、この話は目前のことであった。私たちも彼らのように、事態が押し迫っていることに気づかないまま、のんびりと心楽しく警告を聞いているのかもしれない。警告、と申し上げた。警告は、それに耳を傾けて修正するなら助かるのである。キリストが鋭くユダに語られた背景には、ユダのことを思うがゆえ、ということがあるはずだ。

|

マタイ 26:17-19

 最後の晩餐とも呼ばれている、もともとは過越という旧約以来の祭りに関わる食事が行われた場所については、他の福音書ではもう少し不思議な出来事が記されているが、マタイは淡々と書いているのみである。でも、そのおかげで、事の核心部分に注目できる。そう、この食事の席は、どんな手段であったにせよキリストご自身が準備してくださっていたものであるのだ。細々とした事柄は弟子たちがやっている。でも、主催者はキリストご自身であり、弟子たちを招き寄せたのもキリストである。「召す」という言葉がある。神が人々を召し出して、そして事を行わせる。この理解が大切だ。ともすると、私が神のためにやってあげている、という感覚になりやすいのであるが、そうではない。はじめに神が天と地を造られて、それで事が動き出したように、まず神が召してくださって、それが出発点なのである。人はどうも、すぐに神を忘れて、神抜きで進ませようとする。

|

マタイ 26:14-16

 イスカリオテのユダがなぜキリストを裏切ったのかは、昔から多くの人の関心を集めてきたことだ。ここにはお金のことが書かれているが、たかだか銀貨30枚のために自分の人生をかけてきた相手を裏切るとも考えにくく、口実のようなものと受け止めることもできる。だが、聖書が明確に指し示していることは、十二弟子の一人が、つまりはキリストのすぐそばにいたはずの人が、どんな理由があろうとも、どんな意図によるものであろうとも、キリストを売ったのだということである。そして、その重大さは誰よりも本人が認めている。認め方は間違っていたけれども(27:1-)。人はしばしば、様々な理由を語り、弁解を語り、仕方がないのだと言いつつ、神の御心とは違うほうへと足を踏み入れていこうとする。その理由には聞くべきものがあるかもしれず、納得する人や同情する人があるかもしれない。だが、たとえどれほどまっとうな理由があろうとも、背いているという現実を消し去ることはできないということを、覚えておきたい。

|

« 2009年10月 | トップページ | 2009年12月 »