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2009年12月

考えたのですが

 年末年始も、何事もなく、そのまま続けていこうかと思っていたのですが、思い直して、1/3までは休止にします。聖書を読むということそのものは、正月も何もないのですけれど、でも、正月というものはやはりちゃんと正月らしく過ごすほうがよいというのが持論でして。だとしたら、聖書を読む際にも、そのまま同じように継続するのではなくて、正月らしく読んだ方がいい、と考えました。
 ですので、1/4から再開します。ぜひ、ご自分なりに、正月らしい聖書の読み方をなさってみてください。「こんなふうに正月らしくやりました」というのを教えてくださったら何より。と、このブログはコメントなしにしていました。教会のメールアドレスにでもお送りください。

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創世記 1:3-23

 目の前に精巧なプラモデルがあるとする。これについて説明する際に、作り方の手順を図入りで詳しく提示するのも一つの方法だが、完成品をつぶさに鑑賞しつつ、その優美さや性能などを語っていくという手法もある。創世記がどちらの方法を採ったのかは、今ひとつ、分かりかねる。少なくとも創世記は、遥か後に人間たちが編み出した進化論に反論するために書かれているわけではないから。でも、神が世界を造られたことを知る者にとっては、上記2点のどちらでも大差はない。結局、大事なことは、世界をどうやって造るかではなく(人間には造れない)、神がどんな意図を込めておられるのか、あるいは完成品についてより深く知るための情報であるからだ。その点を忘れてあれこれと論ずるだけでは、聖書を読むにあたっては、どうなのだろうか、とも思う。

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創世記 1:3-5

 神がまず整えたのは、光である。ヨハネ1章でも、キリストの到来が光にたとえられているように、ここから全てが始まるというのは、ごくごく自然な理解でもあろう。天文学者はこれとビッグバンを重ね合わせるみたいだが、その類の話は別の機会に。
 ただ、気をつけるべき点は、ここでは神は、やみについても、ご自分の創造の中に置いていることだ。後に、罪の問題をやみとして語るようになるのは後付けの表現であって、もともとは、この世界にある全てのものについて、神が創造者としての権威を表明しておられることを知っておきたい。
 そう、もともと神とは別の世界や勢力があったのではない。神のもとにあったものが、勝手に離れていったための混乱であり、邪悪さであるのだ。だとすれば、どれほどのやみでも、神に勝てる可能性など皆無であることが、よくわかるはずだ。

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創世記 1:2

 ここにある「茫漠」という言葉は、あまり馴染みがない。実はこれ、木も草も何もない荒れ地を表現する時にも使われるらしい(私は言語学者ではないのでこのあたりは受け売りである)。別の例を挙げれば、空っぽの部屋である。これから誰かが引っ越してきて、家具を入れ、飾り付け、生活のにおいを作り上げていく、その前の状態である。
 つまり、世界が造り出されていく様子が、順を追って語られているのだ。神はまずこの世を造られた。スタートのところだから、まだ中身は空っぽ。それから順々に必要なものを作り上げ、途中からは人間たちにも手伝わせて(後で述べる)、そうやってこの世界を「良い」ものへと整えていく。CSルイスがナルニア国物語を書いた際、このイメージに近い光景を描いていた。聖書のこの語り方には、神が最善のものをしっかりと考えて、整えつつ、組み立てて行かれる、そういう精力的で熱意の込められた業を見出すことができる。偶然なんてとんでもない。こだわりにこだわって、神は世界を築いて行かれたのだ。

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創世記 1:1

 神が世界を始めた、という聖書の主張は、私たちの人生観や世界観に、強い影響を及ぼす。逆の考え方を思い浮かべてみると、話は早い。世界は偶然の産物であるなら、善悪の絶対的な価値観などは存在しないはずで、せいぜい、どっちが得かという話になる。人間も植物も同じであるのなら、道ばたの草を守るためには踏みつけそうになっている人間を突き飛ばして、死に至らしめても悪くないはずだ。いやいや、人間は高度に発達した存在だから意義があると考えるわけだが、とすれば、人間自身の間にも、価値のある人と、そうでもない人がいると見なされても不思議ではない。けれど、始まりが神であると知るならば、物事の意味や意義がすっきりと見えてくる。ここで進化論そのものについて取り上げることはやめておくが、聖書は明確に神の創造を語り、神を忘れた価値観、世界観の無意味さを高らかに告げていることだけは覚えておくほうがよいだろう。

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創世記 1:1

 この一言から、聖書は始まる。そして、世界の全ての事柄、自分自身も含めて、一切はここから始まったのだと、聖書は力強く宣言をしている。「はじめに、神が天と地を造られた」。物事の意味を考え、善悪を考え、あるいは幸せを探し求める時、この世界の成り立ちを知ることはどうしても欠かせない。その正体を知らないままに勝手な思い込みで扱おうとするなど、目の前にある薬品の正体も知らずに、適当に混ぜ合わせようとするようなものだ。だから聖書は、これを第一声とする。そして、もし世界について、人間について、いや、今日の明日の自分の歩みについて少しでも考えたいと思うなら、この世界を造った神に思いを向けることを、強く勧めている。私たちもこれから、その呼びかけに応ずるようにして、この言葉から始まる世界を、よくよく見直してみたい。

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マタイの福音書

 昨日でマタイは終了です。2月から少しずつ読み進めてきたマタイの福音書も、ようやく終わりまで来ました。このペースですと、はたして聖書全部にふれていくことができるかどうか、はなはだ不安です。でもまあ、通読は別の方法でもやっていただくとして、このシリーズは亀のように歩いて行きたいと思います。
 1週間ほど、お休みを入れます。そして、今度は旧約聖書に移り、創世記をご一緒に読み進めてみましょう。なお、カテゴリー表示ですが、マタイは「聖書」でやってきましたが、次からは各書の名前にします。マタイは・・・、全部直すのは手間なのでこのままにしておきます。
 では、クリスマスの翌日、12/26にまた。その期間はどうぞ、クリスマスの記事を読み直してください。マタイ1-2章、ルカ1-2章、それからヨハネ1章も。

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マタイ 28:20

 マタイ福音書の最後の言葉は、実に大きな、大きな一言だ。いつもあなたがたと共にいる。1章で、インマヌエルとしてお生まれになった方は、最後にもまたインマヌエルであることを高らかに宣言しておられる。そう、こここそ重大。どんなに立派であろうが、犠牲的であろうが、知識に精通していたとしても、神が共にいてくださるのでなければ全ては無意味。ここにこそ最大の祝福があることを、何よりも慕い求め続けていたいものだ。そのためにこそ、神の御子はこの世においでくださったのだから。ヘブル1-4章あたりを読んでみることをお薦めする。[マタイ終了]

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マタイ 28:18-20

 キリストが与えられた大事な命令である。それは、人々に神の祝福を届けて、共にその喜びを歌い祝おうということである。間違っても、キリスト教勢力の拡大がどうの、というふうに思うべきではない。幸いを届けるためだからこそ、苦労し、犠牲も払い、なのだ。
 ここに、弟子とし、バプテスマを授け、キリストの教えを守る、という3点が挙げられていることに注目すると、いずれもキリスト発でありつつも、本人も自発的になす必要のあることである点に共通性がある。信仰は脅して服従させることではなく、無意識に陥らせて支配してしまうことでもなく、本人が主の幸いに気づいて求める時にこそ成り立つ。そのことの実現のために奮闘せよと言われている。これはもはや義務ではなくて、楽しみと言えるのではないのか。伝道は、そういう心持ちでこそ臨みたい。

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マタイ 28:16-17

 指示通り、ガリラヤでの再会である。すでに復活のことはエルサレムにいた間に確認済みだ。ここでは、これからの歩みのことが取り上げられる。だから、「疑った」という人々も、復活を信じられないと言っていたわけではない。彼らは目の前にキリストを見ているのだ。さわることもできる。その違いは、キリストの指し示す道を歩んでいこうと決意するのか(それが礼拝だ)、それとも、戸惑いを捨てきれずに立ち止まってしまうのか、である。復活を見てもなお、立ち止まる者はあるのだ。それが人間たちの現実である。気楽に考えるわけにはいかない。ただし、そうやって戸惑う者に対しても、キリストはちゃんと語りかけ、呼びかけ、あきらめずに関わり続けておられることは忘れるまい。

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マタイ 28:11-15

 ごまかしは常に愚かさと表裏一体である。番兵が寝ていたのなら、弟子たちが盗んだとはわからないはず。分かっていて放置したのなら職務怠慢も甚だしい。いや、寝ていること自体、厳しい叱責を受けて当然。盗ませないようにと立てた番兵が失敗したのを、祭司長たちがかばうこと自体が不可解。でも、人は好きなように理屈をつけ、それがまかり通り、せっかくの神の御業を無視する者たちは決して少なくない。そう、人は目の前にある真実を見るわけではなく、自分の願うこと、求めることを見るばかりとなりやすい。神の語られること、なさることは、しばしば人の思いに反する。でもそれはむしろ、神が真実であることの重大な印と言えるのではないか。神の不可解さを避けるべきではない。分かりやす過ぎるのはむしろ不安である。

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マタイ 28:10

 ガリラヤで会う、という話は、天使もそう言っていた。この言い方からすれば、再会はガリラヤにて、という印象だ。でも実際には、エルサレムの町ですぐにキリストは弟子たちに姿を現しておられる。とすれば、なぜこんなことを言われたのか。
 やはり、弟子たちがしっかりと信仰に立って、これからの歩みを進めていくためには、いったん、原点に戻す必要があったからだろう。復活したキリストに会えたと喜んでいるだけでは足りないのだ。彼らの前にはなかなか厳しい道も待っている。だからこそ、よくよく整えていこうとなさっている。ルカ福音書では、聖書の御言葉を用いつつそれをなさった様子があり、ヨハネではペテロへの三度の問いかけがあり、いずれも弟子たちに最終的な訓練をしておられるのだ。
 だからガリラヤ。キリスト教信仰はしばしば原点に立ち返ることを大事にしている。何よりも、神の御言葉そのものにこそ立ち返って。

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マタイ 28:8-9

 この記事からすれば、復活されたキリストに最も早く会ったのは、この女性たちということになる。彼女たちの率直さへのご褒美かな、と思う。安息日が明けて、墓に行けるようになったとたんに駆けつけた女性たち。復活は忘れていたけれど、遺体の世話をしたいという厚い思い。そして、天使の知らせにびっくりしながらも、喜び勇んで仲間のところへ走っている姿。綿密な理解も必要だ。慎重な取り組みも欠かせない。掘り下げていかなければ、岩地の種のようにすぐに枯れてしまうかもしれない。それでも、彼女たちの率直な姿はやはり心地よい。こういう態度を忘れずに、真っ直ぐに主を見上げている者としてこそ歩み続けていたいものだ。(ちなみに、マグダラのマリヤはこの中にはおらず、ヨハネ福音書にあるように、後でキリストに会っている。そう二番手なのだ。)

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マタイ 28:5-7

 天使はキリストの復活を告げたのだが、そこには大事な要素がある。それは、「前から言っておられたように」という点だ。復活は、突如として起こったわけではなく、すでにキリストご自身によって予告されていたことである。
 神の御心も、その御業も、人の思い描いていることを遥かに越えているものだ。でも神は、何も人をびっくり仰天させようとしているわけではない。手品師のイリュージョンは人を驚かせること、アッと言わせることが目的だ。でも奇跡は、その過程よりも実益を目的とする。病気を治したり、空腹を癒したり。復活も驚かせることが目的ではない。それはすでに告げられていたこと。これは神の御業全般に言える。
 だとすれば、御業に驚き慌てているとしたら、それは単に私たちが語られている御声を聞いていなかっただけ、ということか。私たちは少々驚きすぎているかもしれない。

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マタイ 28:2-4

 復活が、まずは天使によって知らされたことは、かなり意義深い。福音書によっては、弟子たちがキリストに直に会うまでには、まだまだそうとう時間が過ぎてから、という扱いになっているものもある。理由は二つあると思う。一つは、キリストが最初から姿を現しても、曇らされている目は、それと分からずに行きすぎてしまう可能性があったから。実際、エマオの二人は分からなかった。神のなさることはあまりにも偉大すぎて、人はそれを見誤ることがある。だからこそ主は、御業の前にまず、御言葉によって、つまりは聖書によって、そのことを指し示し、私たちの心を準備なさる。バプテスマのヨハネの存在も同様であろう。もう一つは、やはり天使、ただの人ではなくて、特別な、特別な使者が用意された。神がこのことに思いをこめておられるのが分かる。全能の神ではあるが、御子を死者からよみがえらせるというのは、ただ一度だけの御業であり、激しく特別なのだ。

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マタイ 28:1-7

 復活の朝、弟子たちの間に期待感は何もなかった。女性陣のほうが積極的だったけれど、それでも遺体の世話をしようというだけのものだ。でも、神の業はそんな人間たちの思惑を横目に、力強く展開されている。そう、誕生の時もそうだった。御子の到来を期待する者もなかった世に、神は救い主を送り込まれた。そして、死は全てを終わらせるのだとしか考えていなかった人々の真っ直中で、キリストのよみがえりは実現した。この異常さ、突拍子のなさ、いや偉大さこそが、失望落胆している人間たちに新たな道を切り開いてくれるものとなる。「どうせ」という言葉を飲み込ませてしまうような、そんな出来事である。

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マタイ 27:62-66

 反対者のほうが、キリストの言葉をよく聞いていたということになる。もっとも彼らのしたことは、せっかく耳に入っている言葉と直に向き合うのではなく、自分の思いというフィルターにかけて、全く別のものにしてしまうことだった。それでも、全く覚えていない弟子たちとの差を感ずる。
 にしても、彼らの思いは、弟子たちへの警戒心までしか進んでいない。神が何か特別なことをなさる、ということについては、何も推測していないようだ。そうでもなければ、ただの番兵を派遣したりなどするはずもない。人の思い、人の常識、大事なことではあるが、それが全てではないことを、まもなく彼らはまざまざと見せつけられるのだ。目を上げて、そこに神がおられることを知るべきなのだ。何としても、である。

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マタイ 27:57-61

 彼はなかなか出てこられなかったのだ。それはそうだ。街中がキリストに反対している中で、自分の思いを告白するのは厳しい。それでも、彼は最後の最後に、遅すぎたかもしれないけれども、でも、出てきたのである。そして、キリストの葬りに大切な力を提供した。私たちもいつも遅すぎるのかもしれない。今さらなんだ、と言われるだろう。それでも、しないよりもいい。父の呼びかけに「嫌だ」と言ったけれど、後で思い直して手伝いに出かけた弟息子の話を思い出す。
 それにしても、やはり葬りの業は大事なのだ。キリストのようにすぐに復活する場合すら、きちんと葬られている。私たちは、死者の葬りということについて、ちゃんと真剣に、大切に執り行っていくべきなのだと痛感する。葬儀はあってもなくても良いもの、ではあるまい。

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マタイ 27:54-56

 男の弟子たちはどこかに隠れてしまったが、女性たちはそこにいた。十字架の場に。女性ゆえに身の危険を回避できる利点があったからとも言えるが、最後まで見守っていた彼女たちの姿勢に(つまり、絶望して立ち去るのでもなく)、心から拍手を送りたい。何ができるわけでもない。キリストを十字架から助けることは不可能だ。それでも、その場にいて見ている。人が神の御業に接する時に、最も意義ある態度と言えるのではないか。
 それ以上に感慨深いのはやはり百人隊長だ。彼はしっかりと見ていたのだ。あの強盗の片割れもそうだったけれど、ちゃんと見て、真剣に考える時、人はきっと、キリストの真実に出会うことになるのだと、彼の告白は教えてくれている。私たち自身がそれほどに主をまじまじと見ているかどうか、問い直す必要を覚えさせられる。

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マタイ 27:52-53

 十字架の死を語ったその時に、死者の生き返りという出来事が語られているのは、とても印象深い。まさに、キリストの死は生命を与えるため、そしてご自身もまたよみがえりへと進んで行かれることを、強く意識させられる。受難週に私たちはキリストの苦難を思うわけであるが、しかしそれは絶望にはならず、落胆や悲嘆にもならない。キリストを十字架につけた自らの罪に関しては深く嘆きを覚えるべきだけれど、あのときの弟子たちのような失望とは全く違う。これは大きな違いである。私たちが出会う様々な問題、難題の中でも、いのちの主がおられることをもって、私たちは痛みの中でもなお、顔を上げて生きることができる。そのことを、十字架は教えてくれている。なお、ここで生き返った人々は、一時的な生を取り戻したに過ぎず、再び死の時を迎えることになる。世の終わりの復活とは別の話である。

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マタイ 27:50-51

 この出来事は象徴的である。神殿の幕とは、つまり、聖所と至聖所を隔たる幕。祭司が普段入ることのできる場所と、大祭司だけが年に一度入るだけの場所、つまり、人の居場所と神の居場所とを決定的に隔てるその幕が、キリストの死と共に真っ二つに裂けて、出入りが自由になったのだ。キリストが言われたとおりに、「私が道、私を通して父に至る」のである。イザヤ59にあるように、人を神から隔てているのは人間自身の罪である。けれど、キリストの犠牲、身代わりとしての贖いによって、その隔ては取り払われたということだ。今や私たちは、大胆に神に近づいていくことができるようになった。その意義を知る時に、この幸いを無駄にするなど、どうしてできるだろうか。

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マタイ 27:47-49

 つまり人々は、キリストの言葉がよく分からなくて、音が似ている預言者エリヤのことを考えたと言うことだろうか。確かに当時、エリヤの再来が世間一般に語られることがあったのだけれど、これは悲しいほどに人々の心が閉ざされていることを物語る光景だ。この人々はまったくの悪意というわけではなく、鎮痛剤代わりのぶどう酒を与えようとしているのだから、キリストを馬鹿にした態度というわけではないようだ。冷静な傍観者か。キリストの回りにはいつも様々な人々がいる。熱心に付き従う者、徹底的に反発する者、そして、様々な温度の傍観者。4つの種という例話を話されたキリストは、神の福音を人々の心に届けるためには、越えねばならない山がいくつもあることを指し示されていた。でもそれは、今この瞬間に心が開かれていなかったとしても、まだまだ可能性があるという意味にもなるのだから、失望落胆するのではなく、前を向いて歩いて行きたいものだ。

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マタイ 27:45-46

 聖書では、闇は神との断絶を象徴することが多く、そしてキリストご自身の言葉である。神の御子はこの時、父なる神との断絶を感じて、それゆえにうめいておられる。私たちはこの痛みを分かっていないのだと思う。何しろ人間たちは、神などいらないと言い張っているのだから。信仰について、生涯、全うできるかどうか自信がないという言い方をよく聞く。自分の信念の強さなどからすれば、確かにそれは正直な言葉かもしれない。だが、だとしたらなおさらのこと、神にすがり、切に願い、「私自身がどれほどだめでも、どうか神様、決して放さないでください」と祈り求めることに、必死になるはずではないのか。どこかで、まあその時は仕方がない、というあきらめがあるとしたら、私たちはキリストのうめきの重みを、全く理解できていないのである。これは肉体の死よりも震撼させられるものなのだから。

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