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2010年4月

創世記 28:16-22

 ベテルとは神の家という意味だが、天の門という言葉も出てくるように、神の住まい、神の居場所というよりは、神の支配が及んでいるところ、という感覚だろう。しかも、ここだけがそうなのではなくて、ここから発して世界全体に及ぶという理解である。川の源流となる泉のようなものか。
 神の一方的な呼びかけにヤコブは揺り動かされ、神の存在・臨在を意識している。それは、神を信じるといううえで重要な要素である。彼の誓願は神が祝福して下さるなら、という条件付きのような言い方になっているけれど、きっと神は守って下さるだろうという期待と信頼が込められてのものとして受け取る方が適しているはずだ。本当かどうか危ないものだというような不信感からの条件ではない。1/10とはつまり、神が助けてくれたから手にできたもの、という理解を表明するものとして、少なくとも当時は、1/10が妥当と考えられていたのだろう。そういえば日本の所得税も基本は1/10であり、この社会に支えられて生きているのだから、そのくらいは社会全体に貢献すべきという理念があるのだと思われる。

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創世記 28:13-15

 これが神のなさりようなのだと思う。神はヤコブに祝福を約束された。共にいると約束された。一方的に、である。ヤコブに対して何も要求はしていない。条件もつけていない。アブラハムに呼びかけたときもそうであった。彼が良い人かどうか、貢献したかどうか、そういうことは関係がない。神がヤコブに目を留めて、彼と共に歩むと決意されて、そして呼びかけている、それだけである。愛するという言葉の意味合いを思い出させられる。「君が何々をしてくれたら愛するよ」というのは、愛ではあるまい。「あなたが好きになりました。あなたと一緒に生きていきたい」と切望するのがこの感情だ。断られる可能性があるにも関わらず、思わず告白してしまう。そういう一方的な行動こそ、神のなさりようである。「神の選び」という言葉を多くの人は誤解している。選びとは選抜試験に合格するかどうかではない。他の人がどうかは関係がない。ただまっすぐに、この人に呼びかけていく。それが神の選び。だから、「この人は選ばれて、この人は選ばれない」という話自体が、話の筋から逸脱している。

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創世記 28:10-12

 はしごと言われると、屋根に上る際に立てかけるあの形状を思い浮かべて、天使たちが両手両足を使ってよじ登っている光景が浮かんでしまうが、さすがにそれはないだろう。むしろ、天と地を結ぶ橋のようなものを想像した方が近いはずだ。本来は遠く隔てられている二つの世界が、しかしそこで連結されているという様子は、神の存在を身近に感じ、神が自分たちの回りで生きて働いておられることをひしひしと感じさせるものとして、ヤコブに押し迫ってきたのである。ヤコブは、神の存在を知ってはいただろうが、自分と直接関わる相手としては意識していなかったのだろう。まあ、現代の多くの人々もそうであるのだが。そうすると、何か「こうあるべき」と思い込むと、手段を選ばないということにもなる。ヤコブやリベカがそうであったように。でも、自分たちの身近なところで神が生きて働いておられることに気づいているなら、その御業に期待するという大事な要素が、私たちの営みの中に入ってくる。その違いはとてつもなく大きい。ヤコブは核心部分に触れようとしている。

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創世記 28:10-22

 聖書の中でも感動的とされる箇所の一つだと思う。何度も言っているように、ヤコブは問題だらけである。神から祝福される要素はさっぱり見あたらない。自業自得の一人旅である。このまま野で獣に襲われて死んだとしても仕方がない、イサクたちもそのくらいの覚悟があったはずだ。それなのに、神が近寄ってきて下さっている。お前のそばにちゃんといるぞ、と示して下さっている。こんなヤコブに対して、である。ヤコブの応じ方もすっきりしている。立派に生きます、などとは言えまい。自慢できることは何一つないことも分かっている。だから、鍵になっているのはただ一つのこと、神が共にいて下さるということへの喜び、感謝、それだけ。私たちにとっても、この一点こそがすべてであるのだと思う。

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創世記 28:6-9

 何が良いことであるのかを、自分自身の問題として探し求めようとしなければ、こういう行動になるのだろう。この結婚は、親の気に入るように、ということに過ぎず、前の妻たちの問題性をエサウ自身が意識したわけでもなく、また、その結婚そのものへの反省からのものでもない。だから、当然のことながら、何の解決にもなっていない。
 あるいは、姑息なヤコブよりも、からっとしたエサウのほうが好き、という人はいるだろう。聖書もヤコブについては決してほめていない。でも、エサウのような無頓着さ、物事の善し悪しに本気で向き合うことのない姿勢は、神の前には認めがたいのだ。これを善悪とか、神に対する思いではなく、異性に対する合いに置き換えてみるとよく分かるだろう。その場限りの好意、次に会ったときにはすでに他の人に移っているかもしれず、親の機嫌を取るために都合の良さそうな相手が選ばれ。どんなに他の部分で魅力的な人であったとしても、これでは真剣な愛情、恋愛は育たないとおわかりになるだろう。そして聖書の言う信仰は、「愛」の部類の話なのである。

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創世記 28:1-5

 イサクの選択が、自分自身の経験を元にしていることは明らかだ。ただ、そこにはアブラハムの時のような信仰の選択は見られないように思う。アブラハムは絶対者たる神を意識する人々が多い地域で息子の結婚相手を探そうということは考えたが、はたして誰がふさわしいのか、また、その地にいるかどうかも含めて、あくまでも神の導き次第だと考えていた。でもイサクは、ラバンの娘ならばそれでいい、というふうであって、似ているようで、ずいぶんと違う。実際、ラバンの娘たちが信仰的であったかどうかは、かなり曖昧なところがある。彼の思慮の浅さは、ヤコブが大いに苦労するという結果を招くことになっている。その事態を神が用いて、ヤコブの訓練に益するものとしてくださったことは、ただ神のあわれみでしかない。

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創世記 27:41-46

 ヤコブもほめられたものではないが、エサウの問題性もまた明らかである。自分の思い通りにならないと激しく怒る様子は、神の御心は何かということについての関心の薄さを示すようだ。もっとも彼の場合、この祝福を逃したことを後々まで引きずりはしなかったようで、結局は神とは関係なく自分の世界を築いていこうとしているのだが。
 リベカの問題性も再び出てきている。彼女は夫のイサクに真実を告げようとしない。上手に画策して、結果が良ければそれでいい、というふうである。だがそれは、最愛の息子と二度と会えない事態を招くのだが。なお、エサウの言葉にも関わらず、イサクは長生きする。後にヤコブが戻ってきたときにも、イサクは生きながらえているのだから、人の思い込みは全く当てにならない。

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創世記 27:30-40

 あまりにも杓子定規な扱いになっていることに違和感を覚える。ヤコブが約束の継承者になることが神の御心であったにしても、彼のやり方が不適切であったことは明らかで、それなのに祈りが有効というのは、何だか神への祈りではなく、まじないか何かのようである。38節の言葉はもっともで、ヤコブを祝福したからといって、どうしてエサウへの祝福を祈り願うことが不可能になるのか。聖書の中でそのような話はほかに出てこないはずだ。これもまた、当時の風習に影響されているのだろうか。もともと、約束の継承者ということの意味を取り違えてしまっているがゆえに、事態は混乱している。神の祝福、神の幸い、神によって選ばれているということの意味を、よくよく見定めていく必要がある。今日、クリスチャンが神の民と呼ばれていることの意味についても。さもないと、争いと混乱を引き起こすだけになってしまうだろうから。

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創世記 27:26-29

 この祈りからは、アブラハムに与えられた約束は見えてこない。もちろん、こういう祝福もすばらしいものであるし、必要なことではある。神は豊かに祝して下さるだろう。それでも、本来アブラハムが神によって選ばれ、イスラエルが神の民とされていく意義が、ここからは感じられない。聖書には、イサク自身がアブラハムから祝福の祈りをしてもらっている光景は出てこない。あるいはこの行為は、その地域の風習から影響されたものなのだろうか。
 誰かの幸いを祈り願うことはとても良いことだ。ただ、そこで終わってしまうのは、せっかくの祈りとしてはもったいない。29節の言葉は、後にヨセフが見た夢を思い起こさせるが、あのときもまた、単に兄弟の上に立つということではなく、この人を通して神の祝福があるという意味であったことが、後に明らかになるのだが。自分たちの狭い了見で物事を受け止めていると、神の幸いの豊かさを見失ってしまうようだ。

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創世記 27:18-25

 父をたぶらかすヤコブの様子は、冷や汗で大変なことになっていただろう、と想像できるようなものだ。それにしても、お気に入りだったはずの料理の味も判別できず、人間の毛深さと山羊の毛皮の違いが分からず、それでも声の違いには気づいているあたり、イサクはすでに大切なことを決断するだけの資質を失いつつあったのだな、と思わせられる。だとしたら、手助けを求めれば良い。リベカに、あるいはアブラハムがそうしたように、信頼できる家来に。彼の有り様は、神の前に誠実に事を運んでいこうとする慎重さ、真剣さとは遙か遠いものだ。もちろん、ヤコブの行動は何一つ弁解の余地はない。だが私はむしろ、イサクの姿に唖然とさせられる。彼はそれほど「悪事」を働いた人ではないけれど、神への真剣さ、必死さにおいては、父アブラハムとは比べものにならない。

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創世記 27:5-17

 父をだましたヤコブと言われるのだが、主導権を握っていたのは母親のリベカであったことがよく分かる。渋る息子を叱咤激励して、悪知恵もつけて、全てを整えて、そうして夫をだましたのである。
 リベカがヤコブを推した理由は、お気に入りの息子ということが一つ(25:28)、と同時にやはり、25章に出てくる神からのお告げが関係しているはずだ。エサウの結婚に見られる価値観や姿勢も気になっていただろう。でも、だとするならば、彼女は夫のイサクに言うべきであった。それは違う、と。神のお告げがあると知っていたのなら、それは大事な情報であったはず。でも彼女は何も伝えていないようだ。神の心を訪ねようとしなかったイサク同様、リベカもまた、神の御心にこそ価値を見るのではなく、それは材料の一つでしかない。
 この二人の姿勢が、この家族に決定的なダメージをもたらしてしまう。リベカは最愛の息子と、間もなく生涯の別れを余儀なくされる。

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創世記 27:1-4

 イサクはエサウを好んでいた。25:28ではエサウの猟の獲物がお気に入りだったと書いてあるが、食べ物の問題だけではあるまい。奔放に生きているエサウの姿を好ましいと思っていたからであろう。結婚についても、当初は認めていたはずで(当時、父親の承諾なしに結婚など考えられない)、後になってから問題に気づいたということだ。
 どういう性質の息子を好きになろうが、それは自由である。心に注目したとしても、この時点のヤコブをエサウより良いと言える要素は見あたらない。ただ、後継者の問題はイサクの好みではなく、神との関わりの話だ。人間の好き勝手な選択では済まない。神が誰を選び、誰に託していこうとなさるのか、それを指し示されてこそである。だが、この時のイサクには、神の御心を尋ね求める様子が見られない。約束の継承者という大事を、彼は個人的なものにしてしまっている。

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創世記 26:34-35

 エサウは、さほど考えもなく、身近にいた人々の中から妻をめとったのだろう。彼の生き様からしても、強い信念があって、ヘテ人との結婚を望んだとは思われない。単純に好きだったから、あるいは気に入ったからという、純朴なものとも言える。だが、事態は混乱した。イサクたちにとって悩みの種、と書いてあるのは、気に入らないとか、性格がどうの、ということではない。それは、アブラハムに与えられた神の約束を継承する家族にとって欠かせない、まさに心の姿勢、神と向き合う姿勢において違和感があったということだ。ヘテ人だからだめ、ということではない。民族を越えて、神への思いは共有し得る。だが、彼女たちにはそれがなかった。いや彼女たちの問題ではない。エサウ自身が、そういう点を大事だと考えていなかったということである。結婚において、家族の形成において、心の姿勢がどのようなほうへ向かっているのかは深刻な話だと、聖書は語っている。

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抜かしてしまいました

 毎日、寄ってくださっている皆さん、すみません。書きためがあると勘違いしてしまいました。2日分、抜かしてしまいました。明日のものから続けていきます。

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創世記 26:26-33

 イサクの回避策は、功を奏した。対立していた人々のほうから和解を求めてきたのだ。もし、抗戦していたら、こうはならなかっただろう。イサクにとって必要なのは、一つや二つの井戸ではなくて、この地に安心して暮らしていけるようになることだったから、本当に大事なものを手に入れることができたのである。柔和とか寛容は、聖書の語る美徳である。もちろん、正義とか真実も大切である。だからこそ、どこで何を発揮するのかについて、主の御心をしっかりと受け止めていきたいものだ。
 平和を手にした時、イサクは井戸も手に入れている。神の祝福の豊かさというものを考えさせられる。私たちはあまりにも目の前のことにばかり心を奪われているのかもしれない。

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創世記 26:12-25

 水の出る井戸は、この地域では最も貴重な礎である。家畜がふえれば、それだけ水の確保も難しくなるわけで、近隣とのトラブルも増える。イサクは繰り返し、地域の民との争いに直面していたが、それは彼が豊かになっていったことの印でもあったのだ。混乱したこの世にある限りは、神のくださる幸いにも、しばしば困難が伴うことがあることを、忘れないでいる必要がある。
 この時のイサクは、賢く対処したようである。彼は徹底的に争うことをせず、自分が他の場所に移ってい。それも繰り返し。軟弱と思うか。だが、我を通せば解決するものでもない。この時のイサクには十分な力があったことも、彼が回避を選択した背景にはあるだろう。彼には負担を引き受けるだけの力が備えられていたのだ。どこで譲り、どこで譲らないのか。この見極めは大切な知恵である。

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創世記 26:6-11

 どこかで見たような出来事である。そう、父親のアブラハムが、エジプトで、そしてまたこのゲラルの地でした失敗と同じ出来事である。悲しいことに、こういう面は親子で似る場合があるようだ。いや、そういう影響を受けやすいということだろうか。むろん、逆に現れる場合もあるので、一概には言えないのだが。
 恐れは人を間違った道に進ませることが多い。神ご自身への恐怖心ですら、しばしば人々を愚かにさせるということが聖書には出てくる。畏敬という意味合いでの恐れ、畏怖は必要である。けれど、間違った恐怖心は、それがどのような相手に対するものであれ、人を過ちへと引きずり込むことが多い。神が味方なら誰を恐れようか、という信仰を、きちんと持ち続けていたいし、繰り返し確かめておきたいものだ。

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創世記 26:1-5

 エジプトは大国であり、飢饉のような時には、大樹に寄り添う方が安心ではある。けれど、相手が大きいと言うことは、その中に組み込まれてしまうという可能性を大きくする。だからこそ神は、アブラハムをメソポタミアから引き出して、カナンという別天地に移されたのでもある。後のヨセフ時代のように、エジプトに住むことそのものが悪というわけではない。だが、それにはかなりの覚悟が必要で、我が身を律していかねばならない。とは言え、カナンに留まれば大丈夫というわけではないことは、この後の出来事の中に見ることができる。結局、場所によって左右されることではなく、自らのあり方、心の姿勢、そして神への信頼の度合いが物事に影響を与えるのだ。

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創世記 25:27-34

 ヤコブが虎視眈々と後継者の座を狙っていたことがわかる。双子故になおさら、どうして自分が後ろに立たねばならないのかという不満もあったのだろう。一方のエサウは、目の前のことだけで生きている人であったようで、だから、このような事件にもなった。彼は長子の権利というものについて全く関心を払っていない。後で憤慨するのだけれど、でも彼自身がそれで良いと言ったことでもあるのだ。この話を前提にすれば、後にエサウが祝福の祈りを受け取ろうとすることもまた、本来、その権利はないこと、と言えるのかもしれない。画策するヤコブと思慮のないエサウ、どちらも混乱して、事態は悪化していく。その中で神がヤコブを選ばれたことを考える時、神の選びというものが決して相手の状態を検証した結果としてではなく、ご自身の一方的な決断であることを思わせられる。このことは、聖書全体に見られる選びの話にも関連してくるものと言えよう。

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創世記 25:22-23

 後にリベカがヤコブの肩を持ち、後継者争いを引き起こしていくのは、お気に入りの息子ということだけではなく、この預言があったからだと考えられる。神からの言葉であるのだから、その意味合いは重要である。ただ、彼女は忘れていた。もしそれが神の御心であるのなら、不適切な策を講じなくてもことは進むはずだ。神の業を、しかし、人の手で動かさねばならないと思い込んでいる姿がそこにはある。と同時に、この話を、どうやらリベカは夫のイサクに伝えていないようである。イサクが神からの明確な言葉を無視してエサウを後継者にと願うとは考えにくい。その理由が何であれ、大切な情報が共有されなかったことが、後に家庭の混乱を招くことになっている点は、心しておきたい。せっかく神が関わってくださっているのに、人がそれを台無しにすることもあるのだ。

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創世記 25:19-26

 親たちと同様に、イサクの家庭も子どもの誕生という課題を抱えていた。彼らは子孫の繁栄という神からの約束を手にしていたわけだが、それがどう影響しただろうか、と考えさせられる。約束があるのだから必ず生まれる、と信じていたのか。それとも、約束を担っている者として、ここで血統を絶えさせるわけには行かないとプレッシャーになっていたのか。約束でなくても、神から何らかの使命を与えられている場合も、似たような局面に立たされる。神が命じられたのだから必ずなると確信するか、果たさねばならないと必死になるか。イサクは、望ましい行動を取ったようだ。そう、祈るということ。つまり、神に委ね、神に期待し、この事態を神に関わってもらおうとすることである。その結果がどうなるのだとしても、これ以外に道はないことを思わせられる。

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創世記 25:12-18

 イシュマエルは、神の約束によって生まれた子ではなく、アブラハムの約束を継承する子どもではない。とすれば、「大いなる国民に」という約束の対象外だと言われても不思議ではないはずだ。けれど、神はイシュマエルについても、一つの国民へと広がっていくことを約束なさり、それが実現していく様子がここには書かれている。
 一つの国民となるというのは、時代が過ぎる中で子孫がおのずと増えていく、というのとは意味が違う。そこには独自の意識があり、思想があり、文化があり、信仰があって、それで他のものに混じり合わないで、独自の存在が生み出されていく。イシュマエルの場合、それはアブラハム一族とは異なったものではあったのだが、神は彼らに与えた約束を守られている。主なる神は、いわゆるキリスト教信仰者だけの神ではなく、全人類の神であることを改めて考えさせられる。

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創世記 25:1-11

 アブラハムがさらに子どもをもうけたことから、神はイサクの誕生において、受精そのものを操作されたのではなく、アブラハムの身体そのものを整えられた結果として与えられたものであったことに気づかせられる。神は奇跡を行われるが、同時に、この世界の様々な法則などの秩序をかき乱すおつもりではないようでもある。できれば、神の御業の全体に目を向けていくようにしたいものだ。
 アブラハムは、イシュマエルのことで学んだようであり、後から生まれてきた子たちについては、きちんと対処をして、イサクの継承権に混乱がないようにしている。そういうしっかりとした姿勢が、イシュマエルとの関係も回復したのだろうか。アブラハムの埋葬は、イサクとイシュマエルの手でなされたということが記されており、彼の生涯をとても良い形で締めくくるものとなっている。

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創世記 24:62-67

 旅は成功した。彼を信頼して委ねたアブラハムの決断が正しかったということでもある。それはひたすら、神を恐れ敬う心がなしえた事柄であったのを、この二人は痛感していたに違いない。イサクとリベカ、当事者二人も互いを気に入った様子である。この結婚は豊かな祝福の中で始まった。後に、大きな混乱が待っているとは誰も知らないままに、である。
 一つだけ気になるのは、イサクが「母亡き後の慰めを得た」と書かれている一言だ。聖書にはいわゆるマザコン的なことはまず出てこない。母への親しみはむしろ、親への敬愛の心として推奨されている。言い換えれば、当時、親を容易に捨てる人々が多かったということだが。ただ、この言い方は気になる。そして創世記2章では、「人は父母を離れて」結婚に至るのだとある。家族は大事だが、その家族に捕らわれすぎるのは、別の混乱を招く場合もあるのだ。

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創世記 24:50-61

 ここで兄のラバンが出てきているのは、おそらく父のベトエルはすでに年老いて、家督を譲っていたからだろう。それにしても、彼らの応じ方はすっきりしている。「主から出たことですから」、それなら何も言うことはないと彼らは語る。神への畏敬の念というものを、現代人は激しく見失ってしまっていることを痛感する。彼ら、必ずしもアブラハムの信仰と同じではない。それでもなお、神のなさることであれば従う、と言い切る姿は、私たちの中にはたして見出し得るのだろうか。
 こんな彼らだからこそ、即座に出発するという話でも、リベカの思いを尊重しようという姿勢を見せ、そしてまた、彼女の意志をすぐさま受け入れたのだと思う。神の前に心が柔らかである者は、人との関わり、物事との関わりにおいても、柔らかな心を持ち得るようだ。

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創世記 24:28-49

 現代の常識に慣れていると、この話は奇妙に思えるだろうが、当時の結婚はあくまでも親の問題である。つまり、「結婚してください」と頼むのではなく、「娘さんを下さい」と父親に願うことになる。むろんここではリベカの気持ちを無視して、という話ではないのだが(ちゃんとリベカにまず贈り物をしている)、決定権は父のラバン。だから、より詳しく、丁重に、このしもべは話をしている。彼が注意深く語った大事な点は、これがアブラハムの意志であること、カナンに連れて行く必要があること、そして、神の導きがあっての話であること、この3点である。
 神の御心だと確信しました、というだけで、後は回りの人の思いなど無視して、一人で突っ走る人があるけれど、それは聖書の語る姿とは違う。人々の思いだけで動き、御心を振り返るのを忘れているのもまた同様であるが。この長い口上を、ちゃんと読んでおきたい。

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創世記 24:15-27

 現れたリベカの美しさが語られているが、サラも89歳にして求婚されるほどであったことを思うと、アブラハムの一家に関わる人々は、なかなかに器量よしであるのだなと思う。が、それよりも重視されているのは、彼女の言動であり、人柄である。昨日も書いたように、とてつもない労力を見知らぬ人のために費やしたのである。もちろん、見返りなど考えることもなく、である。それはまさに、良き妻の選択にかなっている。箴言31章の「しっかりとした妻」の話にも通ずるリベカの姿である。
 でも、これはやはり、神の導きを強く意識させられる出来事だ。何しろ、祈ったとたんにやってきたのがリベカであり、しかも彼女はアブラハムの親類に当たる。甥の娘であるから、イサクにとっては5親等だろうか。適度に離れていて、しかし、同じ文化的背景を持ち得る相手である。結婚においては、同じ価値観、それも何を善とし、何を悪とするか、価値基準というものが共通していないとやっかいだ。性格とか趣味趣向の違いは、互いの理解によっても乗り越えられるけれど、物事を判断する出発点は別だ。厳密に言えば、リベカの一家はアブラハム一家が持っていた「主なる神だけ」という意識には至っていなかったようだけれど、神を畏れることを知っていたからこそ、そのかみが「私だけ」とおっしゃるならばそれに従う、という意識を持ち得たと言える。そして僕は、神の導きを見定めようとしている。

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創世記 24:10-14

 らくだにも水を飲ませるというのは、かなり大変なことだ。一回に80リットルは飲むらしいので、10頭いたから800リットル。灯油のポリ容器が20リットルということは、40個分である。もちろん水道があるわけではなく、おそらく螺旋状に掘り下げられた井戸を降りていって、水をくんで登ってきて、の繰り返しということだ。これだけの苦労を嫌な顔一つしないでしてくれるとすれば(あくまでも善意である)、きっとイサクの良き妻になるだろうと、期待もできる。いや、ただの妻ではない。アブラハムの大所帯を切り盛りする女主人としての資質も見定める必要があった。そしてもちろん、心根の良さが問われている。
 でも、これこれの資質が必要で、これこれの試験に合格すれば、という話ではない。この僕が良き試験管であったということではない。彼は祈っている。良き人に出会わせてくださいと祈り、神の導きを知るための方法として、これこれの槍会をさせてください、と願ったのだ。いわば、かなり無茶な話を設定して、それでも応じてくれる人が出てくるとすれば、それこそ神の指し示してくださった人、ということだ。彼は神からの印を求めたのである。彼が求めたのは、神ご自身の差し示しであり、それ以外に、確かな相手を見いだし得る道筋はないと、神を信頼したことこそが、この出来事の意味合いである。

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創世記 24:2

 息子の結婚という一大事を、アブラハムは僕の一人に託している。この様子からして、連れ帰ってから改めてアブラハムが審査して、という話ではない。それほどにアブラハムはこの人物を信頼し、期待していたのだということが分かる。
 主人と僕と言うと、全く別世界の人という印象が持たれやすい。だが、聖書が語るのは社会の仕組みとか役割の違いであって、時に家族以上のつながりが持ち得るものとしての関係だ。私たちは単に立場とか仕組みのほうにばかり目を奪われて、真実にその相手自身がどのような意義を持っているの、幸いの人になり得るのかどうかについて、ほとんど何も見ていないということがあるのを、自戒させられる。そしてもちろん、この僕は役目を立派に果たしたのだ。

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