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2011年4月

出エジプト 4:24-26

 この出来事は、率直に言えば、意味合いがよく分からないとされている箇所だ。なぜ神は、モーセを殺そうとされたのか。息子が割礼を受けていなかったからか。それとも、モーセ自身に問題があったのか。聖書は何も理由を語らない。妻のチッポラがしたことについても、それがどうして効力があったのかは、今ひとつよく分からない。割礼そのものならばまだしも、息子の包皮をモーセの足につけることに意味があるというような箇所はどこにも出てこないし、血の花婿という呼び名も説明がない。
 ただ、何らかの理由で、エジプトに入る前のモーセは、神とぎりぎりの対面が必要であったことは見えてくる。そして、彼自身は神の求めに応じられなかったことも。けれど、妻のチッポラが動いたおかげで事なきを得たのである。以降、この話は出てこないから、この時点で全て解決したのだろう。ただ、それはモーセ自身の力ではなく、妻のおかげである。彼女によって、彼はイスラエルの指導者としての道を進んでいくことができたのだ。モーセの生涯全体において、チッポラの存在はそれほど大きく取り上げられてはいないけれど、その意義はとても大きいと聖書は語っているのだ。

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出エジプト 4:18-23

 神はモーセに、繰り返し、繰り返し語られている。聖書にはこういうふうに何度も語られる箇所がよく見られる。当時、紙が貴重だったことを考えると(今の紙とは本質的に違うが)、同じような内容を繰り返し書き記すのは通常であれば避けたいところのはずだ。簡潔な言葉で事実関係だけを記録しても、何とかなるとも言える。ということは、こうやって繰り返し神が語られることに、モーセをはじめ記者たちは重要な意味を受け止めていたということだろう。
 今日、大量の紙が消費され、溢れるほどの情報量が可能になる一方で、言葉の重みが薄れていると言われている。こういう時代こそ私たちは、神の言葉について、何度も繰り返し、繰り返し、読み直し、聞き直していく必要がありそうだ。前にも読んだ箇所、聞いた話と看過するのではなく、その繰り返しをこそ大事に受け止めていきたいものだ。

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出エジプト 4:10-17

 神が全てを整えて下さるのに、それでもなお、ブチブチと言い続けるのはやめておいたほうがよさそうだ。神はついにモーセに対して怒られたと書いてある。むろんこれは、モーセを罰したとか、見放したと言うことではなくて、人間で言えば、期待している部下がふがいないので怒鳴りつけた、という感じだ。神は冷静沈着というよりは、もっと良い意味で感情的な方であると、聖書を読んでいると思わせられる。
 でも、モーセの態度はさておき、このように神が全てを整えて下さっているということは、事を行うに当たっては非常に意義深い。神の用意した口、神の用意した語り手、だとしたら、それがうまくいくかどうかについても、神ご自身がしっかり対応して下さるということだ。神が味方ならば恐れるものはない、と言うけれど、単に害悪から守ってくれるだけでなく、この私の取り組みについても、必ず守り支えて下さるのだ。むろん、それは私たちがちゃんと神の御心を生きてこそであるが。

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出エジプト 4:1-9

 これらの奇跡は、あとでエジプト人に対して行われている。だが、この箇所によれば、もともとはイスラエル人に対して、神の存在と力を示すためのものだった。救い出してあげるというすばらしい約束が語られているのに、人々はなかなかそれを信じようとはしない。そんな人々を納得させるために、神は奇跡を見せてあげようとおっしゃっているわけだ。一般に、信仰とは何も見ずに、ただ神を信頼して進むべきものと受け止められている。「見ないで信じる者は幸い」という言葉を思い出す人もあるだろう。でも神は、意志が弱く、戸惑い続けてしまう人間の限界もご存じでいらっしゃる。だから、時々このようにして神の力を見せてくださることが、聖書には出てくる。
 もっとも、それは神と関わり始めた初期に見られるものだ。すでに良き信頼関係を築いていて良い時期に、なお、見なければ信じないと言い張るのは、もはやあわれむべき弱さではなくて、愚かで強情な心と言わざるを得ない。
 なお、いわゆる奇跡だけでなく、神が人々に指し示す印としては、神にあって生きている人々の姿そのものに、より強力な意義を持たせていることは、覚えておきたいところだ。

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出エジプト 3:18-22

 モーセが取り組むことは、決して容易には進まないことを、神は最初から語られている。そう、神が共にいれば、何の問題もなくするすると事が運ぶ、わけではないのだ。苦労もある、厳しさもある。しばしば神はそのように予告し、だからこそ、驚き慌てるなと語る。
 神の業に取り組んでいて、それで困難に直面したとしても、だからといってそれが自分の過ちのゆえとは限らないし、神の怒りでも、見捨てられたのでもない。それは織り込み済みのことなのだ。神は、モーセが直面する困難の理由は語っていない。神が告げているのはただ、それでも大丈夫だということであり、そして、最善の結果についてである。だとすれば、人がなすべきことはただ一つだ。神の約束を信じて、たとえ困難があろうとも前に進む。きっと道が開かれると信じて。

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出エジプト 3:15-17

 神を紹介する際によく出てくる言い回しが、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」である。単にご先祖様の神、由緒正しいぞ、ということではない。あの人々を守り導いた実績があると実例を指し示すと同時に、その確かさを人々が検証できるように、しておられるのだ。神は、闇雲に黙って従えと命じているわけではないし、力ずくで抑え込んでいるのでもない。人々が納得して信じ従えるように、となっている。
 もう一つ、この言い回しには、神の約束が示されている。私はかつて、アブラハムたちに約束したのだから、この約束を必ず果たすのだと、そういう意味も込められている。聖書を開き、神のなさっていることや語られていることについて、その知識を増やしていくことは、この信仰にとって重大な意味を持っているのがおわかりになるだろう。

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まもなく再開します

 1ヶ月以上、この連載をお休みしてきました。あいにくと一段落ついたわけではありません。でも、地道に聖書を読み進み、主を尋ね求めることは大きな価値がありますので、やはりこの連載は再開しようと、心を決めました。むろん、これ以外でも、皆さん、それそけれに聖書を読んでおられるでしょうが。
 間もなく受難週ですから、イースターまではどうぞ、それに関する箇所をお読みください(このブログでも、マタイの連載の中でそのあたりの箇所を取り扱っています。読み直していただいても良いかと)。そして、イースターの翌日、4/25から出エジプトの連載を再開します。

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