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2011年9月

出エジプト終了

 計算したわけではないのですが、9/30ぴったりで、出エジプトが終わりました。震災のためにお休みをしたこともあるので、7ヶ月かかりました。
 新約・旧約を交互に読んでいますので、次は新約です。ガラテヤ書を読むことにしましょう。例によって、ちょっとお休みを置いて、10/11から始めていきます。その間は、もう一度出エジプト記を、おおざっぱで良いので、眺め直してみるとよいでしょう。では、10/11に。

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出エジプト 40:34-38

 幕屋の上には、常に雲か火の柱が立っている。それが神の臨在を表す印だった。その瞬間は、モーセ自身ですら幕屋に入れないほどの圧倒的な存在感が示されたとある。この場所は、神を恐れ、神と共にあることを喜び祝う、そういう場であった。やがて人々は、この場所を、自らの便宜のために利用するようになってしまうのだが。神は変わらずにいてくださるのに、人々は恐れも親しみも、どちらも失っていく。いやいや、まだこの時は、神の圧倒的な臨在に、人々は姿勢を正される思いであったのだ。

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出エジプト 40:16-33

 第二年目の最初の日であることに注目したい。エジプトを出て一年が経った。激動の日々であった。そしてまた、イスラエルの民が神に激しく背いたこともあった。だが、神は今ここに、民と共に新たな日々を歩むことを宣言するようにして、この日、二年目の最初の日、幕屋を始動させている。民も、モーセも、神ご自身も、ワクワクしながらの始まり、再出発であろう。この年の内に、約束の地に入るはずだった。そのすべてを壊してしまったのは、またしても民自身であるのだ。でも今は、この期待感を味わいたい。

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出エジプト 40:9-15

 幕屋を聖別していくことが語られている。立派なものが造られたから、それで聖なるものというわけではない。金銀をちりばめたから尊いのでもない。それぞれのものを、「これは神のものだ」と明確に認定していくことによって、初めてそれらは聖なるものとされる。神のものとする。私たちの身近なところでいえば、持ち物に名前を書く。市販の、どこにでもあるものだったとしても、そこに名前が書き込まれた瞬間、それは「私だけのもの」となる。「聖」とはつまり「神のもの」という意味だ。このことが、罪からの赦しや、聖徒と呼ばれることの意味にもつながっていく。

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出エジプト 40:1-8

 第一の月の一日、まさに始まりの時に、幕屋は建てられる。会見の幕屋、神と向き合い、神と共に歩むためのもの。これを建てることで一年が始まっていくというのは、そういう神との関わりをこそ、これからの日々の中心に据え、イスラエル民族の柱としていくということだ。日本にも、一年の計は元旦にあり、という言葉があるけれど、物事を始める時、神と共にスタートさせていくのだということを、礼拝や、祈りや、何かの行動によって確認していくのは、とても有意義なことなのだ。

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出エジプト 39:32-43

 主が命じられたとおりにした、ということが、何度も繰り返し語られている。ちょっとしつこいと思われるかもしれないほどに、でも聖書は、この点を強調し続けている。だから私たちとしても、このことをよくよく心にとめて、自分自身にも問いかけたい。主が命じられたとおりにしているか、と。そのためには、まずは主が何をどのように語り、命じているのかを知らなければ何も始まらない。神の言葉を曲解する時、物事は大混乱に陥るのだ。

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出エジプト 39:1-31

 祭司という存在は、後になると大勢いて、神殿での役割がなかなか回ってこないくらいにもなるが(ザカリヤのように)、この時代には大祭司たるアロンが注目されるだけで、他はその息子たち程度だから、まあ補助的な感覚だろうか。ダビデの時代にも、一つの町が襲撃されると祭司絶滅の危機に瀕するくらいだから、ごく少数だったろう。民の礼拝を支えるために仕える彼らの労は、かなりのものだったと思われる。その装束は特別あつらえだが、それだけの希少価値があったと言えそうだ。

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出エジプト 38:24-31

 当時と金銀の価値が変わっているので、単純に比較しても意味はないのだが、使われた金銀の重さを今の相場に当てはめると、金は46億、銀は3億6千万くらい。数字が大きすぎて、計算を間違えているかもしれないが。とてつもない資金が投じられたのだと分かるだろう(これは使われた金銀の価値だけだ)。そういう神々しい場所に、しかし民は親しく出入りできたのであり、神との関わりを象徴するのにはなかなか良いものだと思う。

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出エジプト 38:21-23

 ベツァルエルとオホリアブという二人が、会見の幕屋造営には多大な貢献をしている。おそらく彼らは、民の中でもよく知られた才能の持ち主だったのだろう。その彼らが、自分の持てる能力を精一杯発揮して、この建設に取り組んでいる姿は、実に清々しい。彼らほどの才能はなくても、それぞれの存在をもって、神のなされる良き業に、私たちも関わりたいものだ。

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出エジプト 38:1-20

 引き続き、神の指示通りに、ということであるが、もともとの指示は金の子牛事件以前に与えられたものであることを思う。だが神は、あれだけの事件を経ても、何も変わらずに同じ指示のもとで造らせている。事情が違ってきたのだから、と思いたくなるのだが、もともとこれは神と向かい合うための場。神が用意されるところは、人の罪によって簡単に崩されてしまったりはしないのだ。そう、どれほど重い人の罪も、キリストの贖いを壊すことはないように。

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出エジプト 37:1-29

 神がモーセに指し示されたとおりのものが造られていっている。それぞれの仕様について、改めて取り上げても繰り返しになるだけだが、この、神の指し示されたとおりに、という点に注目したい。諸事情によって、完成品が計画とは違うものになることはいくらでもある。決して悪意ではなく、誠実な思いで取り組んだ結果としてそうなることもある。でもここでは、神の指図に忠実であることが重視されている。人は良かれと思っていろいろするが、少なくとも神との関わりでは、御心のままに、であることが大事なのだ。

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出エジプト 36:8-38

 26章の繰り返しであるから、こうして文字で読んでいる私たちには、冗長に感じられるのかもしれないが、当時の人々は耳で聞いていただけであり、完成イメージをCGによる3Dで見られるわけでもなく、とすれば、繰り返し語ることには大きな価値がある。神がこの建物を人々に強く印象づけようとされている思いの現れでもある。民がシナイ山で恐怖におののいた神と向き合うための場所、それは神の栄光を表すと同時に、民と共に歩む方であることを示す必要があり、よくよく考えられた構造であったはずであるから。

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出エジプト 36:1-7

 もう十分、と断らざるをえないほどに、民は資材を持ってきた。すごいなあと思う反面、これを素直に受け止められないほど、民は直前まで混乱していたことが思い出されてしまう。神の前に償いを、という意識が働いていなかったのかどうか。勘ぐり過ぎかもしれず、単純に拍手喝采すれば良いのかもしれないが。ただ、これだけの捧げ物があっても、それについて神が格別にどうとも言ってはおられないことは心に留めておいてもよいだろう。もっとも、進んで捧げたものであるなら、別段、お褒めの言葉が欲しいということではないだろうが。

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出エジプト 35:20-35

 イスラエル民族は、モーセの、いや、神の呼びかけに対して、一生懸命に応じている。壮大な幕屋が建設されたし、人々は心から喜びつつ、捧げ物をしている。つい先日、あんなことをしでかしたのに。でもこの民は、少なくともこの時点では本気で神に仕えている。
 この率直さというか、安直さというか、単純さが、イスラエルの特質であるのかもしれない。それが悪化の一途をたどる危険性はとても高い。現にイスラエルはそうだった。でも、神は無理に押さえつけるのではなく、人々が自らの思いで応答してくれるのを切望されるのだ。

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出エジプト 35:4-19

 会見の幕屋を作るために、様々な材料が挙げられている。それらは、イスラエルの民から寄せられる奉納物として調達されることになっている。また、才能与えられている者たちによる細工も必要だ。これは民を挙げての一大事業である。けれど、モーセはそれを命じず、あくまでも、心から進んで捧げる者、心に知恵のある(与えられている)者たちによって実現するものとされている。支配して命令するのはやりやすい。自主性に委ねるのは苦労が多い。でもそこに、神が事を動かしてくださると信じているのかが問われる。決して、各自の気持ちのままに、ではない。神の求めは明確だ。でも、力ずくで従わせることはしない。

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出エジプト 35:1-3

 再び、安息に関する話が語られている。マナのことを思い出せば、その趣旨がわかる。マナは6日間、毎朝降り続け、安息日だけは降らない。翌日までは持たず(腐る)、けれど、安息日だけは日持ちする。神がこういうマナを与えてくださることを信頼するか、それとも、信用ならないので、手に入るときにため込むか。安息が成り立つ社会、あるいは暮らし方というのは、つまり、神こそが与えてくださっているのだと信頼して、期待して委ねる心を持っているかどうかに関わる話なのだ。とすると、なかなか休みを取ろうとしない牧師たちは、神への信仰において欠けていると自戒すべきかもしれない。

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出エジプト34:27-35

 神との真剣な語らいがあった。民の重大な裏切り行為の後でなされたものであることを、心に留めておきたい。モーセの必死の思い、そして、神ご自身もまた覚悟を決めて、この民を導き続けるとしてくださった。その語らいが持つ深さは想像に難くない。モーセの顔が輝いたのも、その深刻さね神と必死で向き合うものであったからこそ、である。もっとゆったりと神に向き合えれば、そのほうがはるかに楽だろうに。民の罪が、こうしている。

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出エジプト 34:18-26

 18-20節はエジプトからの救出と関わるものなので、この時のイスラエルに改めて強調する話としてはなるほどと思う。21-24節は安息の休みなど、収穫に関わることで、この旅の行き着くところのことが語られている。つまり、守り導くという神の覚悟が示されている。25-26節がこの場面であえて語られている理由は、今ひとつわかりにくい。子やぎの話はとりわけだ。当時のイスラエルに、これらの事案に関連して、何か混乱の危険性があったのだろうか。
 これらが、金の子牛事件の後、神が改めて宣言された定めだ。

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出エジプト 34:10-17

 神と共に歩むための、軸になる事柄が改めて命じられている。まずは、主のみを神とし、他のものに心を傾けてはならないということだ。世界的、あるいは歴史全体で言えば、主は必ずしも、様々な神々をたたき壊すようにとは命じていない。表面的に排除しても意味がなく、真に主なる神のみとなるためには、人々の心そのものがそれを握りしめていくことが必要だ。でもイスラエルの場合、金の子牛の事件のように、その心はあまりにも危ういものがあり、神々を見ても動じない、看過できる、というふうではなかったことが、こういう命令にもつながっていると言える。

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出エジプト 34:1-9

 神はモーセと、改めて会見を持たれている。語られている言葉はとても厳しい。だが、この時はすでに神は、イスラエルを赦して、彼らと共に旅し続けることを明言された後のことだ。彼らと共に歩むからこその、その激しさ、厳しさであることを思う。モーセも、自体の厳しさを痛感しつつも、神の意図が分かるので、こんな者たちを、でもどうか受け止めて欲しいと願っている。罪ある者たちが神に請い願えるのは、このような祈りなのだと思う。

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出エジプト 33:17-23

 神はモーセの願いを聞き入れ、共に旅すると語って下さった。神は時に、自らの言葉を翻されるのだと、聖書はしばしば語っている。むろん、神の都合で約束を破るようなものではなくて、宣言された刑罰を止めて下さる、という部類のものだが。
 この約束の印として、モーセは神の姿を見ることを願った。神は応じたけれど、それがどれほど過酷な体験であるかを、モーセは分かっていたのだろうか。でも彼は、あの最初の時、燃える柴を見た時のように、もう一度神の確約を得たいと、確信したいと願ったのだろう。自分たちがどれほど危うい立場にいるかを承知していたからこそ。

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出エジプト 33:12-16

 モーセは神に願っている。言葉は前よりも穏やかに感じられるが、真剣さの度合いは似たようなものだ。もし、神が前言を取り消して一緒に旅して下さるのでなければ、ここから一歩も動かないと言い切っている。それは神に対する必死の要求であると共に、神が一緒でなければ動けるはずがないという、自分たち自身にとっての切羽詰まった思いでもある。彼ら自身の罪に端を発したことではあるけれど、これだけの危機感を持って神と共にいることを求める思いが、はたして私たちにあるだろうか。

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出エジプト 33:7-11

 まだ、正式な会見の幕屋が建てられる前の様子だ。しかしモーセは、神と向き合うための特別な場所を設けていた。神との関わりこそが、自分の指導者としての源であることを知っていたからだ。それだけではなく、神が共にいて下さることこそがイスラエルの民自体の核心であった。神が教えて下さった本格的な会見の幕屋もまた、そのことを指し示していた。神が共にいてくださる。それが全ての礎であったのだ。

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出エジプト 33:1-6

 一緒に行かない。神がそう告げられた。イスラエルの民はどうせまた愚かなことをしでかすから、そうしたら今度こそ激怒してしまうだろうから、少し距離を置いた方がいい。そういう理由だ。ああ気が楽になった、うるさい存在が遠くに行ってくれた、と喜びそうなところである。助けはあるのだ。旅路は守るのだ。それなら何の問題もなさそうにも見える。だが、イスラエルはこれを悪い知らせだと受け止めた。青くなった。そして、全てがおしまいというふうに受け止めた。金の子牛を造ったけれど、彼らは悟っていた。神が共にいてくれなければ、自分たちの存在は風の前の籾殻のようだと。

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葬儀がありまして

 教会員の葬儀があり、今日は抜けてしまいました。明日また。

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出エジプト 32:30-35

 ここに至ってまだ、民自身の後悔の言葉は出てきていない。モーセ一人がこの重荷を背負っている。そして彼は言う。民の代わりに自分が滅びてもかまわない、と。この言葉を口にできる理由を、私は理解できない。神と共にあることを何よりも大事と知っている者が、それを捨ててもよいと、そんなことが言えるのかどうか。神は、モーセの申し出をどう評価するのかについては何も言っていない。ただ、その申し出には応じないと答えているだけだ。にしても、モーセは事態の深刻さをわかっていた。我が身を犠牲にしてもなお足りないだろうということを知っていた。彼の痛みと苦悩を、私たちは少しでも知るべきだろう。

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出エジプト 32:25-29

 壮絶な事態となった。イスラエル民族同士で殺し合いがなされたのだ。レビ族が剣を振るったとき、民全体はおそらくせせら笑っていた最中だったのだろう。もう、誰もモーセになどついて行かないぞ、というふう。レビ族の行動によって人々はモーセが、さらには神ご自身が本気であることを悟ったのだろう。3000人は民の0.1%くらいである。レビ族がモーセに従ったのは、同族という意味もあるだろう。でも、この事態はレビ族と他の部族との関係を悪化させたに違いない。後にレビは部族としての所有地を確保しないことになっている。それは、他の部族の中でレビを守る意図もあったはずだ。人の罪は、事態をどんどん悪化させる。

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出エジプト 32:21-24

 アロンの言い訳は嘘である。モーセもそのことは知っていただろう。結局アロンは、回りに押し流される人でしかなかった。モーセという確かな基盤があって初めて活躍できる存在。彼自身が中心になって担うことはできなかった。神はアロンを罰してはいない。彼の弱さを知るがゆえの対応か。でも、それも含めて、アロンという存在がどれほど限りあるものであるかが、明らかにされた。万能ではなくても、その限界の中で生かされる人もあることを、思わせられる。

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出エジプト 32:15-20

 モーセの怒りは激しい。いや、悲しみと言うべきか。民族をあげて造ったはずの金の像なのに、燃え上がるような憤怒に包まれたモーセに、誰一人、抵抗しようとはしていない。丹精込めた金の像は、あっというまに灰となった。人々にその灰を飲ませたというのは、彼らが崇めたものは灰に過ぎないのだということを、その苦みをもって突きつけるものだったろう。それにしても、ヨシュアは何も気づいていない。彼の清廉さと、一方で、モーセのように人々の罪の重みをも知っているのとの違いを、少なくともこの時点では痛感させられる。

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出エジプト 32:7-14

 神の言葉は明確に、イスラエルを捨てると告げている。神の言葉である。気分に押し流されてつい口走った、ではない。だからこそ、モーセの言葉には震え上がる。怒っている神に対して、モーセは反論している。明らかに神が正しいのに、弁解の余地はないのに、それでもモーセは神に反対している。こんなこと、怖くて言えるものではない。モーセだってがたがた震えていただろう。それでも論じた根拠、それは神ご自身の言葉、神の御業、モーセはそこにかすかな拠り所を求めて、必死にしがみついて、そして赦しを嘆願している。そう、それ以外に、人が神に罪の赦しを願い得る拠り所などありはしない。

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出エジプト 32:1-6

 どうしてこうなってしまうのか、率直に言ってよく分からない。彼らは目の前で神の偉大さを見ていたはずなのだ。それなのに、こんなちっぽけな金の像を崇めてしまう。エジプトで偶像に慣れ親しんでいたとしても、そんなことは理由にならない。すばらしい方に出会って、でも、他の下卑たものに心を移す。あまりにも愚か。でも、それが人間の現実だと、聖書は語る。そして、その指摘がどれほど真実であるのかを、聖書の多くの出来事の中で、いや、身の回りの世界でも、私たちは嫌と言うほど見ているのだ。冷静に考えたらあり得ないはずのことをしている姿を。

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