« 2011年11月 | トップページ | 2012年1月 »

2011年12月

正月

 2011年も今日で終わりです。今年は震災のこともあり、時々休止していましたが、それでも何とか大晦日までたどり着くことができました。お正月は少しだけお休みさせていただいて、1/10から再開します。もし、時間がありましたら、ガラテヤ書1-5章、聖書そのものを正月休みの機会に、一気に通して読み直してみていただけたら。では、よいお年を。

|

ガラテヤ 5:23

 自制という言葉が、御霊の実リストの最後に出てくる。キリストは、人の内側から出てくるものこそが人を汚し、傷つけるのだと語られていた。正直であるのは良いけれど、自分の思いをただ吐き出すだけ、誰彼かまわずぶつけるだけでは、自他共に傷つけるだけである。神に対してだけは、率直に、抑制しないでも、祈ってもいい。思いのたけをぶつけてもいい。ただし、そのことを神に委ねる覚悟をもって、だ。私はこう思うのです、でも、私の言いたいことは申し上げましたから、あとは神様に任せます、どうなさっても受け入れます、と覚悟をもって祈るのであれば。そして、できれはその祈りを、共に受け止めてくれる信仰の友がいればなおさら良い。

|

ガラテヤ 5:23

 柔和という言葉は軟弱さと取り違えられることがある。真に柔和であるためには、相手を包み込むような苦労が伴う。幼子には柔和さを発揮する力はあるまい。自らの心に力をつけ、自らの日々をしっかりと立て挙げていくことが、柔和さのためには必要だ。ぎりぎりの状態にいる人は、どうしても柔和さを見失いやすい。それを叱りつけてもどうにもならないわけで、むしろ、環境を整えることに日頃から取り組んだ方がよい。たとえば、睡眠不足は柔和さを奪いやすい。ちゃんと寝る。そういう事柄もまた、神の前によりよく生きていこうとするならば大事なことだ。野放図にしていてちゃんとやれるほど、人は立派ではない。

|

ガラテヤ 5:22

 誠実であることを皆が旨としていたら、裏切られたり、傷ついたりすることは、大きく減るはずだ。この世界に思うようにならないことはある。頑張っても実現しないこともある。そういう痛みや悲しみは避けられない。それでも、もしも互いが誠実に取り組んだ結果としてのものだとしたら、覚悟ができる。納得ができる。悲しみは消えないだろうが、前に進んでいくことができる。むろん、誠実さにはきりがない。もっとできたのではないかと言い出したら、終わりはない。誰かが側でブレーキをかけてあげないと、自分自身を追い詰めて行きかねない。でも、適当に済ませてせせら笑っている人生よりは、時に至らなさに涙しつつ歩んだ方が、ずっと良いのではないか。

|

ガラテヤ 5:22

 善意とは、裏返せば悪意を抱かないこと。相手に害悪を与えようなどという思いは持たずに、良きことを願い続けるところにある。これは日頃の人間関係においてだけでなく、むしろ、仕事においてこそ問われ続けるべきものだと思う。仕事はこの世界の中に何らかの益を生み出すためのもののはずだ。誰かから奪い取ることで自分が豊かになることを目指すだけなら、それは泥棒と同じだ。誰かに益をもたらし、その労によって自らの利益を手に入れる。そういうものであるべきだと、自らに言い聞かせつつ世界の仕事がなされていったら、この世界はどんなにか良くなることだろうか。

|

ガラテヤ 5:22

 親切な人とは、相手の状況にしっかり目を配っている人だ。同じ行動でもお節介になることがある。違いは、相手の必要に応じているかどうかにある。ただ努力しているだけではだめだ。犠牲を払っているだけでも。この対応こそが問われるのだし、そして、真に良き価値を生み出すことにもなる。目を開き、耳を開き、あたりの様子をしっかり眺めていたい。そうすれば、神はあなたに、なすべきことを指し示してくださっているのを見つけることができるだろう。

|

ガラテヤ 5:22

 寛容はとても難しい。自分なりの信念を抱いていたり、真理を確信しているときには、それを貫き通そうとするから、なおさらである。だが、どっちでも良い状態というのは寛容でも何でもない。また、簡単に相手に譲歩できる場合や、相手と自分とは別々で良いと切り離してしまえる時も、寛容は問題にならない。このことは、違うぞと思っているとき、絶対にと思っているとき、そのときにこそ問われ、要求される。ごまかすのではなく、譲るのでもなく、それでもなお寛容であり続ける。そのためには自らが多くの犠牲を払うことが必要になる。神ご自身がそうなさったように。

|

ガラテヤ 5:22

 幸いとは何かと尋ねられたら、「平安」があることだとの答えが究極のものかもしれない。どれほど物質的に豊かでも、成功を収め続けていたとしても、もしその心に葛藤が続いていたら、不安が離れなかったら、そこに幸いはない。現代はストレスの問題が広く認識されるようになった。かつてはプレッシャーはむしろ益、と言われていたこともあったのだが、それがどれほど人をむしばむかが理解されるようになってきた。平安をもたらし得ないとしたら、どれほど立派なことが語られていたとしても、その意義は疑われても仕方がない。

|

ガラテヤ 5:22

 喜びは、神と共に生きようとするときの大きな幸いの一つだ。良い状況に囲まれているから喜ぶのではない。花園でうたた寝しているとは限らない。厳しい嵐が吹き荒れているかもしれない。それでもなお喜びを覚えることができるのは、必ず守り支えると約束してくださっている神と共に生きられるからこそ、そしてまた、愛する他の人々と共にいられるからこそ。凍り付く冬の道を、けれど、親しき友と語り合いつつ歩く子どもたちは、何とも楽しそうではないか。神は苦虫を与えるのではなく、私たちを喜びで満たそうとしてくださっている。

|

ガラテヤ 5:22

 せっかくだから、一つずつ、見てみよう。最初は、愛である。神を離れたときから、人の心に宿る思いは本来の愛ではなくなってしまった。あれだけエバを愛したアダムが、罪の責任をエバになすりつけたことは、その醜さの表れだ。愛は、誰かから与えられないと発揮されないとも言う。私たちに愛を注いでくださるのは神ご自身である。だから、愛を知る者になりたいなら、神の愛と、その行動を知るのが一番だ。愛は好きかどうか、気に入っているかどうか、評価しているかどうかの話ではない。その相手の幸いを切に願うことにこそある。

|

ガラテヤ 5:22-24

 9つのよき姿が語られているが、御霊の実とあるように、これらは人の頑張りで達成されるものではなく、あるいは資質の問題でもなく、御霊によってこそ生み出され得るものだ。だから、自分には届かないと感じたとしても、それはむしろ妥当な感覚。必要なことは、神が備えてくださる生き方にはこんなにすばらしいものが可能になるのだと知って、期待して、喜び求めて、だからこそ、今、目の前にある神の教えと導きに一つ一つ、応じていくことである。そうすれば、御霊は私たちの内にこれらの実を与えてくださるだろう。

|

ガラテヤ 5:21

 キリストの十字架はいかなる罪をも贖い、神の赦しをもたらす。これは福音の核心に当たる真理だ。だから、相続することはない、という言葉は、このリストのような邪悪なことをした者は地獄行きだと言っているのではない。話の流れを思いだそう。このリストは善行を教え諭すためのものではなく、神が与えてくださったせっかくの救い、せっかくの自由を投げ出す者たちが陥る所業を指し示すものだった。そう、相続することはない、のは、神の備えてくださる救いの恵みを押しのけて、自らの力を誇り、業績を語る者たちへの言葉である。彼らも神の国を目指してはいるのだろう。だが、彼らの歩いている道は全く別のところへ向かっている。パウロは涙ながらにこの言葉を書き記していたのではないか。

|

ガラテヤ 5:21

 酩酊・遊興は、その時の快楽を最重要視して、他の価値などを放り出してしまう姿だ。遊んで悪いことはないし、楽しみは神の祝福でもある。律法自体が宴会の開催を命じているところもある。ただ、それが何よりも優先され、大切なものを投げ捨てるようなことになりかねない愚かさと弱さを、人は持っているのだ。遊びを良きものと思うほどに、自制心と、そしてまた、他の良き事柄によりいっそう取り組んでいくことが必要とされる。

|

ガラテヤ 5:21

 ねたみは、人間関係が破綻していく際の大きな要因として注目されるべきであるから、前の部分につなげても良いのだが、ちょっと別立てで意識した方が良いように思う。もし、神が自分に与えてくださっている幸いをきちんと受け止めていなかったら、その人はきっと回りを見てはねたむだろう。見比べ、比較し、そして相手をうらやみ、憎悪し、奪い取ってやろうと思い、手に入られないなら壊してしまえと思い、である。ヤコブ4:1-も参照したい。

|

ガラテヤ 5:20

 党派心・分裂・分派は、キリストにあって一つになる、という救いの祝福に真っ向から反するものだ。自分がすっきり納得できるかどうかで動こうとするから(つまりは自分中心)、こうなる。留意しなければならないのは、これはみんなで我慢して、強制的に同じであれ、ということではない。人は違いがあって良いので、それを越えた一致が、キリストの救いを受けているという点にある。だから、今日のように多数の教派になってしまっていることには歴史的な問題があるが、同時に、それを無理やりまとめて一つの団体にすることを目指すのもまた、愚かなことである。教派に関することは別途詳細に学ぶべきであろう。

|

ガラテヤ 5:20

 敵意・争い・そねみ・憤りは、人間関係の破綻を意味する。隣人を愛せ、という教えの対極には、自分の利益や満足が一番、そのためには何を犠牲にしてでも、という生き方が生ずる。創世記は、人が神を離れた時、人間関係もまた激しい混乱に陥ったと告げている。神抜きで、人間だけで穏やかにほほえましく生きていく、ということはありえないことを、聖書は涙ながらに語り続けている。

|

ガラテヤ 5:20

 リストの続きだ。偶像礼拝・魔術は、神ではないものを神のようにして扱うことである。先の性的混乱がしばしば偶像礼拝と結びつくことは、現代社会でも見られる。魔術は、神の力や導きを排したところで、自分たちの勝手な都合や欲を実現すべく、何かの力を使おうとするもの。その点では、留意すべきは摩訶不思議な力だけではない。科学技術の類も、あるいは肉体的な力も、使い方を誤れば人々を災難に巻き込み、自らを滅ぼすものとなるのだから。

|

ガラテヤ 5:19

 15個のリストを順に見てみよう。不品行・汚れ・好色は、言葉の意味合いからして、性的事柄に関する退廃をおもに指している。禁欲的であれと教えられているのではない。本来的に性的事柄は神の祝福の中にあるものだ。けれど、だからこそなおさら、罪はその良きものを堕落させ、間違った形で動かし、人々を悪の中に捕らえていく。神の祝福の中にあってこそ、ということを、心に刻み込まねばならない。

|

ガラテヤ 5:19-21

 列挙されている肉の行いのリスト。自由を履き違えた姿として警告しているのではなく、御霊の元から離れてしまった者のあり方、つまりは、神の恵みにあって生きるのでない姿が生み出すものとして、強い危機感を持って述べられていると言うべきだろう。2:15でパウロは、ユダヤ人は異邦人のような罪深き生き方はしないと言っていたが、より突き詰めて言うならば、人間の意識や努力だけでは容易に転落するのだ。御霊にあって生きよ、との言葉は、喉が張り裂けんばかりの叫びとして聞きたい。

|

ガラテヤ 5:18

 御霊に導かれる生き方と、律法によって歩む生き方が、ここでもまだ対比されている。御霊に支えられての「良き生き方」であってこそ、真の自由にもなり、また、隣人を愛する道筋にもなる。でも人は最初から、そう、アダムたちの時から、いつも神を放り出し、自分の力で生きようとしてきた。必ずしも悪を行いたいから神を捨てるわけではない。でも、自分たちを作ってくださった神、この命を与え、今も生かして下さっている神を捨てることは、まさに自らを滅ぼすものでしかない。これこそ悲劇だと、思い知らねばならないのだ。

|

ガラテヤ 5:17

 解釈上のためらいを残しつつも、後者の理解を前提に話を進める。自分のしたいと思うこと、というのは、罪汚れから離れた正しい生き方、のことだけれど、もし、自分の力に頼って頑張るだけだとしたら、人は決してそれを実行できない。22節にあるように、真っ当な生き方は「御霊の実」、つまり、神が与えてくださるからこそ、であり、自らを叱咤激励すれば、ではない。「試みに遭わせないで悪からお救いください」と祈るべき私たちなのだと、心に刻まねばならない。まして、大丈夫などと何の根拠もない自信は厳禁である。

|

ガラテヤ 5:16-18

 この箇所も、前者なら自由をはき違えるな、という話のつながりだけれど、後者なら律法主義に生きるならば、その先にはむしろ欲望に支配される世界が待っているだけだ、という警告になる。ここまでの話と同じ論調で言えば、御霊に導かれるとは神の恵みに生きることで、肉の願いとは自分の力で神に認めさせようとする生き方、つまり律法に生きることを指すはずだ。後者の理解だと、この指摘はさらに深刻だ。清く正しく生きるぞと自らの力で頑張っている先には、重大な落とし穴があるのだから。むろん自由をはき違えて放縦に走ってはいけない。だが、もしも神の恵みとあわれみによって赦されていることがしみじみ分かっているなら、それは正しさを追求する人間の力よりもはるかに強く、その人を悪から守ってくれることだろう。

|

ガラテヤ 5:13-15

 前者の意味で考えるなら、今まで律法主義を非難してきたのだけれど、そのことを勝手気ままに、放縦を生きてもよいという意味で受け取ってはいけない、という趣旨になる。自由の真の意味を知るべきで、さもないと他者を愛することにはならず、皆を滅ぼしてしまうことになる。この箇所だけを切り取って考えるならこの理解のほうがずっとわかりやすいけれど、前の部分とのつながり方がしっくりこない。放縦の問題を語るならば、もう少し何らかの明確な切り替えがあっても良さそうなのだが。

|

ガラテヤ 5:13-15

 昨日の後者の意味で考えるなら、「肉の働く機会」とは欲望のままに生きることではなくて、肉の力に頼って生きること、つまり、ここまで語られてきた律法に生きる姿を指すことになる。その姿勢が他者を傷つけ、つまずかせていることについては、すでに指摘されてきた通りだ。自由なのだから、どんな主義主張で生きても良いとも言えるが(律法主義も含めて)、でもそれは自らも他者も滅ぼしてしまう(15節)ものになる。隣人を愛する教えに従うつもりなら、律法主義はあり得ない。

|

ガラテヤ 5:13-15

 この箇所の意味合いは、12節までの続きなのか、それとも話を切り替えているのかによって違ってくる。切り替えなら、今まで律法からの自由を語ってきたが、ただし互いに仕え合うことにおいてはしっかり取り組まなければ、自由と放縦を取り違えることになる、という話になる。続きならば、律法を強要する行動は他者をおとしめる行動で、むしろ律法主義者が語る善行重視にも真っ向から反するものとなる、ということになる。論理としては前者のほうがわかりやすいが、この文面からは、話を切り替えました、という印象は薄い。どちらの意味合いでも大事なことなので、明日もこの箇所について触れることにする。

|

ガラテヤ 5:10-12

 迫害を、あるいは面倒を避けるために、曖昧な態度を取ることを薦める人もいただろう。ユダヤ人勢力との対立は活動に重大な支障をもたらしていたので、それが解消されるのは有意義なことであったに違いない。でもパウロは、この対決を回避する道を選ばなかった。直面していることが表面的な話ではなく、福音の本質に関わることだと気づいていたからだ。2000年間、同じ問題は何度も出てきている。だが、もしも福音の恵みによって救われることを望むなら、キリストの犠牲を無にしたくないなら、ここは踏ん張らねばならないのだ。

|

ガラテヤ 5:7-9

 わずかのパン種と言われているように、ある人々にとっては些細な話に見えるのかもしれない。本来的には、割礼を受けるかどうかは些細な話なのだ。でもそれが、悪用する人々の存在によって重大な課題になってしまっている。その本質においては些細であっても、しっかりと向き合わねばならないことがあり得るのだと、私たちも肝に銘じておく必要がありそうだ。

|

ガラテヤ 5:2-6

 割礼のことがしばしば取り上げられている。それ自体は悪いことではないし、神との結びつきを表明する趣旨で行ったとしても、それはそれで悪ではない。本来は。でも、当時のキリスト教世界では、これは律法によって生きることの象徴のような意味があり、意思表明を指し示すものとなってしまっていた。だからパウロはここにこだわり、そして、あたかも割礼を禁ずるかのような言い方すらするのだ。それ自体は悪くないものを、しかし人の愚かさが壊してしまう。似たようなことはしばしばあり、罪の恐ろしさを思わせられる。

|

ガラテヤ 5:1

 律法を全うすることによってしか神に認められる方法はない、という教えからの解放である。それは、恵みによって救い出してあげるという神の約束を知らされた時に始まった。不可能を自らに強いていた人類が、希望と確信を見出した瞬間である。それなのに、この幸いを投げ出して、ふたたび自らの努力と業績によって判定される道に戻ってしまうとすれば、それは全てを失うのと等しい。せっかく自由になったのに、自ら奴隷に舞い戻る。それは愚かに過ぎ、号泣せずにはいられない姿だ。

|

ガラテヤ 4:30

 これも奴隷を虐げる意味の言葉ではない。イシュマエルがアブラハムの家を出ることになった事件は、そういう事態に至るまで放置していたアブラハムに対してこそ、責任を問うものである。時に新約は、皆が慣れ親しんでいる話だからということで、事件の概要だけ利用して、旧約の本来の意図とは別に、事件だけを利用することもある。ここで言えば、神の恵みによって救われ、歩ませていただいている、という生き方と、律法を守り、頑張って神の祝福を手に入れよう、という生き方とは、決して相容れないのだと語ろうとしている。良いことをしているのになぜ問題視されるのか、という疑問は当然だけれど、そのことが神の恵みを追いやるものとなってしまうのだったら、断固として叫ばねばならない。律法に生きることは間違っている、と。

|

ガラテヤ 4:27-28

 もし人が神につくと言うのならば、神の約束を信じねば何も始まらない。立派に生きろと言うのではない。戒律を守り通せというのでもない。しかし、神を信頼し、期待し、神が約束されたことは必ずそうなると信じるのでなければ、すべては塵に帰ってしまう。人の努力と業績、良い行いに寄って神の救いを手にしようとする行為は、一見、立派な生き方のように見える。だがそれは、神の約束を捨て去り、そんなものでは安心できない、自分のこのてで救いを勝ち取るのだと、神を押しのけて自分が走り出すような、そういう姿なのだ。そんなことはあってはならない、とパウロは激している。

|

ガラテヤ 4:23

 この言葉は、ハガルに対するものではなく、アブラハム自身に対するものだ。子が生まれずにいた時、アブラハムとサラは自分たちの知恵と努力で乗り越えようとした。その結果がハガルであり、イシュマエルである。つまり、「肉」に頼ったのだ。けれど神の約束は、サラから生まれる子、であった。不可能な状況だった。神が働き掛け、神が力を注いで初めて実現したことである。神は約束を果たされた。この二人の誕生は、肉ではなく神の祝福、ということを、アブラハム自身が最も強く教え諭された出来事であったのだ。問われているのはアブラハムであり、そして、身の前に生きているつもりであるクリスチャン一人一人である。

|

« 2011年11月 | トップページ | 2012年1月 »