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2012年5月

第一コリント 1:26-31

 コリント教会に集まっていた人々は、当時のコリントの中では、決して知者ではなく、力も弱い者たちであったようだ。それで人々は、世の中に負けないように頑張ろうとし、次第に自らの頑張りを誇るものになっていったのだろう。でも、神の救いは何もできない時の人々にすでに与えられている。それを思い出すならば、我が身の頑張りを誇り、それを神の前にひけらかすのがどれほど愚かなことであるかを知り得るはずだ。神は誰に、どんな相手に救いを与えているのかは、この救いの意味を悟る上では重要な鍵になる。

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第一コリント 1:21-25

 パウロは神の愚かさ、と言っているが、本当のところは違う。人々は愚かだと言うだろう。でも、この救いは人々が考えている知恵ではないものによってこそ達成され得る。ローマ書などで取り返し取り上げられている行いの問題もそうだ。人々は自らの力や業績によって救われると考えている。だが罪は人の業績などでは償いきれるものではなく、ただ神の一方的なあわれみによってのみ救いはなる。そんなふうにして罪ある者を犠牲をはらって救うなど、人々からすればまさに愚の骨頂であるだろうけれども。

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第一コリント 1:22-24

 ギリシャ人の嘲りについては、使徒17章の場面を思い出す。彼らはパウロがキリストの復活を語った時に失笑した。死んだ人はそれで終わり、ということである。もしそうだったら、キリストに望みを置く者は単なる惨めな存在である(第一コリント15章)。キリストに希望があるかどうかは、復活が真実かどうかに深く関わるし、また、死が終わりかどうかに深く関わる。それらを無視したら、この福音に込められた力を信頼できなくなるのだと、パウロは語っている。

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第一コリント 1:22-23

 ユダヤ人にとってはつまずき、とあるが、十字架で死んだ者を崇めるというのは、ユダヤの常識からすれば確かにありえないことだ。旧約では、そのような死に方をする者は神に呪われた者として理解されるのだとあり、そんなものが救い主であるはずがないと結論づけるのは当然でもある。だから復活による明示が必要であったのだし、そしてまた、なぜキリストは呪われた者になる必要があったのか、という点と、それから、人を罪から救う方法は何か、ということが関係してくる。福音の意義は、イエス様って素敵、とか、愛の深い優しいお方、というだけではないのだ。このようなことをパウロがコリント教会に書いていると言うことは、彼らの認識もそのあたりだったのだろうか。

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第一コリント 1:18-25

 十字架の言葉、つまり福音(神の約束)は、人の持つ思想とか知性とかからすると、何とも愚かに見えるのだとの指摘は、福音の本質を考える上で重要だ。神は言われる。十字架で死んだイエスを救い主と信じれば助けてあげる、と。世の知性は語る。人はもっと精進して自らを研ぎ澄まし、偉大な存在になれば道を切り開いていくことができる。どちらに魅力を感じ、高邁な思想を見るかは明らかだ。でも、そうやって比較されて、くだらないと失笑されることを避けてはならないのだ。この福音が、人にとって唯一の救いの道だと知っているのならば。

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第一コリント 1:17

 パウロは当時のユダヤ最高峰の学問を修めていたし、使徒9章でもダマスコの町で力強く人々を論破していたことが記されている。もしかするとパウロは、後にアポロの姿を見て、自分の若い頃を思い出したかもしれない。そういう知恵も知性もむろん有意義なものではあって、排除する必要などはない。人の力も努力も、それはそれとして意義あるものだ。ただその際に忘れてはならないのは、救いの核心部分はあくまでも神ご自身の力であり、その前では人の知恵や力は霞に過ぎないということだ。とりわけ、自分らの力を誇っていたコリント教会に対しては、この点を強調する必要があった。もし私たちも、神の恵みであり、力であることを見失うなら、「あなたの取り組みなど何にもならない」と神から言われてしまうだろう。

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第一コリント 1:14-17

 バプテスマを授けることそのものは、決して問題的行為ではなく、実に幸いな、そして大切な使命である。パウロがこの役割を果たす機会が少なかったとすれば、意図的に回避していたというよりはたまたまと言うべきだろう。それがコリント教会に対しては役に立ったのだが。しかし、パウロはコリント教会に対する自分の存在を小さく見るつもりは毛頭ない。バプテスマにはそれに先立って福音の伝達が必要だ。パウロはその点については決して譲っていない。ただし、彼自身の能力ではなく、あくまでも神の福音そのものの力と価値ゆえ、であるのだが。

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第一コリント 1:12-13

 コリントに生じていた混乱がどれほど深刻だったかは、この論議を見ればわかる。これは単にキリスト教信仰の中での主義主張の食い違いという部類の話ではなくなっている。私たちに救いをもたらしてくださったのはキリストのみであり、その方に従う上での多様さであるのに、人は目の前の違いを争うがゆえに、本質がどこにあるのかを忘れてしまう愚かさを持っているのだ。聖餐式があるのは幸いなことだ。私たちは繰り返しそこに戻り、この救いがどこに成り立っているのかを確かめることができる。そこには人間たちの名前は決して出てこないのだから。いかなる偉大な信仰者も、私たちに救いをもたらすことはできない。

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第一コリント 1:10-17

 イエスが十字架の前に祈られたのは(ヨハネ18)、主を信じる者たちが一つであることだった。むろんそれは組織・団体の類としてどうこういう話ではないけれど、主をあがめる志としての一致は、この救いを受けた者としては当然である。けれど、コリント教会において人々はばらばらであり、しかも、信仰の原点そのものにおいて食い違いが発生していた。この姿は信仰の基軸を揺るがす重大事であって、パウロの強い口調も道理である。今日、団体としては様々な分かれているし、便宜的にはその方が良いことも多々あるけれど、あくまでも信仰の根幹においては同一だと認めあえてこその多彩・多様さであることをわきまえておく必要がある。それができない相手だからこそ、いわゆる「異端」という認識が存在するのだ。

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第一コリント 1:8

 この言葉は重要だ。そう、私たちの救いも、信仰が保たれていくことも、全ては神ご自身の守りと支えがあってこそなのだ。その人の信念の強さや性格的な良さが源ではない。それは私たちの思い上がり、事故過信を戒めると共に、どれほど人の側に問題があっても、それでもなお、神の御手があるかぎりは必ず前に進むことができるという確信にもつながっている。このことを知らなければ、人はただ自らの足りなさに愕然とし、崩れ落ちてしまうだろう。

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第一コリント 1:4-9

 先入観なしにこの言葉を読めば、神が与えてくださった祝福への賛歌として受け止めることができるだろう。でも、これは手紙であり、読み手はコリントの実情を知る者たち。とすれば、彼らの耳にはこの賛歌がどのように届いたか。神がこれだけの祝福を与え、力強く救いの恵みを与えてくださったのに、それなのになぜ、こうまであなたがたはひどい状況に自ら陥っているのか。高らかな賛歌であるだけになおさら、そういう嘆きが垣間見えるのだ。

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第一コリント 1:1-3

 今日から第一コリントを読んでいく。手紙の冒頭によくある挨拶文だが、コリント教会の実態を知る者からすると、「聖徒」とか「聖なるものとされた方々」という呼びかけは違和感があるはずだ。彼らはとんでもない大きな問題を抱えていて、忌まわしさも感じられるほど。「聖」という言葉の意味が、世間の感覚とは違うのだ。これはそれ自体の性質の良さを示す言葉ではなく、「神のものとされた」という意味。そして神ご自身こそ、とほうもなく問題ありの者たちを、それでもご自分のものにして生かしていこうとなさる方。それが福音の目的だ。

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レビ記終了

 昨日でレビ記が終わりました。事細かな規定が続いて、ちょっと疲れたでしょうか。でも、それぞれに神の御心は何か、どんな価値観がというようなことが力強く指し示されていたことに気づいていただけたなら。そして、これらの規定を前提とする社会に、この後、イスラエルの歴史が動いていることを覚えておいていただくことも必要でしょうね。
 さて、次回は新約になります。前回はガラテヤという短めの書簡でしたので、次はコリント人への手紙を読み進めることにしましょう。少しインターバルをいただいて、5/21からの再開といたします。

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レビ 27:30-34

 神のものは神のものとし、それに自分の勝手な思いで手を出さないこと、と定められている。それらは神のもの、だからだ。もしもそこで人々が、自分は神を養ってあげているのだ、みたいなふうに考え出せば、神に差し出したものを取り替えたり、取りやめにしたりもいくらでも可能になる。だが、それらはすでに神のもの。私たちのものではなくなっていることを、しっかりとわきまえておきたい。これらの規定は、神をないがしろにしないこと、そしてまた自らの所有権について正しい感覚、理解を身につけるためにも大事な訓練となる。

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レビ 27:28-29

 当時は、聖絶と言って、戦争などで戦利品にすることが可能なものについて、人が自分の所有物にしてはならないと定められていたものがあった。自分のものにしてはいけないのだから、当然、売買もありえるはずがない。そして、一連の話から言えば、それらを神に捧げます、という話も成り立たない。もともと自分のものではないのだから。サウル王がした行為が厳しく責められたのは、こんなところに関連する。

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レビ 27:26-27

 初子はもともとからして神のもの、であるからして、それを神に捧げるということはあり得ない。それでは捧げ物ではなく、強奪になってしまう。初子については、すでに規定がある。神に捧げ物をするつもりならば、自分の所有物の中からこそ、なされるべきなのだ。現代に置き換えるなら、かつて行った捧げ物を、後々まで何度も「私はこんなにした」と言うことか。他の人にではなく自分自身に対してのものであっても。それはただの自己満足に過ぎない。良きことをしたという事柄については、過ぎたことはしまい込んで、先に向かって進んだ方が良い。

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レビ 27:21-25

 評価はヨベルで計算されるが、土地そのものはヨベルまでは買い戻しが可能、ヨベルが来れば祭司のものになって買い戻しは不可能、となる。24節の規定は、もともとの所有者でない人が神に捧げた場合には、ヨベルには最初の所有者に戻されるということだ。永遠に捧げるかどうかを決めるのは、もともとの所有者自身であるべきだからだ。このあたりも、なかなかに注意深く定められている。

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レビ 27:16-25

 ヨベルの年との兼ね合いで、神への捧げ物のことが語られている。ヨベルには人の手に渡った土地が元の持ち主に返るというのが一般原則だったからだ。それで、神への捧げ物についても、ヨベルまでの年数によって、その捧げ物の意味合いが変わってくる。このあたりをごまかして、残り一年なのに膨大な土地を捧げました、みたいな態度を取る可能性が懸念されていたからか。まあ、金持ちが大金を献金している姿についてイエスが、それは彼らにとっては些細なことだと指摘なさったことにもつながる。

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レビ 27:13-15

 神に捧げるということは、その場の感情ではなく、ちゃんと考えて、よしと心を決めてするのが良い。それが神に対する真剣な姿勢でもある。そういうきちんとした態度での捧げ物であることを前提にすると、それでもなお取り消しにする必要が生じたという場合は、ちゃんと買い戻せ、ということになっていた。1/5はなかなかに大きいけれど、いわばそれは彼自身の神に対する真剣さ、彼がなした捧げ物が誠実なものであったことを評価する意味合いの数値でもある。このあたりの規定、現代にはそのまま適用はされないけれど、その精神、価値感覚は受け止めておきたい。

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レビ 27:9-13

 誰かに誕生日のプレゼントをした後で、「やっぱりやめた、返して」とやるのは実に失礼なことだ。そんな思いを抱く人ですら、やれる可能性があるのは、自分よりも立場の弱い相手に対してだけのはずだ。つまり、力関係を利用して相手をおとしめていることになる。ではなぜ神に対して、いったん捧げたものを取り戻したりすることがあり得るのか。それは神を小馬鹿にした態度と同様と言える。もちろん、捧げた後で何かの必要が生ずることはある。それなら、友人に頼むようにして、「申し訳ないけれど、いったん返してくれ、存亡の危機なんだ」と願えばいい。友は喜んで返してくれるし、追加して支援してくれるだろうから。

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