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2012年6月

第一コリント 6:19-20

 代価とはむろん、キリストの十字架である。それだけの犠牲を払ってまで取り戻していただいた自分たちであることを考えるならば、どう生きるかを真剣に考えるべきと理解するはずだとパウロは書く。放縦もそうだし、それから単なる禁欲とか、あるいは他の人々から自由を奪って抑圧してしまうあり方についても、神が人に与えられた真の幸いを生きることを妨げようとする全てについて、それは神の所有権に対する侵害、反逆なのだ。信仰者たちこそが、事の重大さをよくよく知るべきである。

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第一コリント 6:15-18

 子どもの頃、「神様はどこにでもおられるのなら、口の中にもいるのだね、噛んでやる」という言い方をされたことがある。たわいもない幼い論理であるが、この箇所の記述もそういう感覚で考えてしまうのは愚かなことだ。キリストご自身のからだを罪にまみれさせることなどできはしない。それに、遊女であっても神に立ち返れば救われるのであって、もうおしまい、みたいな扱いは聖書に反する。これはあくまでも、好き勝手に放縦を続けているコリントの人々を恥じ入らせるための言葉だ。ただ、彼らとしては自らの生き方を、そのくらいの深刻さで受け止めるべきではある。

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第一コリント 6:12-13

 悪事はしばしば、神が与えられた良い動機や願いを悪い方へと引っ張り込むことで具体化する。食欲も男女間の思いも、本来は神の祝福の中にあるものだ。けれどそれを異質なものとしてしまい、欲望の虜にしてしまう。もともと神から遠く離れたつまらぬものなら、魅力も薄い。良さそうに見えるからこそ引っ張り込まれるのだ。神にあってこそ用い、神と共に喜び楽しむことを重視したい。

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第一コリント 6:12

 人々のしていることからすれば、すべては許されている、などと語る必要性はないとも言える。自由と好き勝手は違うし、悪を行う自由などは存在しない。それでもなおこの言い方を用いるところに、人が決して無理強いされてでなく、縛られてでもなく、主体的に神に従い、神と共に生きることを、神がどれほど切望されていることがわかる。この点は愛するという関係が語られることとも深く結びついており、その重要性は計り知れない。

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第一コリント 6:11

 このような厳しい宣告がなぜなされ得るのか。また、それが受け入れられることをパウロが期待するのはなぜか。それはクリスチャンたちが、神ご自身のあわれみと愛情によって、罪深き中から助け出された者たちであるからだ。かつての忌まわしさも知っていて、それなのに今またそこに堕ちてのほほんとしている。事態の深刻さを、それこそ「自分が何をしているのかを知らない」とでも言おうか。パウロは必死に呼びかけ、翻意を人々に求めている。

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第一コリント 6:9-10

 信仰者と言えども、清廉潔白というわけではないことを聖書は認めている。人の罪深き性質は、そう簡単には解消され得ないのだ。だからここにあるリストも、それに抵触したら資格取り上げ、失格の烙印を押されてしまう、という趣旨ではない。問題はそれを平然と行い、仲間たちを傷つけても悔い改めようとせず、変えられることを求めて神に祈ることもしない、この事態をせせら笑っている者たちのことだ。コリント教会の場合、パウロの必死の呼びかけも投げ捨てられていたから、そういう事態に陥っている人々が少なくなかったようだ。私たちの有り様はどうか。

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第一コリント 6:8-11

 訴えるという話題が出てきたもともとの原因は、教会内に不正を行い、だまし取る者がいたから、である。この事態への対応もまずかった。だがそれ以前に、悪行をしている人々こそが問題なのだ。時に私たちの目は、目の前の事態のみに向けられがちだが、もともとの理由がどこにあるのかを見落としては何の解決にもならない。そのもともとの人々は、断固として神の前に問われるべきことをしていたのである。

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第一コリント 6:7

 なぜ、むしろだまされていないのか、という一言は、深く考えさせられる。これは決して単なる無抵抗主義ではない。相手のためを思えばこそ、必死になって、それこそ自らの心が血を流しつつも語らねばならないこともある。だが、もしそれが、混乱してしまっている相手のために自分が何らかの負担を引き受けてあげるということだけなら、その犠牲を担うことの中にその相手を愛する心は存在する。相手が悪いから相手に責任を負わせる、というだけだったら、そこには神にある愛も、赦しも、神の家族という概念も存在しない。争うことをすべて禁じているわけではない。がだからこそなおさら、ではなぜ、ということが問われていく。

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第一コリント 6:4

 この世のことで争いが起こると、と書いてあるのは皮肉でもあると思う。コリント教会の人々は、教会内の勢力争いとか、様々ないさかいについて対決しているつもりだったはずだ。でもパウロはそれを、「あなたがたは真に神の前での真実は何かと戦っているのではなくて、この世の争いをしているに過ぎない」と言う。つまりは、各自の勝手な都合や欲求、であろうか。11:19で真実が明らかになるためには衝突が必要な場合もあると告げられているけれど、コリントの実態は、真実のためではなく各自の思惑のために争っているに過ぎなかったのだ。人の世には様々な対立はある。それが何のためのものかを、少なくともクリスチャンは真剣に当必要がある。

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第一コリント 6:1-7

 この文章からすると、教会内での対立について、外部の力によって判定を下してもらおうとする人々がいたようである。現代とは違うけれど、ある種の裁判、または政治的権力者に頼もうとしたのだろうか。裁判や政治的な事柄を否定しているのではない。それらは社会に必要な存在だ。ただ、自らの間でしっかりと解決をつけることができないでいるコリント教会の様子に対して、強い非難を加えているのだ。マタイ18:15-17を手続き規定のようにして読むのは妥当ではないけれど、どちらも教会に対して、自浄能力というか、神の前にあってしっかりと取り組む覚悟と責任があることは明記している。そういう取り組みを放棄して、単にどこかの力を自分の味方に引き入れさえすれば勝てる、と考えるのは、神への信頼も何もかも投げ捨てている愚かさとしか言いようがない。(なお、それゆえに、教会が自浄能力を失っているときに、せめてもの公平な対処を求めて裁判を起こすことそのものが否定されているわけではないと読むべきだろう。)

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第一コリント 5:12-13

 これは、世の中に対して神の御心を提示する必要がない、という意味ではない。預言者的存在と言われるように、信仰者は世に対して、たとえ相手が神を信じていなかったとしても、それでもなお、御心を語る必要がある。だが、今この瞬間に振り向かなかったとしても、それで断罪したり、処罰を求めたりするべきではない。そっぽを向く人々に怒っていた弟子たちを、イエスはいさめておられたのだ。神を認めていない人々への語りかけは、なおいっそうの忍耐と苦悩の享受を必要とする。

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第一コリント 5:9-13

 二種類の基準があると言っているわけではない。この世の創造者であり、支配者である神の前に、全ての人は同じ基準を生きる必要がある。ただ、この神の主権を認め、その御業にこそ救いはあるのだと告白した者たちは、当然にその告白が真実であるか、つまりその生き方において神に応答する者であり得ているのかどうかを問われることになる。完全無欠が問われているわけではない。人には過ちや失敗、挫折もある。だがコリント教会の人々は、神の規範そのものを軽視し、ないがしろにしていたのだ。

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第一コリント 5:5

 サタンに引き渡す、といったような言い回しを、パウロは時たま使う。だがこれは、悪魔と共に地獄の滅びに、ということではない。ここでも、彼の霊が救われるため、とある。悪魔に救いはないし、地獄に堕ちたのに助かることはない。聖書の言い回しは、どのような意図で語られているかをよく見極めないと、その真意から大きくずれてしまうことがある。とりわけ書簡は教科書でも事典でもないことを考慮する必要があるだろう。

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第一コリント 5:1

 この言い方は、実母のことではなく、父の側室とか後妻の類を言っているのだろう。兄弟の場合、早世した兄の代わりに弟が家を継ぐ意味も込めて残された妻と結婚することはある。だが、直接の血のつながりはなくても、親に該当する相手とはそれはない。異邦人の中にもないほどの、という言い方が考えさせられる。何をどう生きるべきなのか、その基準を忘れてしまった者は、どこまででも堕ちていくのだ。だが、コリント教会は神の前に謙虚になることを失っていた。これでは回復の可能性が見いだせない。

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第一コリント 5:1-8

 昔、腐ったミカンの法則というのが話題になった。腐ったミカンは箱の中から取り出さないと回りも腐る、というものだ。けれど、聖書はそのことを告げているのではない。罪を曖昧にし、真剣に向き合うこともなく、結果、その人がどんどんだめになっていくのを放置している集団全体の姿勢が問われている。これでは全体が崩れていくのも時間の問題。パウロの激しい危機感がうかがえる。

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第一コリント 4:14-21

 パウロがコリント教会に対して必死になる理由は、それが彼自身の働きの中で生み出された教会だからだ。親として子が混乱し、崩れ落ちていくことは放っておけない。大事な側近であるテモテを派遣するのも、コリントを思うがゆえである。この箇所を書きながら、もしかするとパウロは、父なる神が御子をこの世に送ってくださったことを思い起こしていたかもしれない。むろん比較にはならない。だが、神がとれほど人を愛されたのかを、ひしひしと感じたとしても不思議ではないと思う。あなたは誰かをそれほどに愛しているか、あるいは愛されているか。

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第一コリント 4:6-13

 14節にあるように、これらの言葉はコリントの人々が高慢になっていることへの痛烈な皮肉であり、恥じ入ることを通して彼らが悟るためである。むろん馬鹿にしているのではなく、気づいてほしいからだ。自分たちの力、知恵などを誇り、神が自分に祝福を与えるのは当然だと言わんばかりの姿勢は、この救いの恵みそのものを破壊する愚行。パウロが必死になって食い止めようとしていることに、しかし、コリント教会は気づかなかったことが歴史上判明している。彼らはこの第一コリントに応じようとはしなかったのだ。

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第一コリント 4:1-5

 管理者の基本は、主人(持ち主)の意向に忠実であることだ。パウロが信仰姿勢について、コリント教会を激しく非難するのも、それが神の御心に沿わないもの、せっかくの恵みを妨げるものになるからだ。人々はパウロのしていることを、ギリシャの高邁な思想とは違う、何だか下世話なものだと馬鹿にしていたのだけれど、パウロは堂々と胸を張って、このシンプル(神の恵みによって人は救われる)な呼びかけを続けている。神の恵みによる以外には、人の力では救いを達成できないからだ。

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第一コリント 3:18-23

 知恵とか、誰か他の人の存在そのものが悪いわけではない。神の前に良い形で生かされていくことは大いにあり得る。だが、人の愚かさはせっかくの良きものを、神の助けを得ようとする道筋を妨げるものにしてしまう。だとしたら、それ自体はどれほど意義あるものだったとしても、むしろ排除してしまった方がまし。それほどに、この救いそのものが与えてくれる幸いは大きいのだ。捨てることの意義よりも、幸いを取りこぼさないための姿勢として考えるのがふさわしい。

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第一コリント 3:16-17

 この意識は常に必要だ。神は私たちを見て、「うまく行けば受け入れてやろう、失敗するなら切り捨てるだけだ」などとは考えていない。良く生きようが、悪くなろうが、どちらであっても人々の生き様は、神ご自身に属するもの、神にとっては他人事ではなく、まさにご自身のこと。パウロはコリントの人々を恥じ入らせるために、このことを書き記したのかもしれない。あなたがたは我が身をおとしめているだけではなく、神の顔に泥を塗っているのだ、わかっているのか、と。

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第一コリント 3:10-15

 この箇所を、その人の頑張り次第、貢献の度合いによって恩賞が変わる、というふうに読んでしまうことがあるが、それではパウロは開いた口がふさがらないだろう。これは、キリストという土台が最も重要であり、それにふさわしい取り組みをすべきだという話である。その土台と合致しなければ、どんなに頑張ってみても失われてしまうのだ。マルタとマリヤの話も思い出す。あれも、神の言葉を勉強していればいい、という話ではなくて、自分の取り組みの度合いよりも、主の御心に沿うことこそが肝要で、だからこそ、御心を、御言葉を尋ね求めることから始めているマリヤの姿勢こそよし、となる。

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第一コリント 3:5-9

 パウロは適確に、自分たちの立ち位置と役割を語っている。自らの取り組みを卑下するのは、神にあって生かされていると信ずる者ならば不適切だ。その使命や重要性はもちろんである。だが、それはなされていることのほんの一部に過ぎない。最も大事なことは、神ご自身が働いてくださっているその点。それが分かっているからこそ、つたないと承知している自らの取り組みについても、胸張って、しかも決して尊大にならずに、取り組み続けていくことができるのだ。

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第一コリント 3:4-5

 肉に属している、と言われている状態として、勢力争い的な姿が指摘されている。意見を戦わせるのが悪いわけではない。神の真実を真剣に受け止めるつもりなら、大政翼賛的な「一体性」は最も害悪になるものの一つだ。問題は彼ら、意見や考え方ではなく、単にグループを組み、勢力争いをしていただけだったことにある。パウロとアポロの教えていた内容に差はないのだから。1:12で、「パウロ勢力」と並べて「キリスト勢力」が出ているあたりが、彼らの正体を露呈している。もっとも、コリント教会の場合、このことだけが問題なのではなく、彼らの抱えていた課題を示す実例の一つに過ぎないのだが。

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第一コリント 3:2-3

 堅い食物の内容については、はっきりとは示されていないけれど、彼らは成長しない資質のゆえに(成長できないのではなく、しない、と言うべきだろう)、手にできるはずだった良きものをもらい損ねていたということになる。この損失の深刻さを、あんがい、私たちは見過ごしているのではないか。とりあえず救われています、天国には行けます、というだけではない、もっと豊かなものを神は用意してくださっているのだから。

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第一コリント 3:1

 幼子と言っても、ここでは良い意味ではなく、未熟なという趣旨だ。もっともそれを、いったんは「肉に属する」と表現したのに、幼子と言い換えているあたりには、ただ断罪するのではなく、励まし支えつつ前に進ませようとするパウロの願いが見えてくる。現実の姿をごまかすことはできない。必要な厳しさもある。でも、それに加えて、そのどうしようもない状態の者たちを、なお立たせていきたいと願うのが、この信仰のあり方だ。それは神ご自身の姿勢でもある。神は単なる審判者ではない。

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第一コリント 2:16

 こうやって、事は全て主の領域だと言われると、全く手の届かないものという戸惑いや疎外感を覚える人もあるだろう。その落差は事実だ。でも、私たちには力強い助けがある。そう、キリストご自身。ヨハネ1章にも語られていたように、御子ご自身が神の心を、その御業を、私たちに指し示してくださっている。福音書にあるイエスの教えや行動は、この福音を悟り得るための欠かせない礎でもある。

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第一コリント 2:10-16

 御霊による導きが強調されているのは、コリントの人々が自分たちの知恵や理解で真理を解明したのだと誇っていたためだ。御霊の言葉といっても、神秘的体験の類を意図しているわけではなく(後に異言について語る内容を見れば、その点の混同をパウロが警戒しているのは明らか)、事のすべてはあくまでも神ご自身の御業、恵みによってこそであることを指し示すものだ。人はどこまでも自分の功績を見ようとするのだが、そうではない、神が全面的に助けを与えてくださっているのだと知ることが、この幸いを手にするためにはどうしても必要になる。

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第一コリント 2:8-9

 9節の言葉は、福音を理解する上では大事な一言だ。罪が赦されること、あるいは天国に行けることのために何が必要かと、人が考えていったら、十字架のことは決して思い浮かばないだろう。ふつうは、頑張れば手に入る、という教えになる。さもなければ、神の温情を期待するという話になる(阿弥陀の力による成仏の論理はその類だ)。ここで神ご自身の御子の犠牲によって救いが、というのは、誰も考えられなかったことだ。まさに9節。でもこの方向性は、聖書全体が繰り返し指し示しているものである。私たちはやはり、神の言葉にこそ聞かねばならないのだ。

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第一コリント 2:6-9

 コリントの人々は、人の知恵に寄らずに与えられた福音の幸いを享受していたのに、知恵がなければだめだという思いに陥っていた。それでパウロは、「知恵」はもちろんあるのだと答えている。ただし、人の知恵ではなく、神ご自身の知恵であるのだけれども、と語る。まあ、神の知恵と言われて、それを正面から否定する人は、少なくとも信仰者の中にはいない。パウロの論理展開は、実に巧妙である。うなずきかける人々に、パウロは決定的な宣告をする。神の知恵は、人の知恵では到達できない驚きに満ちているのだ、と。まあ、そうでもなければせっかく神の知恵を追い求める意味がないのだけれど、どうしても人は、神を自分たちと同程度におとしめる傾向がある。

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第一コリント 2:1-5

 パウロは、論理や説得の類を軽視しているわけではない。聖書に記録されている彼の説教は、むしろ高度な思想を提示するものでもある。とすれば、コリントでの伝道活動においては何らかの事情によって、彼はふだんとは違うやり方を余儀なくされたのではないか。しかし、彼の従来の力がそがれてしまっていたけれども、コリントでの宣教は十分に成功した。まさに事は神の御業によってこそなるのだということを、パウロ自身も、そしてコリントの人々も深く思い知らされたのである。それなのにコリントの人々は、神による導きを見失っていた。この教会が抱えていた課題は深刻であったのだ。

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