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2012年7月

第一コリント 9:3-11

 9節にある律法の意図は、牛の食事を邪魔するならば、せっかくよく働いてくれる牛を衰えさせ、仕事もできなくしてしまうような愚かさに陥るな、ということだ。パウロが自分たちから報酬を得ることにコリント教会は反対したけれど、それはパウロがよりよくコリント教会のために尽くすことを妨げることになる。心情的な話ではない。彼自身も言うように、何も受けなくても全力で取り組みはする。でも、人の身体は一つしかない。食べるために働かねばならないとしたら、その分だけ物理的にはコリント教会のために使える時間が減るのだ。人々は愚かにも自分の首を絞めていた。

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第一コリント 9:1-2

 コリント教会はパウロを支援することを否定していたようだ。もしこれが、全く関係のない相手に対してなら、支援するかどうかはその人の判断に委ねられるだろう(もっとも聖書は、何の関係のない相手でも、必要があれぱ支援すべき、という姿勢を示しているが)。でも、コリント教会はパウロの働きの中で生み出され、支えられ続けている。それでいてそっぽを向くというのは、単に物惜しみをしているだけ、というふうであることを察知して、それでパウロは強く彼らを戒めている。彼自身がお金が欲しくて言っているのではない。彼の必要については、マケドニヤの教会がちゃんと支えてくれていたのだから。

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第一コリント 9:1-2

 今度は、パウロが人々から生活費を得て暮らすことの是非が問題とされている。昨今、「パウロの例にならって報酬を得ずに自分で仕事をして牧師をする」ということを提唱する人々がいるけれど、この箇所をよく読んでみるならば、聖書がどちらを本来のあり方として提示しているのかは明らかだろう。パートタイム牧師の問題性はより実質的な点でも多々あるけれど、少なくとも聖書はそういうあり方を推奨はしていない。ここには「自由」という言葉が出てくるが、日本語の感覚としては4節に出てくる「権利」とか、あるいは「資格」という言葉で考えたほうがぴったりくるだろう。

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第一コリント 8:13

 それでパウロは言う。彼らをつまずかせるくらいなら、肉を食べない、と。食べるか食べないかが問題の核心ではないから、パウロがこれ以降一度も食べなかったのかどうかは、どうでもよい話だ。注目すべきは、他の人々の信仰を守り支え、つまずかせないようにすることに、必死で取り組もうとしている点だ。当座は食べないことでつまずかせないという対策でも、それだけでは済まない。きちんと真実を伝えて、理解を広げていく努力もまた、この人々のためである。何にせよ、苦労するのは先に分かっている者たち、真実を理解させていただいた者たち、なのである。この原則は大事だ。

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第一コリント 8:9-12

 懸念は、偶像などに汚されることを案ずる必要はないという理解をまだ抱いていない人たちのことである。彼らはその真実を知らずに、信仰者たちがこれらの肉を食べるのを見て、「偶像になんか汚されない」ではなくて、「汚されてもいいのだ」というふうに受け止めてしまう危険性がある。これはまずい。真実は、偶像が人を汚すのではなくて、偶像に加担する人間の心がその人を汚すのだ。このまだ知識を持っていない人々は、誤解と錯覚によって、偶像に加担するつもりで肉を食べ、偶像問題の真の危険性に踏み込んでしまうことになりかねない。これは大問題なのだ。

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第一コリント 8:7-8

 なおも続けて、どんなものであっても食べ物によって汚れることはないのだと、パウロは断言している。イエスご自身も、外から入るものが人を汚すことはないと言っておられた。信仰の進展が目指す所としては、この理解を信仰者全てがきちんと把握して、無意味な恐れを抱かずに進むのが一番だ。この類の恐れは、雷が鳴るたびに神の祟りだと震え上がるような、むしろ害悪であるから。ただ、この真実をしっかり届けていくためには、良き配慮が必要になる。それを間違えると、かえって真実から遠ざけてしまうからだ。

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第一コリント 8:4-6

 第一コリントは明確に、真の神以外には他に神々と呼ばれるような力を持つ存在はないのだと告げている。ここでの話題は、「偶像」に捧げた肉は偶像の影響を受けてしまうので、それを食べると害を受けるのではないか、という不安・恐怖に関することだが、そんな心配は無用だと明言しているのだ。日本でも、神社仏閣や仏壇などに近づいたり、お供えものを食べたら害を受けると恐れる人があるが、その懸念は無用だ。それらを信奉する行為が本来の信仰に反するのはもちろんだが、他の人々がしていることについて、その回りにいたからと言って他の者たちがそれで祟りとか汚れを受けることはない。ちなみにそれらの偶像をサタンに置き換えて、偶像はなくてもサタンはあるから、と忌避を言う人もあるけれど、その置き換えや懸念はこの箇所の趣旨には反する。力ある偉大な神は主なる神のみであり、その方にしっかり頼っている限りは、何も恐れることはないのだ。

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第一コリント 8:1-3

 この教えは決して知識を否定しているのではない。すぐ後に続いて、パウロはまさに「偶像に関する知識」をしっかりと述べている。問題は、自分が何かを知っているということのゆえに相手を見下したりすることの愚かさである。知っているならばなおさらのこと、その相手が真に良きものを得られるために自らが苦労をし、犠牲を払う必要がある。ただしそれは、相手に妥協したり、真実ではないことを受け入れることではない。この後に出てくるパウロの行動を見ると、その意味合いが分かる。

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第一コリント 8:1-6

 この箇所は隣人を愛することの実践について語っているのだが、合わせて、「偶像の神」についても告げている。両方を取り上げると話が複雑になってしまうのだけれど、基盤となる物事の理解についてもはっきりさせておかなければ、単なる妥協かごまかしになってしまい、かえって事態を悪化させることになるのだと、パウロは(聖書は)判断しているのだ。愛の行為や伝道の実践を推し進めるためにと神学的考察を棚上げにすることがあるが、それは第一コリントの姿勢とは食い違う。

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第一コリント 7:39-40

 死別後の再婚は自由であることは、聖書でも何度か語られている。結婚の誓いは「死が二人を別つ時まで」である。むろん残った者が生涯その思いを継続させるのは自由だ。「主にあってのみ」という言葉を、信仰者同士ならば、という意味にとらえる人もあるようだが、それはちょっと無理があって、結婚へと神が導いてくださるならば、というだけの話だ。だからパウロは、独り身になったのだから今度は神に専念する機会ができたのであり、それもよいのでは、と言っている。もっとも、コリントでは「神に専念」を格好の良いこととして配偶者を置き去りにする傾向が出ていたようだから、死別して独り身になった時に初めてそれは可能になるのだよ、と、多少批判的意味合いも込めて語られていたとも言えなくはない。結局コリントの人々の「熱心」とは、自分たち満足でしかなかったのだから。

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第一コリント 7:36-38

 この言及は、当時の社会において娘の結婚は父親が決定権を持っていたことが背景にある。それも、単に承諾がどうのではなく、結婚するかどうかも含めて、すべての権限を有していた。だからこれは、「好きな人ができたけれども神のために諦めようかどうしようか」と言った恋愛問題ではない。父親に対して、「あなたは娘のためにどんな良きものを与えるつもりなのか」と問いかける話なのだ。そうであれば、どちらも良しという指示は理解できるし、また、パウロは独身に好印象を抱いているわけだから(専念できるという意味で)、そういう言い方になっているのも納得できるだろう。いずれにしても、真に幸いなのは何か、神はその人にどんな形での祝福を与えてくださるのか、ということをよくよく考えていく必要がある。

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第一コリント 7:33-34

 ここで、妻や夫に心を傾けることを「世のことに心を配る」と表現しているのは興味深い。「世」という言葉はしばしば、神にあるものと対立するふうに考えられて、悪いもの、避けるべきものを指していると理解されている。だが、結婚している者が妻や夫に心を傾けることは正しいこと、御心にかなうことであり、むろん罪ではない。その結果として、いわゆる神の業に従事する時間が減ったとしても、である。それを「世」という言葉で語っているのなら、「世」だから悪とか、「世」は罪ということではないようだ。しばしば問題が生ずるのは、世に原因があるのではなくて、それに関わる人間たち自身に課題があることを思う。

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第一コリント 7:32-34

 人の心には限界があって、全てのことに100%ということはできない。結婚をすれば配偶者や家族のことに心を傾けるわけだから、それ以外のこと、例えば神様のことに全力投球というわけにはいかない。家族があるのにそれを放り出して神に専念するのは間違いである。この章の初めてのもそう語られていた。だから、もしも神に専念したいならば、結婚はしないという選択をするしかない。でもそれは、どちらが良いとか価値があるとかではなく、あくまでもその人がどのように導かれているかの話である。こういう場合にまで優劣を持ち込むのは人の悪い性質だ。聖書は専念の限界に基づいて、対応策を指し示しているに過ぎない。なお、こういう限界をわきまえずに「大丈夫」と言い張るのは、全くもって愚かなことでしかない。

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第一コリント 7:29-31

 32節に思い煩いという言葉が出てくるが、パウロが案じているのは、人々が様々なものに心を忙しくしすぎて、そのために神にある大切なことがなおざりにされてしまうことにある。より理想的なことを言えば、ヨシュアが語ったように「私は私の家族と共に主に仕えていくのだ」というふうでありたい。ペテロなどは妻を連れて伝道旅行もしていたようで、こちらの良き実例と言える。だがパウロは、コリント教会の人々を見ていて、かなり悲観的というか、難しく感じていたようだ。こうなると崩れていくのを防ぐためには抑制も仕方がない。もし、信仰を窮屈に感じるとしたら、それは私たち自身の愚かさがそうさせているのだと考えたほうがよいのではないか。

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第一コリント 7:26

 現在の危急のとき、というのが、この世の終わり、キリストの再臨を念頭にした言葉であるのは確かだろう。よく言われるように、使徒たちは再臨が間近、5年、10年と言ったあたりとして意識していたと思われる。その感覚が透けて見える箇所も多々ある。ただ、聖書そのものは決してそれを明言していない。あくまでも使徒たちの個人的な思いに過ぎない。聖書を読み込むことは必要だが、聖書が示していることではない、当時のクリスチャンたちの意識に過ぎず、聖書そのものは決してそれを肯定していない事柄まで含めてしまわないように気をつける必要はある。再臨の時は、人には全くわからない。間近という言い方は2000年前もしていた。人は、それがいつであっても良いという意識でこそ歩むべきなのだ。

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第一コリント 7:25-28

 二つの意図が込められている。まず、前節からの続きで、状況が変化すれば幸せになれるという観念への警戒だ。だから結婚しているにしてもいないにしても、今のままで、と言われている。もう一つは、伴侶を持つことによる責任や重大さからの論で、その点でパウロは独身を語る。コリントの人々は神に具体的にも専念する生き方を説いていたようだ。だとするならば、家族を持つことは物理的にも負担が大きすぎるようになる。それが落とし穴になることを案じ、同時にコリントの人々の浅はかな考え方に警告を発している。彼らは口では主に専念と言いながら、実は自分の生きたいように生きていたのだから。

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第一コリント 7:17-24

 変化を否定しているのではない。より良い状態にと願うことも、目指すことも、それはそれで良い。12:31では「よりすぐれた賜物を求めよ」とも書かれている。懸念されているのは、今の状況を否定的にしか見られなくなり、これが変わりさえすればすべてはうまく行くという思い込みに支配されてしまっている私たちの心だ。真の幸いは状況の変化ではなく、どこにあろうとも、その場所で神と共に歩めているかどうかだ。それを見失ったままで変化を求めても、決して事態の打開にはならないのだ。

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第一コリント 7:12-16

 家族の救いを願うのは、この信仰の幸いを知った者としては当然の思いである。ただ、すぐにそうなるとは限らない。これは信仰者にとっては心の痛みだ。つらく悲しいことでもある。でも、自分自身の救いそのものがありえないような恵みだとすれば、そう簡単ではないのは当たり前だ。だからこそ、あれこれと不都合があったとしても決して諦めず、切に家族のために祈り続け、そして共に歩み続けるようにと、聖書はそのように呼びかけているのだ。それは希望に満ちた教えである。

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第一コリント 7:15-16

 けれど、パウロはなし崩し的なことを言っているのではない。信者でない相手が離れることを望むならば、それは仕方がないと言っている。少なくともその時点で、信者である者にできることはないのだ。むろん祈ることはできる。神に委ねることも。でも、自分でできることはあまりにも少ない。我が手で伴侶を救うわけではないのだから。希望を強く抱き、しかし同時に人の現実の厳しさも見る。神がそうなさっているのならば、私たちも同じ意識でいたい。

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第一コリント 7:14

 子どもに関する話は、ちょっとわかりにくい。この汚れという言葉を、罪に汚れているという意味合いに取ると、親が信仰者であるかどうかで子どもの清さが左右されるというのは奇妙だ。やはり、神に近いという趣旨で考えるほうが妥当だろう。と同時に、これは説明のための論理であることも思う。まず、子どもたちについての当時の共通理解がある。いわく、子どもたちは神のもとにある。その上で、配偶者を神から離れたものとして処断してしまうならば、この子どもの位置づけはどうなってしまうのか、ということだ。子どもが神のもとにあると信じているなら、その親である未信者の配偶者も、という説明である。わかりにくいか。これは2000年前のコリントの人々向けに提示している説明だから、どうにも仕方がない。ただ、示されていることそのものは時代を越えて真実だ。信者でない配偶者を投げ出してはいけない、のだ。

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第一コリント 7:14

 この場合に別れてはいけない理由は、この章の初めにあった、この身は相手のもの、という論理だけでも十分だけれど、パウロはもう一つの、ちょっと衝撃的なことを言っている。信仰者でない配偶者は、信仰者である伴侶のゆえに「聖められている」とある。清い、とは違う。もともと人は信仰に関わらず、清くはない。この言葉は「神のもの」という意味で、つまり、神に近い者とされているということだ。それはそうだ。配偶者が信仰者なのだから、世間一般よりもはるかに神に近くいる。その配偶者からすると面倒に思えるかもしれないが、いやいや、そこらの人々よりもはるかにこの信仰を理解し、関心を持っているはずなのだ。それをやっかいだからと投げ出すなど、あり得ない。

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第一コリント 7:12-13

 今度の話は、既婚者が信仰に入った場合のことだ。その信仰を十分に生きていこうとする際に、配偶者が未信者であると何かと不自由に感じられるようだ。分かりやすい例で言えば、礼拝に出かけるにも伴侶に気を遣うことになる、といった感じだ。日本では妻が夫に遠慮することが想像されるだろうが、ここでは夫が妻に遠慮するという話だから、どちらでも同じなのだ。で、いっそのこと離婚した方が自由になれる、という考えを持つ人々がいたわけだが(世間的にも信仰以外でもありがちな離婚理由かもしれない)、聖書は断固否定、である。そういう身勝手は許さないのだ。不自由に感じられようが何だろうが、ちゃんとその相手と共に歩め、ということである。なおこれは、DVなどのケースとは別の話で、動きにくいとか面倒という部類の話について、である。

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第一コリント 7:11

 話の流れからすればこれも「主のため」という理由から結婚を解消してしまった場合の対応策についてとなる。で、聖書の結論は、もとの相手と寄りを戻すか、それがかなわないとすれば(身勝手な離婚に相手が怒っているのだと推察されるが)、仕方がない、生涯一人で歩め、と告げられている。自らの身勝手さのゆえだから、その結果を負わねばならないのだ。寄りを戻すのを断られたからそれなら別の人と、というのは無責任に過ぎるのだ。なお、この件を一般的な場合で考えるには、詳細な論議が必要になるので、別の機会にさておくことにする。ここでは信仰を理由にして離婚するというような愚かな行動への対処として語られている。

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第一コリント 7:10

 これは前に続きとして読むならば、一般的な離婚問題ではなく、主に専念するために、という理由からのものについての教えとして考えたほうが良さそうだ。夫を捨ててまで主に仕える、なんて言うと立派そうだけれど、神の教えは「否」である。そういう勝手は許されないと3節でも語られていた。それほどに、結婚というものの意義は重視されている。むろん結婚がすべてではないし、結婚を絶対視するわけではない。けれど、他の事柄との比較で言うならば、それにまさる価値などは想定されていないのだ。

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第一コリント 7:8-9

 前にも書いたように、パウロの意識は独身に向かっている。ただしそれは、清さなどの理由からではなくて、あくまでも主のことに専念できるから、である。結婚を俗的とみているわけではないし、独身のほうが高度だと言っているのでもない。主のことに専念することそのものですら、それがより高い領域と見なされているのでもない。人にはそれぞれの役目があるにすぎないのだ。ただ、結婚しないという選択は人間の本来の意識(神が備えられたもの)を抑えることになるので、その点だけは、向き不向きがあると告げられている。主のためと言いつつ、間違ったほうに走るのでは何の意味もないのだから。

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第一コリント 7:7

 パウロの意識の中には、結婚せずに独身でいる方がいい、という思いがあったことは、この書を読んでいればよくわかる。その理由もあちこちに見られるが、つまりは動きやすいから、便利だからだ。結婚そのものを否定的に見ているわけではない。でも、聖書はこういう場合、個人的な意見はあくまでも一例であることを指し示すような書き方をしていく。参考意見としては聞けば良い。だが、神の指示ではないのだということが独身主義に関する聖書の言葉であることが、ここを素直に読めばわかるばすだ。神の御心を大事と思うのならば、聖書はその趣旨に乗っ取って読んでいく必要がある。

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第一コリント 7:5

 夫婦が互いに理解し合い、納得し合うのであれば、と記されている。このことは、夫婦関係においては広く考えておくべき点だ。結婚生活の基本的なあり方は確かにある。互いに平等、公平というのはその一例だろう。だが、それは一般論であって、それぞれの置かれている環境で、しばしば変更は必要になる。家事のこと、あるいはそれぞれの親との関わり、何にしても、数的に同じにするのは一つの知恵だ。でもそれ以上に、互いに理解し合い、一緒に考えた上で不釣り合いがふさわしいと合意するのであれば、それはまたその夫婦にとってのふさわしいあり方だ。もっとも、そういう合意は時々確かめ直した方がいい。事情は常に変化するのだから。

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第一コリント 7:1-2

 結婚の動機として、ずいぶん消極的な話が出てきている。むろん聖書全体は、結婚の豊かな意義について語っている。ただ、不品行を避けるため、ということそのものは考えておかねばならない。人の様々な欲求については、禁止だけでは成り立たない。禁欲を命じればことが解決すると思うのは浅はかだ。聖書は、積極的な取り扱いを語る。つまり、その欲求が正しく発揮されていくことを提唱する。エペソ5:18では、酒によって放蕩に走るのではなくて御霊に満たされるようにとも勧告されている。より良いものを与えることで悪を阻止するというのは、神が繰り返し考えておられるものだ。人のありようにふさわしいからだろう。

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第一コリント 7:3-5

 この箇所を読んだ人々は、イエスが結婚について語り、夫たちの勝手で離婚することは認められないと諭されたとき、弟子たちが思わず口にした一言と同じ思いを抱いたのではないか。「それなら結婚しない方がまし」と。まあ、愚かな言葉だ。結婚そのものの意義とか幸いを考えることもなく、自分の自由が制限されるからということで、結婚そのものを否定的に見るなど。ただ、この7章では繰り返し、夫婦が共に生きることを選び取ることは、どうしても自らの好き勝手を制限することにはなるのだと告げてはいる。そういう覚悟についても、これから結婚する人々に対しては、ちゃんと教え諭していかねばならないだろう。むろん、既存の夫婦に対してもだが。

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第一コリント 7:1-5

 男女関係というものは、しばしば俗的なものとして見なされる傾向がある。それが夫婦の間であっても、だ。何か特別なことのために身を整える場合には夫婦の関わりを差し控えるということが推奨される話は、世間一般でも見られるではないか。戦場に妻を伴うなど不謹慎という言い方がされてきたように、である。もう少し現代的に言えば、仕事が忙しいのだから、妻とか家庭のことに関わっている暇はない、という論は、しばしば男性たちから発せられるものだ。本当は暇がないのではなくて、余裕を失っているのだけれど、仕事だからとか、あるいはコリントの場合は信仰のことだから、という理由が提示されると、仕方がないと我慢を強いられることになっている。でも聖書は、それは違うと言っている。どのような理由でも、相手の希望を押さえつけて良いものではないのだと。

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第一コリント 7:1-7

 この章は結婚や夫婦に関する話で、ずいぶん様変わりしているようでもあるが、直前で放縦への厳しい警告が告げられたことを受けて、では、本来神の前にある生き方とはどういうものか、を示すための教えである。単なる禁止ではなく、より積極的なあり方を告げることこそ、神の意図されることなのだ。聖書は繰り返し、性的な罪に陥らずに、正当な夫婦関係の中でこそ真の幸いを求めよ、と告げている。そういう姿勢、何を求めるのかをちゃんと見極めていこうとする姿勢は、とても重要だ。

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