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2012年8月

第一コリント 12:12-30

 賜物の多様性が語られる。それは優劣を争う無意味さを示すと共に、より積極的に、神がこれらの賜物によってどれほど偉大なものを生み出そうと意図されているかを語るものでもある。単体の賜物は、それだけの意味しか持ち得ない。だが、様々な賜物を持つ者たちが何人も集まれば、一つの体を形成できる。御心が地の上でなるようにと祈る者としては、これは存外の望みであるはずだ。その意義と価値をすべて失わせるのが、賜物を競い、争い、他を否定し、自分だけが神の覚えめでたいとしてしまうこと。コリント教会の争いは、神の祝福を台無しにするものであったのだ。

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第一コリント 12:11

 同一の御霊が、と強調されているのは、ある人には癒しの霊、預言の霊、などというふうに、それぞれが別の神によって導かれて、その才能を発揮するという見方があったからかもしれない。古来、多神教の世界では、それぞれの力ごとに神があり、対決状態になる傾向が強い。そうなれば才能同時の優劣も大事になってくる。だが聖書は明確に、すべては唯一の神によって与えられているものだと告げている。そんなところで争うことがどれほど無意味で、かつ愚かで、神に反することであるかは明白だろう。

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第一コリント 12:8-10

 様々な賜物が列挙されているが、これらがすべてというわけではなく、たまたまコリント教会で取りざたされていたものを挙げたに過ぎない。だから、ここに出てくるものだけが程度の高いもの、ということではないし、あるいはむしろ、ここに出てきているから賜物として価値がある、という話でもない。たとえば、使徒の働きでは高く評価されているバルナバの行為(施し)が全くふれられていない。まあ、11章に出てくるコリント教会の様子からすれば、彼らはそのことに関心を持っていなかったのだろう。このリストに載っているかどうかという区別をすることは、むしろコリント教会と同じ問題に陥る病を危惧させるものである。

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第一コリント 12:4-11

 コリント教会では、各自の持つ特性、能力などを比較し合って優劣を決めたり、上下関係を築こうとしていたようである。それでパウロはこの類のことに関する基本理解を示している。まず、すべての賜物は神ご自身から出るもので、人の優劣とは関係がないこと。次に、賜物は他の人の益を求め、その実現のために犠牲を払い合うことを目的とするものであること。とすれば、上か下かの争いは無意味だ。あえて争うとすれば、崖から一本のロープでぶら下がっている二人が、一人しか支えきれないと言うときに、「お前が助かれ」と譲り合って争うような部類のもの。そういう意識で賜物と向き合うならば、せっかくの良きものが害悪の源になるはずはない。

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第一コリント 12:1-3

 御霊の賜物、つまりは神によって導かれて歩んでいこうとする時のあり方についてだ。コリント教会はせっかくのこういう良き賜物をすら、混乱と対立、おごり高ぶりの機会としてしまっていたようだ。賜物に関する第一の性質は、それが神の栄光を表すためにこそ存在するということだ。その点で、才能があるかどうかとは別の話となることを、覚えておきたい。才能は様々な性質、方向性のものがあるわけで、それはそれで良いのだけれど、賜物は神を見上げてこそ確かな意味を持ち得るのだ。この基本を忘れてしまうなら、才能を語るのは良いけれど、神からの賜物などと口にすべきではあるまい。自分たちは神の前に忠実なつもりでいたコリントの人々は、この指摘を聞いて恥じ入ったであろう。

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第一コリント 11:29-34

 コリント教会の愚劣さは、聖餐式の場において明らかになってた。だとしたら、その場においてこそ彼らは我が身を正し、神に前に悔い改めの祈りをする機会を得ているのでもある。聖書の教えは単なる断罪ではなく、そこから立ち直るための道筋を指し示すためのものでもある。神は忍耐強く語りかけてくださっているのだ。ただ、それをいいことにして、好き勝手してしまうのは言語道断であるのだが。なお、こういう混乱が危惧されるなら、今日のようにいわゆる礼拝の中で聖餐式を行うという方式は、人間の忌まわしさからすると意義あるということになるだろう。

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第一コリント 11:27-29

 この箇所から、聖餐式の前に自らを問い、ふさわしくない場合は辞退すべき、と教える人もある。だがそれは聖書全体の意図からずれてしまう。人は本来的に、どこまで行ってもなお、神の祝福にふさわしくなどはない。ふさわしくないとすればそれは、神を信じず、神の恵みを喜ばず、十字架の犠牲などどうでもよいと思っている人だ。その重みを知るからこそ、私はふさわしくない、と言っているに違いない。だから、ふさわしくないと自覚しつつ、だからこそ神に助けを求めて、聖餐式は受けていくべきなのだ。コリント教会も、自らは立派だなどと考えず、ふさわしくないと自覚して悔いるなら、それこそが聖餐式を行うに値するものとなりえるのだが。

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第一コリント 11:23-26

 この箇所は聖餐式のたびに繰り返し読まれている大切な教えだが、もともとどういう話の中で語られたのかを思うと、愕然とさせられる。人々は神が大きな犠牲を払って助け出した相手をないがしろにし、侮辱し、自分勝手な都合で対立していた。クリスチャンとは何か、信仰者とは何か、神によって救われたとは何か。聖餐式はそのことを明確に指し示す。神の恵みを受けた者であるならば、その言動が、生き様が、「主の死」を、その意義と、そして自分がどれほど大切なものを受けているのかを、表明するものであるべきではないのかと、そう問われている。

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第一コリント 11:20-22

 当時、聖餐式(主の晩餐)は、会食の中で行われていた。教会には豊かな人も貧しい人もいたので、財力のある人が食料を持ち寄って、みんなで食べられるようにしていたのだ。ところが、時間的にも余裕のある豊かな人はさっさと食べ始めてしまったので、後から貧しい人たちが駆けつけてきた時には、あらかた食べ尽くされてしまっていた。こんな醜いことをするなら食事などしないほうがまし、いっそのこと聖餐式もやめてしまえ、どこが信仰者だ、どこに神のもとに生きる姿がある、兄弟姉妹なんて口にするな、君たちには聖餐式を行う資格があるのか。激しい非難が浴びせられているのだ。コリントの人々は、仲間であるはずの人々を顧みる心を見失っていた。

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第一コリント 11:18-19

 コリント教会に見られる分裂騒ぎは、まったくもってパウロが語る「良い可能性」を含むものではない。パウロもそのことは承知の上だ。それでもこう告げているのは、コリントに限らずこの手紙を読む人々が、単に萎縮し、ぶつかることを恐れて、真に大切なものを見いだすための取り組みから逃げてしまうことの弊害を危惧するからだろう。望むべくは、最初から皆が共に御心の真実を見いだして、そこで一致することだ。でも、そうはならないことが多いからこそ、互いのことを真剣に思い合いつつ、なお、断固たる論議をすべきこともある。キリスト教2000年の歴史には、その良き例と、一方では単なる分裂分派に終わったもの、そして恐れから回避してしまったものとがある。あなたが直面しているものは何だろうか。

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第一コリント 11:17-22

 コリントの人々が抱えていた混乱ぶりに対して、パウロはここで個々の事柄そのものを懇切丁寧に扱って打開するところまでは期待できていないようにも思われる。むしろ彼らの姿があまりにも神の指し示されているところからかけ離れていることを明らかにし、かつ、本来神が与えてくださっているものの意義を提示することによって、読者を恥じ入らせようとしているようである。残念ながら、第一コリントの手紙によっては、コリント教会の事態は解決を見なかった模様だ。彼らはまだ、神が与えてくださっているものの真の意義に目が向かず、ただ自分たちの思惑だけに固執していたのだろうか。

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第一コリント 11:11-12

 それにしても男女の関係はいつでも把握が難しい。人は常に、自分に都合の良い方向へと進もうとするからだ。また個人差もある。今、地球上には35億の男がいるのだから、その実態は千差万別で当然だ。ただ、概して言うならば、男たちが物事から尻込みして小さく閉じこもっていると、とりわけ家庭などはなかなかうまくいかないし(仕事を理由に子どもと向き合わない父親も)、そんな男性たちの代わりを女性たちが果たそうとしても混乱は解消されにくい。後者については、女性が指導的立場になるのが悪いわけではない。ただ、今の仕組みはしばしば男性の性質を前提にして、その良いところを発揮させ、悪い点を抑制するようになっているから、そのまま女性が置き換わるとうまくはいくまい。女性は女性の特性に基づいて、その立場、職責を果たしていく方がよく、男性の代わり、ではないのだ。私たちはもっと、神が造られた男と女のあり方を、確かめ直すべきではないだろうか。

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第一コリント 11:5-6

 コリントの女性たちがかぶりものを脱ぎ捨てたのは、自分たちは男と同じだ、と主張したためのようだが、本来的に同じであるはずはなく、それは自らの特性を捨てることでもあり、同時にまた、当時の社会にあって、自分たちは野放図に生きていくつもりだ、と主張しているのと同じこと。それはあたかも、神のもとに生きるとは好き勝手にしていいということなのだ、という呼びかけを周囲に対して提示するものとなってしまっていた。打破すべき因習とは戦えばいい。だが、それ自体は害悪でも何でもないものを、何か象徴のようにして取り上げて戦いを挑むのは、聖書の語る真の勇気や誠実さではない。10::23を改めて見直す必要がありそうだ。

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第一コリント 11:3

 かしらという言葉にひっかかる人もあるだろうが、男たちは自分がキリストと同様の「かしら」になれるなどとは、まさか思い上がってはいないだろうね。それほどの偉大さはない。と共に、キリストが人々のためにどれほどの犠牲を払ってくださっているかも忘れてはなるまい。エペソ5:25にもあるように、かしらであるためには自分のいのちをも相手のために投げ出すことが必要なのだ。男たちはむしろ積極的に、そういう覚悟をもって与えられている使命に取り組むべきだろう。曖昧模糊として責任を回避する傾向に、聖書は明確に、否、と告げている。

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第一コリント 11:3

 パウロが問いただしているのは服装そのものではなく、それがコリント教会の女性たちによる「男も女もない」という混乱の意思表示だったからだ。神の前に、神の祝福において、男も女もないことは聖書が繰り返し語っていることだ。でも同時に聖書は、男と女とは明らかに違うし、その違いを大事にすべきだとも言っている。つまり、祝福や幸いにおいては同じ、果たすべき役割については同じである必要はない、ということだ。あいにく男女は差別や上下的な意識が染みついているので、職業で考えてみてほしい。パン屋さんとバスの運転手、会社の経理の人、なすべきことを取り替えろと言われたら、みんな困惑するだろうし、同じにする必要はない。でも、それぞれの場所で精一杯働き、そして安心して暮らせる境遇を手にする権利は同じだ。違いをすぐに差別として受け取ってしまうのは、人間の争い好きと他者をおとしめる傾向の影響だろうね。

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第一コリント 11:1-16

 恒常的な服装規定を告げているわけではない。服装というものはその時代の中で様々な意志を示すものであり、その意志の方こそが問われるのだ。ある時代には、男性は帽子をかぶるのが礼儀で、かぶらないのは失礼に当たると見なされたこともあった。そういうときは対応が逆転する。今日は、男性の帽子の有無はほとんど関係がないし(社交界がどうかは知らないが)、女性のかぶり物も意味をなさない。聖書の告げる意図を取り違えると、よけいなことにこだわり、争いの種にしてしまうことがある。真に注目すべき点にこそ必死で取り組むべきなのだ。

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第一コリント 10:23-33

 8章で取り上げられていたことがもう一度ふれられている。具体的な対応はどちらもありえる(食べることもあり、食べないこともある)となっており、もしかするとぶれているように見えるかもしれない。だが、もともと偶像によって汚れることそのものは危惧する必要がないのだから、他の人を傷つけ、つまずかせるかどうかを重視するのは、信仰者としては最もまっとうな姿勢であろう。しばしば、信仰に熱心であるほどに自らのことに終始して、他の人への影響を無視する傾向が強くなるのは、人の中に巣くう罪深き影響がどれほど重いのかを痛感させられる。もしあなたのゆえに、他の誰かが神にあって幸いに歩み進めるなら、これほど大きな喜びはないだろうに。

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第一コリント 10:16-17

 話のついで的ではあるけれど、聖餐式に関して大事な理念が提示されている。聖餐式の意味にはいくつ塚のことが含まれているけれど、ここでは「私たちは主にあって一つ」ということが語られている。信仰は個人的なものだけではない。自分と神との関係だけではない。そこには共に神を信ずる者たち、神の前に一緒に立つ者たちがある。それを抜きにしては、この信仰は、神との関係は築かれていかないのだと、聖餐式のたびに私たちは思い起こす必要がある。だからといって、病床など、一人のための聖餐式を行うことそのものを禁ずる必要はないが、その場合にも、その聖餐式は教会において人々が共に集うものの一翼であることを意図してこそなされるべきだろう。

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第一コリント 10:20

 悪霊と交わるという言い方を、悪魔との交流というふうに受け止める必要はない。悪魔の存在は明白だが、その意味合いは常に、神に敵対するもの、である。人はどうすれば悪魔を避けられるかを考えるのではなく、どのようにして神との親しい関わりを持ち続けるかを追い求めればそれでいい。それを失うことこそ、悪魔に心を許すあり方なのだから。オカルト的なものの見方は、聖書が警告する悪魔への警戒心とは別物だと考えたほうが良い。

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第一コリント 10:14-22

 8章では、偶像なんて存在しないのだから、捧げた肉に害はないと言われていた。今度は、悪霊に捧げられているのだと言われている。食い違いを指摘する人も出てきそうだが、意味合いが違う。8章は誰か他の人が偶像に捧げたとしても肉には何の影響もないということ。今回は、自分自身が偶像礼拝をした場合のことだ。存在しない偶像だから拝んでも害はないという理屈を持ち出す人があったのか。答えは否である。確かに偶像そのものには実態がない。だが、自らの行為として偶像礼拝に加担するのは、そういう神々と関係ではなくて、主なる神を裏切り、その関係を自ら破壊する行為なのだ。私たちは何よりも、神との関係でこそ自らのあり方を問われている。

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第一コリント 10:13

 これは有名な言葉で、苦境にある人々への励ましのためによく引用される。一般論としては、神がそのような方であるのは聖書全体からも明らかだ。ただ、この箇所の話の流れからすると、意味合いがちょっと違ってくるようだ。ここでは古代イスラエルを引き合いに、コリント教会の過ちを厳しく指摘し、それゆえの苦境が待っているのだと警告されている。続けて読めば、試練と呼ばれているのはその厳しさに当たるのだと分かる。とすればこの箇所は、神に背き、それゆえに苦境に陥った人々、いわば自業自得の人々に対して、けれどもなお神の助けはあり得るのだと、自らの罪から来る困難からも、しかし神こそが救い出してくださるのだと告げていることになる。厳しく叱責した上で、そんなあなたがたにも神の助けはあるのだと励ます。これは非常に重大な約束だ。

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第一コリント 10:11-12

 「立っていると思う者」というのは、コリント教会の人のことを指すわけだが、つまり彼らは、自分たちは大丈夫、全うに信仰を生きていると自負していたことになる。コリント教会が多くの過ちを抱えていたことが、この手紙には繰り返し記されていたのに。何でもかんでも「自分はだめだ」と卑下するのは不健康なことだが、間違っているのにそれに気づかずにいることも多々あると自戒しておきたい。この言い方からすれば、古代イスラエルもまた、自分たちはちゃんと歩んでいるつもりで、あの愚かさに陥っていたのであるから。

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第一コリント 10:10

 この「つぶやいた」というのは、神がなさったことについて、その真意を受け止めようともせずに批判した事件を指している。民族を滅ぼしかねない愚行に人々を巻き込みかけた者たちを、神が処罰なさったことがある。だが人々は、死者が出たことだけを取り上げて「神はひどい」と批判したのだ。神のなさることは時に厳しいし、あるいは人の理解を超えることもある。だとしたら、何のために神がそうなさったのか、その動機、思いを尋ね求めるものでありたい。そうすれば、むしろそこに神の大きな温情が現されていることとか、人の幸いを願う神の心があることに気づくだろう。

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第一コリント 10:9

 これは古代イスラエル人がせっかく与えられていた食料に対して不平不満を言った出来事を指す。そのことが「主を試みる」と告げられている。彼らは、適当に不満を言って騒いでみれば、神が何か良いものを与えてくれるのではないか、と考えていたのか。まるで、おもちゃ売り場で「あれ買って」と泣き騒ぐ愚かな子どものようだ。本当に必要なものであれば、真剣に神に願えばいい。食べ物でも、おもちゃでも、お菓子でも、何であっても。だが、十分に足りているのに、本当は必要でもなんでもないのに、騒いでいるのだとしたら、神を馬鹿にする行為である。神は誠実に応えてくださるのだから、私たちもまた誠実に願う者でありたい。

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第一コリント 10:8

 次に「姦淫」ということがあげられている。これは前節とつながる。古代イスラエルは、他民族との交流の中から、しばしば偶像礼拝に引き込まれていた。性的関わりは神が与えてくださった良きものである。だが人は、その良きものを退廃させ、幸いを生まないものにおとしめてしまって、それでいて「これは楽しい」と言っている。最もわかりやすい点で言えば、性的関係は子ども誕生につながるものであるが、本来の健全に関係(つまり夫婦の)であればそれは多くの喜びに包まれるものとなる。が、それ以外の関係でこの結果に至ると、当事者も周りも深刻な思いとなり、しばしば人生の破綻をももたらす。ダビデが姦淫による妊娠によって殺人まで進んでしまったことは有名だ。

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第一コリント 10:6-7

 古代イスラエルの過ちは「悪をむさぼったこと」と告げられ、具体的な中身が列挙されている。まずは偶像礼拝。この場合は、そういう崇拝に伴っていた退廃的楽しみに魅惑されていたことが注目されている。主なる神以外のものを信奉することそのものの問題もあるが、コリントの人々が抱えていた課題は、そこにある「楽しさ」に引き込まれていたことにある。神が備えてくださった本来の楽しみはある。禁欲生活は聖書の教えではない。だが、人はせっかくの楽しみをしばしば自他を傷つける忌まわしきものにしてしまう。そして、「あっちのほうが楽しそうだから」と言って、間違ったものに手を出していく。それはまさにすべてを破壊する愚行だ。「気分が良くなるらしいから」と言って麻薬の類に手を出すのを、魅力的だったからで片付けるわけにはいかないことを考えてみると、パウロの必死さがわかるだろう。

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第一コリント 10:1-13

 旧約のイスラエルを例示して、自らの生き方を点検せよと告げられている。コリント教会の場合はユダヤ人の比率は少なかったはずだから、パウロは「私たちの父祖」のようなことに「あなたがた」は陥らないようにと教え諭していることになる。その謙虚さと、また、高飛車になりがちだったコリントの人々の思いを上手に扱いつつ、必要な教えを何とかして届けようとする心配りには、彼がこの教会の人々をどれほど大事に思っていたのかがよくわかるというものだ。もっとも、より深く受け止めていくならば、人種民族にかかわらず神の教えは共通なのだから、旧約イスラエルの教訓は、まさに人類全体の「我が身のこと」でもあるのだが。そのようにちゃんと受け止められるならば何よりである。

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第一コリント 9:24-27

 目指しているところは何であるかを忘れない。そうすれば愚かな過ちに迷い込むことを避けられる。コリントの人々は自分たちなりに熱心であったろうが、しばしばそのこだわりは信仰本来の目的を忘れ、かえって破壊するものになっていた。また、自分たちが悪に陥っていることにすら気づかずにいた。不道徳についても、そのことだけを見ているがために、たいしたことはないとか、人には自由があるとか、いろんな人の思いを尊重しよう、という話に流れてしまい、神は何を指し示されているか、神はどんな幸いを用意しておられるのかを忘れている。キリスト教信仰の生き方は、単なる善悪判断ではなく、神の幸いを求めていこうとする姿勢であることを確認しておきたいものだ。

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第一コリント 9:19-23

 パウロの意図は自分自身の財政問題ではなくて、コリント教会の姿勢が健全になることだったから、話はどんどん先に進む。そのためにパウロは自分自身の覚悟を示している。彼の願いは人々が神の祝福を得るようになることだ。人には誰でも自分なりのこだわりというものがあり、無色透明ということはありえない。相手に合わせると言っても限度がある。パウロがこだわりの強い人であることは聖書を読んでいるとすぐにわかる。だが彼は自分の願うところが何であるかにこそ忠実でありたいと願い、だからこそその相手の必要に基づいて対応するのだと言っている。決して相手の言いなりになるのではない。もしかすると他の人には言わないほどに厳しくすることもあるかもしれない。でもそのすべては福音の恵みを求めるがため。それほどにこのことは意義がある、価値があるとの叫びに注目したい。

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第一コリント 9:15-18

 このあたりの言い方は、これが手紙であるということを踏まえて読む必要がある。パウロはこの文章を教科書あるいは法律条文として書いているわけではない。パウロが「私はこうする」と書いていたとしても、その意図がどこにあるのかを踏まえて読まずに、表面的に受け取ってしまうと事態はいっそう混乱する。ただこれらの言葉から、パウロが何としても福音を伝えたいという一点について必死であることは、はっきりと見いだせるだろう。混迷するコリントの人々に、ぜひともそこだけは分かって欲しいとパウロは願っているのである。それで、この後に続く言葉にもなる。

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第一コリント 9:12-18

 本来のあり方についてのパウロの確信(つまりは主の御心)は明らかだった。使徒たちは教会から報酬を受け取って、自らの生活のために時間を消費せずに教会の業に専念するのが最善なのだ。でもパウロはその最善を投げ捨ててでも報酬を得ることをやめると言っている。働きにおいても、コリント教会の信仰的健全さに悪影響があっても、だ。それほどこの点についてコリントの人々は頑迷で、混乱していたのだろう。残念ながら、良きものを投げ捨ててでも取り組まねばならないことがある。それほどに人の罪からくる愚かさはひどいということだ。もしコリント教会が事態の深刻さに気づいていたなら、こういうパウロの申し出を聞いて、血相を変えて言ったはずだ。「とんでもありません。そんなことは絶対に認められません。何が何でも受け取っていただきます。私たちは教会を衰退させたくはないのですから」と。

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