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2012年9月

第一コリント 15:29

 死者にすがるのか、という批判は、ギリシャ社会から浴びせられていたものだろう。ユダヤ人はさらに、十字架で死ぬような呪われた者に頼るなんて、と言っていた。もしキリストが復活しなかったのなら、それらの批判はキリスト教の神髄を貫き、破壊するだろう。でも福音は正反対のことを語る。問題や困難は一杯あるけれど、キリストが復活されたからには、どれほどの厳しさをも越えていくことができるのだ、私たちには復活の主がついているのだから、と。

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第一コリント 15:20-28

 福音の核心部分として告げられていたとおり、キリストは確かによみがえられたことが改めて宣言されている。そして、死を打ち破ったキリストがあらゆる権威を掌握していることが語られる。コリントの人々はキリストを信じています、と言いながらも、様々なものを恐れ、戸惑い、自分たちの先には希望がないという生き方になっていた。キリストが信じられないなら、それも仕方がない。だが、信じているはずなのに、そう公言しているのに、それでもなお希望のない生き方をしている人々に、断固として、あなたがたは大間違いをしている、と告げている。私たちの回りにはいろいろある。難しいこともある。でも、全てを掌握されたキリストがおられるのだ。それを忘れたら何も始まらない。

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第一コリント 15:12-19

 コリント教会が抱えていた問題は、「人間、死んだらおしまい」という意識が蔓延していたことのようだ。彼らは幸いにも、「キリストはよみがえられた」という教理項目そのものは唱え続けていたようだ。それを突破口にして、パウロはこの人々の思い違いを正し、彼らに真の希望を見せようとしている。この部分には、それだから、キリストがよみがえらなかったとすれば、この信仰全体が、信仰者たちの存在意義そのものが、すべて壊滅してしまうのだと言っている。これは人々を説得するための言葉ではあるが、真実そのものでもある。死んだらおしまいのだとしたら、神が提示された価値観はすべて崩壊する。

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第一コリント 15:11

 自分たちが何を信じ、何に基づいて救われていたのかを確認することは大切なことだ。そうでないと、いつのまにか重要な基盤が曖昧になり、それは教理的にどうかと言うことだけではなくて、信仰生活のあり方そのものにも大きく影響する。コリントの人々は復活されたキリストの存在が曖昧になっていたのか。だとすれば彼らが、自分自身の功績を重視し、あるいは反対に自分の欲を満足させることに必死になったのも当然の帰結だ。頼れる相手がいなかった、信仰は成り立たないのだから。

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第一コリント 15:9-10

 パウロは自らの体験を語る時、自身がどのような経緯によってクリスチャンになったのかを語っている。彼はキリストに反対し、クリスチャンたちを迫害し続けていた人物だ。まさに敵、神に反する者だった。それなのにキリストは彼に呼びかけてくださり、その存在に気づかせてくださり、信仰者としてくださった。キリストが単に十字架で死んでしまった犯罪者ではなく、今の生きておられるまことの神だからこそ、この大転換はあり得たのだ。もし、キリストがよみがえって働きかけてくださるのでないとしたら、人は誰でも、自らの罪を自らの力で乗り越えるしかなくなる。そしてむろん、その結果は絶望だ。

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第一コリント 15:8

 パウロがキリストに出会った出来事は、他の弟子たちとは別の種類のものだ。けれど彼はその意義を大切なものとして語っている。トマスが「見ずに信じる者は幸い」と言われた出来事、あるいはペテロがその手紙の第一1:8で、キリストと直接は会っていない人々の幸いを語っていることを考えると、パウロのこの認識は後の時代の者たちにとって大事なものだ。そう、私たちは確かにキリストをこの目では見ていない。でも神が私たちに働きかけてくださり、呼びかけてくださっていることは、あの弟子たちの幸いと比べて、何ら遜色はない。人はそれぞれの置かれている立場で与えられている幸いを、大いに満喫し、そして誇りとすればよい。

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第一コリント 15:3-7

 十字架そのものの意義についてよくよく承知しつつも、この15章でパウロはむしろ復活に焦点を当てている。コリント教会の状況に必要なことは何かという点からの選択でもあるが、使徒の働きに見られる弟子たちの説教もまた、十字架よりも復活が大きく取り上げられていることを思うと、救いにおける十字架の意義を鑑みてもなお、人々が神を信じて生きるためには(その始まりも、歩み続けるためにも)、キリストの復活に依拠するところがとても大きいということだろう。キリストが復活してもしなくてもどちらでも、みたいな言い方をする人があるけれど、それは聖書の語る現実とは大きく食い違うものだ。

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第一コリント 15:1-2

 なぜここでパウロは、福音の神髄について語り始めたのだろう。コリント教会が持つ様々な混乱に対処するためには、個別具体的な処置以上に、この信仰の根幹そのものをふまえること、とりわけ、復活の希望を語ることが最も大切と考えたからだろう。だからこそ、「この福音のことばをしっかり保っていれば救われる」とも告げられている。私たちも、自らの信仰が個々にある復活の希望の呼びかけと結びついているかどうか、確かめてみたい。

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第一コリント 14:37-40

 自分だけが正しいのだと主張するような者は、神から教えを受け取ってはいないのだ、と指摘されている。孤高の預言者とは別の話だ。彼らは自分一人が神の真実を語っているとは自覚していても、そのことに恐れおののき、苦悩し続けていた。俺だけが正しい、みたいな思い高ぶる姿とは全く違う。結論としては、自分が語っていたことが本物の真実だったとしても、そのことを皆が共に確認し、受け止めていくためには、互いの意見を聞き合い、共に確かめることが欠かせない。だからこそ、私は預言を、異言を語っているのだ、私に聞け、と声高に主張していたコリントの状況は、とても深刻であったのだ。

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第一コリント 14:33-26

 では、この箇所に込められた普遍的な教えは何か。何が自分にとっても他の人にとっても徳を高めることになることかをちゃんと見極めるべきであり、好き勝手ではないし、自分の満足でもない、ということだ。とりわけここでは36節のように彼女たちは、自分たちが異言や預言を語っているのだから人々はその言葉を聞くべきだと主張して混乱を増幅していたようであり、主の教えの健全さを保つためにも、彼女たちの横暴は拒絶される必要があったのだ。コリント教会が異言について混迷していたことも、こういう事態の要因となったのだと理解される。

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第一コリント 14:33-36

 コリント教会では女性たちが声高に叫んでいたようだ。でもそれは、男女に区別はありません、と言って、男子トイレにずかずか入り込んでいるような感覚で周囲からは見られていたのだ。つまりあきれてものも言えない、恥を知らない、というふうに、である。男尊女卑に対抗するのなら、もっと別の良き方法、場面があるのに、彼女たちはただ自分たちの気に入るように行動していただけ。誰にとっても徳にならないことだった。パウロの激しい言葉は、女性を否定する意図ではなく、そこに見られた愚行をいさめるものだったのだ。

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第一コリント 14:33-36

 聖書が教える具体的事柄は、当時の状況を考慮しつつ受け止めていく必要がある。また、聖書の他の箇所が示している内容とも見比べる方が良い。そうすれば、その事柄が時代や状況を超えて普遍的に提示されているものか、それともその具体策はある状況に対するもので普遍的な内容はその背後に指し示されているのかを見極められるだろう。古代社会は女性の扱いが著しく低かった。けれど聖書には女性たちの活躍が繰り返し記されている。この箇所に女性蔑視の意図が込められていると考えるとしたら、この箇所は聖書全体の意図と激しく食い違っていることになる。この箇所が意図することは、全く別の課題に対するものなのだ。

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第一コリント 14:29-32

 異言について慎重さを語っていたパウロだが、預言もまた同様だと告げられている。これは説教とは、ということを考える際に役に立つ。好き勝手に、自分の思うがままに話すのは、預言ではなく、説教ではない。預言とはあくまでも神から預かるということであり、もしそこで語られることが単なる自分の思い、自分の考えなのだとしたら、それは説教ではない。キリスト教講演会であれば、キリスト教信仰に基づいて自分なりに考える所を話しても良い。だがそれは預言、つまりは説教ではないことを心しておくべきだろう。

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第一コリント 14:26-33

 徳を高めるために、という目的が明確に掲げられている。各自の満足ではなくて、である。あくまでも他の人の幸いのために、である。また、混乱ではなく平和(平穏とか安定という趣旨だろうが)が神のご性質であることも示されていて、いかなる賜物にしても、ちゃんとその賜物を受けた人々自身の意志と理性に基づいて管理され、適確に用いられることが求められている。神が与えているものだから止められない、というのは、この箇所からすれば真の賜物ではないのだ。

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第一コリント 14:24-25

 異言がどうこうよりも、預言の果たす役割の方が重要だ。神の言葉が語られていく時、人々はまず「罪が示され」るのであり、その心の内に秘められたものが問いただされていく。その人々は、今までにはない経験、つまり神の言葉と向き合うことによって生き方の根幹が揺さぶられることによって、ここにはまことの生ける神がおられるのだと、知ることができるようになる。これは非常に大事なことだ。その人の生き方そのものが変えられていく機会になり得る。だとしたら、せいぜいが自分のためにしかならない異言よりも、何よりも人々に神の言葉を届けていく預言にこそ意欲を集中すべき、とパウロは告げているのだ。「自分のことだけではなく他の人のことも顧みなさい」という教えを思い出すべきなのだ。

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第一コリント 14:20-25

 この箇所、話の筋がちょっとわかりにくい。異言は信じていない人のためのもの、と語られているのに、その後のところでは、信じていない人のためには異言は有効ではなく預言が適切、と告げられているのだ。ただ、21節で異言が語られても人々は信仰に導かれはしないと告げられてのことなので、ごく簡単に言い換えてしまうなら、異言が語られると信仰者以外の人々も驚いて興味は持ってくれるかもしれないが、真に人々の心に届く神の言葉としては、異言では役に立たず、預言(つまり通常の宣教の言葉)であることが不可欠、ということだろう、先にも述べたように、個人の祈りとしては役に立つことがあったとしても、他の人に向けたものとしては異言では効力は期待できないのだと、パウロは述べている。

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第一コリント 14:13-19

 今日、取りざたされている異言については、様々な意見が出されている。それらが聖書に記されている異言と同じかどうかも、明確に判別はできない。違っているものか゜混在していたとしても、それを判別するすべがないのだから、警戒心が強くなるのも不思議ではない。判別はできなくても、その扱い方については聖書がきちんと語ってくれている。それは祈りにおいて用いられればいい、と。他の人の前での祈りではない。自分一人の祈り、それならば他の人に影響はない。そして神は、私たちの思いを越えて、真剣な心をわかってくださるだろう。必要に応じて正してもくださるだろう。もともと聖書に記されているものも、神と向き合うためのものだ。だとすれば、これが一番の対応策。自らの満足のために用いることは、賜物の本質から逸脱している。

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第一コリント 14:3-12

 物事の意義を考える際に、誰かのためになることか、という点が重視されている。それ以外は無意味、とは言っていない。でも、教会に関わること、賜物と呼ばれる部類のことについては、この観点は重要だ。だからこそ預言には意義があると告げられているのだ。どちらが優位とか、レベルが高いとか、そういう話ではない。単純に、他の人の益のためになるかどうか、が判断基準である。だからこそ、もし、求めるのであれば預言の賜物を求めなさい、とある。間違えないで。12章で言われていたように、それを手に入れられなければ劣っているとか、そんなことは全くない。ただ、信仰を知り、愛を知る者たちは、少しでも誰かのためになり得たらと願うようになるだろう。そのためには、その人が神を知り得るように、そんな言葉を、相手にわかる言葉で語り得るようにと、祈り求めることは意義がある。

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第一コリント 14:2

 異言について、それは「神に話す」のだと告げられている。とすれば、それは個人的なこと、自分と神との間のこと、他の人には関わりのないこと、となる。であれば、教会では必要がなく、もしそういう機会が与えられているのだとしたら、一人で神と向き合っていれば良いということだ。もし、異言がそのようになされていたら、このことでの混乱は生じなかっただろう。結局、人が自らの特異な能力をひけらかし、他者との違いとして誇示したからこそ、問題は生じてしまったのだ。12章にある賜物の話を読み直すべきだ。そして賜物は誰かに仕えるためのもの。神と向き合うための手段なら、その人自身だけの話である。

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第一コリント 14:1-19

 異言の問題は、20世紀初めあたりから再び大きく取りざたされるようになったと聞く。1800年間ほどは、少なくともそれほど大問題にはなっていなかったということで、パウロの語るところからすれば、妥当な状態が続いてきたということになるだろうか。つまり、時にそういうものもあるだろうが、でも、信仰の根幹に関わる事柄ではなく、適度に扱われる時にのみ有用でもあり得る、ということだ。なお、ここにある異言は使徒2章に出てくる現象とは異なるものと思われる。あのとき、人々は誰も解き明かしを必要とはせず、その言葉がわかる人々に直接届いたのだから。たとえ様相は似ていたとしても、解き明かす人の有無が取りざたされる時点で、趣旨は大きく違っている。

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第一コリント 13:11-13

 すい゛れはすべて知り得る時が来る、と告げられている。神の前に立つ時、神と共にあるようになる時、だ。人が重視している多くのものは、そのとき、もっと大切なことがあったのだと知らされるのであり、私たちは恥じ入るというか、後悔するだろう。愛とその他の賜物について語られていることからも、私たちはその一端を目の当たりにしている。だとすれば、せめてその一時的な賜物のことで争ったり、それを罪の材料にすることなく、本当に私たちがなすべきことをこそ、見ていくものでありたいと思う。

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第一コリント 13:8-10

 様々な賜物はいずれすたれるとある。天の御国を考えれば良い。底では預言はいらない、異言も不要だ。知識を誇っても仕方がなくなる。そういう助けは必要がなくなる。だが、互いに愛することは続く。それは単なる義務ではなく、誰かを助けるためだけでもなく、人が人として生きていく上での最も基本的な動機、意欲、喜びであり、楽しみであるからだ。様々な賜物、資質は、むしろ愛という賜物が発揮されていくためにこそ用いられてしかるべき、であろう。不完全であったり一時的であることが悪いわけではない。でも、それらを追い求めることによって究極の幸いである愛を忘れてしまうとすれば、これほどの愚かさはあるまい。

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第一コリント 13:4-7

 ここにある一つ一つを取り上げても、十分に話すことができるけれど、読んでおられる各自がかみしめて、今の自分にはどの言葉が大事かということを考えてくださるのがよいだろう。それにしても、誰かを好きだ、という感情の場合とは、ずいぶん違っていることに気づかれるだろうか。恋はいつか愛に変わる、と言った人があるけれど、その境目は大きく、まさに神によらねば踏み越えていき得ないようにも思う。そう、愛することは「賜物」の一つである。そして賜物は、神から与えられるもの、である。神がおられなくては、このような愛は決して成り立ちはしない。人の力でどうこうできるものではないのだから。

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第一コリント 13:1-3

 結婚式でも読まれることがある「愛の章」であるが、そこで語られていることは非常に厳しい。まず、愛がなければどんな良きもの、価値あると言われているものでも、全く意味がないのだと宣告されている。愛とは必ずしも優しさだけではなく、厳しさも過酷さも含むのではあるけれど、またね人間の限界はすべての人に対して愛を注ぐことはできないだろうが、でも、たとえば、より大きな目的のためには犠牲も仕方がないみたいなふうであるとすれば、少なくとも13章は断固として、それは意味がない、と告げていることになる。コリントの人々はここにあるような事柄を偉大な業と賞賛していたのだろうが、パウロは一刀両断である。

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第一コリント 12:28-31

 このリストを限定的に、あるいは代表格のようにして考えるのは、この箇所の趣旨に反する。人々がわかりやすいものを列挙して、様々あるのだということを告げているに過ぎない。同時に、異言を語ることが後ろのほうに挙げられているのは、コリント教会での混乱の一つがそこにあったからと推測できる。多様性と、相互補完性が、コリント書が語る「キリストのからだ」である教会のあり方だ。その点では、31節の「よりすぐれた」という言葉も、もっと良い賜物を、みたいな上昇志向はむしろ間違いだ。良き賜物とは、この後に出てくるように「愛」であって、それは他との比較とか優劣を叫ぶものではなく、犠牲的なものなのだから。

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第一コリント 12:27

 キリストのからだなのだ、という点、賜物の多様性や、相互に助け合うものであることの、その理由が明確に示されている。もともとばらばらのものではない。キリストというからだの部分同士。寄り集まっているのではなくて、むしろ一つであることが原点。そして、キリストの御業がこの世界で広がっていくことが大きな幸いを生み出していくことを期待する者としては、様々な賜物が寄り添い、助け合うことを願い求めるのは、当然という以上に必然。一つにするのは大変だなあ、と考えがちだけれど、本来からすれば、ばらばらにする方が大変なはずのもの。せめて神を信ずる者たちが、この逆転の重大さを知っておきたいものだ。

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第一コリント 12:25-26

 お互いに違いのある様々な賜物が存在することは、それぞれが相手を大切に思い、補い、励まし、支え合うためなのだと告げられている。比較し、優劣を競うためではなく、である。みんな同じだったら、同じところで力を発揮し、でも、同じところで弱さを露呈する。これではただの一蓮托生。崩れ去ってしまうだけのものになる。泣いている人を支えるためには、踏ん張っていられる力が必要だ。弱っている人を背負って歩いていける人が必要だ。賜物の相違は、違いを受け止めあうということだけでなく、さらに積極的な、重要な意義があるのだ。人々はもっと自らの賜物を、他の人とは違う賜物を胸張って示すべきだと思う。

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第一コリント 12:22-24

 世の中は、能力や実績の高さを最優先にしてものを考え、人を選ぼうとする。だが、人の目から見える程度のものなどごく限られた情報でしかない。その浅はかさがどれほど愚かで危険なものであるかを、私たちはしばしば嫌と言うほど味わっているはずだ。聖書が語るとおりに、共に歩むことの意義、幸いを、必要性を、よくよく見定めておきたいものだ。

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第一コリント 12:20

 聖書は人と人との関係性を身体に当てはめて語っている。両者がとてもよく似ているからだ。それを思うと、人間関係というものを別々の存在をどうやって結びつけていくか、というふうに考えていくのは、出発点からしておかしいのかもしれない。身体について考える際には、まずは一つの身体として見なし、その上で、それぞれの部分の調和というふうに見ていくのだから。それにしても、身体を部分ごとにバラバラに考えようとするのは何の利益にもつながらないわけだが、それでもなお互いのつながりよりも自分優先に走ろうとするのは、人というものが自らの利益のためですらない、単に他者をおとしめるために多大な犠牲を払おうとする愚劣な存在であることを痛感させられる。

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第一コリント 12:15-21

 自分とは異なった賜物を持っている人々を差別したり、見下げたり、あるいは自らを卑下することは、この世界で、教会においてもよく見られる事態だが、それは神の御業を根底から否定するものになるのだと告げられている。賜物は互いに支え合ってこそ意味を持つのだから、こういう比較や蔑視は何の意義も持ち得ない、全ての良きものを破壊する行為でしかない。異なる賜物同士を堂々と示し合い、喜び合ってこそ、この世に神の祝福は広がっていくのだ。これはかなり深刻な話だ。

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