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2012年10月

民数記 1:47-54

 レビ部族は別格扱いになっている。彼らは祭儀などに関わる役目が与えられており、民族全体の信仰生活を様々な面でバックアップする使命を託されていた。このため領地もまとまった形では与えられず、全土に散らばる町々が与えられたのみである。特権的扱いであると共に、物質的には他部族よりも抑えられたことになり、部族としての繁栄などは期待できない。レビ族の所領は神ご自身、というふうに告げられているが、そのような信仰・信頼が必要とされていた。この扱いの背景には、金の子牛事件の時、神の側について同胞に剣を振るったことが関わっている。

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民数記 1:26-46

 各部族は5万人前後が多いけれど、ユダは群を抜いて多い。後に、ユダ部族だけで一つの国を形成できたのは、この部族がもともと力があったからと言える(厳密にはシメオン・ベニヤミン・レビが加わるのだけれど)。北王国の主軸となるヨセフの系統(エフライム・マナセ)は二つ合わせてようやくユダに匹敵する。この二つは兄弟的でもあるから、ユダとの間には対抗意識が燃やされたのも納得だ。ダンが思ったよりも多い。あまり目立つ部族ではなかったはずであるが。

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民数記 1:17-25

 人口調査については、第二サムエル24章でダビデがそれを実施したために厳しく叱られているのだが(神の力に頼らず人の力を誇ろうとしたたため)、ここでは神ご自身からの命令による。それは神によってエジプトを脱出させていただいた民がどれほどの人数であるかを確認し、その偉大さを忘れないためでもあろう。ちなみに、ダビデの人口調査では倍以上に増えている。定住後の繁栄と見るか、その程度しか増えていないのは混乱のためと見るか。

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民数記 1:1-16

 民数記は、その名前のとおり、イスラエルの人口を記録するところから始まっていて、ちょっと退屈に思われるかもしれない。でも、一通りの記録が終わったあたりからは、出エジプト記の続きになる様々な出来事も記録されており、40年の放浪につながる話も出てくる。それにしても1節には二年目の第二月となっているので、一年目の第三月にはシナイ山あたりに到着していたイスラエルが、11ヶ月過ぎてなおこの地に留まっていたことになる。律法の授与や幕屋建設だけでなく、金の子牛事件も大きく影響していたはずで、せっかくの約束の地になかなか到着できない事態となっていたのが分かる。あの地域、距離的にはそれほどでもないのだが、すったもんだのために時間がかかっているのだ。

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第一コリント終了

 本日で第一コリントは終了です。今回は5ヶ月でしたね。引き続き第二コリントに入るのが筋かもしれませんが、このブログの方針に沿って、次はまた旧約に戻ります。順番通りに民数記を読んでいくことにしましょう。では、いつものようにちょっとお休みをいただいて、10/28から始めることにします。

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第一コリント 16:21-24

 パウロは健康的な課題を抱えていたようだ。でも彼の心はコリントの人々を案ずるばかりである。その心の源は、主を思うからこそだ。主を慕い求めるこのような言葉は、詩篇27:14などの切なる訴えと同じ心と言うことができるだろう。この22節の「主よ、来て下さい」は、再臨待望という意味合いで理解されることもあるが、もっと広い意味合いで、主が私たちの歩みに深く関わって下さることを願い求める祈りとして受け止める方が、なお意義あるものとなるだろう。それことが、混乱に陥っていたコリント教会の必要なことであるのだ。

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第一コリント 16:19-20

 人は一人で生きているのではないように、信仰もまた、そして教会の歩みもまた、自分たちだけのものではない。そこには常に、自分たちのために祈ってくれている他の教会があることを忘れてはならないのだ。もともと、そこに福音が届けられたことそのものが、どこかの教会の愛の結果であり、犠牲の中で与えられた恵みでもある。そういう関わりを忘れず、ありがたく受け、そしてまた他のために労していこうとするならば、そこにはきっと健康的な信仰が培われていくだろう。コリント教会に対してパウロが何度も他の教会のことを話題にしているのも、彼ら自身のことを思うからこそ、である。

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第一コリント 16:15-18

 コリント教会内の人たちであろう。彼らは混乱するコリント教会の中で、必死に取り組んできた人々なのだと思われる。厳しい状況の中で、なお純粋な信仰を持ち続けることの重みを思うと、彼らは深く賞賛されるべき人たちだ。信仰の苦闘を続けている人々のために祈り、何とかして支えていこうとすることは、主の御心を大切にして生きていく姿と重なる。

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第一コリント 16:13-14

 男らしく、と言っているが、何も女性を否定しているわけではない。単なる言い回しであり、様々な混乱の中でも意気消沈して倒れてしまわずに、信仰に立ち続けるようにとの呼びかけだ。最初はどこの誰だか、というふうに怪しまれていたとしても、なお、信仰に毅然として立ち、神の御心をこそ歩み続けるところに、信仰の極意とでも言おうか、そういう事柄は込められている。

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第一コリント 16:12

 コリント教会に影響力を持つアポロがこの問題に取り組んでくれることは、パウロからすれば是非とも、であった。でもアポロはそうは動かない。彼には別の意図があり、計画があるからだ。主の業だと確信することであってもなお、他の人は別のことに取り組むことがある。それは決して御心に反しているのではなく、それぞれの人にそれぞれの業、であるのだ。その多彩さを否定してしまったら、自らの業をも閉ざしてしまう偏狭となることを、忘れてはいけない。

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第一コリント 16:10-11

 これは手紙だから仲間たちの音信も伝えている。コリント教会の問題にパウロと一緒になって取り組んでいるテモテについては、予想される反発を案じているのだが、強面ではなく親しい仲間として受け止めるようにとの趣旨で呼びかけている。初めからけんか腰では、どうなるものでもない。むろんごまかしや妥協は想定されていない。でも、目指すのは相手の打破ではなく、真に良きものを届けることにあるのだからして、パウロの基本姿勢は(表面的にはどうであれ)人々を思いやる心である。

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第一コリント 16:8-9

 ここにある「留まり続ける理由」は、まさに現実なのだと思う。自分の活躍が必要とされている場があることは、その裏返しとして反対も強くなるということである。まあ、パウロの場合は、皆が賛成してくれるようになったら、自分の役割は終わったと次のところに行くかもしれないが。いずれにしても、回りの状況が良くても悪くても、そこに自らのなすべきことがあるならば精一杯なす、ということは大事な姿勢であろう。第二テモテ4:2もそう語っている。

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第一コリント 16:6-7

 この意味は、ちょっと立ち寄るだけではなくゆっくり滞在したい、ということだ。コリント教会の問題にパウロは激しく怒っていたが、だからといって彼らを嫌っていたのではなく、心から案じていたし、大切に思っていたのだ。共にいたい、という願いを抱くことは、互いの関係の親密さを示すものとして、聖書には繰り返し出てくる。神ご自身も、私たちと共にいたいとしてくださっているのだから。

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第一コリント 16:3-9

 この献金は、エルサレム教会のため、であった。上納金ではない、もちろん。エルサレムのクリスチャンたちは貧しかったので、ギリシャの人々は彼らを支えようとしたのだ。パウロはそういう献金を運ぶ役割を引き受けていた。彼の伝道旅行は、この役割を果たすために行程が決められていた面もある。もしかすると、お金を運ぶことよりも伝道のほうが大事、と憤慨する人があるかもしれないが、パウロはそうは考えていない。そうやって人々を支える業は、新たな町に福音を届けることと同じように意義のある、大切な業だと理解していた。使徒6章で、7人が選ばれたのも同様である。

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第一コリント 16:1-3

 短い箇所だが、献金の基本が指し示されている。いつも週の初めの日に、であるから、定期的に、である。蓄えておく、のだから、必要が生じたから慌てて、ではなくて、日常の暮らしの中で、である。そして、収入に応じて、であるので、それぞれが神から与えられているものに応じて。厳密な比率とまでは言わないが、貧しい人が無理をしてまでというのは好ましくないし(皆無ではあるまいが)、豊かな人は豊かに捧げることが当然、ということになる。まあ、ごく当たり前の感覚である。が、私たちがまっとうな暮らし方をしたいのであれば、こういう当たり前の指針にちゃんと応じていくのが良い。

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第一コリント 15:58

 という言葉で、復活に関する一連の話が締められている。32節とも関連する。死んだら終わりなのだったら、主にあって励むことに意味を見いだせなくなる人もあるし、なかなかうまく進まない事態に失望と落胆を覚えもするだろう。だが、そうではない。終わりではない。先がある。幸いが広がる。神は確かに、良きものを用意してくださっている。荒野を旅する先には、約束の地が待っている。主の約束は真実なのだから。

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第一コリント 15:55-57

 死への勝利は、何よりもキリストの復活によって私たちの前に指し示された。一時的な再生は可能であるかもしれないが、再び死に襲われることのない生命は、まさに夢物語だったのだ。キリストを死者の中からよみがえらせた神があなたがたを助けてくださる、という言い方が聖書には何度も出てくるが、この希望と確信こそ、最初の弟子たちが力強く語った根幹であったことを、今の私たちも思い出すべきだろう。

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第一コリント 15:50-57

 今とは違う身体、の意味するところは、この話の流れからすると、もはや死なない、という点を強く意識しているようだ。たしかに、この一点こそが、人は決して越えられないことだ。空を飛べる力なら、飛行機で何とかなる。いつかはタケコプターができるかもしれない。瞬間移動はSFっぽいけれど、神学的には不可能と決めつける必要はない。だが、人は死を乗り越えられない。これは神が明確に告げていること。だからこそ、そこが変化するというのは、それだけで十二分に大変革である。なるほど、確かに以前とは全く違った身体だ。

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第一コリント 15:35-49

 そうはいっても、どんな身体なのだろうかと関心を持つのは当然だろう。聖書はそのあたりをあまり明確にはしていない。今の身体に類似しているとの言い方かもあるし、この箇所のように天上のからだ(別の種類だと言っているわけではないが)だと告げているところもある。あの新天新地についても明確ではないのであって、このあたりは幾分かそれぞれの想像の中で(聖書に反しない程度に)、期待を込めて思い描いていても良い、ということであろう。まあ、ケーキの山に囲まれて、ではないだろうが。

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第一コリント 15:35-49

 死ぬと、その身体はやがて朽ちてしまう。これは世界の常識だ。とすれば生命が戻ってきた時にはどうするのか。という戸惑いからミイラは作られたのだと聞く。神が私たちを復活させる時には、そういう心配はない。復活は魂自身の行為ではなく神がなさることなのだから、初めにこの身体を造られた神はちゃんとそのための身体を改めて用意してくださる。神抜きでの復活では、単におどろおどろしいものでしかないけれど、安心して任せておけばいい。

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第一コリント 15:30-34

 キリストが復活せず、私たちに希望も何も確保されていないのだとしたら、とりあえず今を楽しめばいい、という生き方は出てくる。先に希望を持ち得なければ、人は刹那的になる。聖書のいわゆる良き教えは意味を失う。キリストに頼れなければ自分で達成するしかないのだが、人間の力では不可能だとキリストは語られていたし、また、その教えはあまりにも高邁なのだから。必ず助けるから、という約束付きでの厳しい教えであることを、忘れないでほしい。

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