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2012年11月

民数記 13:25-29

 どんなに良いものを見せられても、もし、その人の目が困難にばかり向けられてしまえば、全ては闇に閉ざされてしまう。むろん、厳しさや課題を無視するのは良くない。現実の過酷さも知り、覚悟することは必要だ。甘い言葉だけではむしろ偽りだろう。でも、ここで最も大切な点、つまり神が自分たちと共にいて下さり、道を開いて下さり、現にここまで導いてくださっているという点を見ていないのだとしたら、そこには本当の意味で客観的な分析・評価などは存在し得ない。彼らの言葉はあまりにも愚かである。

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民数記 13:17-24

 モーセの言葉と、彼らが現地を見て回っている様子からすれば、偵察隊の意図は、神が約束してくださった地がどれほど良いものであるかを確認し、神の導きの素晴らしさを喜びつつ、期待に胸膨らませて進んでいくためのものだったと考えられる。そして、実際に彼らが見たものは、本当にすばらしい土地であったようだ。まあ、日本のような温暖湿潤の地とは比べられないとしても、あの地域の中で、そこは豊かに作物が実るすばらしい場所であったのだ。神がどれほど良いものを備えてくださるのかを見ていくことは、信仰を励ますには良い刺激ではある。

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民数記 13:1-16

 偵察隊など送らずに、そのまま進んでいったら良かったのか、と思いたくなるくらい、この後の事態はひどいものになる。でも、おそらく彼らにしても、送り出した側にしても、期待を込めて出発したに違いないのだ。残念だが、人の意欲や熱意はあっけなく崩れ去る。この12人は各部族のトップではなく、次世代の有望な者たちであったのだろう。進展性が期待できる若者たちであったはずなのだが。この偵察隊がうまくいく鍵はただ一つ、後にカレブたちが言ったように、神の守りと導きを信頼することだけしかない。

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民数記 12:11-15

 旧約は罪を犯した者に対して厳しい、というふうに言われるが、このような箇所を見ると、その温情はとても厚いということを思わせられる。アロンは自分たちの罪だと明確に認めているのに、その罰を負わせないでと願っている。厚顔と批判されそうな姿だが、でもモーセはそれを受け入れているし、アロンの訴えそのものを聖書は批判してはいない。そして、ミリアムに対しても、すぐさまではないけれど、ちゃんと癒やしが与えられている。さらに、これは彼女の責任なのだから、後から追いかけてこいと言って道を急いでもおかしくはないのに、民全体は回復するまで待ってくれている。罪は罪であり、罰も必要だ。それでもなお、聖書の視線はとても優しい。

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民数記 12:1-16

 ミリアムの不満は、モーセがクシュ人の妻を迎えたことそのものではなく、モーセの持つ権威を自分も手にしたいということのようだ。11章にあるように、それがどれほど重たい責任であるかを、近くにいたミリアムは見ていたはずなのに。モーセとしてはあまりにもつらい態度であろう。神は明確に、モーセの地位を認めておられる。ただしそれは、単なる特権ではなく、重たい責任を伴う権限であることを、誰よりもモーセ自身が承知していたであろうが。彼の苦労は絶えない。

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民数記 11:31-35

 人々の欲求は、その通りに満たされたのだけれど、でも、被害が広がった。この様子からすると、肉を食べて満足している民に神が何らかの罰を下したのではなくて、肉そのものが原因となっての疫病ではないかと思われる。通常、こんなに大量のうずらが落ちてくる時には、何らかの病気を警戒して回避するものだけれど、この時の民はただ欲におぼれていたのだ。神はある意味では民の要求通りになさったけれど、同時にそれは民への厳しい戒めでもあったのだ。間違った欲求は、その通りに実現するからと言って、それが良いことかどうかは危うい。

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民数記 11:26-30

 この二人がなぜ宿営に残ったのかは不明だ。意図的に招集に応じなかったのかもしれないが、それでも神の霊が下っている。ヨシュアらはその様子に不満げであるが、モーセはむしろ歓迎している。つまり、本人の志が低かろうが何だろうが、その人が神によって取り扱われてすばらしい業に参加するようになるのだったら、それは何より、であるのだ。イエスも、弟子の仲間として登録されていない人々のよき業を歓迎している。

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民数記 11:16-25

 人々の欲求には、神が肉を与えるという約束が語られている。モーセの訴えに対しては、70人の長老たちが彼を手助けするとの支えが与えられている。一人で負わなくても良いという言葉は、彼にとって大きな励ましになったはずだ。人は一人ではなく、共に神の前を歩む者たちがあってこそ、である。パウロの書簡にも多くの仲間たちの名前が書き連ねられていた。25節にある預言する姿は、彼らがモーセと共に労する役割を担ったことを目に見える形で示すものだ。新約でも初期には同様の意味合いで、「精霊が下る」というふうに表現されている現象が見られる。

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民数記 11:10-15

 民が泣いているのは、うまいものが食えないという嘆きである。モーセがうめいたのも無理はない。これほどまでに苦労させられるとは、と、音を上げかけている。あの金の子牛事件では、自らの全てを投げ出すことまで申し出たほどに民を思いやってきたのに、彼は心労にバラバラにさせられる思いであったのだ。報われない苦労というものほど、つらいものはあるまい。でも、彼にはこうやって訴え、うめき、吐き出すことのできる相手、神がおられることが救いだ。そう、もしこれが神の業ではなく、人の、自分の業に過ぎなかったら、どうなってしまうのか。そう、人のなすことは皆、神の業として存在することを決して見失ってはならないのだ。

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民数記 11:1-9

 1節の不平がどんな理由からなのかは分からないが、並べて出てくるのは食材のこと。民の栄養源として確保されていたマナに飽き飽きしたと言っている。「混じってきていた者」というのは同行していた他民族の人だろうが、イスラエル人も同様であるから、これを混ざると危険、みたいに受け止める必要はない。食べ物の恨みは怖い、という言い方は日本にもあるけれど、こんな重大な旅の中でもなお、人の思いはほんのちょっとしたことで惑い、暴発するのだなと思わせられる。些細なことと思わずに、様々なひっかかりにちゃんと向き合い、神への誠実さをもって対処すべきだ。小さいことに忠実な者は、とイエスも言われていた。むろんこれは神ご自身あるいはモーセの責任ではなくて、各自がそういう味への欲求をちゃんと対処しておくことが鍵なのだが。

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民数記 10:33-36

 繰り返し語られる定型の言葉というのは、マンネリ化の危険性はあるけれど、それはそれで有意義なものだ。人はそこで初心に立ち返り、自分たちの取り組みがどのような意味を持っているのか、神に何を期待し、何を確信しているのかを確かめ直すことができる。ここにある言葉は、何かを始める時、そして終える時(休息も含めて)、常に神が先に立って導いてくださることを、広く世間に、そして自らにはっきりと語り示すものだ。同じ言葉ではなくてもいいのだが、日々の暮らしの中でもそんな祈りがなされていったら何よりである。

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民数記 10:29-32

 モーセのしゅうとの名は、出エジプト記ではレウエルともイテロとも記されている。この箇所からすると、ホバブはイテロの息子だから、モーセの妻チッポラの兄弟となる。イテロはすでに高齢だったので共に旅をしては来なかったが、道案内のためにホバブがついてきていたのだろう。で、彼も帰ると言ったのに対して、ぜひイスラエルと共に歩んでほしいと願ったのだ。もちろん彼はイスラエル人ではない。でも、ケニ人と呼ばれるようになるその子孫は、イスラエルと共に歩み、その一部として歩むようになる。血のつながりの問題ではなく、神の祝福はもっと広く取り扱われていたことがわかる。後にキリストの福音は、ユダヤ人だけでなくすべての民族に、であることが高らかに示されていった。ユダヤ人クリスチャンがそれを悟るのには少し時間がかかったのだが。

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民数記 10:11-28

 いよいよイスラエルはシナイ山から出発する。出エジプト19章からすると、ほぼ1年もここに滞在していたことになる。その間に十戒などの律法が与えられ、幕屋が造られ、民の統制が図られ、一方で金の子牛事件があり、混乱もあり、ようやくのことで再び歩き出すことができるようになったのである。神にとってこの一年は予定通りであったのか、それとも民の状態によって延びたものなのかはわからない。でも、結果的にはそれが必要な時であったことは間違いない。人の思いは早かったり遅かったりするが、神は確かに私たちに最善の、必要な時というものをご存じで、そして導いてくださるのだと信頼したい。

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民数記 10:1-10

 民を指導するためのラッパが用意されている。民はその指示に従って行動することが求められている。だが、それだけではない。9節にあるように、民の安全を守るためにもこのラッパは用いられている。神はイスラエルに従えと命じられるが、それは同時に、この民族について全責任を負うという意思表示、覚悟が示されているものでもあるのだ。神との関わりをうっとうしいと考えて自由を要求する人は少なくないが、それが自分にとってどれほど危険なことであるのかを、私たちはあまりにも知らなすぎるのではないか。神の思いが私たちの幸いを切に目指すものであることを、よく心しておきたい。

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民数記 9:15-23

 幕屋をおおう雲や火は、神がイスラエルの真ん中にいてくださることの印だった。そして人々は、神の指示に従って旅を続けた。その宿営地での滞在が一晩だったとしても、一年だったとしてもそれに従ったと書いてある。神がこの旅の主導者であることを認めていたからこそ、である。それはエジプトを出てから、まだ自分たちの居場所を持ち合わせていない民の心細さによるものでもあっただろう。しかし神はその後も繰り返し、ご自身こそがどれほど豊かな土地よりもはるかに確かな礎であると語り続けておられる。新約では、良い羊飼い・ぶどうの木・あるいは家の土台というような言葉で、同じ呼びかけ、約束が語られている。

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民数記 9:1-14

 過越はイスラエルにとって、神の民であることを確認する重要な祭りである。だが、支障があって参加できなかった人々がいた。これをまあ仕方がないね、また来年、とあきらめるのではなく、どうすればいいかと真剣に尋ねてきたところに、この時のイスラエルの誠実さが見える。そして、規定に合致しなかったのだからあきらめろ、ではなくて、翌月改めて、と指示されたことからは、物事の事情を考慮した柔軟な対応ということが神の御心にかなうことなのだという点を教えられる。規定外のものは閉め出すのではなくて、何とかして過越の幸いに預からせようというのが、神の心であるのだ。

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民数記 8:1-26

 レビ人の任命に関する記録だ。レビとは本来、ヤコブの12人の息子の一人、レビの子孫となる一部族のことであるが、神が彼らを選び出して特別な役割を与えたことによって、レビ人、という呼び方が出てくる。他の部族ではそのような言い方はない(ユダ人とか)。しかし、単にレビ族に生まれたからこの役割を果たすのだということではなくて、きちんと神の前での任命がなされていることは注目に値する。いかなる場合でも、人はやはり、神によってこそ召し出されて、その役割を果たす。たとえそれが先祖代々のものであったとしても、である。これは何もレビのような祭儀的勤めに限らず、様々な職種・業種全体においてもそういう意識がほしいものだ。

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民数記 7:12-89

 十二部族が順番に捧げ物をしている記録である。各部族とも捧げたものの分量は同じだ。部族によって人数、財政状況には差があったけれど、捧げ物は同じであるというのは考えさせられる。イスラエルを構成する一員という決意が込められているか。むろん、規模が小さい部族でも負担になるほどではないようだが。それにしても、全く同じ記録が延々と続いている。部族間の等しさを示すためではあるけれど、現代とは違って紙も高価だったはずで、でも節約なんてしないというあたりが、神に関わることについての意識の高さを思わせられる。なお、紙と言っても今ようなものは存在せず、より手間暇のかかるパピルスであるが。

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民数記 7:1-11

 レビ族は幕屋の奉仕に任じられていたが、彼らが取り組むために必要なもの(道具なども)は、民全体が用意して提供することになっていた。自分らの使命なのだから自分たちで何とかしろ、とはなっていない。もちろんそれは働きのために必要だからで、それゆえ、荷車を必要としないケハテ族には提供されていない。これらはレビ族自身のためのものではないからだ。彼らの生活のために必要なものについては、別途、ちゃんと考慮されている。レビ族自身もまた、自分たちが受け取るものと、働きのために受け取るものとを区別して扱う必要があるのだ。

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民数記 6:22-27

 アロンの祝祷と呼ばれているが、礼拝などでも用いられる言葉の一つである。神の祝福には様々な内容があるし、私たちの願うことも多々あるのだが、ここではあれこれ言わず、一つのことに集中して願い求められている。それは、神が私たちを見ていてくださり、関心を持っていてくださり、決して見放さず、見落とさず、もちろん忘れたりもせず、そうやって常に見ていてくださること、それこそがすべての幸いの源であるとの確信である。具体的な事柄以上に、神の存在、共にいてくださることをこそ願う。神との関わりこそが鍵であるのだ。

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民数記 6:1-21

 信仰の姿は通常の生活の中にあるのが基本だ。何もかも捨てて従う、という言葉を過度に意識すべきではない。神はこの世界を人の手に託されているのであり、そこで果たすべき役割は大きい。だからこそ、あえて特殊な立ち位置で神に仕えるように導かれた者は、このようなきちんとした手順を踏み、自他共にはっきりと意識しつつ、その業に取り組んでいくべきであった。皆がナジル人になるわけではないのだ。また、この取り組みには期間があるようで、終生という趣旨は見られない。つまりは、何らかの特別な目的があり、そのことに集中して取り組むためにこそ、こういう立場が設けられていたのだと言えそうだ。第一コリント7:5にはその類推が見られる。

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民数記 5:29-31

 この規定は、「ねたみ」つまりは疑心暗鬼のようなものから始まった場合の扱いだ。明確に悪事が露見している場合ではなく、あくまでも疑っているだけ、である。だから扱いも、被疑者に有利に、である。疑った夫は、これで何も指し示されなければちゃんと納得し、疑いを消し去らねばならないのだ。ちなみに現代なら、こんなふうに疑って間違いだったら、夫にもペナルティーをという意識も生じるだろうが、当時は妻は夫に依拠して暮らしていたのであり、夫を罰すると妻にも影響が及ぶ。決して夫を優遇しているわけではない。それに妻には子が宿る。これは当時の妻たちにとっては最良の祝福とされていた事柄であった。

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民数記 5:11-31

 こういうやり方を読んで奇妙に思う人は多いだろうが、争いが生じて、しかも真実を確定するのが困難な場合に、どうにもならないからと放置するとしたら、結局その争いはどこまでも続き、関係者に深刻な傷を負わせることになる。聖書はまじないの類は認めていないので、これは、こういう手法でやれば判明するというような化学実験的な手段を提示しているのではなく、神が示してくださることに任せよ、という趣旨である。決着をつけさせなさい、という意味の意図がうかがい知れる。ただ留意したいのは、どうでも良いから決着、ではなくて、基本的には疑われている人に有利な扱いであることは心に留めたい。この手法で通常はここにあるような反応は起こらない。神の介入がなければ、その人は無罪と認められるのだ。そういう意味合いでの決着か意図されていることも含めて考えてほしい。

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民数記 5:5-10

 この規定を読んで、現代の問題意識で考えるならば、神は被害者の救済についてちゃんと関心を持ってくださっているのだな、ということを思わせられる。罪を犯した人を罰することは、正義を語るには必ず取り上げられるのだが、しばしばその際に被害者が置き去りにされ、せいぜい、加害者への懲罰によって復讐心が満たさせることくらいしか考えられていない場合が少なくない。でも本来、罰することと被害者への救済はそれぞれに必要なことだ。ここでは被害分の弁済と共に1/5の増額、つまりは慰謝料のようなものが定められている。こういう意識は、現代社会にとっても必要なことだと思う。

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民数記 5:1-4

 差別ではないか、というふうに受け止められる可能性の高い規定だとは思う。病気の人を蔑視するのか、というふうにも言われかねない。ただ、パン種のことを思い出したいのだが、儀式の際など、パン種を家の中から排除することは厳しく定められていたけれど、それが終われば人々はまたこれを用いてパンを焼いていたし、それは決して悪いことではなかった。もし、パン種が悪ならば、常に排除すべきであるわけだが、神はそのような意図では語られていなかった。この箇所も、それらの人々を否定したり、蔑視する意図ではなく、民のあり方を問うためのものであることを思う。実際、その他の律法は、これらの人々は決して完全に追放されてはいないことを前提として語られてもいる。もっとも、このような規定を受け止め損ねた社会が、これらの人々への間違った排斥や差別を行ってしまったことは事実であり、強く反省しなければならないのだが。

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民数記 4:1-49

 事細かに、レビ族の役目が指示されている。後にダビデは、このあたりを安易に考えて、痛い思いをした。これらの規定の中でも、19-20節は重みがある。日頃から幕屋に関わる役目を持っていると、何となく慣れ親しんで、神への畏怖を忘れがちになる可能性は高い。でも規定ははっきりとしていて、祭司のみが関わるべきことと、レビ族が担うべきことが明確に区分けされている。現代は民主主義の時代であり、それは社会生活のあり方としては聖書の教えにふさわしい方式であるけれど、これを単なる好き勝手にしてしまう愚かさを人間は持っていることを心して、神への真摯な畏れを今の時代だからこそなおさら、よくよくかみしめるべきだろう。

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民数記 3:40-51

 レビ族はイスラエル全体の初子の代わり、と定められていた。けれど、人数の少ないレビ族だったので代わりには足りず、その分については金銭で代わりにするようにとの命令である。細かい話のように思われるかもしれないが、物事を誠実に、ごまかさないでちゃんとする、ということは、神との関わりにおいて、あるいは人としてまっすぐに生きていこうとするならば、大事なことであるのだ。むろん、他の人のことについて重箱の隅をつつくようなことは無意味だが、大雑派にすることで自分に得になるような場面で襟を正していくことは欠かせない。

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民数記 3:14-39

 レビ族は、幕屋に関する役割を担うことになっていた。とは言え、祭司ではないので、祭儀そのものに携わるわけではなくて、用具の管理とか運搬などを担当している。各部族ごとの分担も細かく記されている。後にはもっと幅広い役目を担ったようではあるが、祭司と比べると付属的なものと見えるのかもしれない。でも神は明確に、レビ族の役割を大事なもの、貴重なものとして語っており、その意義は高く評価されている。第一コリント12章にもあるように、すべての役割にはいずれも欠かせない意味があり、目立つかどうかが問題ではなく、このことは神の世界においてはとても重要な意味合いとなっている。それにしてもレビ族、たの部族に比べて人数的にはとても少ない。

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民数記 3:1-13

 レビ族は12部族の中でも特別な存在とされていた。それは、12-13節にあるように、すべての初子は神のもの、という基本原則があったからだ。とは言え、実際にイスラエル中の初子を一般的な暮らしから引っ張り出して、神のことに専念させるわけにはいかない(長子は家系の柱でもある)。それで、身代わりということで一つの部族を神のものとして特化するという処置になっている。「代わりに」という考え方は聖書に繰り返し登場する。なぜレビ族だったのかについては、アロンの一族であることと共に、金の子牛事件の時に同胞と対立してでも神の側についたことが理由である。あの事件ゆえに、レビは他部族との関わり合いが今ひとつであったのかもしれない。神はそんな人々に、ちゃんと道を開いてくださったのだ。

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民数記 2:1-34

 旅するイスラエルに対して宿営の配置が指示されている。東西南北に3部族ずつのまとまりで配置され、外敵からの防御が意識されている。なお、このまとめ方は、その後の親近感とは必ずしもつながらないし、割り当て地の配置とも重ならないので、あくまでも旅の際の便宜という趣旨だろう。この配置で重要なのは、中心の会見の幕屋があり、それを取り巻く形で宿営が築かれていたことだ。神を中心として、神と共に歩んでいく姿が、ここには強く指し示されている。後のイスラエルは、エルサレムに神殿を設け、それを軸にして歩もうとした。だからこそ北王国は神殿からの脱却を意図して、結果、自らを滅ぼしてしまったのだ。

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