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2012年12月

年末年始

 20章に入るところですが、この出来事はちょっと時間をかけてみたい箇所なのですが、今年はもう2日しかありません。それでちょっと早めに正月休みに入ることにして、年明け、1/7から再開することにいたします。今年もこのブログをご覧いただいてありがとうございます。皆さんが少しでも聖書に親しみ、かみしめていただける手助けになれば何よりです。では、良い年を。

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民数記 19:20-22

 すでに述べたように、汚れそのものが強大な力を持っているわけではない。実際、たかが水をかけた程度で、また夕方までというような短い時間で、そのことは解決する。罪の解決に神の御子の犠牲が必要であったのとは全く違う。問われているのは、この規定が神からの指示であるということだ。たいしたことはないと放置するのは、神ご自身を粗略に扱うことと同じだ。それゆえにこそ「集会から断ち切られる」、つまりイスラエルの民から除外されるという厳しい宣告も付されている。間違ってもこれは、汚れた人を除外しないと周りにも汚れが移る、というような防御策ではない。

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民数記 19:14-19

 身のきよい人が、汚れてしまった人のために手を貸すようにと定められている点に注目。不用意にふれてしまったのであれば、本人の責任ではある。だが、ちゃんと手助けしてあげるようにとの指示なのだ。様々な問題、課題が生ずることはある。それぞれに当事者自身が真剣に取り組まねばならないのはもちろんだ。でも聖書はそこに、共に関わり、助けの手を差しのべていくべき人々の存在を常に意識している。そういう助けがあることを前提としての神の命令、定めであることを心しておきたいと思う。そのような人々がいなければ、この世界に蔓延する問題を、どうやって人は乗り越えていけるだろうか。

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民数記 19:11-13

 多くの文化の中で死が忌み嫌われるのは、誰にも抵抗できない相手として恐れられているからだろう。避けるため、逃げるための忌避である。だが、聖書の語るところは少々違う。確かに死は罪の結果であり、重大なことであるけれど、死そのものが力を持っているわけではなく、神の支配されることの一つにすぎない。死を恐れるかどうかよりも、神との関係を考えるほうがはるかに重要なのだ。だから、こういう規定で「汚れ」と言われているのも、それに触れると破滅するということではなく、神が教え示されることの重大性を思い知るための機会として考えた方が良い。こういう意味で「汚れた」人を周囲の者たちが本質的に蔑視するなら、それはあまりに愚かだ。

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民数記 19:1-10

 この定めは奇妙に思う人もあるだろう。祭司が神に命じられたとおりのことをして、それでいながら「汚れる」のである。最初に雌牛の処置をした祭司も、後始末を担当した者も、である。確かに罪による汚れもある。だが、少なくとも本人の罪ではない場合、時には良き目的のためであっても、それでも「汚れた」とされる場合もあるのだ。思い起こすのは、キリストが十字架についた時、父なる神が顔を背けられたことだ。まさに救いの業を行っている最中の御子が、である。重大な役目を果たし、真のきよめをもたらすために、汚れと言われる状況に甘んじることを使命とする人々があるのだ。神に従い人々のために尽くすがゆえに苦難に遭い、時には殉教する人々もある。その状況ゆえに回りの人々は、あるいは本人も、自らの問題のゆえかと落胆する場合がありそうだ。そういう自省も必要だが、でも、必ずしもそうではない場合もあることを、心しておいた方が良い。

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クリスマスをおぼえて

 今日はクリスマス当日である。日本ではこの日がお休みではないので、教会のクリスマスもたいがい日曜日に行うことが多い。それはそれでいいのだが、個人的に聖書を読み、祈る時にはやはり、この日をクリスマスとして意識し、降誕の意義を思い起こし、喜びと賛美と感謝を祈りたいものだ。マタイ1-2章、ルカ1-2章のどこかを開いて読み、この日の幸いを喜びたい。(明日は民数記の続きを掲載します)

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民数記 18:25-32

 民は自らの収穫の1/10を捧げ、祭司もまた自らに与えられたものの1/10を捧げる。同じように神の前に立つものであるということである。と同時に、祭司にとってそれらの収入は、民が畑を耕して得ている収入と同じ感覚で自らのために用いて良い、ということにもつながる。祭司は様々なところで特別扱いされているけれど、同時に彼らもまたイスラエル人の一人であることには変わりはないのだ。この両方の意識を持ち合わせていないと、祭司としての意味を見失ってしまうだろう。

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民数記 18:21-24

 祭司に関するかなり重たい職責が語られてきたうえで、ここではレビ人の存在についても言及されている。レビ人は祭司とは違う。だが、彼らの存在は祭司にとって、自分たちの果たすべき責務を共に負ってくれる仲間として、大いに心強いものであったに違いない。とりわけこの時代には祭司はまだほんの数名であり、とうてい自分たちだけで担えるものではない。共に労してくれる者、必ずしも同じ職務ではなくても、同じ意義のために労する仲間の存在は貴重であり、また、ぜひとも願い求めたい部類のものだ。

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民数記 18:20-24

 祭司には、やがて約束の地に到着した時にも、いわゆる相続地は与えられない。それは民のために労する者としての現実的な意味合いもあるが、同時に、安心できる拠点、相続地ではなくて、神ご自身にこそ頼り、支えられ、必要を満たされて歩み続ける、そういう暮らし方をもっと、神にこそ信頼する姿を見出していく意図もある。相続地を持つこと、安定した収入源を持つことが悪いのではない。それは間違いなく神からの祝福だ。でも、そうではない生き方について、確かに神は教えておられる。このことを現代に当てはめてみると、まさに稼いでいく仕事はそれとして大いにすばらしいし、自らの才覚で収入を増やすことも人の基本であるのだが、同時に、自らの取り組みによっては経済的利益を生み出していくことにはならない種類の仕事に携わりつつ、どこかの誰かが決めている給与で暮らしていく(つまりは一杯働いても、自らの才覚を発揮しても収入は変わらないということだが)というあり方もまた、神の視点の中に明らかに存在していることを考えさせられる。

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民数記 18:8-19

 神に捧げられたものが祭司に与えられている。見方によっては、神に準ずるもののように扱われているとも言えそうだが、すでに述べられているように、その前提には祭司が担う重荷の厳しさというものがある。それに、心ある祭司たちはこのことを報酬としてではなく、むしろ神の前に立たされている者、神に関わるように召されている者としての強い緊張感をもって受け止めていたのではないか。それらを受け取るたびに彼らは、自分の職責の重さを思い知るのだ。

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民数記 17:12-18:7

 さすがに民も震え上がったようだ。神の強い意志も知って、コラ事件の激しさもあり、神と関わることを恐れるようになってしまっている。この姿勢自体はあまり良くない。そうやって距離を置けば、結局神との結びつきを見失ってしまう。厳しさも含めて近づくべきなのに。でも神は、おののく民のために、アロンの家系がその恐れの部分、神と関わる緊張感を民のために担うようにと命じられる。祭司は特権階級ではなくて、民のために危険(?)を背負う役割なのだ。その重さこそ、まさに震え上がる部類のものなのだが。

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民数記 17:1-11

 悟ろうとしない民のために、神はご自分の意志を明示してくださっている。こんなことまでしなくても、本来はモーセを通して与えられた神の言葉に聞くべきなのに(モーセに仲介役を頼んだのは民自身だ)。それでも神は、人々のために手を尽くしてくださっている。祭司職はアロンの家系に、ということが、疑う余地のないほどに、強く指し示されている。神は忍耐強いし温情も大きいが、だとしたらなおさら、私たちはせっかく示されたものをちゃんと受け止めるべきなのだ。

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民数記 16:41-50

 逆恨みという言葉があるが、コラたちが死んだのは自らの罪のゆえであって、どう考えてもモーセたちの責任ではない。もしあり得るとすれば、神に対する反発であろう。それなのに民は、「主の民」を殺したと言って神を引き合いに出しながら反発する。神は疑問を禁じているわけではない。御心がわかりません、という意味での反発もあるだろう。でも、我が身の招いた事態であることも棚上げにして、ただ好き勝手に暴言を吐くことは話が違う。あまりもひどさに神の罰が即座に下っている。私たちも自戒すべきことだと思う。こんな時にもなお、モーセが必死で民のためにとりなしている様子を見るべきだ。彼らこそ、心の底から民を思い続けた人々である。

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民数記 16:36-40

 記念というのは何かを覚えているため、過去の出来事から学ぶためのものだ。良いことについても言えるけれど、しばしば人は悪いことのほうを忘れがちで、だから思い出したくないかもしれないけれど、でも、しっかりと刻みつけて、ちゃんと思い出せるようにしておく。それがここから先を、以前よりはましな歩みをしていくための、かなり重要な手段である。神は人をご存じだから、ちゃんと思い出させていこうとする。あの過ちを思い出せ。詩篇などにもそういう歌が含まれている。

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民数記 16:32-33

 滅んだのはコラだけでなく、その一家全体である。これを厳しいと感ずるのは現代の家族感覚が前提になっているからだ。古代イスラエルでは一家は常に一蓮托生。そういうつもりで本人たちが生きていたし、幸いでも災いでも、家族と別に自分個人としてどうこう、ということは考えられなかった。これは連帯責任の話でもない。あえて今の社会に当てはめるなら、右手が盗みをした時に、左手が「私がしたのではないから、私まで刑務所に入れられるのはおかしい」と文句を言うようなものだろうか。(もっともこの件については民数記26:11に、コラの子たちは死ななかったと記されている。父には同行せずに神の元に踏みとどまった者たちがいた、ということだろうか。)

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民数記 16:20-35

 反逆する者たちに、神の刑罰が下っている。幸いにもこの時、民全体は彼らに同調しなかった。あやうく乗せられかけたようには見えるが、神の威光が示された時、民は彼らから離れることを選択した。彼ら自身は、自らの行動について責任を担わねばならない。むろん悔い改めて神に赦しを請えば別だが、彼らは赦してくださる神の主権をも拒んでしまっていたのだから。そう、赦しもまた何の見返りも差し出せない者たちに、神の一方的決断によって与えられる、まさに神の主権があってこその行為だ。

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民数記 16:12-19

 ダタンたちはレビ族ではないので状況も理解できていないのだろうと、モーセは彼らを切り離して説得しようと試みたようだ。でも彼らはモーセが民を裏切っている(約束の地に着いていない)と責めている。愚かなことで、そういう事態を招いたのは民自身であり、モーセが必死にとりなしたおかげで保たれているのに。このあたりはおそらく世代がすでに変わってしまっているのだが、大切なことを継承しなかった民は自滅への道を歩み進んでしまう。それは士師記に色濃く記されている。

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民数記 16:4-7

 それにしても、である。コラたちは身近にいながら、アロンたちがどれほど重たい責任を背負っていたのかを知らなすぎる。モーセとアロンは繰り返し民のしでかす混乱に苦闘し続けてきたし、アロンは我が子が不始末のゆえに死に至った時に、「嘆いてはいけない」と神から命じられた。何も見ずに、ただ表面的に考えて、私にもその立場を、と願う。そういうことの結果、あっけなく倒れていった総理大臣たちを見ている日本の人々は、コラたちの態度がどれほど愚行であるかに気づくことだろう。

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民数記 16:1-11

 今回の首謀者コラはレビ族である。モーセとは同族、そして神から特別な役割を与えられていた部族である。だが彼らは祭司の地位をも要求した。同じ部族なのにアロンの一家と区別されることに反発したわけだ。人間社会として考えるなら、なるほど、平等の機会が提供されるのはふさわしい。だが祭司はあくまでも神による任命であり、しかも、アロンを評価したゆえに与えられた立場ではない。コラの態度は、つまるところ、神の主権とお考えを否定し、我々の望むようにさせろ、と要求するものである。それゆえ、後で出てくるように、この件は厳しく扱われることになる。

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民数記 15:37-41

 神は私たち人間が忘れやすく、ちゃんと意識し続けられないことをご存じで、だからこうして具体的な手がかりを利用して思い出し、確かめ直し、とするように教えてくれている。旧約にある様々な祭りも同様で、それらが刺激となって人々に神の御業を思い出させたのだ。ちゃんと覚えているから大丈夫、とか、形などには頼らない、などと言わず、神が指し示してくれているように、信仰に関わる事柄を思い起こさせてくれる手がかりを利用するのが良い。ただし、この房も後には間違った使い方をされたように、手がかりは手がかりに過ぎないことも忘れてはならないのだ。

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民数記 15:32-36

 この箇所が指し示そうとしているのは、厳しく対応せよ、ということではない。民がこの違反者を見つけた時に、どう対処すべきかについて、自分たちで勝手に判断しないで、神の御心がわかるまで待っていた、という点にある。後にイスラエルは、それぞれが銘々、自分が良いと思うことをするようになってしまったと士師記に出てくるが、ここにある姿勢との強い対比を思わせられる。神の民にとって必要なのは、何をどうするか以前にまず、神の御心を尋ね求めているかどうか、にある。むろんその結果、何が良いことで完全であるか、も知り得るのだが。

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民数記 15:22-31

 神の定めは、それぞれに必要性と意味があって命じられているものだから、それに従う必要があって、知らなかったのでとか、悪意はなかったということでは済まないのが原則だ。現代でも一方通行を違反したら、知らなかった、気づかなかったでは済まないように。でも、意図したのでない場合は、ちゃんと神の前に謝罪するならば赦されると規定されている。ささげものは、本気の謝罪であることを示すものだ。時代と規定は違っても、何かしてはいけないことをしてしまったのならば、知らなかったとか弁解とかではなく、何よりも誠意を持って謝罪することこそが、神の前に生きる姿にはふさわしい。そしてだからこそ、悪意をもってなしたことが、神に真っ向から逆らうものとして厳しく扱われるのだと規定されているのも合点できるだろう。

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民数記 15:17-21

 畑の作物について、初物を手にしたら神に感謝のささげものをせよ、という定めが与えられている。神ご自身は作物を必要としているわけではないが、この姿勢は重要である。もちろん収穫には自らの労力も関わっているだろうが、そこに神の守りがなければ何も始まらない。そのことを忘れて、自分たちで何とかなると思い込んでしまうことが、世界の崩壊をもたらすのだから。ルカ12章の金持ちも、豊作を神に感謝しつつ喜んでいたら、全く違う結末を得たであろうが。

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民数記 15:14-16

 神の定めは在留異国人に対しても適用されるものとして告げられている。当然に、彼らもまた、神の祝福を受けることができるのであるが、このようにしてイスラエル民族に限定されていない扱いが、聖書には繰り返し語られている。むろんそこには、主なる神への信仰に同感して、だからこそ共に生きようとしているという前提があるけれど、民族とか血統、そういう類のものは、旧約時代からもともと関係がないのだとされていることに注目したい。後のユダヤ人はそのことにこだわりすぎてしまったし、今でも人はそういう偏狭さの傾向がある。神の幸いは無限にあるのだから、限定する必要などない。本人が拒まない限りは。

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民数記 15:1-16

 40年という長い年月が言い渡されたのだが、この15章は1節にあるように、約束の地に入った時には、という前提で語られている。民は神に背き、神は激怒された。それでも、すでに赦しは宣言されて、そのことは終わったのだ。神は再び、この民を約束の地に連れて行くと約束されたのだから、神の命令もまた、到達を前提としたものになる。人は赦すと言ってもしこりが残る場合が多いけれど、神の宣言は、厳しさも、そして恩寵も、語られた約束そのものが確かなのだ。そして、再び目的地を目指すからこそ、こうして事細かな教えもなされていく。神の指し示される事柄を面倒とかうるさいと思うのだとしたら、それは神の約束が確かであることの表れと思った方がいい。

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民数記 14:39-45

 短慮な人々は、神に叱られたので、それなら当初の計画通りに進軍しようと言い出す。でも神の決定はすでに下されていた。攻め上る人々の姿は、神に背く行為の上塗りでしかなかった。モーセも神の箱も動かなかった。神は進んでいく人々と共にはいなかったのだ。であれば、結果は明らかだった。それに気づかずにいるイスラエルの民は、あまりにも愚かしく、そして悲しい。人は様々な過ちを犯す。失敗も、醜い罪の性質からも。だがせめて、神の心を慕い求めることだけは見失いたくない。この民は、精一杯生きていたかもしれないが、神の民と呼ばれつつも、神の心を尋ね求める姿を欠いていた。最も必要なことであるのに。

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民数記 14:20-38

 モーセの取りなしに応えて、神はこの民をすぐさま滅ぼすことはしないと認めてくださった。でも、このまま放置することはできないということで、怖いから約束の地には入りたくないと言った人々の、その言葉・願いの通りにしようという決定が下された。この時大人だった人々は、荒野を旅する間に死ぬのだ。そのために40年の旅が続けられることになった。これはとても厳しい。だが、神の温情も深い。当時は一族や子孫の繁栄ということへの思いが今よりも強かった。自分がだめでも子どもが成し遂げられるなら、それは十分に意義ある祝福だった。そして、40年後、彼らの子どもたちはちゃんと到達できる。神の決定は戒めであると共に、確かな約束の言葉でもあり、それはまさに恵み深いものだった。

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民数記 14:10-19

 カレブたちが襲われそうになった時、神の介入があった。人間風に言えば堪忍袋の緒が切れた、ようなものである。そして再び、イスラエルの民は滅ぼす、やり直しだ、と告げられている。エジプトの奴隷生活から救い出し、約束の地まで連れてきてくれた神を拒むのだから、その先にあるのは滅亡しかないのが道理であって、神の宣告はおかしなものではない。でも、だからこそなおさらモーセは必死でとりなす。そしてまた、神の評判が悪くなるという理由と、神の約束を土台として、嘆願している。人は自らの罪の深刻さに震撼すべきであり、そしてまた、もうだめだと思える時でもなお、神に対してだけは赦しを請うて祈り続けるべきでもある。

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民数記 14:1-10

 カレブたちが必死に叫んでいる。事態が切迫していることを彼らは気づいていたのだろう。今ここでこの愚かな話に民が乗ってしまったら、神の祝福は断たれてしまうと感じ取っていたのかもしれない。モーセたですら圧倒されている民の激しさに、彼らは果敢に挑戦しようとしている。それは何よりも民のことを思い、案ずるがゆえのものだ。でも民は、そんな二人のことをも殺そうとしている。人が悪い方向に進んでいく時には、全ての事態を壊してしまうほどのものになることを痛感する。事の大小は様々でも、人は自らを破滅させるような歩みを繰り返しているのだ。その危機感が必要だと、カレブたちの姿は教えてくれている。

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民数記 13:30-33

 カレブとヨシュアは、仲間たちの言葉に唖然としたことだろう。せっかく良いものを見せていただいたのに、同僚はみんなで否定的なことばかりを語る。「必ずそれができる」という言葉が語られ得るのは、もちろんそこに神がおられるからこそである。でもその言葉を、多数の仲間たちが潰していく。多勢に無勢とはよく言ったもので、それを突破するのは容易ではない。神を信頼する者の言葉が押し込められていくことはしばしばある。でも黙ることはできないというのが、聖書が語る神の道のあり方だ。

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