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2013年3月

第二コリント 2:1-4

 悲しみの原因は、もともとコリントの人々が抱えていた罪である。それは激しく落胆させられるほどのもので、パウロが厳しく語ったのは当然であった。でも、パウロはコリント教会について、決してあきらめていなかった。彼らが立ち直ると信じ、期待するからこそ、つらい言葉も発したのだ。それは彼ら自身の人間性への期待ではなく、神の助けと守りへの期待からくるものだ。だからこそ、悲しみは悲しみで終わることなく、必ず喜びへと進むことができるのだと確信できたのでもある。今日はちょうど復活祭。キリストのよみがえりは、私たちの歩みにも偉大な神の力が働くのだと物語る力強い印でもある。

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第二コリント 1:23-24

 厳密に言えば、コリント訪問が延期になったのは何らかの事情が発生したためで、意図的に延期したわけではないだろう。だが、パウロはこの事態の中に、むしろそれで良かったという思いを強くしていたようだ。私たちはもちろん誠実に取り組む必要がある。だが、人の思いを越えて、神は最も良きことをしてくださるという信仰もまた欠かせないのだ。パウロはコリントの人々を案じているのであって、彼らを支配するつもりも、抑圧するつもりもないのだと、はっきりと語っている。真の権威とは何か、ということを考えさせられる一言だ。

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第二コリント 1:17-22

 パウロによくあることだが、ある話題を利用して信仰の奥義に関わることにも言及するというものだ。自分たちはいい加減ではなく真剣なのだと弁明するに際して、そういう真剣さは神ご自身に由来するものだと語る。そして、神はご自分の約束を、キリストによって間違いなく実現してくださっているのだという話を語り聞かせている。さらには聖霊まで与えられているのだから、その真剣さは明確だ、と。そうやって神の誠実さによって祝福を受けているのだからして、私たちもまた誠実・真実であることについて、精一杯取り組んでいきたいものだ。パウロの論調とは逆になるけれど、信仰に生きる者としては、このことは非常に大事である。

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第二コリント 1:15-17

 この記述によれば、パウロはコリント訪問を計画していたのだが事情ができて訪問できなくなってしまい、それが原因でコリント教会との信頼関係に支障が生じていたようだ。簡単に言えば、「嘘つき」と見られてしまったのだ。まあ、そのくらい来訪を期待されるということなら、それはそれでありがたいことだとも言えるが、期待が高ければその分だけ落ち込みも激しくなるわけであって、注意深い対応の必要性を痛感させられる。残念ながら、人にはすべての事情を完全に掌握はできないのだから、うまくいかないことも前提としておくことも大切だ。それとも自分は大丈夫だと思い上がってしまうのだろうか。

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第二コリント 1:12-24

 15節からに具体的に語られているコリント教会との間に生じた誤解を意識しつつ、パウロは自分が誠実に向き合っているのだということを表明している。人間、決して完全ではないから、自分の誠実さを口にするのは少々臆するように思うのは、日本人の感覚だからか。でも、もしもそのあたりの誤解によってせっかくの関係が損なわれつつあるのだとしたら、私が至りませんで、と言っているだけではなく、ちゃんと自らの言動の意図を伝えていくことも必要なのだろう。我が身を守るだめではなく、神の幸いがないがしろにされないためにこそ、である。少なくともパウロの態度はそういうものだった。

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第二コリント 1:11

 コリントの人々とパウロとの関係は、まだまだ十分ではない。「助けて協力してくれる」とは、こういう危機的な状況だからこそ、今まではパウロと反目していたコリント教会が、ようやく、パウロを支え励ますことに開眼したということかもしれず、あるいは、こういう厳しい時だからこそぜひともそういう良き関係を見いだしてほしいという願望的な言葉であるのか、どちらであるかは何とも言い難い。ただ、パウロとしてはコリントの人々の間に深い信頼と結びつきを持ちたいと願っているのは間違いない。おそらくそれは、コリントの人々以上にである。コリントは問題だらけだったが、しかしキリストは、罪人を救うためにこの世に来られたのだ。

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第二コリント 1:8-10

 パウロが直面した苦しみはエペソでの迫害を指しているのだろうと考えられている。そういえば使徒19章の記事では、パウロ自身の言動はほとんど語られておらず、圧倒的な力に翻弄されて、まさに死を覚悟したのだろう。パウロはじっと黙って待っている人ではなく、いつも自分から積極的に動き、その中で神が自分を用いてくださることを信じて歩む人であるが、この時は、すべてはただ神の御手のままにであることを痛感したのだろう。この後もパウロは積極的に動いている。それはそれで正しい。でも、私たちの精一杯をはるかに超えて、主こそが事を動かし、導いてくださることの意義を、深く思わせられる。

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第二コリント 1:7

 苦しみを共にするとか、慰めを共にすると語られているが、実際にパウロが経験している事柄と、コリントの人々の状況とは別のものだ。けれど、苦しみの中で支えられることも、もちろん慰めも、すべては主なる神から与えられるもの。つまり最も大切な点において「同じ」である。痛み苦しんでいる時、「君にはわからない。君とは違う」という思いが募るのは人間としては自然だ。でも思い出してほしい。確かに違うけれど、でも、神はただお一人なのだということを。だからこそ、共に祈ってもらう、支えてもらう、共に涙することも。主がおられるからこそ、こんなにも違う者たち同士が、しかし一つになつて歩み得るのだ。

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第二コリント 1:4

 神から恵みを受けることによって、自分もまた他の人にその恵みを届けることができるようになる。この筋道は聖書の中で繰り返し語られていることだ。ここでは慰めについてだが、赦しについても、あるいは愛することについても、この仕組みは同じだ。むろん、物質的な良きものも。もし、神からは受けているのに他の人を顧みないとすれば、それは与えられている幸いの意味を忘れているのだ。また、もし他の人に恵みを届けることに自信がないとしたら、それは自分の内側から出てくるものではなく、神がちゃんと与えてくださっているものなのだということを思い出したい。神は人を、ご自身とその人との関係だけで成り立たせてはおられない。他の人々と共に歩み、共に幸いを分かち合うことこそが、主のご計画なのだ。

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第二コリント 1:3-11

 パウロはコリント教会の問題に直面している。以前よりはかなり好転したとは言え、まだまだ根深い事柄が残っていた。その中でなお彼が希望を失わずに取り組んで行けた理由は、神が自分たちを守り支えてくださっているという体験と確信による。彼はかなり厳しい事態から逃れたばかりのようだが(8節)、その幸いが今、彼をコリント問題へと向かわせる勇気につながっている。人が直面する問題は多種多様で、そのすべてへの対処能力などとうてい身につけられるものではない。だが、全能の神が味方でいてくださるということは、人の思いを越えた事態も含めて、確かな助けを確信させてくれるものだ。主の良くしてくださったことを忘れない(詩篇103:2)ことは、私たちが惑わずに歩むための大きな礎となり得る。

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第二コリント 1:1-2

 第二コリントは、第一コリントの後で書かれた手紙で、内容的にも同じ課題を引き継いでいる。その経緯をざっと述べると、コリント教会を強く憂慮したパウロは第一コリントを書き送ったのだが、残念ながら、その手紙によっては事態の解決は実現しなかった。このためパウロは直接コリントを訪問したものの、状況はさらに悪化。いったん撤退した後、もう一つのかなり厳しい手紙を送り、それによってようやく状況の打開が見られるようになった。明るい希望が見え始めた中で、改めてパウロはコリント教会を慰め励まし(前の手紙が厳しかったので傷ついている人々もいたから)、合わせて、まだ危惧される課題があったので、この手紙を書いているという次第。そういう背景が色濃く出ている内容でもある。難しい事態にどういう姿勢で臨むのか、信仰の実践を見ることができる。

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民数記終了

 民数記が終わりました。今回はどんどん読んでいきましたので、長さもさほどではないこともあり、4ヶ月ちょっとでの読了です。では、ちょっとお休みをいただいて、次回からは新約聖書に戻ります。民数記の前はコリント第一を読んでいましたので、コリント第二に続けていこうかと考えています。これもまた、重たい箇所であるのですが、じっくりと読み進めたいものです。では、3/21に再開します。すぐに受難週ですが、そのような時期だからこそ、重ね合わせて読んでいただくのが良いかと思っています。

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民数記 36:10-13

 話としては、昨日のことと同じであるのだが、もしこれらの相続地が、その人自身に帰属するものだったら、結婚に伴い他部族に移行するのも当然となるわけだが、イスラエルの相続地はもともと神に属するものであり、神から託されているもの。その理念があるからこそヨベルの年も成り立つわけで、ここを崩してしまうならば、神の前に行かされていくイスラエルという姿が失われていきかねない。後のイスラエルは、このような姿勢をどんどん失い、それぞれの力次第というふうになっていく。神の民としての姿勢が失われていってしまったのは、単に偶像礼拝の類だけではなく、経済面や家族制度も含めて、その全体において、神の前に行かされているとの理解を基盤としたものであり続けるかどうかが、鍵となっていくのだ。

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民数記 36:1-9

 この話は民数記27章に出てきた事柄と関係している。27章では、男女の区別なく、その氏族・家族にちゃんと相続地を残すべきだという決定が下っていた。それに対して、相続した娘たちが他の部族の人の結婚した場合に、その相続地が他部族に移ってしまうことに、異議が出されたのである。そして結論は再び、同じ趣旨で、相続地はあくまでもその部族に留められるべきことが指示されている。これらの箇所の意図は、単なる男女同権の話ではなくて、神が割り当てられたものは、その人々にこそ留まるべきという論である。このような基本線が明確にされていったのは重要なことであるし、人々がこのような感覚に関心を持ち、真剣に問うていたことは、この時代のイスラエルの姿勢がそれなりにまっとうなものであったことを示す光景と言える。

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民数記 35:29-34

 贖い金で対応を変えてはならないと命じられている。罰すべきものは罰するのであり、そしてまた、逃れの町で守るべき者は、しっかりと守り抜くのである。贖い金という言い方は聞こえが良いけれど、つまりは賄賂を渡し、裏から手を回して、自分に有利に事を運ぼうとするということである。せっかく逃れの町に入った者を、金を渡して町の外に出させて復讐する。結局そこには正義も何もなくなってしまい、ただこの世的な力の有無によって物事が動かされるだけのことになってしまう。神は正義の方であり、人々を公平に扱われる方であるからこそ、このような行動に対しては強く、厳しく「否」と言われる。

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民数記 35:26-28

 加害者は無条件で保護されるのではない。その町から出ることはできない。もし、この規定に背いて外出するならば、報復されても仕方がないとされている。故意ではなくても、死に至らしめた罪は重いのだ。大祭司交代の時には恩赦のようなことになるけれど、はたして自分の寿命とどちらが先か。辛抱する年月は様々であっていわゆる公平の問題としては扱われていない。すべてを主に委ねるのだ。御手にある者として、あるいはその町で寿命を迎え、あるいは早い時期にふるさとに帰れる。復讐してはいけない、という教えを神が語られるのも、神にまかせよ、という理由のゆえである。

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民数記 35:24-25

 逃れの町が効果を発揮するためには、その町の住民が加害者と遺族との間に立ち、遺族の怒りと悲しみ、苦悩を受け止めてあげることが必要だ。神はここで遺族側に対して、「故意ではないから我慢しろ」とは言わず、町の人々がその重みを代わりに受け止めよ、と告げている。神の前に生きることは、決して自分一人の頑張り、意志の力で達成できるものではなく、周りの人々に支えられてこそである。この規定の精神が今日の社会にも実現するならば、様々な悲劇と痛みがどれほど軽減されるだろうかと思う。なお、容易な役目ではないからこそ、これらの町はすべてレビ人の町とされている。神の期待はとても大きいのだ。

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