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2013年12月

正月休み

 さて、今年も年末年始の休載といたします。1/7からの再開ということで、時間がありましたら、この機会に読み飛ばしていたところなど、振り返って読んでみてくださればと思います。2013年もまもなく終わり、良い年をお迎えください。

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申命記 30:11-14

 これはローマ10章でも引用されている言葉だ。神が人に求めていること、それは決して難しいものではない。完全になれと言うのではないし、神のために大きな貢献をして見せろというのでもない。心の悔い改めすら、十二分ではなかったとしても、それでもまだ期待できる。神が人に求めているのは、そんな者たちが、だからこそこの神に頼り求め、助けを願うこと、神には約束されたことを成就する力があるのだと信じること、だ。だからそれは決して遠くにあるものではなく、難しすぎることもない。ナアマンが簡単すぎることを命じられて原を立てていた姿を思い出す(第二列王5章)。

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申命記 30:5-6

 この約束はとても大事なものだ。人は、悪かったと思って悔い改めたつもりでも、それでもなかなか改善しないことが多い。心を包む古い皮は、容易には取り除けないものだ。でも、ここには力強い約束がある。そういうかたくなさも含めて、神が変えていってくださるのだという、そういう約束が告げられている。主なる神が敬われるのは、ただ力が強いからだけではない。こうして人を、私たちを深く顧みてくださる方だから、である。

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申命記 30:1-10

 しっかり読んでおきたい言葉だ。たとえ人々が神に背き、神がその者たちを厳しく罰したとしても、であるのだ。それでもなお、もし人々が悔い改めて神に助けを求め、立ち返ってくるならば、神はその人々を快く受け入れてくださり、祝福をもたらしてくださるのだと言う。イエスが放蕩息子の話をなさった時、聞いていた人々は戸惑い、唖然としただろうが、でもあれはすでに申命記でも語られていたことなのだ。もうおしまい、絶望、という言葉は、少なくとも神と関わっている者には成り立たない。

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申命記 29:29

 前半は、崇高な神との関係においてよく耳にするような言い回しだ。大切なことほど秘されて、下々である人間には知らされない、というふうに。だがここには後半の言葉がある。そう、神は決して物事をご自分だけの秘密にしておくことを望んではおらず、むしろ人々が真実に生きていくために明らかに示そうとしてくださっているのだ。語ってくださる神、教えてくださる神、人と共に物事を受け止めていこうとなさっている神。だからこそ私たちはこの方を信頼して、ついて行くこともできる。

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申命記 29:22-28

 ヨナが神から逃げた時、船に乗っていた人々は、その告白を聞いて驚愕した。せっかく神の守りと祝福を受けて繁栄したイスラエルが、その神を投げ捨てるのを見て、周囲の民は驚き戸惑う。せっかくの祝福をどうして自ら廃棄してしまうのか、と。利得だけで考えたとしても、これはあり得ないことなのに、でもその危惧が警告され続けている。実際にそうなってしまった。人は幸いを求めるものだと言うけれど、そうではないのかもしれない。人は自らの幸いよりも、好き勝手をして、自分が主であることを追い求めることを望む。神はそれを、激しく嘆き、心を痛められるのだ。

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抜けました

 22日の分が抜け落ちていたことに気がつきました。毎日、開いてくださっている方、済みません。もうすぐ年末なので、あとしばらく続けてから、正月休みにしますね。

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申命記 29:16-21

 19節の言い分は、人が繰り返し口にするもののようだ。第一コリント15:32も類似するが、それはつまり、この世と、そして私たちの歩みのすべてを御手の内に治めている神を認めず、神などたいしたことはない、あるいは神など幻想だと言い放つことでしかない。もしそれが真実なら、神などいないのだとしたら、確かに信仰など無意味だろう。でも、聖書は明確に神を語り、人の心もまた神の存在を指し示し、ローマ1:20にあるようにこの世界の有り様は、神を大前提としている。見えない空気などありはしない、ただの妄想だと言い張り、だから呼吸をしても無駄だと言い張って息を止めるなら、人は生きていけない。御子誕生の日だが、御子は闇の世界においでになられたことを、痛感させられる。

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申命記 29:10-15

 15節の言葉は深い重みがある。今ここにいる者だけでなく、である。神との関わりは自分がどうかというだけでは済ませられない。それは次の世代、ずっと後の世代のためにも必要なことであり、あるいはまた、世界の他の人々、今はまだ神を知らない人々にとっての大事でもある。神がこの世界全体の主であり、支配者であり、神はこの世を愛されているのだからだ。個人主義が基軸になっている現代は、全体主義的社会への反省としては良いのだが、神との関わりにおいてだけはその意識を脱ぎ捨てて、もっと広い意識で向き合う必要がある。神の祝福は豊かで広いものなのだから。今日はクリスマスイヴ。この世の救い主である御子の誕生を喜びたい。

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申命記 29:1-9

 厳しい言葉は一段落して、神に聞き従うことの意義深さが語られていく。40年の旅路を思い返せということだ。その間、神はずっと人々を守り支えてくださった。5節は同じ靴を履いているという意味ではないだろうが、でも、何もなくなって裸足で歩くようなことにはならなかったということだ。6節のパンを食べないというのは、ちゃんとマナが与えられ続けたからだ。そして強力な敵をも打ち破ることができた。全ては神の守りと祝福によるものだ。神はちゃんと守ってくださったことを思い出せ、である。

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申命記 28:58-68

 イスラエルはエジプトでの奴隷生活から解放されて、ここまで旅をしてきた。それは民にとって大きな喜びであり、希望であった。だが、そうやって助け出してくださった神から離れてしまうなら、民はもはや、拠り所を失う。それは奴隷への逆戻りにしかならない。神によって救い出された者たちに、もとの生き方に戻ってはならないと、新約も繰り返し告げている。せっかく自由を与えられた者たちが、自ら神という幸いを放棄してしまうなら、その先にあるのはもといた場所でしかないのだから。

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申命記 28:49-57

 イスラエルの民は、これから約束の地に行き、そこで国を築いていこうとしている時だ。でもモーセは人々に対して、国が滅んで補囚との民になることを語っている。約900年後、イスラエルの民はそうなってしまった。いや、北王国、つまりは10の部族はもっと早くに消え去った。人の習性がそうであると知っているからこそ、神は必死で語り続けておられる。私たちはその声にもっと耳を傾け、真剣に受け止めていくべきなのだ。

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申命記 28:38-48

 話はさらに続いていく。読んでいても辟易させられ、もう十分と言いたくなるのだが、でも、神の言葉は止まない。それは、このことが人を切に思う神の心から出ていることだからだ。どうでもいい相手ならば、適当に済ませておればそれでいいだろう。勝手に傷つき、勝手に自分を滅ぼしてしまえばいい、ともなるだろう。でも神はそうは思っておられない。必死に人々を食い止めようとなさる。だからこそ聖書は激しく、厳しく、くどいほどに語り続ける。

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申命記 28:25-37

 いくつかの惨状が語られているが、他国との関係や、他の人からの嘲りなど、人間関係の中での辛い事態のことが中心になって告げられているようだ。弱り苦しんでいる者をあわれみ、助けていこうとする志があれば、様々な苦しみもまだましと言われるが、実際には、好機とばかりに襲いかかり、あるいはあざける声のほうが大きい。神は、あなたの隣人を愛せ、と命じられた。その教えを真剣に受け止めないならば、この世界はひたすら悲惨さに埋没することになる。自分は勝ち組だから大丈夫などという安堵は何の意味もないことは、誰でも知っているはずだ。

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申命記 28:15-24

 今度は、神を忘れ、神の恵みも導きも忘れてしまった場合のことが語られている。この部分には、収穫のこと、あるいは病気など、日々の暮らしに関することが出てくる。エリヤの場合のように、神の直接的な取り扱いもあるが、もともとアダムの時、神の祝福を離れた人類は苦境に陥ったことが語られていた。と同時に、自然災害などでなくても、人間自身が問題を生み出し、混乱を自ら抱え込んでいる場合もある。その時の利益しか考えずに大地を荒らし回るような所業が、自然界の豊かさをどれほど壊してきたかについては、今まさに世界が深く思い知らされていることでもある。

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申命記 28:7-14

 ここには他国との関わりが語られていく。そこに守りと祝福があるという内容である。神の祝福は単なる自己満足ではなく、周り中からも認められ、うらやましがられるようなものなのだ。それだけの幸いを用意しているのだからこそ、胸張って神の前に生き、決して、他の民族をうらやましがるな、ということだ。そこには後に生ずる、他民族の神々を追いかけて行ってしまうイスラエルの民を危ぶむ神の心が込められているのでもある。

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申命記 28:1-6

 神の教えには、戒めということで様々な罰則や警告が語られることが多いと感じる人が多いだろう。この28章もそういうことも出てくる。でもここではまず先に祝福が語られている。神による幸い、その豊かさが告げられている。神は人々を祝福したいのであり、幸いを与えたいのだ。悪事を罰することよりも、その幸いを共に喜ぶことこそが、神の一番の願いであることを心して、聖書の教えは読んでいきたいものだ。

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申命記 27:9-26

 神の教えられたことについて、皆でそれを確認し、守りますという誓いを表明するようにと指示されている。多少趣旨は違うかもしれないが、昔、日本では志を同じくする人々の間で血判状が作られた。そういう決意をしっかりと示し、共に握りしめていくことは、真実を生きていこうとする際にはとても有意義なことだ。人の心は揺れやすく、また弱いのだからこそ、でもある。様々な種類の教えが混在しているが、これを見ると、神の教えに優劣、重要度の差などはないのだなと思わせられる。その教えはすべて、人々を悪から守り、堕落を防ぐためにこそ与えられている。

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申命記 27:1-8

 神への信仰は、目に見える形にして、あるいは行動を伴って、確かめ続けられるべきものだと教えられている。それは古代だけの話ではなく、現代に生きる者にも必要なのだ。頭の中で分かったつもりでいるのだと、たとえその時はよくよく分かっていたのだとしても、人の意識や記憶、理解すらも、すっと消え去ることはある。あるいは、心の中だけのことにしてしまうと、ともするとそれは思索という遊びで終わってしまう危険性もある。だからこそ神は信仰を、言葉に出して告白することやバプテスマという形でも表明せよと告げている。

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申命記 26:16-19

 神の教えに聞き従い、神の御心を大切に受け止めていこうとする人々に対して、神はさらなる祝福をもって応えるのだと語られている。与えられ、感謝をもって従い、ますます与えられ、ますます感謝し。これが神の約束であるのに、この世界がこんなにも悲惨さに満ちているのは、せっかくの良き循環を人が崩してしまっているからでしかない。モーセは切なる願いをもってこの言葉を語っているが、イスラエルがそのように歩まなくなることも分かっていたし、そこには涙を流して訴える思いも含まれていたはずだ。むろんそれは、神ご自身の痛みであり、第二コリント5章に出てくる「懇願」であるのだが。

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申命記 26:12-15

 神への感謝は、他の人々に恵みを分かち合う行為としても現されるように定められている。ここに出てくるのはイスラエルの中で生産手段をあまり持ち合わせない人たちだ。その人々のために食料を提供することが、神の恵みを受けた者としての使命でもあると記されている。時代が違うし、生産方法が違うから、現代どの程度ということは簡単には言えないけれど、このような志と行動は、いつでも問われ続けるべきもののはずである。そして心あるクリスチャンたちは確かにこの2000年、他の人々と分かち合うことを意識しつつ歩んできたはずである。それはものを提供することだけでなく、社会の弱き人々を支える取り組みも含まれる。かつて奴隷解放運動に立ち上がったのも信仰者たちであったことを思う。

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申命記 26:1-11

 神への捧げ物は、何よりも与えられた恵みに感謝する意味合いのものだ。多くの宗教では願い事をするための貢ぎ物であるが(たくさん捧げれば願いがかなうという構図)、主なる神との関係では、初めに神が一方的に与えてくださって、だからこそ人は深く感謝し、喜び、そして礼拝をするのである。この位置関係を忘れてしまうと、信仰そのものの意味合いが曖昧になり、いつのまにか利用するための神に成り下がり、そして、自分の力で事を成し遂げているのだという錯覚を抱くようになってしまう。そうならないためにも、このような感謝の祈りは大切だ。

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申命記 25:17-19

 前節とのつながりは、どちらも相手の弱みにつけ込んで襲いかかるということだ。アマレクへ強い言葉は、彼らがイスラエルでないからではないし、偶像礼拝の問題ですらない。彼らが卑怯なことをしたから、それこそ仁義に反することをしたから、それゆえのものである。実際にアマレクを消し去ってはいないし、そこまでは物理的にもできないけれど、でもこの言葉の激しさは、彼らのような行為を神がどれほど嫌っておられるのかを、如実に指し示している。

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申命記 25:13-16

 この話題は何度か出てくる。例えば穀物を貸す時には小さい重り石を使って、一個分と測り、返してもらう時には大きい重り石を使って一個分を取り立てる。ごまかしをするな、ということである。正直に自分の利益を考えるならばよし、相手もそれを納得して取引すればいいだろうが、真実ではない情報で相手をたぶらかしてはいけないのだ。一時的な利得があっても、それは社会も経済も、全てをだめにする。

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申命記 25:11-12

 こういうことまで規定されているのはちょっと奇妙にも思うけれど、これもまた、相手を卑しめてはならないという趣旨のものと言える。妻が夫の味方をするのはごく自然なことだけれど、だからといって相手を卑しめるようなことをしてはいけないのだ。ここにあるような行為でなくても、同様の卑しめるような行為は様々あるのだと思う。どんなに悪い相手でも、あることないこと誹謗中傷するとか。どんな理由があってもしてはならないことはある、という点が崩れたら、この世界は破綻する。

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申命記 25:4-10

 当時は子孫を残すことは何よりも大事なこととして考えられていた。だからこそ、個人的な好みか何かでその使命を拒む者に対しては、屈辱的な扱いを与えると規定されている。こういう扱いになっているのは、子を残すことは強制ではどうにもならないからであり、また、彼が拒んだものが本来とても崇高なものだからだ。彼は自らを卑しき者と表明しているに等しい。現代は子を残すことをそこまで重視はしないからこの規定は成り立たないが、別の事柄についてもこの姿勢は当てはめられるのではないか。例えば、相手の弱さに同乗して支え合うのは人としての基本姿勢であるはずだが、それを、面倒だとか、気分が乗らないというような理由で無視するとしたら、それは自分自身を卑しめる行為と言えそうである。

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申命記 25:1-3

 悪事を働いたのだから罰は免れない。40回の鞭打ちはとても厳しい。だがそれは、その人自身を卑しめるものであってはならないと語られている。厳しく罰しつつも、同時にその人を神によって造られた貴重な存在としてしっかりと受け止めるのだ。現代社会は犯罪者にも人権があると語るが、そこに見られる制度はともすると、尊厳を考えるあり方とは本来的なずれが生じているようにも思う。このはるか昔に指し示されている規定のほうが、鮮烈に、罪を犯した者の人権をしっかりと受け止めているものと言えそうだ。

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申命記 24:19-22

 弱い人々への思いやりは、何かあった時に助けるとか、悪事の対象にしないということだけではない。それはもっと積極的になされるべきことだ。ここにあることなどは、そんなに大変なことではない。ぼんやりしている人ならば、いつもしていることかもしれない。でもそれが誰かを助けるものとなりえるならば、こんなに幸いなことはないのだ。意図的になせと、聖書は言っている。

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申命記 24:8-9

 ツァラアトは古代社会で恐れられていた病気だが、律法はそれについて、決して邪険に扱うなと告げている。治療法もなかった当時、確かな隔離されはした。でもそれは決してその人のことを忌まわしく思うものではなく、見下すことでもない。ミリアムがツァラアトに罹った時、民はその回復までの間、旅路を止めて待ったと記されている。そういう思いやりをこの病の人々に対して向けることこそが、旧約律法の指し示すことなのだ。

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申命記 24:6-18

 細々と様々な規定があるのは、神が人々の生活をしっかりと顧みてくださっていることの現れでもあるので、重要なことである。それでも一つずつコメントするのも何だからまとめて言えば、弱い立場の人などを深く顧みるようにとの指示が、具体的に様々語られている箇所だ。各自の都合とか、利益がどうのということよりも、何よりもまず、弱い立場で苦しんでいる人のために何が良いかを考えて行動せよ、ということである。この意識、姿勢はとても重要なのだ。

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申命記 24:5

 現代風に読めば妻への思いやりという観点になるだろうが、当時、そのような意識ではなかっただろう。結婚したばかりの者が戦いに出て生命を落とせば、子孫を残すことができない。するとその家は絶えてしまう。そんな事態を生じさせてはいけない、ということだ。はるかな昔、聖書ではすでに、全体よりも個人としての意義を優先する意識が指し示されていたことになる。社会は進歩していると言うけれど、国家のため、社会のため、あるいは会社や団体のため、という認識が最優先にされていく光景は、どこが進歩なのかなと思わずにはいられない。

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