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2014年1月

申命記終わり

 申命記が今日で終わり。ちょうど月末になった。始まってから7ヶ月ということになる。このモーセの力強い説教は、ぜひ何度でも読み直していただきたい箇所である。次は新約に戻り、エペソ人への手紙を読んでみよう。では、しばらくの休憩である。2/15から再開する。寒い季節、ご自愛ください。

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申命記 34:9-12

 ヨシュアはモーセの後を継いだが、その意味合いは全く違う。ヨシュアは優れた指導者だったが、モーセは神の心を人々に届けるという、重大な役目を果たし続けたのだ。彼は、神と「顔と顔とを合わせて」語り合う者であったのだ。今、キリストのゆえに私たちは、神と向き合って語ることのできる関係を手にした。それは旧約の民にとっては驚愕すべき幸いであったはずだ。この意義深さを決してないがしろにすまい。

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申命記 34:5-8

 モーセの遺体は神によって葬られた。神ご自身の特別扱いである。モーセは衰えて、それで死を迎えたのではないと語られている。なすべき役目を終えたからこそ、神によって呼び戻されたのだ。人の生涯は様々で、120歳までというのは例外的だろうが、でも、その途中でもう自分は何もできない、だめだと思ってしまうのは悲しい。この存在は、神に呼び戻されるまでは、ちゃんと意味を持ち続けるのだから。

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申命記 34:1-4

 モーセは、自らの過ちによって、約束の地に足を踏み入れることはできなかった。でも、それは彼個人の満足に関連する話であって、民を約束の地まで導いた功績は揺るぎないものだ。神はモーセを最大級に認めておられるし、喜び、評価し、ねぎらってもおられる。だから今、これから民の進む土地を神はモーセに見せてくださった。自分は行けない。でも、自分が願い続けてきたとおりに民は進んでいく。それを知り得たモーセは大きな満足を手にしたはずである。人は、自分の時にはゴールに至らないことも多々あるだろう。でもそれを人々が受け継いで成し遂げることを知り得るならば、これは存外の喜びであるだろう。神がそこにおられるからこそ、一人の生命を越えた業が確かに展開されていくのでもある。

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申命記 33:26-29

 エシュルンとはイスラエルの別名だ。神がこの民をどれほど顧みてくださっているか、その愛と祝福に満たされて、この民は歩み進んでいくことができるのだとモーセは語る。ただそれは、民自身もまた神を求め、共に歩むことを喜んでこそ、でもある。その後の歴史は、この民がせっかく与えられた幸いを投げ捨ててしまったことを物語っている。なお、部族の列挙にはシメオンの名がない。この部族は早い時期にユダ部族に吸収されたと言われている。

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申命記 33:18-25

 これらの諸部族については、ひとまとめに触れておくことにする。失礼じゃないか、と言われそうだけれども、イスラエルの歴史においても、さほど目立つ存在ではない。ないのだが、でも、祝福そのものはちゃんと祈られ、求められていることにも注目したい。人それぞれに役目は違い、果たす効果も違う。でも、神が備えてくださる幸いは、それとは別にちゃんと整っている。人は目立つことや世の中での称賛の類を幸いと思いやすいので、自分たちは忘れられていると言いやすいが、真の幸いはもっと別のところにあるはずだ。

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申命記 33:13-17

 ヨセフはヤコブの継承者としての位置づけが強い。もっとも十二部族の場合はその全体でアブラハムの約束を継承したのでもあるが。マナセとエフライムの二部族であることもあって、その後もイスラエル全体の盟主的役割を果たすことになり、やがては北イスラエル王国の軸となる。そんな部族への祝福は、民全体の幸いにもつながる大事であったから、モーセの祈りも力強いものとなっている。

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申命記 33:12

 ベニヤミンは末の弟から出た部族だ。相変わらず、その民はイスラエル全体にとってかわいい存在だったのもしれない。でも、モーセの後、士師記の時代にはこの民はイスラエル全体と対峙して、あやうく部族全体の壊滅を見るところだった。主に愛されているもの、人々から愛されている者であっても、彼ら自身の心が神に向いていなかったら、そういう良い評判だけではどうにもならないのだ。

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申命記 33:8-11

 レビは祭司の家系が属するものであり、また民のために神にある奉仕に携わる責任も与えられていた。そんな重責ある部族について、モーセはやはり初めの方で取り上げて、彼らがその使命を真っ直ぐに生きられるように、全ての面での支えの必要性を祈り求めている。神によって導かれ、強められてこそ、その人は大切な業を遂行できるのだから。

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申命記 33:7

 兄弟12人の順序ではなく、注目点から祈られているようだ。ユダは後に単独で王を抱き南王国を築いていったように、その力は他の部族を凌ぐ勢力であったようだ。それゆえこの部族は自分の力を過信しやすかったのか。自らに寄り頼むのではなく、神にこそ頼り求めるべきことが、祝福の要として祈られている。後に、イザヤ7章では神に頼ろうとしない王への厳しい叱責が語られているので注目したい。そこにあることは、やがてキリストが到来されることにもつながる。

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申命記 33:6

 ルベンはヤコブの長男であり、本来は総領部族としての偉大さを兼ね備えているはずだが、祖先のルベンが悪事に手を染めたために、ヤコブから跡継ぎとしての資格を取り上げられていた。部族としての歩みにおいても、名前こそ最初に出てくるけれど、必ずしも優勢な状況ではなかったようだ。その実態は仕方のないことでもあるが、だからこそモーセは、ルベン族が保たれていくことを祈っている。時に、生きながらえていくことそのものが、何よりも願い求められるべき場合もある。ただの夢物語ではなく現実を生きる信仰である以上、そういう意識も必要となっている。

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申命記 33:1-5

 モーセの最後の言葉は、民を祝福するものだった。時の終わりに何を語り、どんな祈りをするのか。そしてまた、そこで親しい人々の幸いを願うとすればどんなことを。大いに興味をそそられる箇所と言える。そしてモーセは、全ての祝福の源は、この人々が神のもとにいることにこそあり、と強く意識しているのが分かる。個別具体的にはいろいろあるとしても、何よりも切に祈りたいのは、その人々と神との結びつきがしっかりとしたものであること。ここさえ確かなら、道は大いに開かれていくのだと、私たちも信じて、期待しているはずだ。

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申命記 32:48-52

 生涯を閉じる時、神ご自身に呼び出されてこそ、と思う。人それぞれにその形態、内容は違うだろうが、でも、そうやって呼ばれた方は必ずや私たちを助け導いてくださる。ただ、この時のモーセは失意も伴っている。彼が間違えた一つの出来事、それはとても重たいものであったのだが、それゆえにモーセは約束の地に足を踏み入れることはできない。モーセの偉業が消えることはなく、彼は神の最も親しい者である。けれど、ただ一つ、彼の切望は適えられないとされている。神の前に立つことは、多くの喜びと楽しみを伴うが、それでもなお、厳粛なものである。

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申命記 32:44-47

 ホセアとはヨシュアのことだ。モーセは神から与えられた大切な約束の言葉を、この後継者と共に民に向かって語っている。それはヨシュア自身に対して強く呼びかけるものであると共に、これからはヨシュアが民と共にこの約束に応えていくのだという、その使命を託す意味もあろう。この申命記にずっと書かれてきたように、神はイスラエルの民を深く思いやって、だからこそ、こうして最後の時にもまた、民に向かって語り続けている。彼は120際である。よくぞ、の思いを抱かせられる。

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申命記 32:36-43

 このように堕ちてしまう民なのだが、でもこの歌の最後は、神が民にどこまでも関わり続けてくださることが示されている。人は神を捨てる。神などいらないと言う。それは決して許しがたいことだ。だが神は、そんな者たちをなお顧みて、助け出すのだと誓われる。だからこそ聖書は神の与えてくださる祝福を、ただ一方的な恵み、もらえる資格のない者たちへの、神の方から差し出してくださっている恵みだと語る。私たちはそのような神の心を思い知らされる必要がある。

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申命記 32:26-35

 神が民を直ちに絶ち滅ぼしてしまわないのは、周辺諸民族が誤解しないためだとある。聖書全体としては神のあわれみが語られているが、ここでは厳しい言葉となっている。神を捨てたイスラエルのことだけを思うなら、神の助けによってこそ立ち得ていた者たちが愚かにも自らを誇ろうとするなら、そこにはもはや道はないのだという鋭い指摘である。繰り返すが、これはまだ民が約束の地に入る前のもの、まだ慢心はしておらず、神に寄り頼もうとしている時のものだ。やがて辿ることになる愚かな道に気がついて引き返せ、という、神の切なる思いを見ることができる。

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申命記 32:19-25

 民の行為がもたらす当然の帰結は、状況の悪化である。祝福である神を捨てたのだから、その祝福もまた自ら投げ捨てているのと代わりがない。神に背いた罰、という言い方をよくするけれど、この事態はむしろ人が自ら招き寄せたものである。夢も希望も破壊してしまったのは、人間たち自らであることを私たちは知らねばならない。人は自らの蒔いた種を刈り取らざるを得ないのだ。

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申命記 32:10-18

 そうやって祝福を受け、大いに繁栄していった時、けれども民は神を忘れ、神への恩義を忘れ、まるで自分たちの力で事を成し遂げたかのようにしておごり高ぶり、そして祝福の源である方を投げ捨てていく。まさかそんなことをするはずがないと、人は誰でも思うだろうが、でも、神の指摘は真実であることを、その後の歴史は物語っていく。こんなにも悲しいことはない。

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申命記 32:5-9

 神はなぜ神なのか。人々はなぜ神を重んじる必要があるのか。その理由はそんなに複雑な話ではない。イスラエルに関して言えば、それはただひたすら、彼らをエジプトから救いだし、約束の地に導き、そこに相続地を与えたのが神であるからだ。人々がこの祝福を歓迎するのであれば、それを与えてくださった神をないがしろにすることはできない。誰にでもわかるしごく当然の論理が、けれど人の罪にかかるとねじ曲げられていく。出エジプト20:2にもあるように、私たちはこの関わりの出発点を忘れてはならないのだ。

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申命記 32:1-4

 民が神から離反するという警告に続くこの歌は、鋭く、厳しく人々に問い質している。これはまだ約束地に入る前のもので、この時期のイスラエルはまあまあまともな状態だったのだが、それでもなおこうして警告が発されることの意義を、心に刻んでおきたい。今のところまだ自覚のない人々に対する言葉だからこそ、それを告げる神の確かさがまずは冒頭で語られている。そう、私たちの自覚などをはるかに越えて神は人の現実をご存じなのだと、よくよく心していたい。

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申命記 31:24-30

 今度はレビ人に命じられている。彼らは祭司を手助けしつつ民の礼拝を支える者たちだ。彼ら自身の堕落に対する警告と(言われていたのに)、そしてまた、民に語り伝えるべき使命が付与されている。様々な方面から、とにかく何層にも渡って、神は人々にご自分の心を、言葉を届けていこうとされている。その一端に預かれるのは(担当するのが自分の家族一人だったとしても)大いなる喜びだろう。

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申命記 31:14-22

 後継者と共に神の前に立つのは、何とも清々しい、ほっとする思いになる時だと思うが、あいにくと神が語られたことは非常に厳しいことだった。それはイスラエルの民がいずれ神から離反していくという予告である。そんな者たちに過ぎないと知っているのなら、なぜこんな民を選ばれたのかと思う人もあるだろう。ただ、神としてはその民が立派だから愛したのではなく、どうしようもないけれども愛してくださったのであり、だからこそ罪に弱い人々と知りつつも、それでもなお彼らをいとおしまれたのだ。そしてたからこそ、ヨシュアに求められていく使命の重さはとてつもないものとなっていく。この覚悟は必要なのだ。

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申命記 31:9-13

 リーダーも、そして民全体も、主の前を歩み続けていくために必須のこととして、神の言葉をしっかり語り聞かせていくことが肝要だ。どんなに偉大でも、有能でも、人が人として歩もうとする限りは、混迷は免れ得ない。神によって造られたものだからこそである。旧約律法はその際に、どのくらい聞き続けるかはその人の意欲次第というような、本人任せのやり方はしていない。親に、あるいは社会に、ちゃんと聞かせ続けていく責任を負わせている。むろん、聞いて、それからどうするかは本人次第としか言えない。でも、聞かせるところまではその責任を負えと、モーセは祭司たちに、そして民の長老たちに命じている。自由と主体性を最大限に語る現代だけれど、このような命令の重要性はなおいっそう重くなっていると言える。

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申命記 31:7-8

 後に続く者に何を語り、何を指し示すか。それは上の世代の者にとって最重要課題の一つだ。モーセはここでヨシュアに、彼が担うべき使命の中身を告げている。それは神ご自身が告げられた使命であり、民をどこへと連れて行くのかに関すること。つまりは、ヨシュア一人の話ではなくて、神によって始められ、人々の幸いのためにこそ果たすべき使命ということになる。人の歩みには様々な困難があるけれど、それを乗り越えていくために欠かせないのは、主の道を歩んでいくのかという基軸を握りしめていることだ。ヨシュアの生涯は比較的安定し、彼自身に起因する問題は少ないが、それは彼がここに留まり続けていたからだろう。

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申命記 31:1-6

 モーセは約束の地を前にして、指導者としての役目から退く。それは老齢のためでもあるが、かつての事件が理由でもある(民数20)。それはモーセ自身にとって残念なことだったが、同時に、民のためには有益でもあった。これまでモーセが民と神との間を取り持ってくれたので、民はまともに神と向き合わずに済み、安堵していた。だがこれでモーセはいなくなる。そうしたら民は、嫌でも神と向き合うことになる。それは民にとって大事な前進となる。モーセはここに来てようやく、肩の荷を下ろすことができたのだ。

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申命記 30:15-20

 祝福とのろい、つまり、良いものが待っているよと招き寄せていくのか、それとも、厳しい罰を警告して恐怖心から従わせるのか。両面であるのが真実だけれど、人の受け止め方としてはやはり、どちらかに重きを置くことになりやすい。その際、神の呼びかけに厳しさをおもに見る人は多い。だがそれはきっと、人自身の傾向を反映するものにすぎないだろう。聖書は確かに厳しさも語るけれど、その基軸はむしろ恵みによって人々を迎え入れるべく呼びかけるものなのだから。この点は、福音を語る際の姿勢に大きく関与する。

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