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2014年5月

エペソ書終わり

 短い手紙だったので、3ヶ月半で読み終えました。それこそ短いので、一気に読み直していただくのもたやすいのでしょうか。手紙だから、小間切れにせずに通して読む、ということも組み合わせていくことをお薦めします。それで、少しばかり休憩をはさんで、次はヨシュア記を読むことにします。いよいよイスラエルが約束の地に入っていく時の情景は、様々なことを考えさせてくれるはずです。では、切りの良いところで、6/1からの再開とします。

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エペソ 6:23-24

 手紙の終わりは、いつものように祝福を祈る言葉である。愛という要素が強調されている。朽ちぬ愛、という表現は聖書の中でもここだけである。これが神による愛の話ならば、まあなじみ深いものだが、ここでは人が神を愛する時のことについての話なので、なおさら注目できる。人自身がそんな確かなものは持ち得ないことは、皆、よく承知していることだからだ。それでもなお、朽ちぬ愛、と言われるのは、そこまでせずにはいられないほどに、神がしっかりと握りしめてくださるからこそ、であろう。神が事を動かし、人がそれに応じていく。この手紙が語り続けている道筋でもある。

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エペソ 6:21-22

 手紙だから、当時の事情が時折、顔を出す。おかげで私たちは、これらの教えが単なる机上の話ではなくて、実際の歩みの中にあったことを見ることができる。ここではテキコという人物がパウロのもとからエペソに派遣されて、両者の様子を伝え合う役目を果たしていたことが書かれている。信仰とは、正しい教えが届けられるだけではなく、お互いを思い合い、励まし合い、慰め合い、愛し合う関係が組み立てられていってこそ、しっかりと根付いていくのだ。4:16を読み直したい。

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エペソ 6:20

 ここで改めて、パウロが獄中にいることが告げられている。そんなことはすっかり忘れてしまうほどに力強い呼びかけがなされてきたのだが、現実にはパウロは捕らえられている。そのことは各地のクリスチャンたちにとって戸惑いであり、落胆でもあったろうが、こうして手紙を書き送りながら、パウロは人々を励まし続けている。事態は決して楽ではないけれど、信仰を生き抜くことこそが勇気と活気をもたらす礎となり得るのだ。

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エペソ 6:19

 パウロ自身も戦いの最中である。獄中という意味でも、宣教の生涯という意味でも。だからパウロは人々に、自分のために祈ってほしいと願っている。そうしてもらうことが自分自身の戦いにとって欠かせない力であるからであり、そしてまた、エペソの人々にとっても豊かな力になるからだ。しかも願っていることは、他の人に福音の幸いを届けることについて。ということは、この類の祈りは三者の幸いを願うものとなるのだ。

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エペソ 6:18

 こういった戦いを成り立たせるものは、神への祈りであると告げられている。呪文の類とは違うので、祈りそのものの力ではなく、神が応えてくださることによる力である。だからこれは、自分の願い事を語るだけではなくて、他の人々のために祈ることも大事な要素となっていく。この祈りは、この戦いが自分一人のものではないことをも思い出させてくれる。私たちは、神のもとにあって、他の信仰者たちと共に歩み、共に戦い、共に前進するのだ。そういう仲間なしに、信仰は立ち得ない。

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エペソ 6:17

 ようやく攻撃のための道具が登場する。それは神の言葉である。物事を実現するための手段は様々あって、それこそ悪の指輪を使う方法もある。だが、私たちが用いるのは神の言葉である。聖句を呪文のように唱えるのではなくて、神の言葉に教えられ、導かれ、どうあるべきかを、この言葉にこそ沿って進んでいく。そういう生き方こそが、悪魔に対する最も強力な攻撃であるのだ。悪魔を倒すことではなくて、人が神の前を確かに歩むことこそが、この戦いの勝敗を決するものとなる。

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エペソ 6:17

 かぶとは身を守ると共に、自らの存在を指し示すものでもある。日本の戦国時代の武将はその顕著な例で、皆、風変わりな工夫を凝らしたかぶとを身につけて、自分の存在を戦場に示した。私たちの存在を成り立たせるのは、ただ神の救いである。自分の努力でも功績でもなく、神が恩恵として与えてくださった救いを受けていることこそが、私たちの誇りであり、喜びであり、基盤である。私たちが最も大事にしていることは、信じていることよりも、救われていること、である。

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エペソ 6:16

 大楯は、射かけて来る矢を防ぐためのものだ。一連の武具の中では、はっきりと敵の攻撃が言及されているものである。では、どうすれば守られていくのか。それは信仰によってだとある。私たちの信じる力とか、信念の強さということではない。そんなものはあっさり射貫かれてしまう。信仰、つまり、神に頼り、神に守ってもらってこそ、である。私たちがなすべきことは多々ある。だが、私たち自身が守られるかどうかは、ひたすら、神に頼るのみなのだ。

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エペソ 6:15

 足にはくものは、より良く歩いたり、走ったりできるためのものだ。戦いに向かう際に、足に重しをつける人はいない。とは言え、ここでは軽快であるための心得が語られているのではなく、平和の福音が鍵だと告げられている。ローマ10:15を思い起こすのだが、神の祝福を人々に届けるための行程こそが、私たちの歩みを確かなものにする、何よりの力であるのだ。それは決して妨げなく進めるということではない。妨害はあるだろうし、悪路もあるだろう。でも、良いことの知らせを伝える者の足は、必ず前に進んでいくのだ。

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エペソ 6:14

 次は「正義の胸当て」である。胸当ては身を守るためのものだ。大事な心臓を一突きされたら、どんなに身体を鍛えていても助からない。そのためには正義が必要だと告げられている。正義とは、単に正しいことではない。これは他の人の幸いを守るために奮闘することを意味する。その人を悪から守り、その人が良きものを手にするためにこそ戦う。そういう意識を基本的な思いとしている時こそ、自らもまた守られていくことになる。人を愛することは、この信仰にとって最も基本的な内容なのだから。

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エペソ 6:14

 まずは「真理の帯」だ。腰にしっかりと帯を締めるのは、身体の調子全体を整えるのに有用なことだ。ここがしっかりしないと力も出ない。で、そのために必要なものは真理である。ごまかしを積み重ねても何の力にもならないし、ただの自分勝手でも意味をなさない。ローマ12:2を参照しつつ、真のものは何かをちゃんと追い求めていくことこそ、私たちが確かな力を持って生きていくための要であるのだ。

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エペソ 6:14-18

 ここには神にあって戦う際の武器、手段が紹介されている。特別なものではない。信仰を生きるつもりならば、ごく当たり前に手にするはずのものばかりだ。でも、その当たり前が忘れられてしまうことを、こうして読み直していくと痛感する。せっかくなので、一つずつ辿ってみることにするが、まずはこれらが日々の信仰をごくふつうに生きる中でこそ見出されるものであることを、覚えておきたい。

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エペソ 6:10-13

 「指輪物語」という小説の中で、悪の指輪を利用して、強大な敵を倒そうと考える者たちが出てくる。だが、指輪を制御できるだけの力を持つ者は、断固として拒み続けて言うのだ。「もしも私がそれを使ったら、確かに敵を倒せる。だが、別の種類の悪の帝王が誕生するだけ。何の解決にもならない」と。人がもし、自分たちの力で悪魔に立ち向かえたとしても、それでは何の意味もない。神ご自身に導かれてこそ、その戦いには真の意義が見いだせる。安易な勝利を目指したくなるのは人の常だが、その誘惑には必死で抵抗しなければならないのだ。

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エペソ 6:9

 人種を固定した差別ではなくても、所有者となる主人たちは、やはり相手を見下しやすかった。だからこそ、神はそれらの主人たちに、強く、厳しく、道を踏み外すなと戒めている。旧約の律法でも、家畜扱いになりがちだった奴隷の処遇について、そうとう踏み込んだことが定められていることを読んでいただけるだろう。何にしても、最も大切なことは、人は神の前にいるのだ、というこの現実だ。神を恐れる者としてこそ、人はまっとうに生きることができる。

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エペソ 6:5-8

 奴隷への勧告は、奴隷だからという部類の話ではなく、使用人でも、あるいはこの社会に生きるどのような立場の人にでも当てはまる内容だ。人はそれぞれ、自分のなすべき務めを、心から、誠実に、主に仕えるようにして取り組むべきなのだ。8節でも、この話は奴隷でも自由人でも同じ、と説明されている。そう、これは奴隷だから従え、ではなくて、人として誠実にその務めに励むことを指し示しているものなのだ。それは仕事に限らず、この世界との関わり、人々との関わりにおいても言える。

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