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2014年11月

士師記 6:14-24

 ギデオンの信仰について士師記が注目するのは、彼が立ち上がることができた鍵は、「神が共におられる」ことがはっきりと指し示されることによってだ、という点にある。かつて、モーセが立ち上がったときも、それが鍵だったことも思い出す。ギデオンの資質の是非は様々考えるべきことがあるけれど、神が共に、ということを何よりも大事に考えた姿は、彼が召し出された意味を考える上でも重要だろう。神は約束の言葉をもって、さらには捧げ物を一瞬で焼き尽くすという業によって、神の臨在をギデオンに示されている。私たちは何によって神の臨在を知るのだろうか。

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士師記 6:12-13

 ギデオンが天使に反発したのは、勇士云々ではなく、「主が一緒におられる」という言葉のほうだった。この言い回しは神の祝福を語る一般的なものだが、苦境を考えるにつけ、ギデオンはそれがかちんときたようだ。神の守りと助けがあると言うけれど、現状を見て欲しい、どこに助けがあると言えるのか、と反発している。もっとも、この事態はイスラエル自身が招いたもので、民が神を捨てた結果である。天使はそのことに答えていないが、士師記としては8-10節ですでにそのことを語っている。ギデオンの中に、この点での自覚と悔い改めが見られないことと、後々の様子を見比べていると、何だか恐ろしくもなる。

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士師記 6:11-14

 今回、神が救出者として任じたのはギデオンである。アビエゼル人とあるが、十二部族で言えばマナセに属する。天使は彼を勇士と呼んだが、本人は全くその気はないという様子だ。もっとも、その後の記述からすると、彼の一族は有力者だったようであるし、ギデオン自身の力量もなかなかのもののようで、彼が選ばれたのには公平に見れば十分に意味があると言えそうだ。でも、そんな個々人の力ではどうにもならないほど、当時のイスラエルはミデヤン人に押し込まれていたのだ。彼が縮こまっていたのは民全体の様子であった。

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士師記 6:7-10

 苦しんだイスラエルの民は神に叫んだ。だが、神は民の心が本当の悔い改めではなく、一時的なうめきに過ぎないことを知っていたから、とても厳しい断罪の言葉を届けるだけだった。神は本来、叫び求める相手には、心優しく語られる方だ。それがこの対応。イスラエルの状態がどれほど悪化していたかを痛感する。見捨てられて当然、そんなふうに言われてしまうのだとしたら、もはや全ては暗黒である。むろん、それで終わりではない。でも、人は自分たちの現状が何であるのかを知るべきだ。神に対して真剣に願い求めるつもりならば。

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士師記 6:1-6

 ミデヤン人はカナン南部、西部に展開する民族だ。拠点が荒野、砂漠地域であるため、遊牧のほか、他民族への襲撃も多かったようである。モーセの妻はミデヤン人で、イテロのように信仰的な共通性もあったようだが、利害関係のゆえにイスラエルとはしばしば戦っている。この民は支配ではなく略奪を意図していたため、イスラエルの温存などは考えもせず、ゆえに徹底的に搾り取られてしまった。これまでの支配よりもさらに過酷な事態であったのだ。イスラエルはともかく逃げることしかできなくなっていたようだ。彼らは民族としての衰退が危惧されるほどの厳しい事態に陥っていた。

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士師記 6:1

 再び、イスラエルの愚かな生き様が現されている。人々はまたも助けてくれている神を捨てた。神に従おうがどうしようが本人の自由、とも言えるけれど、しかし、士師記に出てくる様子を見ると、あまりの愚かな姿に見ている方が苦悩せずにはいられない。滅んでしまって構わない相手なら、どうぞお好きなように、と言えるかもしれないが、わずかでも思いをかけようとする相手なら、とうてい看過できない光景が目の前に広がっている。叫べば相手の心に届くわけではない。知恵を働かせない呼びかけは害をもたらす方が多いかもしれない。それでも、人々が切々と叫びたくなる思いはひしひしと迫ってくるように思う。

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抜けてしまいました

 あれこれとばたついていたら、書き溜めていたものが切れてしまって、昨日、今日と、連載を抜かしてしまいました。すみません。明日からまた続けていきます。

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士師記5:1

 それにしても、ヤエルに武功を取られてしまったバラクが、けれど、それで腹を立てるでもなく、いじけるでもなく、この歌のように、意気揚々としているのは不思議な気もする。彼は勇者であったし、統治の方も安定していたから、それなりの力量を持っていたはずだ。そのような人物が、けれども自己の誇示に固執せず、むしろ現状が順調であることをこそ願い、適材適所というか、そんな構えでいられたことは、それこそ神の守りと導きの中に歩んで来たに相違ないと、主の前にある意味では、なかなかに良き人であったのだと、そのようにも思える。神にあって生きるとは、必ずしも自分自身が功績を挙げるかどうかではなく、最終的に人々の中に幸いが広がることこそが重要、と思えるかどうかも大切なのだ。

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士師記 5:1-31

 で、内容である。二日続けてこの歌を読んでいただけたなら、何か心に響き始めているかもしれないが。全体としては、出来事をなぞっているというふうである。ただ、各部族がヤビンの脅威について真剣に団結して取り組んでいなかったことに強い疑問を投げかけているのが分かる。その一方で、神ご自身の守りと導きの確かさが明朗に語られている。人の混乱と神に寄り頼むことの意義が、デボラの口を通して高らかに歌われる。それはもともと4章前半でデボラがバラクに語ったことと同じ趣旨である。

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士師記 5:1-31

 詩篇は別としても、こういうふうに歌を文字で読むという感覚は、それに馴染んでいる人と、そうでもない人とでは、かなり差があるのではと思う。正直なところ、私は小説はたくさん読むけれど、叙事詩的なものはまず手にしない。短歌や俳句のような短いものならば心地よいのだが。でも、この類に慣れている人にとっては、こういう箇所はとても印象深く心に響くのだろうとは思う。聖書は書き記されたものであるが、つい最近まで、人々が自分で文字を読む機会は滅多になく、ほぼ、読み聞かせてもらうことでその内容に接してきたものだ。だから、こうして歌われていくものは、とてもよく心に届いていたに違いないとは思う。自分で読む場合も、そういう特性を意識しつつ、自分の心に歌いかけるようなつもりで読んだ方がよさそうだ。

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士師記 4:23-24

 有力な将軍シセラが倒されたためか、ヤビン王そのものの勢力も衰えていったようである。まあ、エフデが倒したモアブ王などに比べると、ヤビンはカナンの領主的なものに過ぎないから、全土に展開していたイスラエルとは、本来、勢力に差がありすぎたはずだ。でも、そのような相手に圧倒されていたというところに、士師記の時代にイスラエルが深刻な状態であったことがうかがえる。やはりイスラエルの場合、その強さは彼ら自身の力量ではなく、神の支えがあるかどうかにかかっている。それが神の民というものだ。これを幸いと喜ぶか、それとも面倒と考えるのかは、人によって違うのだろうが。

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士師記 4:17-22

 敵の将軍を討ち果たすのが最大の名誉とされるのは古今東西を問わず、のようだ。でもそれはイスラエル軍のものではなく、ケニ人ヘベルの妻ヤエルのものになった。ヘベルはイスラエルと共にやってきた一族の関係だが、むしろカナン人との関係を重視していたようだ。でもヤエルは神の導きがどちらにあるかをよく見極めて、イスラエルに加担した。ラハブなどもそうだが、聖書にはしばしば女性たちが大きな出来事の中で、その信仰ゆえの重要な行動を起こしていることを記録する。当時の社会で彼女たちは人間的な意味での力は持っていなかったが、神を思うその判断と選択は、とても力強いものとなっていくのだ。

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士師記 4:11-16

 ヘベルは後から重要な意味を持つ。ヤビン王の将軍シセラとバラクのもとに終結した民との戦いが行われた。戦車とは馬に引かせるものだが、機動力で大きな力を発揮したから、シセラ軍のほうが断然優位だったはずだ。細かい戦術ではなく正面から激突したようだ。でも神の助けがあってイスラエル側は圧勝している。人々は900両の戦車に恐怖していたけれど、神の助けがあるかどうかが勝敗を決している。古代イスラエルにおいてはこの点こそが決定的な意味を持つ。それをいつまでも悟らない民でもある。

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士師記 4:8-10

 バラクの姿は臆病と評されることも多い。もっとも、士師記に出てくる指導者たちはしばしば、こんなふうである。混乱する時代の中で、彼らは自信を失っている。神の助けの確実性を信じ切れないでいる。自信満々になると、今度はサムソンのような課題が生ずる。神を信頼し、恐れずに進め、とのヨシュアへの言葉は(ヨシュア1:9)、とても大切なものなのだ。そんな状況だったのに、それでもバラクたちは前に進んでいるのだから、むしろ彼らの勇気と信仰を思うべきかもしれない。

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士師記 4:6-10

 デボラは女預言者であるし、その役目も日常的なことへの関与だったから軍事的指導を役目とはしていない。それで神はバラクを将軍として立てることになさった。招集される軍からすると、デボラが関与していたのはイスラセル全土ではなく、ガリラヤ湖あたりの北方のようだ。ヤビンの圧迫もそのあたりに向けられていたのだと思われる。士師記の多くは部分的な地域に関することだろうと見なされている。ある地域が圧迫されているのに他の部族が関知していないのもまた、状況の深刻さを物語っていると言える。イスラエルは12部族が一つとなってカナンにやってきたが、そこからバラバラになってしまっていたのだ。サムエルやサウル、ダビデによって再び終結されたが、また瓦解していく。他の人のことを思えとの教えは、とても深刻なことなのだ。

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士師記 4:4-5

 女預言者デボラの「さばき」とは、いわゆる政治的統治ではない。人々は困ったことがあると彼女を訪ねて神の声を求めていたということだ。裁判的なこともあれば、託宣的なもの(捜し物を求めたり)、癒しに関することもあったのではないか。人々と神との間をつなぐ存在ということか。礼拝の場所である会見の幕屋と大祭司が持っていたはずの国全体を掌握する機能とは別である。もっとも、このあたりの時期、大祭司たちは何をしていたのか、その様子が見えてこないのもまた深刻であるのだが。

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士師記 4:2-3

 ハツォルはガリラヤ湖の北方にある町だ。ヨシュア記11章で一度征服された町だが、復興していたようだ。王の名が同じなので、あの時、イスラエルと戦った王の子孫なのだろう。苦労して手に入れたはずの勝利でも、その源にあるのは神の助けなのだから、そこの部分が失われてしまえば、支配権も、平穏も、何もかも失われてしまうのだ。民は、いや、人は、何もわかっていない。まるで自分が全てを成し遂げたかのように思い込んでいる、それこそが悲劇の元凶なのに。

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士師記 4:1-3

 悪の循環が再び、である。せっかく神によって救い出されたのに、またも神にそっぽを向いた。具体的には書かれていないが、カナンの神々に愁眉を送ったのだろう。エフデは死んでいた、と書かれているが、よくよく考えてみると奇妙なことだ。それは決して神の助けが止まってしまったという意味ではない。エフデには恩義を感じていたので遠慮していたけれど、もういないから勝手気ままに、ということか。助けてくださった神ご自身は、変わることなくそこにおられるのに。人々は実のところ神を見てはいない、そう言われても仕方がない。罪の姿である。今の私たちははたしてどうか。

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士師記 3:31

 士師記にはシャムガルのようなほとんど情報のない人物も記されている。彼が相手にしたのはペリシテ人なので、エフデとは同じような時代に、ただ、地域は別のところで活躍したということだろう。士師記にあるさばきつかさたちは、時代的には重複している者たちが多々あるはず、とも言われている。だが、情報の大小に関わらず、彼らは皆、神に導かれて民のために奮闘したという点では、同じなのだ。目立とうが、目立つまいが、それは関係のないことだ。

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士師記 3:24-30

 エフデは王を倒したが、モアブを打ち破ってイスラエルの解放を手にしたのは、イスラエル全体の取り組みだったことが記されている。敵の強さが明記されているが(29)、神の守りの中で戦う者たちの強さはそれを越えるものだったのだ。イスラエルはすでに混乱を始めているけれど、士師記の後半を見てから振り返ると、このあたりの状況はまだまだ安心して見ていられる部類のものに思えてくる。

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士師記 3:15-23

 エフデは、自分の左利きという特性を利用して、王の油断を突いたわけである。身体検査はなされただろうが、右側に剣があるはずがないという思い込みがあったようである。もっとも、それはずいぶんと甘すぎるチェックとも言えるわけで、その点でエフデは神の守りに賭けたのだ。これほどうまく進むとは、彼自身が思いも寄らないものだったかもしれない。彼は難なく敵の王を倒して、無事に脱出することができた。昨今の殺伐とした情勢を思うと牧歌的な感じもするけれど、神によってこそ事はなしえるという点は、事情は変わっても同じである。

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士師記 3:15-23

 最初の救助者はユダ族だったが、今度はベニヤミン族である。以降、様々な部族の出身者が登場し、部族の力ではなく神ご自身によってこそ事が動いている様子がうかがい知れる。その点は、ダビデ王家とは異なっている。ダビデの登場はその頃のイスラエルにとっては必要だったが、全体としての傾向がますます「神によってこそ導かれる民」という性質から離れて行ってしまったことを思わせられる。

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士師記 3:12-14

 士師記にあるイスラエルの深刻な姿がここに出てくる。オテニエルが生きている間はまだしもだったが、彼が死ぬと、民は再び神から離れてしまったのだ。神の与えてくださったリーダーが、信仰復興ではなく、瓦解しないための防御としてしか機能していないのだ。この事態は以降繰り返されていく。真の改善が見られない限り、ただの助けでは足りないことを、旧約聖書は明らかに語り示しているのだ。今回は隣国のモアブがイスラエルを圧迫している。

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士師記 3:8-11

 神の庇護を失った時、北方からメソポタミア系の民が侵攻してきた。アラム・ナハライムは創世記24:10からするとカナンとバビロンの中間地域で、メソポタミアの主勢力ではないようだ。民はあわてて神に助けを求め、神はそれに応えてオテニエルをリーダーとして立てて、イスラエルに勝利を与えられた。40年の安定が与えられたとある。この時は、苦境に際してイスラエルは神に叫んだが、後にはこの叫びが見られなくなっていく。神への意識がどんどん薄れていくのだ。それにしても、オテニエル存命中にすでにこの事態に至っていることからは、信仰の衰退が急速に進んでいることを考えさせられる。事態は早くも容易ならぬものになってしまっている。

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士師記 3:7-11

 イスラエルの民が神を忘れ、神を捨てたので、神からの守りと助けが失われてしまう。この事態は、神の積極的な刑罰という面だけでなく、イスラエル自身が祝福を自ら放棄した結果でもある。これはイスラエルだけの話ではない。人は神によって造られて、神の祝福を受けていたのだ。それを、神など不要だと拒んだのだから、神の助けも失われていくことになるのは必定。彼らは何をしているのか自分でわかっていない、との嘆きが神から語られるのは当然である。

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士師記 3:5-6

 イスラエル側にとって、より深刻な課題は、政治的、精力的には圧倒しているつもりでも、信仰的な面ではむしろ彼らに迎合し、従属していく道を進んでしまったことだ。最大の要因は、イスラエル自身が神を忘れ、その偉大さも、全能の御手も忘れてしまったことにある。そんな状態では、カナンの民が持っていた神々への信仰が、さも文明的、力強い保証のようにも思われたのだろう。神の民であるはずの者たちが瓦解していく。

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士師記 3:1-6

 イスラエルがひとまず約束の地全体に行き渡ろうとしていた時、なお残っていた強力な民のことが語られていく。イスラエルとしては、勢力を誇示しつつ、積極的な友好関係を築いたつもりだったようだ。でも彼らの側からすればイスラエルは単なる邪魔者であり、可能であれば力で排除して当然。諸民族の都合次第ではいつでも攻めてくる。真の融和と、外面的な友好とは全く別のものである。もし、共に神を求めていくならば、それは民族や歴史、習慣の違いなどがあっても前に進み得る。だが、神のことを棚上げにしていては、神の民自身のあり方が瓦解していくのだ。

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士師記 2:20-23

 もともとはイスラエルが追い払わなかった人々だ。彼らの存在がイスラエルを混乱させるのだと知りつつも、それでも神は残すのだと語られる。神などいなくても自分たちで精一杯しっかりと生きていけるのだ、という思いを抱いている人々の自信と高慢は、あっさりと打ち砕かれていく。神がこんなふうにして悪につながりかねない種をあえて残されることはまずない。試みに遭わせないで、が神の基本的な姿勢だ。それほどに、イスラエルという特別な使命を与えられていたはずの民の心が衰退してしまっている姿は、この世界に最悪の推移であるのだ。これらの処置は神ご自身の嘆きである。神が泣いておられる、と称するべきだろう。

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士師記 2:11-19

 この悪循環が繰り返されていく。民が背き、神の助けが失われ、民は他国に苦しめられてうめき、神はあわれんで助けを与え、さばきつかさは必死になって民を守り、信仰を下支えしようとし、でも民の現実は相変わらずで、だから、さばきつかさが死ぬと事態はさらに悪化する。神は民の苦悩を見てあわれまれるが、その先は同じことの繰り返しとなっていく。これはまさに悲劇であり、罪のもたらす惨劇である。

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