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2015年4月

ヘブル書 2:3-4

 福音がどのようにして人々のもとに届けられたのか、その内容は福音書や使徒の働きに詳しく書き記されている通りで、ここでは簡潔に語られている。まず主ご自身によって、それからそばで見ていた弟子たちの証言によって、それを聞いた人々がまた別の人にも伝えること、それが単なる人間の業ではなく神ご自身の御業であることが奇跡の類によって示されていく。いわゆる奇跡に限らずとも、人々が罪の背景を離れて歩み出すならば、そういう姿、人々の変化は、きっと多くの人にこの福音の真実さについて、考え始めるものなのであろう。こういう前進は、大昔だけのことではなく、今現在もまた進められているものであることを、私たちは回りでいくらでも見ることができる。何よりの励ましであろう。

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ヘブル書 2:1-4

 この書は弾圧の中で苦悩していた人々に向けた呼びかけであるが、だからこそ、ここに真に頼りになるものがあることを知ってもらわねば、という熱い思いが見える。もし、解決策がないのなら、慰めに徹し、その痛みを少しでも軽減すべく担い合うことが重視される。でも、ちゃんと解決策があるのだとしたら、慰めの言葉の軸になるのは、その答えを提示することにあるのは当然だ。だからこそ、その答えを見失って混迷している人々に、ヘブル書は強い言い方さえ用いて、何とかして真の安堵へ至ることができるようにと、必死なのである。ここにあるのはとても厳しい言葉だけれど、それほどに真実は確か、なのだ。

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ヘブル書 1:14

 この指摘を見ると、この時代にも天使に対する過度の意識が広がっていたのだろうな、ということが推測される。たしかに天使は輝ける印象が強いし、目に見えない神様と違って、人の目に見える機会は聖書にも多く記されている。神への恐れに比べて天使のほうが取っつきやすいということもあるだろうか。でも、天使はあくまでも「仕える霊」であり、礼拝の対象でも信従の対象でもない。悪意のない天使にすら惑わされることを思うと(人間が勝手に惑っているのだが)、それこそ悪魔や様々な悪意あるものにあっけなく惑わされるという現実は当然でもある。それが人の抱えている弱さだと自覚して、よくよく警戒する必要があるのだ。

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ヘブル書 1:10-14

 御子については、この方が天地創造の主権者であることが告げられている。詳しい中身は三位一体に関わることで今は割愛するけれど、父なる神を礼拝するならば御子キリストもまた同様に扱われるべき方、そのように提示されている。だとしたら、この方の言葉や行動に意義があり、権威があるのは当然だ。天使がどれほど素敵でも、比較にならないとはこのことである。御子については、世界の始まる前からの存在、ということが触れられている。そのように比較にならないほどの違いがある。そのような方が人に語りかけ、約束を与え、そして行動を起こしてくださったのだから、この方の指し示す福音は何よりも意義深いものであるはず、ということだ。

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ヘブル書 1:6-9

 御子と天使の違いは、天使は御子を拝むという関係なのだから、それだけでも十分に明らかである。天使は確かに高い能力と性質を持っているが、あくまでも仕える者なのだ。御子は8-9節にあるように世界を支配する権限を持っている方である。私たちはこの方を「主」と呼ぶのだが、それは単に私にとって素晴らしいお方、という意味だけではなく、もっと一般的に、この世界全体にとっての「主」であることを、少なくともクリスチャンたちはちゃんと意識しておきたい。神の教えはしばしば、そういう立ち位置を前提として語られているものなのだから。

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ヘブル書 1:4-5

 天使と御子との違いは、その呼び名の通りであるが、キリストは神の御子であるということが最も大きい。父なる神はキリストに対して「わたしの子」と呼ぶのだ。これはマタイ3:17などのキリストのバプテスマの場面をも思い出させるが、旧約では詩篇2:7が元になっている。ヘブル人の意識では、神と人とは決して同類にはなり得ないわけで、そこでこのような呼びかけがあることは重大な意味合いとなる。だから天使などとは比較にならない存在、ということである。それにしても、キリストは偉大な人間に過ぎず、神の御子ではないと主張する人々もあるけれど、聖書の教えを大事に受け止めようとするならば、その主張は何とも奇妙な話だ。それが成り立つならばヘブル書は冒頭から瓦解する。

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ヘブル書 1:4-14

 次に、イエス・キリストと天使とを比較している。それは当時の読者にとって、天使という存在は実に意義深いものとして受け止められていたからだろう。人々は天使の言葉には耳を傾け、大事なものとして尊重する。少々の困難があっても天使が語ってくれるならば乗り越えていける。そんな感じだ。だとしたら、天使よりもはるかにまさる方であるキリストの言葉は、人々にとって大事な、そして力強い基盤になっていくはずだとの語りである。その意味合いを少し詳しく見ていこう。

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ヘブル書 1:2-3

 その御子がどのような方であるかを、まずはその偉大さ、栄光の面から語っている。圧縮された言葉によって、キリストの神性から贖いの御業までが一気に語られている。むろん、読者はそれぞれの意味合いを知っているという前提だからで、項目を挙げることで思い出させようとする意図である。これほどまでに偉大な方が告げられた福音を、たとえ状況が厳しいとしても、それで手放してしまって良いのか。いや、人々のあざける声に惑わされて、福音そのものを意味なしとして捨ててしまって良いのか、という問いかけにつながる。人は弱いから、強いられて、恐れから捨ててしまうことはあるかもしれない。でも、御子の価値そのものに気づかないままに投げ捨ててしまうなど、そんな愚かで悲しいことがあってはならないのだ、という思いが強く示されている。

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ヘブル書 1:1-2

 この1章は、御子キリストという存在がどれほど特別なものであるかを語っている。この冒頭部分では旧約の預言者と比較している。ヘブル人の間では預言者は尊ばれ、彼らの言葉は貴重なものとして受け止められていた。だとすれば、なのである。それなら、今ここに、自分たちの目の前におられるのは神の御子であり、その方が語られている言葉の意義と価値は、預言者たちのものをはるかに上回るものではないか。そのように呼びかけて、読者がキリストの言葉、つまりは福音に対して全幅の信頼と期待を抱き続けるようにとの勧めが告げられているのだ。この背景には弾圧が厳しくなっていたことがある。周囲からはキリスト教など無意味だとの攻撃があり、信者たちも揺れ動いていた。だからこそ、あの預言者らに勝る方の言葉、であることが指し示されている。使徒4:19も参照したい。

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ヘブル書 1:1-2

 この書は冒頭部分が保存されなかったと理解されている。挨拶や自己紹介、宛先などがないのだ。そして突然、話は本論に入っている。研究のためには惜しいことだが、聖書としての内容からすると、そんなことが全く気にならないほど、ここから先の話は力強く語られている。旧約とのつながりがたくさん出てくるが、そのあたりもできるだけ解説を加えつつ、読み進めていくつもりだ。

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ヘブル書 1:1-2

 今日からヘブル人への手紙を読み進める。そういう名前で呼ばれているけれど、この書自体には「ヘブル人」という呼び方が出てくるわけではない。新約で見られるのはパウロが自分のことを「ヘブル人」と称している箇所くらいで、大半はイスラエル人、あるいはユダヤ人と呼ぶ。もっともヘブルという呼称は古代からのもので、考古学的遺跡からも発見されているようだ。そんなはるか昔からの系譜を意識しつつ、パウロはヘブル人という言い方を使ったのかもしれない。そんな思いを受け継いだのか、この書はヘブル人への手紙と呼ばれるようになった。内容的に、神との長い歴史を持つ民を意識して書かれているのは確かなことだからだ。ちなみに著者は不明だ。ずっと昔はパウロだと思われていたけれど、文体その他からかなり無理がある。バルナバかもしれないという説もあり、単なる憶測で明確な根拠はないけれど、否定すべき理由も見当たらないということで、パルナバのような立場の人、というのが一般的な受け止め方だ。ともかく、旧約の話とも結びつけながら、この書は話を展開していく。それはイエスご自身が語られたやり方でもある。

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ルツ記終了

 短い書でしたから、一ヶ月ほどで読み終えました。ここに記されている素朴な中にも心豊かな歩みが、もっとこの世界に広がることを願いたいものです。さて、次回は新約に戻り、今度はヘブル人への手紙を読んでみようかと思います。旧約律法との関連も深い書ですが、福音の核心部分を語る大切な箇所の一つです。4/20からの再開といたします。

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ルツ記 4:18-22

 ユダの家系図が記されている。ペレツの父がユダであるが、これが全員を記したものかどうかはわかり得ない。それにしても、士師記と同じ時代、混乱していた時代に、このような良き出来事があるというのは、実に驚くべきことでもある。ただ、そこに見られる違いは、ルツ記の人々は、落ち穂拾いや買い戻しの権利のように、律法が定めた互いを支えるための仕組みをちゃんと受け継いでいたことがある。士師記は人が自分の思うとおりに生きていたことを告げていたが、ここの人々は完全ではないけれども、神の教えに基づいて生きようとして、それを社会の制度として大事にしていた。こういう姿勢こそが、混迷する世界の中でとても大きな礎となり得る。仕組みや制度をないがしろにしてはいけない。それは人を守り、社会を守る力にもなり得るのだ。マタイ5:18-19を読み直しておきたい。

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ルツ記 4:17

 ここにダビデの名前がある。古代イスラエル最大の王である。ルツはダビデの曾祖母に当たる。モアブ人である彼女が、イスラエルの王の曾祖母であるのだ。ルツ記はそれを決してマイナスには語っていない。民族が何であれ、神のもとに生き、神を慕い求め、神によって祝福されている人々は、確かに良きものを生み出していくのだという、ルツの存在はそういう印でもある。ヨハネ1:13の言葉もまた、合わせて読んでおきたい。

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ルツ記 4:13-17

 ボアズとルツの結婚がなり、二人には子どもが生まれた。ルツは亡くなった前の夫、ナオミの息子との間には子がいなかったが、今度は息子を抱くことになったのだ。人々はルツ以上にナオミの幸いを喜んでいる。彼女は全てを失ったのだが(1:20-21)、再びその幸いを手にしたのだ。孫の存在以上に、ルツの存在こそが幸いであったと語る言葉は、この出来事の全体を確かに物語るものになっている。あの日、ルツがナオミと共に行くと語ったそのことが、大きな幸いの糸口であったのだ。人の世界に多くの混乱があり、また悲劇もある。だが、もしも人々が神に寄り頼みつつ、互いに支え合って生きようとするなら、そこにはきっと良き道が開かれていく。ルツ記はそのことを語り告げている。

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ルツ記 4:11-12

 人々はボアズとルツの結婚を祝福してくれている。そこで出てきている女性たちの名前は、ちょっと特色のあるものだけれど、ベツレヘムという場所との関わりと考えれば、ごく当たり前の祝福と見ることもできる。なお、ラケルとレアはヤコブの妻たちで、イスラエル12部族を生んだ人々だ。そういう意味ではすばらしい存在とも言えるが、創世記は彼女たちの様子を必ずしも好意的には書いていない。タマルは本来、ユダ(ユダ部族の始まり)の息子の嫁であるが、夫が早世して、いろいろあって、結局、一つ世代をさかのぼって、ユダとの間に子を宿した人で、それが正統な家系になっている。それぞれの状況を良いとは言えないが、でも、そうやっていろいろある者たちを、それでも神は導いてくださり、その先に祝福を用意してくださるという実例でもある。タマルはマタイ1:3で救い主の系図にも載っている。

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ルツ記 4:7-12

 ボアズとしては大喜びである。これで権利上の障害はなくなった。ボアズとしてはルツと結婚し、両家を一つにしていくことを、何よりの幸いと考えたのだ。それはもう一人の親戚とは違い、ボアズの側に一族の問題がなかったからかもしれない。また、ボアズ自身の心持ちが、自分の名がどうかということよりも、ナオミとルツの幸いと、そして生まれてくる子にとっての幸いを大切に思うものがあったからでもあろう。家系図的にはボアズの家が残るのであるが、実質的にはまさに両家の合体である。

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ルツ記 4:4-6

 この人は積極的な返事をした。ナオミたちのことを助けたいという思いもあっただろうが、自分にも経済的な得があると判断したからだ。ただ、この制度はもともと、本来の家の復興を助けるためのものだ。ゆえに、未亡人と結婚し、そこに子どもが生まれたら、その子に元の家を継がせていくことになる。細かい仕組みは聖書には記されていないが、いわば、両家が合体するというイメージか。それでこの人はためらった。自分だけでなく、他の親族とか兄弟とかのことも考えたのだろう。ナオミの土地をもらい受けて、その分、彼女たちの暮らしの面倒を見るくらいは快く受け止めるつもりだったが、子孫の行く末も左右されるのには困惑したのだ。この制度は強制ではないので、本人が難色を示せばそれだけのことである。(ナオミの土地を買った人、今回は売り渡すことになる人には拒否権はない。)

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ルツ記 4:3-6

 ボアズとしては、自分がナオミ一家の世話をしたいと考えているのだが、優先権が他の人にある以上は、それをごまかしたりはしていない。それは、事が単にルツとの結婚ということだけではなく、買い戻しの権利が関わっているからだ。買い戻しの権利とは、誰かが自分の土地を売り払った場合、本人や近い親戚には、それを優先的に買い戻す権利があるという制度で(金額的にも一般の売買より有利になる)、家が没落して路頭に迷うことを防ぎ、また、せめて一族の中に土地を留めさせることで社会が混乱することを防ぐ仕組みである。だから、経済的に余裕さえあれば、親族としてはその権利を行使したいと願うのは当然だ。

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ルツ記 4:1-6

 当時の社会制度がよく見える場面だ。大事な交渉をする際に、町の広場が用いられている。門のあたりは人通りも多く、公明正大に行うのには適している。隠れたところで行うのは、何か人に知られたくないことをする場合だ。誰かの過ちを忠告してあげるような時は、その人のために二人だけで話すとしても、ほとんどの場合は公にしているのがふさわしい。また、長老たちに同席してもらっているのも、事を正式なものとするためだ。ボアズはルツたちとのことを、しっかり責任をもって対処しようとしている。事は決して個人的な話で済ませられるものではなく、また、一時的な同情心だけの話でもないのだ。こういう姿勢が価値あるものを生み出していく。

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