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2015年5月

ヘブル書 4:4

 この言葉だけ、ちょっとコメントしておきたい。世界の創造は確かに6日間で完了しているが、それは決して、以降は神がこの世界から手を引いたとか、何もなさらなくなったという意味ではない。始まりの段階としては十二分なことがなされてあって、決して中途半端とか不良品が出荷されたようなことではない。でも、事は単なる製品ではなく、この世界であり、人々が生きていくことであるから、それを作り上げていく業は、ずっと、どこまでも続いているのでもある。聖書はよく「主は生きておられる」という言い回しを使うが、今も、後も、生きて働いてくださっている神がおられることこそ、私たちの希望であり、土台でもある。

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ヘブル書 4:3-6

 もう少し解説を加えた方が分かりやすいと思うので、細かい話をいくつか。3節の「みわざは創世の初めから終わっている」は、過去の話という意味ではなく、神はすべてをお見通しで、初めからしっかり整えている、という趣旨。だから、旧約の人々だけでなく、今の信仰者(ユダヤ人・異邦人双方のクリスチャン共に)のことも神はもともと考えて準備されているから安心、ということ。4節も神はすべてを掌握されていることを示すもので(七日目に休んだということは創造の御業は完成したということだから)、それに加えて、七日目の安息と、イスラエル人に約束されたカナンの地と、そしてキリストによる救いという安息が重ねられて、ほら、大丈夫でしょう、と呼びかけられている。

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ヘブル書 4:3-6

 言葉というものは万人共通であると共に、限定された性質も持つのだと、こういう箇所を読むと改めて思う。この論理がすんなり来る人と、ぎごちなく感じる人があるのは仕方がない。それで、何が告げられているのかであるが、ヘブル書読者を圧迫していたのは福音に反対するユダヤ人勢力であることが鍵となる。ユダヤ人の中では大勢を占めており、「我々のほうが正しいのだ、クリスチャンは間違っている」と聖書(旧約)をかざしつつ論破しようとする彼らに、ヘブル人(ユダヤ人)クリスチャンたちは心が揺らぎかけている。もはや自分たちには神の祝福は届かないのだろうか、と。それでヘブル書は言うのだ。「とんでもない、ユダヤ人がこれまでも受け取り損ねていることは旧約が語る通り。だとしたら、神の祝福はしっかり残っている。今、私たち神を慕い求める者たち(クリスチャン)は、この祝福を受け取っていくべきだし、それができるのだ」と。

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すみません

 うっかり、書きためを切らしてしまいました。掲載を予約できるのですが(こういうのには便利)、しくじりの原因でもあり。今日の分から載せていきます。

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ヘブル書 4:2

 神の約束はちゃんと目の前に指し示されている。でも、それにどう応ずるかは人によって違う。せっかく語られていても、それを無視したり、信頼せず、投げ捨ててしまうとすれば、そこには何の良いことも実現していかない。益になるかどうかは、人々次第であるのだ。例えばである。困窮している時に、友人が「使ってくれ」と言って、分厚い封筒を差し出す。でも、そんなことはあるはずがないと言って、中身も見ないでゴミ箱に投げ込んだら、せっかくの好意は何の役にも立たないのだ。神の声を聞け、その約束と励ましを聞け、という切実な訴えなのだ。

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ヘブル書 4:1-2

 1節は、かつての祝福が余っているから、という話のようにして語られているが、すぐにそれは、かつての人々と今の自分たちとの類似性という話に進んでいる。彼らは神の約束を提示され、今の自分たちも神の約束を提示されている。それにどう応ずるのか、喜んで受け取って進むのか、それとも神など信頼できないと周囲を恐れて尻込みするのか。自分たちもまた、分岐点で問われているのだと、そう呼びかけられている。この分岐点は、いつの時代にも、そしてまた、日々の暮らしの中においても、何度も指し示されていることを覚えておきたい。

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ヘブル書 4:1

 民数記14章の時代に、イスラエルの民は神の約束して下さった祝福を自ら拒み、結果、40年の放浪となり、その時の大人たちは荒野で生涯を終えることになって、せっかく用意されていた安息を逃してしまった。ということは、彼らのために用意されていた安息はそのまま残っているぞ、という話である。歴史として言えば、その後、彼らの子孫がその安息を継承して手に入れていった(カナンの地に入った)のだから、その安息が宙に浮いているわけではないと現代の感覚では思うだろう。でも、このあたりの論理は当時の理解に基づいて展開されているわけで、人々はこの指摘を聞いて、素晴らしい安息が用意されているのを今度こそ逃してはなるまいぞ、というふうに受け取ったのだ。そういう動機付け、勇気づけが、ここでは最も重視されている。それに、神が後の時代の人々のためにも安息を用意しておられるのは事実だから、決してだましているわけではない。

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ヘブル書 4:1

 4章前半は、ちょっとわかりにくいだろうと思う。この書の目的が、迫害の中で弱り、信仰を生き続けることに不安を覚え始めている人々への励ましであることを思い起こし、そのための語りかけであることを意識して読み進むのが良い。そうすれば、表面的な言葉だけでなく、そこに込められている意図が見えてくるはずだ。神が人に与えられた神の言葉は、教科書でも、百科事典でもなく、その場その場の必要に応ずるものとして書かれた書物であるのだから。

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ヘブル書 3:15

 この呼びかけは印象深い。もし御声を聞くならば、である。神が何も約束してくださっていないのなら、不安になり、戸惑い、尻込みするのも仕方がない。人には大きな力はないからだ。でも、信頼できる神がはっきり約束してくださっているのなら、話は一変する。この違いが人の歩みを全く別のものにすることになる。だから、人は御言葉を慕い求めるべきであるのだし(詩篇119)、また、その呼びかけに応答していくことが欠かせない。この信仰は、人の決意や信念の力でどうこうなるものではなく、ひたすら、神に始まる祝福の約束の中にあるものなのだから。

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ヘブル書 3:12-19

 故事を引き、その事例を示しつつ、人々にしつかり立ち続けることが呼びかけられている。かつてのイスラエルは、神への信頼を手放したことで、せっかく約束されていた幸いを失ってしまった。今もしも、この厳しさの中でキリストへの信頼を諦めてしまったら、自分たちがあれだけ大切に追い求めてきた幸いを失ってしまうことになる。確かに、目の前の事態はつらいのだが、でも、本当にそれを失ってしまっても良いのかと問いかける言葉は、人々を案ずる思いに満たされている。励ましのためには、慰めも必要であるけれど、同時に、事実をしっかり見つめていくことも大切であると言える。

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ヘブル書 3:7-11

 これは詩篇95の引用だが、モーセ時代の出来事がもとにある。一つには、荒野で水がないと騒いだ民のことがあり、神を信頼しない姿が問われている。それともう一つ、約束の地を前に尻込みした民の姿も40年という数字の中に込められている。あれもまた、神が与えてくださると言っているのに、自分たちには無理だといって震え上がっている、まさに不信仰の姿であった。再び同じことになるな、という警告としてこの詩篇が引用されている。ということは、厳しさの中で戸惑い、ためらっている人々に対して、何を恐れる必要があるのか、と呼びかける意味になっている。けっこう励まされ、慰められる言葉でもあると、そう思う。

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ヘブル書 3:1-6

 あるいは、このような説明の仕方について、それほどすっきりと聞こえてこないという人もあるかもしれない。この論理はヘブル人が大事にしていたことを引き合いに出しつつ、キリストの優位性を語るものだから、大事にしているものが違えば、その説明も異なっても不思議ではない。もっとも、ここにあることはヘブル人だけでなく、表面的な形を越えたところでは万人にも共通する思いであろうとは思うのだが。ともかく、キリストの確かさを明確に示したいという語りの中には、この方の本質が見え隠れしているので、ぜひ、よく確かめていただきたいものである。

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ヘブル書 3:6

 モーセの教えは神殿など、ユダヤの宗教的基盤を整える大事な意義があった。でもここには、人が御子を信頼してついていくならば、私たち自身こそが神の家となるのだと語られている。神殿との役割比較の話をしているのではなくて、神がどれだけ大事に思い、心を注いで関わってくださるのか、という観点だ。ヘブル人にとって神殿は絶対的な意味があるが、神を慕い求める者たちに向けられる神の愛はさらに確かなものとなっているならば、たとえ目の前には厳しさがあろうとも、ここでくじけてはいられないのだという思いを人々に届けることになる。

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ヘブル書 3:2-6

 この比較は、モーセが神の家を整える使命を果たしていたという基本的な理解があってのものと言える。モーセを通して神が与えられた律法は、人が神にあって生きていく上での価値ある礎であり、とりわけヘブル人にとっては絶対視すらされていたものだ。著者はそれを受け止めつつ、でもキリストはその家を建てた神の御心に沿って事をなしておられるのだと語っている。どちらが重要かは明らか、である。イエスご自身も、これに似た形で律法を越えたご自身の意義を語られていたことを思う。だからこそ、当時のユダヤ人がこだわっていた律法の形の上での定めよりも、その命令を与えた神ご自身の意図に基づいた道筋を示されたイエスであったのだ。ともかくここでは律法の是非を議論する話ではなく、偉大なモーセの功績よりもはるかに素晴らしいキリストの御業が指し示されているのだ。期待が高まっていくような感覚である。

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ヘブル書 3:1-6

 この書の読者は、苦闘する中で、このままキリストに頼って歩んでいって良いのかどうか、という戸惑いと不安を抱え始めている人々だ。それゆえに、キリストの信頼性がはっきり指し示されていく。その根拠が1-2章で語られてきたことを踏まえて、イエスに頼り続けよ、と呼びかけられているのだ。同時に、モーセとの比較が語られていく。ヘブル人にとってモーセの存在はとても大事なものであり、彼を通して語られた神の存在は信仰の基盤でもあったので、そのモーセ以上に確かな方、ということで、力強く呼びかけられているのだ。

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ヘブル書 2:18

 キリストが試みを受けて苦しんだ、ということの意味は、ちょっと立ち止まって考えておく価値がある。神の御子としては、罪を犯すことはありない。でも御子は人としてこの世に来られたから、様々なところで人としての限界を体験されている。まずは物的に、肉体故の制約があり、疲れや空腹もある。疲労感もあるわけで、とすれば、風邪を引いたこともあるはずだ。御子はスーパーマンのような身体を持っていたわけではない。それらのことは、意図する業をなしえないという制約をもたらす。人はそこでつい、多少の悪をしてでもという思いを抱きやすいのだが、それに類するものとしては荒野での誘惑がある。初めから悪に立つようなあり方は御子にはつながるはずもないが、良く生きようとして、それが転落の鍵になるという人の現実を、御子は現場でそのぎりぎりを見ておられるのだ。この試みを、十字架として考えることもできるが、人間はあれほどの厳しさに直面することはないし、また御子はあの時、決して悪に誘惑されそうではなかったので、それとは別の事柄だと考えた方がふさわしいだろう。

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ヘブル書 2:17-18

 救い主が人と同じになられたのは、この救いを確かなものとして実現するために、単なる赦免ではなく贖いを実現させるため、というのが、この箇所を見ているとよく分かる。けれど、それと同時に神は、罪深く、弱いものに過ぎない人間たちの歩みにとって、何よりの励ましであり支えであることをも実現された。つまり、人と同じように試みにあわれた方としての救い主であり、ゆえに「同情」(4:15)してくださる方であるということだ。人の抱える課題をご存じであるからこそ、それをどのようにして乗り越えさせ得るかということも、よくよくおわかりということで、まさに信頼できる救い主である。論理的には、天におられる方であるだけでもそれは可能なのだが(全知全能の方だから)、神はそうやって自ら体験されたのだし、私たち野川としてはそれを見て、なお勇気が湧くというものである。この諸全体の軸が、迫害の中で弱っている人々への励ましであることを思い出そう。

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ヘブル書 2:14

 その死によって悪魔を滅ぼす、という説明は、不思議に思う人もあるだろう。十字架の後でも悪魔は活動しているし、その悪影響は続いている。物理的(?)に言えば滅んではいない。だが、人のための贖いが実現したということは、悪魔がこの世界を掌握できる決定的な基盤が失われたということであり、悪魔の業は決定的な意味は持ち得なくなったのだ、という意味にもなる。ローマ書でパウロが語ったように、人はもはや自由なのだ、と言われていることは、相変わらず混迷している世界の中でそれでも必死に誠実に生きていこうとするための欠かすことのできない基盤であるのだから。

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ヘブル書 2:14-15

 人になった理由のさらに踏み込んだ説明がなされている。人は罪によって死に至るべき存在であり、また、そういう人間は悪魔の支配下に身を置いてしまっている。これを徹底的に解決するためには、神が上からの強制力で人を救い出すだけでなく、救い主が人の代表として(ということは人の一員になる必要があるのだが)この事態に取り組んでいくことが欠かせなかった、という説明である。単に赦しを与えるというだけでなく、この事態を全面的に解決することが、罰しないだけでなく、命を与えることを意図された神の御業に合致するからだ。

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ヘブル書 2:14-18

 人を助けるために来られた救い主であるからこそ(天使を助けるためではない)、この方は人としてこの世に生まれたのだと告げられている。神の子である救い主がなぜ人になる必要があったのかは、遠くにいる超越的な神の助けということだけで考えると、疑問が生じても不思議ではないことだ。本来、神が人になるというのはあまりにも異質なことであるのだから。でも、ここまで見てきたように、救い主である方は人に対して強い思いを抱いておられるわけで、それが単に思いだけでなく行動としてもなされていったのだということを、ヘブル書は語っている。ちなみに、もしもイエスが、もともと人に過ぎなかったものが神になった、という話だったら、こういう疑問も生じないし、またこういう説明の仕方も全くあり得ないことである。下から上へではなく、上から下へ、が救い主の意味合いなのだ。

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ヘブル書 2:13

 もう一つ、人という存在について、御子は父なる神からこれらの人々を与えられているのだということが書かれている。これは同じ所に立つ、という趣旨からは少し離れるかもしれないが、御子が人々の救いに関して全力で臨まれることを知る上では大事な言葉だ。人々のことは御子にとって他人事ではなく、ご自身の御手の中にある大切なものに関わること。うまくいかなくて残念、などと悠長な言葉は決して出てこない。血を吐くような必死さであるということだ。

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ヘブル書 2:12-13

 次に、御子は父なる神を賛美するのだという言葉があり、また、御子は父なる神を信頼するのだという言葉がある。賛美とは人が神に対してなすものだ。信頼という言葉も、言い換えれば信仰することである。つまり、御子は人と同じ所に立ち、人と一緒になって神を崇めるようになさっている、というのである。キリストの生涯を見ると、確かにそういう様子があちこちにある。人と同じところに立つのだから、礼拝される側である御子が、礼拝する側に立たれたということである。とすれば、人が神を礼拝するに際して思う様々な屈折なども、御子は十分に承知されるということでもある。

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ヘブル書 2:11-12

 同じ、ということがいくつかの言葉で表現されている。まず、兄弟、である。神と人とは違うのであり、同等であるはずがない。でも、救い主は人々のことを我が兄弟と呼ばれる。人の世界には義兄弟というものがあるが、生まれながらの兄弟以上に、深い思いをもってその相手を顧みて、そのために犠牲を払い、必死になって助け出すこともする。偉大なる神である方が、私たちの兄弟になってくださった。それはこの救いが間違いなく、御子ご自身のすべてかけて達成されるものであることを確信させてくれるものだ。

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ヘブル書 2:11

 同じ所に立つ、ということを語るに際して、まずは、元は一つ、という言葉が使われている。これは決してアニミズムとか、神を人の延長と考えるものではない。むしろ、人が神によって造り出されたものであり、全く別のところからポッと出てきて、それから神と出会ったようなものではない、ということを意識させるものだ。神にとって人は、たまたま関心を持った相手ではないし、あってもなくても良い存在でもなく、切実に思いを傾けられる、神のかたちに造った存在、であるのだ。神と人とは、客観的に言えば全く別だ。でも、神の御心としては、こういう言い方は不適切かもしれないが、でも、一蓮托生を意図されるほどのものなのだ。

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ヘブル書 2:10-18

 人々を救うためには救い主は苦しみを受ける必要がある。その理由はいくつかあるのだが、ここでは同じ所に立つことが大切であったから、という点が強調されている。もともと聖書に出てくる手紙は、あるテーマについて全てを解説するようには語られていないので、他の意味合いは他の箇所で知れば良いのだ。ヘブル書ではここまで救い主が偉大な方であることを強調してきたから、その方が人と同じ所に立たれるという点に注目して、倒れそうになっている人々を支え励ましてくださる方ということを語り示している。そう、今この読者たちは励ましを必要としている。

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ヘブル書 2:9

 偉大な存在のことを語る話は世の中にいくらでもある。また、徹底的に自らを低くして他の者に仕え尽くした人々の話も、数は少ないとしても、世の中にはある。でも、その両面を提示する存在は、キリスト以外にはまず見たことがない。そこが聖書の語る救いの不思議であり、また、キリストという良き知らせの持つ重要な礎であるのだ。私たちはキリストについて考えようとするならば、この両面を強く意識する必要がある。

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ヘブル書 2:9-10

 それでキリストについての何が語られているのかと言えば、偉大なる神の御子である方が、けれど、一時的にとは言え、御使いよりも低くされ、それどころから人の世界でも虐げられ、死にまでも至られた。ピリピ2章にあるのと同様のことが、ここでも取り扱われている。つまりここでは、キリストが本来としては偉大な方であること、御使いよりもずっと素晴らしい方であることと、その方がたどられた贖いの御業と、両面が語られているわけである。

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ヘブル書 2:9

 この引用と詩篇8篇とには大きな違いがある。それは神よりも低いものなのか、御使いよりも低いものなのか、である。ヘブル語では神だが、七十人訳は御使いとなっている。むろん旧約本体としてはヘブル語でよいのだが。新約が書かれた当時の人々が、聖書のすべてを理解していたと考える必要はない。彼らも人間であり、時に思い込みもある。だが、神はそこを適確に導いてくださって、彼らの抱える限界が、神の言葉が人類に届けられるに際しての欠陥にはならないようにしてくださっている。この箇所にしても、キリストの存在を語ろうとするもともとの趣旨からすれば、七十人訳に出てくる言葉を引用したことは、何も弊害となってはおらず、むしろ、ヘブル人にとっては分かりやすい提示となっている。絶妙、である。

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ヘブル書 2:6-7

 せっかくなので、もう少し解説しておこう。旧約の引用にはいくつかのパターンがある。そのままずばり、旧約で預言されていることが新約で実現していることを示すための引用が一つ。旧約時代においても一応の実現があり、ただ、その預言の重みからするとちょっと軽すぎて、もっと大きなことが後に到来するのではと考えられるようなものの実現が一つ。それから、旧約としてはそれで達成されているけれど、同様の趣旨でまた新たに事が起こっている場合のもの。さらに、旧約の意味合いとは異なるのだけれど、新約の出来事や教えを説明するのにちょうどよい、いわば例話のような趣旨で用いられているという場合もある。頭の柔らかい当時の人々は(現代人への皮肉としての表現だが)、そのあたりの違いをすんなりと理解していたのだろうな、と思う。こういう食い違いはおかしい、とあげつらい、聖書には間違いがあると声高に語るのは、彼らには奇妙なものに見えるだろうが。

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ヘブル書 2:6-9

 この箇所の理解は、少々、留意が必要だ。この引用は詩篇8篇からのものだが、そこに書かれている意味合いは、神がこんなつたない人間たちを顧みて下さっているという、そのあわれみと祝福に対する感謝と喜びである。だからこそ、人は神の恵みを崇めて、主の御業をほめたたえるべき、という趣旨にもなる。だから当然そこで語られているのは人間全体のことだ。それをヘブル書では転用して、キリストという特別な存在を語るための材料として用いている。引用というものは厳密であるべき、という現代の感覚からすると戸惑うだろうが、新約聖書に出てくる引用を見ていると、そういう扱い方も当時の人々の感覚としては、ごく自然なことであったのだな、ということが見てとれる。だから、この箇所をもとにして、本来の詩篇8篇の意味合いを取り替える必要はない。あっちはあっち、であってよい。

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ヘブル書 2:5-9

 救い主である御子のことが続けて紹介されている。信頼して、期待して良い方がおられるのだ、と告げるためのものだ。まず述べられているのは、この方は世の全てを支配されている方だ、ということである。御使いではなくこの救い主こそ、である。それはつまり、御使いに期待するよりもはるかに素晴らしい道筋が、この方のもとには広がっている、ということである。私たちの救い主が神の御子であることは重要だ。さもなければ、つまりは、そこそこ程度の力しか持っていないのだとしたら、その方に頼ってみてもうまくいかないかもしれず、ということになってしまう。弱さが悪いわけではない。でも、救い主に関しては、絶対的な確かさがなければ意味がない。大丈夫、安心してよい、と告げられているのだ。

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