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2016年5月

第二サムエル 3:22-30

 アブネルの誤算は、ヨアブが自分を恨んでいることを軽視していたことか。アブネルの姿勢もどうかとは思う。まるでイスラエル全体は自分の考え次第であるかのような、ダビデに恩を売るような態度は決して好ましいものではない。サウル王家はサウルのゆえに存在していたのであって、アブネルの功績ではない。でも、結局の所、そういう国全体のどうこうではなくて、弟を殺されたことの怒りのゆえに、アブネルの構想は崩れていった。こういう決着そのものが決して望ましいものではないのだが、でも、人の世、人のなすことはこのようにして、本質とは別のところで大きく動いていくことになるのは、確かにしばしば見られる現実でもある。今もなお、士師記21:25の言葉は続いているようにも思う。

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第二サムエル 3:17-21

 全イスラエル(ユダ以外)がダビデを王にと願っていた(17)のかどうかは疑問があるが、アブネルとしては人々を説得し、平和的な融合を求めるという意味で、こんな言い方を用いているのだとも言える。ベニヤミンはサウルの出身部族であり、士師記20章あたりのこともあるので、別格扱いでその意図が問われている。アブネルとしては上手に事を運び、国を内乱から回復させた功績と共にダビデのもとでも勢力を伸ばそうとしたのだろう。うまくいきそうではあった。それで平和になるなら大歓迎という人も多かっただろう。ダビデがその申し出受け取れようとしたのは、決しておかしなことではないと思われる。

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第二サムエル 3:12-16

 サウル王家を見限ったアブネルはダビデに乗り換えて自らの安泰を求めたようである。その画策は頓挫するのだが、ダビデが応じた理由は、これ以上イスラエルの中で戦いがあるべきではないとの思いからだったのではと推測する。元の妻ミカルを連れてくるようにとの指示は、勢力争いとしてだけでなく、国全体の安定と平穏を意識するようなものとも言えそうだ。つまり、力で物事を突破しようとするよりも、物事を本来のあり方に戻すことを意図している、そんな呼びかけにも見える。ミカルもすでに他の人と新たな家庭を築いていたので、それはそれで悲しい別れがあるのだが、争いの収束という方向性は、確かに見え始めている。

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第二サムエル 3:6-11

 アブネルとリツパの関係については、様々に考えることぱできる。すでにサウルはいないのだから、リツパも縛られてはいないのだ。もっとも、やはりアブネルの慢心の現れとして見ることもできる。イシュ・ボシェテはそのように思い、それで苦言を呈したのだろう。それに対するアブネルの反応は、真面目な恋を邪魔された怒りか、それとも権力的な観点からイシュ・ボシェテを見限ったか。人間ドラマとしては興味深いけれど、そういうどろどろの中に沈み込むようにして、サウルの家はますます没落していく。もともと神によって立てられた王家である。神によらずに立ち続けられるはずもないのだが、王家も、そして彼らを支持するイスラエル諸部族も、きちんと御心を尋ね求める様子はさっぱり見られない。

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第二サムエル 3:2-5

 これをどう読むか。ヘブロンに来て、ようやくダビデにも安住が与えられて、それで子どもたちが次々と与えられていった、そのように読めば「良かったね」という話である。たくさんの息子たちの名前も、ダビデ王家の発展のためには有益なことであって、これまた喜ばしいことである。ただ、この6人の息子たちは、すべて母親が違う。言い換えれば、ダビデにはこの時すでに6人の妻がいたということである。当時の社会はそれを否定してはいない。不道徳とも言っていない。でも、この状況が後に息子同士の殺し合いにつながることを、私たちは知っている。さほど問題にはされていない、としてもなお、もしそこに神の意図されるものとは別の道筋があるとすれば、それは大きな痛みにつながる可能性があることを、人は心に刻んでおくべきなのだろうと思う。

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第二サムエル 3:1-5

 戦いは、2:10からすると2年続いたようである。サウルを失い、ヨナタンもいないサウル家にはもはや可能性はない。王家と言っても、サウルが一代目に過ぎないのだ。ダビデが勢力を伸ばしたのは当然である。むしろ、それにもかかわらず2年も戦いが続いたことに戸惑いを覚える。ダビデは全イスラエルが期待を注いでいた人ではなかったということか。後の分裂はもともとの流れであったのかもしれない。もっとも、士師記に見られるあたりでは、決してユダ部族が他と諍いを起こしているという様子ではなかったのだが。この対立は、憎悪の類ではなくて、勢力争いの結果として、であることを思う。人の欲はこの世界を壊すのだ。

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第二サムエル 2:24-32

 イスラエル民族同士で戦い続ける愚かさが語られ、ヨアブもそれに同意している。まあ、勝てそうにないと悟ったからの言葉に過ぎないけれど、本来はこのことに人は早く気づくべきなのだ。30-31節にある数字からしても、ダビデ側の圧勝である。ただ、おそらく、戦いをやめた時点ではヨアブは弟アサエルの死を知らずにいたのではないか。30節で点呼してみて初めて気づいたのではと思う。後々、ヨアブはアブネルに対して、激しい憎悪を抱くようになるわけで、表面的に戦いは終結したとしても、物事はそれでは終わらないのだということを痛感する。

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第二サムエル 2:18-23

 ヨアブ、アビシャイ、アサエルはダビデの甥に当たる。もっともダビデは末息子であるので、ヨアブはダビデと同世代か、あるいは年長かもしれない。信頼関係と、そしてかなりの影響力を持っていたようだ。そんなわけで、サウル側の将軍アブネルとしても、アサエルを倒すことは面倒のもとだと理解していたのだが、足の速いアサエルを振り切ることはできず、結局、殺すことになっている。戦場ではごくありふれた出来事であろうが、こんふうにしてダビデの近親者もまた倒れている。むろん、ほかにも多くの人々であり、戦い、争いは世の常ながら、それはとても残酷で、痛ましいものであることを、聖書はしばしば書き記していることは覚えておきたい。

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第二サムエル 2:12-17

 サウル王家とダビデ王家の戦いが起こった。両者が立った以上は、こうなることは避けられない。人の思いは争いを巻き起こすことが多いのだと聖書は語り続けている。ここにあるのが小競り合いの始まりかどうかは不明だが、凄惨な状況となっている。相打ちであり、若者たちが倒れていく。本来、イスラエルの王権は力で奪い取るものではなく、神が付与されるものであるのに、人は戦うのである。ヘルカテ・ハツリムは刀の場所という意味のようだ。この犠牲を契機に戦いは一気に全面対決へと進んだ。サウル側は身内のベニヤミン部族が中心のようだが、ダビデと共に転戦し続けていた軍団の勇猛さには勝てなかったようだ。イスラエルの各部族全体は、イシュ・ボシェテを選びはしたけれど、事態を静観しているようだ。勝った方につけば良いということで、冷静であるし、国全体が内乱に陥るよりはましだけれど、無責任ではある。

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第二サムエル 2:8-11

 ユダ部族の画策は、縦坑する部族の反発を招いた。将軍アブネルの根回しにより、諸部族はイシュ・ボシェテを王に任ずる。ただし、彼にその資質があったわけではなく、傀儡的である。本来、イスラエルの王は神が定めるものであるのに、人々がその権限を乗っ取っているようなものだ。むろんダビデについてはすでに神の任命があるのだけれど、人々が各自勝手に動いたために、混乱が続いてしまった。士師記の反省は今もなお生かされていないのである。人の思いか、それとも神の御心か、この食い違いは人の世にはどこまでも続くのである。

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第二サムエル 2:4b-7

 ヤベシュ・ギルアデの人々への姿勢は、王として、サウルの後継者たる者としての対応と考えられる。こういう姿勢を示していれば、イスラエル全体の中での評価も高まるというものである。むろんここにはダビデ個人としての感銘も含まれているのは確かだろう。彼らの姿勢は1章の歌とも重なり合う。それでも、こういう行動が持つ政治的な意味合いというものをダビデが知らずにいたとは思えない。ダビデは神の前には幼子のようであるが、戦士として、あるいは豪傑としては、十分に政治的であり、画策も用いる人である。

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第二サムエル 2:1-4a

 サウルの死は、ダビデにとってペリシテにいる意味を解消した。再びイスラエルへと考えるのは自然な話だ。と同時に、身内のユダ部族を意図したのも当然で、これまでもユダとは縁を続けていたから(第一サムエル30:26-)、歓迎されることも十分に期待できた。ユダ部族が自分を王にすることまで予測していたかどうかは不明。ユダ側としては、イスラエル全体の王がいなくなり、部族としての勢力を押し上げたい意図は以前からであるので、独自の王をと考えたのは決して異質なことではない。ただそれがイスラエルを分断する火種になったことは考えさせられる。後に南北に別れることになる要因はここにもすでに示されている。自分たちにとって好都合な、決して悪いことではない行為が、でも、他の人々にとってはどうなのかという視点は、常に考えるべきことではある。

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第二サムエル 1:17-27

 サウルとヨナタンのためにダビデが作った哀悼の歌だ。詩人としても有名なダビデの、心が張り裂けるような叫びを思わせられる。サウルもヨナタンも、イスラエルのためにこれほどまでに尽くしたのだと語り、心から惜しみ続けている。この歌は、そのままダビデに跳ね返ってきていたことだろう。お前は何をしているのか、どこにいたのか、なぜ、サウルやヨナタンのそばにいなかったのか。むろん理由はある。ダビデのせいとは言えないかもしれない。でも、現実としては彼はそこにいなかった。イスラエルの民と共にはいなかった。誰もそのことを責めないけれど、ダビデ自身が自らを許せなく思っていたのではないのか。そんなことを思わせられる歌である。

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第二サムエル 1:11-12

 サウルはダビデにとって恐ろしい敵である。だが、それよりも彼らとしては、イスラエルの王であるサウルの死ということのほうが、はるかに重要だったのだ。これでダビデとしてはホッとする、などという感覚は、ダビデたちにとっては全く無縁のものだった模様である。こういう姿勢は、サウルという人が、信仰者としては様々な課題があったけれど、でも、イスラエルの世俗の王としては実によくやっていたということにも合致する。信仰は最も重要な視点であるが、だからといって、この世において誠実に仕事をするなどの姿についてもまた、それはそれとして十分に認めているのが、聖書の視点の一つでもあることは覚えておきたい。

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第二サムエル 1:5-16

 この知らせを持ってきたのはアマレク人である。今さっきまでダビデがアマレクと戦っていたことを彼は知らなかったのだろうが、皮肉なことである。しかも彼は、ダビデの気を引こうとして、嘘をついている。サウルは自刃したのであり、このアマレク人が手を下したわけではない。彼は近くで様子を見ていて、サウルから王冠を奪ったのであり、いわば略奪者である。彼が処刑されたのは、まさに自業自得である。それを厳しすぎると考えることは可能だけれど、この時点でのダビデがこういう処断をしたのは、少なくともダビデにおいては十分に理由のあること、正義に基づく対処であったのは明らかである。人は、自らの言葉に責任を持たねばならないのだ。

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第二サムエル 1:2-4

 ダビデは呆然としたことだろう。彼としては、イスラエル側にはさほどの損害はなく、自分が世話になっているアキシュ王も損害なく、くらいの思いではなかったか。まさかサウル王が戦死するとは考えもせず、だったろう。さらに親友ヨナタンの死も知らされて、愕然とするばかりであったはずだ。もっとも、客観的に考えれば、両軍が正面から戦ったのだから、こういう結果になることは十分にあり得ることで、それを想定していなかったダビデのほうが油断に過ぎるというべきかもしれない。物事は、人が思い描いているよりもはるかに厳しく、そして深刻に推移する。私たちにできるのは、だからこそ、自分なりに、今できることを誠実に行い続けるのみ、であろう。

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第二サムエル 1:1-2

 イスラエル軍の大敗、そしてサウルの死は、ダビデが村を襲ったアマレクを追撃している間に起こった。ということは、この重大事の際に、ダビデはそのことを全く考えていなかったということになる。イスラエルと戦わなくて済んだ、という時点で、もはやこの戦いの結末については見ないことにした、ということか。ダビデに言わせれば、そんな余裕はなかった、ということになるだろうが、これからイスラエルの王になろうとする人のあり方としては、この他人事的な感覚は少々違和感がある。でもそれが人の現実なのだろう。人は最も重要なことであっても、目の前のことで精一杯になるのだ。であればこそ、物事を整理し、何を重視すべきかを選択することも必要、と言えそうだ。

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明日から第二サムエル

 明日から第二サムエルを読み始めます。ダビデが王様になって活躍していく姿が記録されています。問題性も含めて、その姿が赤裸々に語られ、それは神の前に生きる者のあり方を問いかけるものとなっていくはずです。

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第一サムエル終了

 第一サムエルを読み終えました。半年ほどかかりました。でも、この記録はそのまま第二サムエルに続いていくものですので、引き続き、そちらを読んでいこうと思います。ちょっと旧約が長くなりますが、その後はまた新約を読みますので、しばらくおつきあいください。少しだけお休みをいただいて、5/15から再開することにします。

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第一サムエル 31:8-13

 サウルやヨナタンの遺体がさらし者にされたことは、当時の戦争としてはありがちなことだ。それはペリシテ側のイスラエルに対する圧倒的な力を示すものでもあった。一時は強大な抵抗力に見えたイスラエルが、何のことはない、やはりただの弱小民族に過ぎないぞと言い放っているのだ。そんな嘲りに抵抗できないイスラエルであるが、それゆえにこそ、ヤベシュ・ギルアデの人々が決死隊を組んでサウルたちの遺体を取り戻したのは実に勇気のあることだ。それには理由がある。かつてヤベシュ・ギルアデはアモン人に攻められて滅亡の危機に瀕した。その時、彼らを救い出してくれたのが若き日の、王として任命されたばかりのサウルである。彼らはその恩義を忘れなかったのだ。そんなふうに人々に慕われ、敬愛されていたサウルである。もし彼が信仰面でも良き王であったなら、どれほど偉大な存在になり得ただろうかとも思う。第一サムエルの最後は、この心温まる出来事で締めくくられている。

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第一サムエル 31:2

 あれだけ高く評価されていたヨナタンであるが、その最期はあっけなく語られているのみである。戦争は、有名な人も、偉大な人も、どんな人でも同じようにひねり潰していく。そこにあるのは、ただの一つの命。いや、時には土塊か何かのように投げ捨てられ、ゴミでも踏みつぶすかのようにして、人は失われていく。もし、ヨナタンが生きていたら、その後のダビデの治世にとってどれほど大きな力になっただろうかと思うのだが、そんな期待も夢も、すべては吹き飛ばされてしまうのである。ダビデの嘆きは第二サムエル1章に詳しく載っている。それにしてもヨナタンは、ダビデのことであれだけ衝突した父サウルと、最後の最後まで共に戦い、共に歩み続けたのでもある。そういう所もまた、ヨナタンという人の素敵さを物語るものだ。

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第一サムエル 31:1-7

 サウルという人は、信仰的には深刻な問題を抱えていた人だが、イスラエルの王としては、人間的にはよく頑張った人である。結局彼はイスラエルのために戦い続け、そして、自らの命をも犠牲にしたのだ。戦局が厳しくなっても、彼は逃げたりはしない。イスラエルの民も、そんなサウルを信頼し続けて、共に戦い続けている。サウルは皆にとっての希望の星だったのだ。だから、彼が死んだのを見て、民は散り散りに逃げ去っている。羊飼いのいない羊のように、という言い方があるが、意味合いは別だけれど、同類のものを見るようでもある。彼が自死したことを取り沙汰する場合もあるが、これはそういう話とは別の次元のものだと言って良いと思う。

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第一サムエル 31:1-7

 第一サムエルは、大混乱にあったイスラエルにサムエルという指導者が登場して信仰的な落ち着きを取り戻し、サウルという王が立てられて社会的な安泰が築かれ始めていったことが語られてきた。だが、その記録は最初の王サウルが戦死してイスラエルがペリシテに大敗を喫したことで終わっている。サウル自身の問題もあるのだが、イスラエルの復興、進展がまだまだ道半ば、いや、ほんの少し上がり始めた程度にすぎないことを如実に示すものだ。士師記の混乱からの真の回復は、まだまだ遠い。そして、神が長い年月をかけて必死に立てあげてくださっても、人はそれをあっという間に崩してしまうのだということも、サムエル記・列王記には何度も語られていくことになる。それは人の罪深き姿の縮図とも言える。

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第一サムエル 30:26-31

 神からの賜物であるという意識は、仲間内だけでなく、他の人々にもその幸いを分かち合うということに進んでいる。ダビデがイスラエルにしっかり心を置いていることの表れでもあり、後々のためにも友好関係を維持していきたいということでもあろう。これらの町々はおそらく、逃亡中のダビデに対して、好意的な態度を示してくれていたところではないかと思う。サウル王の権威には逆らえなくても、裏で助けの手を伸ばしてくれるということはあり得ることだ。そういう表には出ない支えによってダビデは食料その他の面で、生きながらえることができていたのでもある。もっとも、この穏やかな、心楽しい雰囲気は次の31章の悲惨な様子とあまりにも対照的だ。ダビデはイスラエルの悲嘆から遠く離れたところにいたのである。それが後にダビデを慟哭させる。

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第一サムエル 30:21-25

 よこしまな者たち、と言われているが、戦わなかった者、戦えなかった者には報酬はないと考えるのは、世の中的には一般的なことだと思う。だが、ダビデは全く別の理解を示している。つまり、もともとからしてこの勝利と分捕り物は神が与えてくださったもの。自分たちの力ではなく、神の助けによってこそ、と。だからこそ、その幸いは苦労した者も、そうではない者も、一緒に分かち合えば良いと言うのだ。人は自分のしたこと、自分の払った犠牲にいつも着目する。でもその一切が神から賜ったものであることを思い出すならば、姿勢は大きく変わってくるはずだ。それとも、自分自身もまた神の助けを拒み、自分にできることだけ限定の日々を歩みたいということなのだろうか。それこそ大きな損失を招くことになるのだが。

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第一サムエル 30:16-20

 ダビデたちは無事に家族や財産を取り戻した。圧勝であった。戦闘に慣れているダビデの一行と、抵抗力のない村を襲撃する略奪隊とでは熟練度に違いがあったこともあるだろう。人数的にはアマレクの方がはるかに多かったようだが、居場所を見つけることができたならば、これ以上失うもののないダビデたちでもあり、その勢いを止められるものは何もない、ということだろう。何一つ失われなかった、という点に、神の守りを強く感じる。それに彼らは、アマレクが持っていた財産も手に入れて、以前よりもはるかに豊かになっているのだ。厳しい試練であり、全ては終わったと思いたくなるような状況だったが、でも、神の助けがあれば事態は大きく変わるのだ。

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