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2016年11月

ルカ 4:31-37

 この人物は嘘偽りを語っているわけではないし、イエスを攻撃しているわけでもない。だが、こういう状態の人から認定されることは、周囲からは疑念を目で見られる可能性が高くなるわけで、真実ではあってもむしろ邪魔になる。もともと、その人自身の思いから出たものではなく悪霊に操られている、とてもかわいそうな状況でもある。だからこそ、イエスは一気に追い出して、その人を解放してあげたのだ。イエスご自身としては必要性からの行動だったと言えるが、周囲はそれを偉大な権威の存在を示す出来事として受け止めている。イエスは一般に、うわさだけで広まっていくことは望まなかったが、こういう流布を押しとどめるのは容易ではない。ただ、イエスご自身は直接の関わりをこそ求めておられたことは知っておきたい。私たちが目指すべきものもそこにあるのだから。

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ルカ 4:29-30

 この様子は、イエスが明らかに圧倒的な力を持っておられることを示している。後にゲツセマネで捕縛される時も、十字架につけられる時も、イエスにはそこから逃れる力はいくらでもあった。でも、それが必要であるからこそ、主は向かって行かれているのである。イエスには確かな力があって、決して負けたのではないことが、最初から指し示されている。

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ルカ 4:28-30

 彼らは先祖の姿を指摘されて腹を立てているけれど、ここで腹を立てるということは、彼らもまた同様であるのだということ明らかにしてしまっている。22節で称賛していたはずなのに、自分たちの気に入るようなあり方でないと排除しようとする。結局それは神の言葉に対してもし続けてきた態度で、提示されたものが良いかどうかよりも、自分たちの気に入るものかどうか、そこが全ての鍵というふうである。けれど、もしそういうふうに生きるのであれば、人は決して自らの限界と過ちを越えることはできない。

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ルカ 4:23-27

 イエスの言葉は鋭い。24節は一般論としても語られていた格言のようだが、イエスが告げようとしているのはむしろ、せっかく神が語りかけておられても、人はいっこうに耳を傾けようとはしないという現実である。23節はつまり、権威の証拠を見せてみろ、ということであるのだが、奇跡を行っても従う気はないのが、預言者たちに対する人々の姿であり続けているのだ。だから、神に対して熱心そうな態度を取りながらも実際には耳を傾けようとしない人々と、異邦人ではあっても神の言葉に聞き従おうとする人々との対比が指し示されている。ユダヤ人にとってはつらい言葉だろうが、それを聞いて、心を改めていかねばならないのだ。ユダヤ人と異邦人とのこういう対比は、聖書のあちこちに何度も出て来る。

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ルカ 4:22-23

 人々はイエスの指摘に目を覚まされる思いをして喜んだのだが、はたしてその宣言は真実だろうか、ということが気になってしまったようだ。理由は、イエスが自分たちの中で育った人で、何かの権威的なものを有してはいなかったからだ。実質的には、2:41-の出来事にもあるように都の学者たちをも圧倒するものを持っておられたのだが、人は目に見える権威性に頼る傾向が強い。もっとも、それなら神としての栄光のままで姿を現せば納得するのかと言えば、いやいや、旧約の例にも見られるように、人は決してそれなら受け止めるというふうにはならない。人はそうやって、自らせっかくの良き知らせに心を閉ざしてしまってるいのだ。

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ルカ 4:18-19

 イエスが救い主(メシヤ)の預言としてイザヤ書のこの言葉を挙げたのは、大事な意味合いを持っている。当時のユダヤ人は、メシヤとは民を率いて敵を倒す勇ましい王のイメージを抱いていた。後に人々はイエスを王として祭り上げようとしている。だがここに語られている姿は、弱っている人、苦悩している人に助けの手を差し伸べるものである。ユダヤの人々はそれを偉大さの象徴として見ていたのかもしれないが、イエスのその後の言動は、これが真実な姿であることを明らかにしている。「愛」が語られること自体が、人が抱く幸いの大転換を求めるものと言えるだろう。

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ルカ 4:16-22

 イエスが語られた、イザヤ書に出てくる救い主に関する預言は、それ自体としては当時のユダヤ人はよく知っているもので、その箇所自体はさほど物珍しいわけではないはずだ。注目すべきは21節の言及で、その預言が今こそ実現しているのだという宣言が、大きな意味を持っていると言える。預言には三つの受け止め方がある。いつかそうなったらいいね、という期待感が一つ。その預言が実現することを前提にして生き方を合わせていこうとするのが二つ目。そして、預言の成就を明はっきりと確認するというものが三つ目。預言は知っているが迷い戸惑っている、という人々にとっては、この三つ目のことが指し示されていくことが大きな励ましとなるはずで、だからこそ聞いていた人々もイエスを称賛しているのだろう。ちなみに、イエスはここではまだ、その預言を成就するのが自分自身であるというところまでは語っていない。

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ルカ 4:14-20

 イエスが活動を始められて、その評判はすぐさまガリラヤ一円に広がったようだ。ナザレの会堂で話をなさったのは、これが初めてなのか、それともいつものことなのか。久しぶりに帰ってきたのか、それとも、もともと活動の拠点にしていたのか、そのあたりは書かれていることだけではよく分からない。ただ、故郷の人々が強い関心を抱いて、その安息日に集まってきていた様子ははっきり見えている。自分のよく知っている人が世の中で話題になれば、それは誰でも心が躍るし、他の町の人々とは違ったふうに見るだろう。そのこと自体はそれでもいい。ただし、ちゃんと目の前にいる相手を見て、その言葉にきちんと耳を傾けるのであれば。それをないがしろにして、本当の姿や言葉を見ようともしないで、ただ自分たちの思惑だけで扱おうとすると、事態は悲惨なものになってしまう。

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ルカ 4:13

 しばらくの間、という言葉が、事態の厳しさを思わせる。そう、悪魔は諦めたりはしない。現実には、神に対して決して勝てるはずもなく、その圧倒性を人間たちよりもよく分かっているはずなのだが、それでもなお、悪魔は引っ込んだりはしない。自暴自棄という言葉があるが、あるいは、自分自身をごまかして、真実から目をそらせているという場合もあるが、なおさら、その攻撃は過激なものともなる。私たちにできることは、神は間違いなく勝利されるのだということをしっかり覚えていて、だからこそ決してごまかされず、動揺せずに、主に期待し続けることである。悪魔の攻撃は止まないだろうが、神が負けたりしくじったりすることはない、のだ。

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ルカ 4:9-12

 マタイと順番が違っている。事態の大きさからするとマタイの順番がすっきりしており壮大な世界観が見えてくるが、ルカは、神に頼れ、神にこそ頼れ、でも本当に信頼できるのか、しているのか、という話の流れであり、これもまた心に響く思いがある。ルカの三番目は、神を信頼するのだと告げるイエスに対して、それなら神が本当に助けてくれるかどうか試してみれば良いと混乱させるものだ。神を試し、そしてまた、神を信じているという自分の信仰が本物かどうかも試す、という話である。でも、信頼とは試す場面を造り出すものではなく、危機的なことに直面した時にすがるようにしてこそ培われていくものだ。お試し、を繰り返しても、それは信頼形成には決してつながらない。

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ルカ 4:5-8

 悪の手法を使った方が手っ取り早く理想を実現できる、ように思いたくなる場合は多々ある。真剣に人々の状況を憂え、この世界を何とかしたいと願う人ほどに、なおさらである。でも、もしそれが神の力、神の御業としてなされるのでないとしたら、そこには何の意義も生み出されはしないのだと、主は強く語られている。この誘惑は、良き志を抱く人ほど圧迫的だろうと思うのだが、そこで踏みとどまる必要性に、必死でしがみついているべきであるのだ。事をなしてくださるのは神だから、神から離れたところには最善は実現しないのだと、聖書は語る。

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ルカ 4:2-4

 人にとってパン(食料)は必要である。なければ生きてはいけない。日用の糧を与えてください、との祈りは必須である。ただし、それは自分の力で手に入るものではない。神によってこそ与えられるものである。たとえ、日用の糧のためにその人自身がどれほど必死に働いていたとしても、である。物事の真のあり方を悟っている人は、自分ではなく神によってこそ、と気づいているだろう。悪魔は自分の力で何とかすればいい、と呼びかけたが、一切は神によってこそ、とイエスは答えられたのである。4節はこの短縮形ではなく申命記8:3を思い出せば、物質と精神というような話ではないことがすぐにわかる。このことはマタイ6章の「何を食べようかと思い煩うな」という教えにもつながる。

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ルカ 4:1-12

 ルカは、マタイと同じような記録が多々あるので、その相違点を考えていくことも大事な視点であるが、ルカを先に読んでいる人もいるわけで、それ自体として受け止めていくべきことも必要だ。この連載ではその両面を意識しつつのコメントをと考えている。荒野での出来事では、マタイと比べると順番が異なっている。この出来事は、悪魔の誘惑と言われているように、イエスの身体が実際に引っ張り回されたというよりは、荒野にいながらにして幻想的な感覚の中で様々な格闘をなさっているのだと考えるのが妥当だ。とすれば、夢がそうであるように、どちらが先とか後とか、そういう区別なしに同時に体験しているような感覚になるのは良くあることで、マタイとルカと、どちらかが間違えたというような話ではない。イエスご自身が話された時によって順番を変えられたのかもしれないし、マタイ、ルカ、それぞれの意図に沿って並べていると考えて良いだろう。詳しくは、明日、改めて読み直していただくことにする。

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ルカ 3:23-38

 ここに乗っている系図は、有名な王たちが次々と登場するマタイのそれとは大きく異なっている。31節を見るとその理由がわかるが、ダビデの次がナタンとなっていて、第二サムエル5:14の人物だと理解されるが、あのソロモンではないからだ。預言的には問題はない。救い主はダビデの子孫として生まれると告げられているのであって、ソロモンの子孫と語られている箇所はない。一つの可能性は、マタイはヨセフの系図、ルカはマリヤの系図という理解で、それで両方を載せたという可能性はある。ルカが記したクリスマスの出来事はおそらくマリヤから聞き取ったものが多いと推測できるから、その点でもこう考えるのは理に適っている。もっとも、血筋というのは1000年も経てば様々に入り組むわけで、確かにダビデは祖先だけれど、さかのぼる形で言えば彼らの祖先である人は膨大な数になる。どこかのルートをあがっていけばモーセがご先祖、あるいはギデオンがご先祖ということだってあり得ない話ではない。こういう系図が表しているのは、神が遠大な年月を経て計画を進めておられることと、約束されたことを必ず成就なさること、そして、こういう先祖を示すことで伝えようとしている理念的なもの、として受け止めるのが妥当だ。ルカのこの系図は、ダビデの子孫という点と、それからマタイとの比較からも、単に王家の継承ではなく、マリヤの賛歌にもあるように、名もなき人々もまた神は用いられていくのだということが指し示されているように受け止めたい。

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ルカ 3:22

 簡潔な語りの中で、御父と御子と聖霊の臨在は語られている。三位一体という言葉はまだ用いられていないけれど、この関係が重要な意義を持っていることは、福音書が書き記されている時期からすでに、強く意識されていたということでもある。実際的には、この三位一体という実態があってこそ、この救いの御業は成り立つのでもあるし、神の教えの一切が確かなところに位置づけられていくのでもある。神の御業とその教えを掘り下げていくならば、三位一体の状態なしでは成り立ち得ないことを、きっと痛感することになるだろう。ここに示されている姿は、じつに美しいものだと、そう思う。

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ルカ 3:21-22

 イエスがバプテスマを受けた場面について、ルカはあっさりと記している。ルカが書いている相手が、ユダヤに一般的だったバプテスマの習慣には馴染みがなく、バプテスマと聞けばキリスト教のものを強く意識する懸念があったためだろうか。ユダヤのバプテスマは、何らかの節目となる信仰的な決断をした際に行っていたもので、生涯に一度というわけでもないし、ましてキリストへの信仰を告白するものでもない。ただし、神の前になされるものであったし、神と共にということは意識されていたようだ。イエスにとっては、公の活動に入ることはこの意味での転換期であるから、バプテスマはとても似つかわしいものだった。ヨハネのバプテスマは罪の告白と悔い改めを重視するものだったので、イエスには似つかわしくないとも言えるのだが、その本来の意味からすれば妥当な行動である。後にイエスが、ご自身への信仰告白にバプテスマを定められたのは、ヨハネのそれでもなく、本来の趣旨からの発展形として分かりやすいもので、だからこそ人々はすぐさま応じたのでもある。

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ルカ 3:18-20

 国主ヘロデがヨハネを殺害したことについては、マタイ14章に出てくる。ルカが9章で軽くふれているだけで詳細を扱っていない理由は不明だが、ヨハネが自らに与えられた使命を全うしたことを高く評価している様子は見てとれる。それはイエスご自身が示された評価であるのだが。彼の死は、人類の救いという点では深刻な打撃にはならないが、ユダヤの民にとっては大いなる損失だったと言えるだろう。ヨハネの死は民全体の責任とは言えないけれど、結局この民は(いや、人類全ては)神が呼びかけてくれている大事な声を排除し続けてきているのだと聖書は語っている。(排除されたから本物、という意味ではないことは気をつけておきたいが。)

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ルカ 3:16-17

 ヨハネは人々に悔い改めを求める人だったが、真の救い主は罪の課題を解決し、人々を全面的に変革する方、である。だから彼は「水のバプテスマ」つまり、人自身の意識の取り扱いであり、キリストは「聖霊と火とのバプテスマ」つまり、神ご自身による変革をもたらすのだと告げられている。17節は、つまりは麦野収穫という農作業を最後まで実行するという内容だから、さばきを意味する言葉ではなく、最終的な決着をつけて、神の祝福を確立することを指すものだ。ヨハネがしていることは、農作業に当てはめるならば、途中段階での雑草取り、あるいは畑での作業を妨げる邪魔な石とか、そういうものを排除するようなところと言えるだろう。

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ルカ 3:15-17

 人々はヨハネの真っ直ぐな呼びかけを聞いて、彼が新たな道を用意してくれる神の人、キリストではないかと考えているが、その感覚は分からないでもない。当時のユダヤ人は(あるいは人類全体としても)、神の祝福は人がしっかり生きる者となってこそ与えられるのだと思っていたから、ヨハネの呼びかけはすんなり受け止められるものだった。ただし、現実には立派に生きることでは解決できないのが罪であり、ヨハネ自身はそのことを分かっていたからこそ、自分ではなく、この後に真の救い主が来るのだと告げてもいる。この段階では、彼はまだイエスこそがキリストであるとは知らなかったのだが、その特別性については、よくよく理解していたようだ。

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ルカ 3:7-14

 ヨハネの呼びかけは簡潔明瞭だ。つまり、人々には罪があること、ユダの民だからということに安住しているのは間違いだということ、だから、神の前に自らの罪深さを認め、そういう自覚を抱いた者としての歩みをすべき、ということだ。呼びかけている内容は人々が身近に知りうる事柄になっている。これは、それを実行すれば神に認められるとか、罪が帳消しにされるということではなく、自らの罪の自覚、助けの必要性を知った者としての、その思いを表す行動、である。だからこそ、一つ、二つの身近なところにある事柄が挙げられている。救いの約束には至らないのであれば、こういう呼びかけはとても意義がある。まさに心の掘り起こしである。

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ルカ 3:1-6

 キリストを紹介する福音書であるが、まず、バプテスマのヨハネに言及している。それは彼がイザヤの預言にあるように、「主の道を用意」する者であるからだ。とは言っても、イエスのために準備をするのではなく、人々がキリストの呼びかけに応答することができるように、人々の心や社会の状況を整える、のが彼の役割だ。彼が説いたことは、人々が自らの罪を自覚し、問題解決の必要があることに心を傾けることである。ヨハネは救い主ではないから、救いそのものを約束することはできない。だから彼の言葉はとても厳しいものになるのだが、そうやって世の中の心を掘り起こすことが、真打ち登場への大事な備えとなっている。いわば、集団検診のようなもの、と考えてみても良さそうだ。

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ルカ 2:52

 神と人とに愛された、という言葉は、子どもたちの成長を考える時、いや、人間という存在を思う時に、切望する状態ではないかと思う。神に愛していただけるのなら、それは何よりの幸いであるし、人々に愛してもらえるのなら、その存在と歩みは、実に幸いなものとなるだろう。いや、具体的な益がもたらされるかどうかだけでなく、そうやって愛されて日々を歩むことができるのは、大いなる喜び、楽しみであろうとも思う。裏返せば、そういう状態が、人の現実においては、どれほど縁遠いものになってしまっているか、を痛感させられることでもあるのだが。自分について、そしてまた他の人について、「神と人とに愛されるもの」でありえるようにと、切に祈り願いたいと思う。

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ルカ 2:50-51

 マリヤたちはイエスの言葉を理解していない。理解できるほうが不思議、だろうが。当時の社会では、子は親に尽くすものとされていたので、御子もまた同じ歩みを経て行かれる。もちろん、嫌々ながらではなくて、そういう生き方を喜びとしつつ、である。偉大な使命があるからと言って、他の生き方をすべて否定する必要性はない。妨げになるならば排除するだろうが、そうでなければ、大いに歓迎しても良いのだ。人はどうも、大切なことを考えると、他のことについては禁欲的であるべきと考えがちだが、神の豊かさは、そんな狭さを越えて多くの祝福をもたらしてくれる。

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ルカ 2:46-49

 イエスはこの時、何を考えておられたのだろうか、と思う。こういう行動を取ればマリヤたちが驚き慌てることはわかっていたはずだ。それでもなお、神殿に留まった。可能性の一つは、サムエルの場合のように、特別な使命を帯びて生まれてくる子たちは、祭司のもとで養育されるという旧約の前例を意識して、このまま留まってもいい、というつもりでいたかもしれない。マリヤたちとの日常も意義あるものだが、そこに埋没しすぎるのもどうか、と考えられたのだろうか。もっとも、マリヤの反応を見て、今はまだナザレで時を過ごす必要があると認められたのだと言えそうである。この時期、おそらくバプテスマのヨハネはそろそろ荒野に出ようとしているあたりだろう。でも、ヨハネのように布教することが最大の使命である人とは違い、イエスは神の子としてこの世に生き、そして贖いをなすことを最重要課題として抱えておられるのだから、歩み方は違っていて当然だ。ちなみに、イエスがエッセネ派で学んだと言う人があるけれど、この箇所の様子からすると、それはあり得ないだろう。

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ルカ 2:43-48

 この様子を見ると、マリヤたちはイエスの特別性を意識していないようである。とは言え、決してクリスマスの出来事を忘れてしまったのではなく、長い年月を、ごく普通の子どもと変わりない日々を歩んでいく姿を見てきたからこそ、特別性が縁遠くなってしまったためと言える。でも、そういうふうに平凡な日々があったことは、マリヤたちにとっては神からの何よりの贈り物であるし(最初と最後の激動は大変)、イエスご自身にとっても、人々が平凡な日常の中で体験することを歩んで行かれるのは必要なこと、でもあろう(ヘブル2:17-18)。激動の日々は、後の3年間で十分である。

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ルカ 2:41-51

 ルカが書き留めているのは12年後の出来事だ。当時としては仕事を始めてもおかしくはない年齢だが、43節に「少年」と書かれているように、微妙な年代ではあって、それは今も昔も同じだろう。そういう年齢だからこそ、イエスが自らの存在をどのように見ておられたのかを示す、最も早い記録としてここには載せられている。あまりにも幼すぎると、年端もいかない子どもの戯れ言、で終わってしまうだろうから。もっともそれは、12歳以前は神の子としての自覚がなかったという意味ではない。人々の前でそのことを示されたのはこの時、としか聖書には書いていない。聖書の示す程度にしっかりと、そしてまたおおらかに受け止める必要がある。

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ルカ 2:39-40

 ルカはエジプト行きの話を割愛している。誕生に関わる記録はもう十分と考えたのだろう。福音書はイエスのすべてを書き記しているわけではなくて、人々にこの救い主を紹介するために必要なことを載せているだけだ。マタイの記述からすると、ナザレに向かったのはエジプト逃避行の後、である。そこではようやく、落ち着いた日々が与えられたのだということが、しっかり書き記されている。神の御子であるけれど、幼児期を別として、少年期の大半は、落ち着いた日々が与えられたようである。神の御子は人としてこの世に生きることを経て行かれたのだから、これは当然に必要なことであったのでもある。

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ルカ 2:26-38

 この出来事が神の御手の内にあることを示す人物がもう一人、語られている。それほど、イエスの誕生はマリヤにとって大きな重荷であったということか。イエス自身が活動を始めるのは30年後だから、それまではマリヤが一切を受け止めて対応することになる(ヨセフは早世したようだ)。仕事のこと、あるいは当時のユダヤ人としては結婚問題なども出てきたはずで、それらをキリストとしての歩みにふさわしく対処して行くには、マリヤが相当苦労したに違いない。それだけに、こうして何人もの人々によって、一切は神の御手の内にあり、ということが保証されていく。アンナの言葉にもかかわらず、イエスの誕生はエルサレムで全く噂にならなかったのだから、やはりこれらのことは、マリヤのため、が一番の理由だろう。

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ルカ 2:33-35

 シメオンの言葉は、やがてマリヤにとって現実となる。クライマックスは30年も後であるが、エジプト行きなども含めて、戸惑いを覚え続ける日々であったはずだ。そうであるからこそ、こうやってシメオンなどを通して語られる言葉は、あの受胎告知のこととも重なり合いつつ、マリヤを励まし、勇気づけるものとなっていったに違いない。信仰は、神ご自身を信頼してついていくことであるが、そのためにこそ、多くの励ましや慰め、力備えは必要であるのだ。

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ルカ 2:29-32

 ルカはクリスマスに関連していくつかの歌を記しているが、それぞれにこの御業の奥の深さを語っている。シメオンはユダヤ人であり、その伝統の中に生きてきた人であるが、でも彼の口から、「異邦人を照らす啓示の光」という言葉が語られている。神の恵みはユダヤ人に留まらず、すべての民へと広がっていくものであることが意識されている。具体的にどうなっていくのかはわかっていなかっただろうが、神が旧約を通じて約束された救い主は、一つの民だけで終わるようなものではないことを、シメオンは悟っていたのだろう。確かに旧約の預言にあるメシヤの姿は、まさに全世界的なものである。

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