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2016年12月

お正月休み

 今年もずっと聖書を読み進めてくることができて幸いでした。12/31までは進めてきましたが、明日からは少しお正月休みにします。1/10から再開します。良い正月の休みが与えられますように。

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ルカ 6:17-19

 任じられた弟子たちが最初に取り組むことになったのは、大勢の人々がイエスの元に押し寄せて、病気の癒やしなどの助けを願い求めることへの対応、である。イエスは生涯の中で、その特異な使命を強く意識させられるような場面を持っているのだが、その直後にあるのは、十字架の使命とはだいぶ別の部類の事柄、病気のこととか、空腹のこととか、もっと日常的な事柄への対応である。それを群衆の理解が至っていなかったため、と考えることもできるけれど、イエスご自身にとってはむしろ、何かが特別に高尚とかではなく、すべての課題は神の前にあり、人々の深刻な重荷であり、だからこそ助けを与えていく、ということであるようだ。主は人の魂を救い、そしてまた、人の身体をも助けてくださっている。それが主の業、である。主の弟子であるならば、その心を歩んでいきたいものだ。

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ルカ 6:12-16

 十二弟子の選定である。彼らだけが弟子ではない。これ以外にも最初から共に歩んでいた弟子たちはいたわけで、だからこその選定でもある。使徒という呼び方は、イエスが用いられた表現ではあるにしても、十字架まではあまり多用されていたわけではないようだ。使徒とは高い地位を意味するわけではなく、キリストの業のために仕え、遣わされる役割の人を言う。その後の彼らを見ていても、何かの厚遇を期待して使徒になろうとするなどは愚かな話で、ひたすら苦労し、犠牲を払うことになる立場だ。イエスは彼らを、苦境へと引っ張り込んだということになる。それだからこそ、ご自分が選び、任じたのだともおっしゃり、そのすべての責任をも引き受けることを語られてもいるのだ(ヨハネ15:16)。弟子たちはこの先に待っているものを熟知していたわけではないが、でも、イエスと共に歩み、その御業に参加したいという思いは抱いていたはずだ。

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ルカ 6:6-11

 趣旨は前の部分と同じである。そこに助けを必要としている人がいて、良き業によってそれが可能であり、それなのに安息日の決まり事に抵触するから待て、と言うべきか。決まり事は安息日を大切に過ごすためのものであり、それ自体が安息日の価値を形成しているわけではないし、また、ここでなされていくのは神ご自身の慈愛の心とは全く反していない行動なのだ。パリサイ人らは、神の教えに忠実であろうと考えてはいたのだろうが、御心に生きているとは全く言いがたい状態に陥っていた。そういう様子が、結局、御子による救いという大事な事柄についても、心を閉ざす始末になってしまったことと関連するはずだ。

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ルカ 6:5

 短すぎて、その意味合いを受け止めるのはなかなか困難にも思える一言だ。イエスの権威を主張し、ご自身の取り組みこそ、安息日の様々な決まり事よりも優先するのは当然、と告げられたのか。内容的には間違っていないが、話の流れとしては、何だか、唐突にも思える。むしろ、私は安息日の真の趣旨に基づいて存在している、という趣旨で、つまりは、ご自分の教えていることは、まさに神の心そのものなのだというふうに告げられたのだと受け止めた方が良さそうだ。ここは、イエスの教えと、パリサイ人らの教えと、どちらが安息日に関する神の御心に合致するのか、という論議であるのだから。規定は様々あり得るのだが、それらを御心に基づいて受け止め、実行することは欠かせない。

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ルカ 6:3-4

 ダビデのあの時の行動は、彼自身の状態としては決して良いものだったとは言えない。切羽詰まって駆け込んだという感じで、供えのパンを彼が求めたわけでもない。律法的には、あのパンは祭司のものであり、ダビデに与えるのは疑問というのもまた道理ではある。だが、あの時の祭司は混乱しているダビデを励まし支えることを大事に思い、そのために自分たちのためのパンを提供した。その志し、その思いやりが、彼を助け、人々を助けるものとなった。悪はだめだ。してはいけないこともある。だが、一般的な是非を越えて差し出すことのできる温情もある。あの時の祭司らの行動と心は、大いに称賛されるべきものだった、ということである。パリサイ人らは律法には厳格だったが、そういう心をすっかり忘れ去っている。

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ルカ 6:1-5

 パリサイ人も重箱の隅だが弟子たちも行儀が悪い、というふうに受け止められやすいかもしれない。だが、当時の社会では道行く人が麦の穂をつまんで良いというのは、ごく当たり前のことだった。食卓に座って三度三度の食事、などということが可能なのは歴史的にはむしろ例外的なわけで、人々はエネルギーを摂取できる時にはするのだ。それを否定したパリサイ人は、つまりは生きていくために欠かせない食物をとるということを否定したようなもの。これは病人を癒すことを批判するのとも同じことだ。安息日を大切にするということと、その日、その人が健やかに生きていけるようにすることとは、決してどちらかだけの話ではない。彼らは、人が神にあって生かされていることを無視している。

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ルカ 5:39

 この39節の趣旨をどう見るか。そのまま受け止めるならば、古いものの良さを知っている人は新しいものによそ見をしたりしない、ということになる。前の部分で、新しいものと古いもののつぎはぎは良くないと語られて、パリサイ人の古さを問題視したようにも見えるわけだが、この言葉を見ると、新しい、古いの区別ではなくて、やはりつぎはぎそのものの問題性を語ろうとされたたとえ話なのだと合点がいく。もともと、イエスの教えは旧約以来の神の言葉そのものであって、いわば最も古いもの、でもある。もっと皮肉的に、古いものに浸っている連中は新しいものがやってきてもその良さが分からない、と指摘しているというふうに読むこともできる。パリサイ人への批判という趣旨からはこの意味合いが好まれそうだが、まだ熟成の浅いぶどう酒よりもじっくりと育まれたぶどう酒のほうが良いと考えられているはずだから、その部分まで意味合いをひっくり返しての皮肉的な表現とは考えにくい。やはり、前者の理解かと思う。

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ルカ 5:36-39

 このたとえ話を、趣旨を生かしつつ様々な場合に適用させていくのも良いとは思うが、ここではイエスが語られた際の意味合いに絞って考えてみる。話の軸は、新しいものと古いものをつぎはぎにしても役に立たない、ということだ。パリサイ人らは従来の慣習を楯にしてイエスの行動を批判していたが、そこに新しいものが生み出されているのならば、従来型にこだわってばかりでは何にもならない、ということだ。ただし、語られているのはあくまでもつぎはぎの問題で、もし、その新しいものが間違っているのならば、それこそ伝統的なものによって守りを固める必要も出てくるだろうことは、少なくともこの例えの中では排除されていない。人々も、イエスの教えに抵抗を覚えるのなら、外面的な行動内容ではなく、その本質部分に関しての論議をすればよかった。それなら、事の真実を見出す機会も得られただろうに。イエスは論議を拒んではいない。真摯に問いかけ、疑問を呈してくるのであれば、それに対して喜んで答えておられる。

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ルカ 5:33-35

 人々は、断食をしているかどうかに注目している。つまり、何かの苦行によって神への熱心さを表していることを評価している。イエスは断食という行為の価値ではなく、するにしても、しないにしても、何の理由でそうしているのかが大事だと指摘されている。誰かのために尽くす業で、それによって誰かが助かるのであれば、理由がどうあれ実行することも意義が出てくるが、断食は誰かの益ではなく、あくまでも自分自身のための行為だ。だからこそ、その理由、動機が問われていく。人はしばしば外に見える行為の軽重を語るが、神は心を見ているのだ。とすれば、同じ意義ある思いがあるのならば、断食をするのも、他の方法でその心を生きていくのも、どちらでも良いと言うことにもなるだろう。そのくらいの感覚を土台にして、それでなお断食をするのであれば、それもまた良いのだ。

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ルカ 5:31-32

 この言葉は、正しいことを大事にして生きている人々を無視しているわけでも、私には関係ない人々だと捨てているわけでもない。一つには、救いを必要としないような正しい人など、この世にはいないということがあって、自分では立派にやっているつもりの人々の大いなる誤解を鋭くえぐる言葉にもなっていることがある。でも、もう一つとしては、ここは罪人らを排除しようとするパリサイ人らの発言への反論であるからこその言い方であることも考慮に入れる必要かある。正しさを求めて生きることは意義あることだ。人間のレベルに過ぎなくても、精一杯生きようとするのは価値あることで、そういうふうに歩みつつ、同時に、自分の足りなさを認め、あるいは、大過なく歩めているのは神の守りと導きのおかげであることを心から認めて、常に主の助けを求め続けるならば、それもまた、救い主が関わってくださる人々に該当する。悪を生きた方が神に顧みてもらえる、などというふうになりかねない論理には、ローマ6:1も断固反対している。

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ルカ 5:31-32

 神の御子がこの世に来られた目的を語る、注目すべき言葉の一つだ。医者の話から、人々が容易に理解できる筋道で、自らの意図を語られている。そう、キリストは人を助けるために来られたのである。救い主なのだから当たり前でもあるのだが、しばしば人は、善悪に決着をつけていけば幸いはなると思い込んでいるようで、救い主の意味合いを取り違えてしまうことが少なくない。もし、御子の実現することの軸が世の人々が正義に生きるようにすることだとしたら、十字架の必要はなく、王として、統治者として君臨すれば済むことだ。でも、それはイエスの姿とは全く別のものであることは、福音書を読むならばすぐに分かるだろう。

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ルカ 5:30

 問題ある生き方をしている人とのつきあいを否定する理由は何か。自分がそっちに引っ張り込まれないようにという自衛の意味が一つ。確かにこれは大事な視点だ。次は、そういうことをしている人々を肯定しないようにという意図。現代、政治家などが暴力団関係者と関わってはだめだとされる理由はこの辺りだろう。当時のユダヤでは、汚れという感覚もあったはずだと思う。この感覚からすれば、自分自身は悪を行っていなくても、そういう人々と関わりを持つことだけですでに汚れた者となる、というふうに見なされる。悪に対しては断罪し、徹底的に排除し、滅ぼすことだけを考えるのであれば、こういう姿勢が提唱されるのも理解できる。ただ、その相手を助けたい、救い出したいと願うのだとすれば、縁を切るというわけにはいかない。イエスはもちろん、罪人を助けたい、取税人も助けたい、だとすれば、彼らと一緒に食事をするのは最もふさわしいあり方だ。パリサイ人らは、イエスの意図を、願いを知らずにいる。もっとも、断罪してしまえ、で終わりにするのだとしたら、自らもまた神の前に断罪され、滅ぼされて終わり、ということになってしまうのだが、大概、人は自分は別と思っている。

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ルカ 5:29

 マタイ、つまりレビは、仲間たちを招いて宴会を開いている。それはイエスに出会ったことの喜びを表すものであり、他の人々にもその幸いを届けたいと思うからである。「私と共に祝ってくれ」という思いは、この信仰、そして神の祝福を手にするということでは、とても意義深いあり方だ。幸いを得たからこそ他の人にも。この動機、この切望が常に土台として息づいていることを、ぜひにと願いたいと思う。そのためにも、自分がどのような幸いを得たのかは、繰り返し確かめておきたい。

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ルカ 5:28

 何もかも捨て、という言葉は信仰を語る際には好まれる傾向があるが、家族も財産も捨てて身一つになったという意味ではないはずだ。29節では宴会を開いている。彼には家も財産もある。ペテロにしても家族を捨ててはいない。この言葉は、持ち物の問題ではなく、その人の生き様、それまでの歩み方を捨てて、神と共に生きる道を歩み始めることを言う。具体的にどうなるのかは、人それぞれ、神の導き次第である。マルタとマリヤはベタニヤ村で、たぶん村の裕福な家の者として、家や財産を切り盛りしながら、イエスの一行を支え続けた。パウロのように旅から旅へと歩く人もある。それぞれが与えられている賜物に従って、である。ただ、人は救い主に出会い、それを幸いと思い、だからこそ、自分が自分の神という生き方をしていたものを、神と共に、神を信頼して生きる者へと踏み出していく。それは実は最も大事な点で、それまでの自分を捨てる、ことだろう。幸いと祝福があることを知ったからこそ、の変化である。

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ルカ 5:27-28

 レビとはマタイのことである。マルコもだが、こういう呼び方をする。マタイのことを配慮してだという説明も見られるが、どうだろう、当時のクリスチャンたちの間で、マタイがもと取税人であることがマイナスに作用するとも考えにくいのだが。あだ名で呼ぶというのはよくあることなので、たまたま、手近な呼び方を用いただけかもしれない。ともかく取税人の仕事をしていたマタイを、イエスは呼び寄せられた。マタイ自身も以前からイエスのことは知っていたのだろう。その呼びかけを快く受け止めて、弟子としてついていくことに決意している。とても短い淡々と語られている出来事だが、神が呼びかけ、人が応じる、その基本が明確に現れている様子は、なんとも清々しい。

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ルカ 5:22-26

 聖書が明確に主張しているのは、イエスには罪を赦す権威があること、だ。病気もいやされたことで、回りにいた人々はこの方に権威があることを知って、だから驚いている。パリサイ人の言い分の前提は正しい。罪の赦しは神の御のもの。そして今、この方はその権威を示し、それを実行に移されている。イエスについては様々な意見、評判があるのだが、聖書は一貫して、この方には神ご自身としての権威があるのだと言い続けている。そのことをしっかり受け止めておきたい。

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ルカ 5:22-24

 このイエスの言葉は様々に受け止められているようだが、こう考えていただくのがすっきりする。罪の赦しも、病気のいやしも、どちらも神としての権威である。通常、イエスは病気をいやしながら、ご自分の権威と、人々に対する思いを示し続けておられた。人々はそれを積み重ねていく中で、イエスに対する信仰を培っていくことにもなる。ただ、この時は人々の信仰に応じようとなさってのことであるから、もっと直接に罪の赦しを語り、彼らの思いに応答することを選ばれた。何も回りにいた群集に見せつけるため、ではない。群集は、この人々の信仰と、それにたいする応答という両方を見て、そこに神が豊かに関わってくださっていることを知る必要がある。イエスの言葉だけを取り上げて批判するのは愚かなことだ。それに、もともとからして病気を癒す権威はあるが罪を赦す権威はだめ、というのは筋が通らない(パリサイ人の言い分だとそうなるが)。

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ルカ 5:21

 パリサイ人らの反発は、当時のユダヤにおいてはごく当然のことである。罪の赦し、つまり神との関係回復を実現できるのは神ご自身しかいない。人にはできないこと。彼らの言い分は、その点では正しく、よくぞ見極めている、とも言える。もっとも、そんな彼らが、救い主による助けではなく、自分たちの善行を追い求めていたのは残念なことだが。神にしかできないことなら、神に全面的に頼るしかないのだけれど、彼らはその神に認めてもらい、恩恵をもらうためには、神の前にちゃんと生きて見せる必要があると考えていたわけだ。ごくありがちな発想であるが、これではどうにもならない。それに彼らは、目の前にその救いを、恩恵をもたらし得る方がいることを認めようとしていなかったのであり、ここに最大の混迷がある。弟子たちは、パリサイ人らほどの知恵はなかったろうが、目の前にいる方を救い主として受け止めた、この違いは大きい。

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ルカ 5:20

 病気を治してもらおうとして連れてこられた人に対して、イエスは「罪の赦し」を宣言された。パリサイ人たちはその権威について問題視しているが、それ以前に、話がずれているという印象を持つ人も少なくないのではないか。全ての病は人類の罪が原因とは言え、あくまでも人類の、であって、その人自身の罪と病を結びつけることはイエスご自身が否定されたのだから(ヨハネ9)。とすれば、これは20節の言葉の通り、「彼らの信仰」に対する応答、彼らが神様の恵みを切に慕い求めた、その信仰に対する応答としては、神との関係の回復、つまりは罪の赦しこそが最もふさわしいことであったから、だろう。人には様々な助けが必要だ。でも、もしも一つを挙げるのなら、罪赦された者として神の前に立てること、その幸いからこそ全てが始まっていくことを思う。

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ルカ 5:18-19

 この出来事の中から、いくつか、注目したいことを挙げる。まずは病人の仲間たちである。日本の家とは違って、容易に開けられる天井だったとは言え、それにしても無茶をする、ではある。だが、考えてみると、もしも友を何とかして助けたいと思うのであれば、このくらいのことはするだろう。深刻に被害を与えることはないのだし、遠慮などしていられないのだ。イエスはこの仲間たちの信仰を見て、病人への助けを宣言されている。病人本人ではなく、回りの人々の、である。助けを必要としている人の回りにいる者たちの役割、意義はとても重大なのだということを、よくよくかみしめておきたい。

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ルカ 5:17-26

 この出来事のテーマは、安息日に病気の人をいやしたイエスは、ご自分の持っておられる権威を明確に主張し、それが真実であることを実践によって示されたということである。イエスは、ご自分の力を見せつけるようなことはしない方なのだが、どうにも反発するばかりで、大事なことを語り示しているのにいっこうに受け止めようとしない人々に対しては、こうやって明示するというやり方を取られる。それは、いわゆる業を煮やして、とかではなくて、彼らの心の目が開かれて、ちゃんと目の前に示されている真実と向き合ってくれることをと願うからこそ、である。イエスはパリサイ人らと対立していたとよく語られるのだが、対立ならば相手を打倒することが目指されていくのだと思うが、イエスの場合はそうではなく、人々が気づいてくれることを切に求めている姿であると思う。

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ルカ 5:12-16

 ツァラアトのことは、本来的には病気の一つとしての扱いで良いのだ。ただ、人々の受け止め方が過度になっていたから、イエスもこの人々については特に思いやりを込めて対応なさっている。ちなみに、旧約律法に記されているツァラアトは、はたして何だったのかはっきりしない。様々な現象をひとくくりにしていたのかもしれない。でも、新約時代のツァラアトは、おそらく後の時代に言われるようになったハンセン病の類だったのだろうとは推測できる。この病気とツァラアトは本来区別されるべきなのだが、人々はすでに混同していたのだ。だからこそ新約では、イエスの扱いとしては、彼らを病人の一人という以上の、それこそ汚れとの関連性みたいな扱いは全くなさっていないことを覚えておきたい。ツァラアトのことは、人の思いが実に醜いものだということの、つらい証明の一つでもある。

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ルカ 5:11

 この「何もかも捨てて」という言葉は、過度に意識されすぎていると思う。彼らの場合、果たしていく役割の性質上、従来の生活からは変化が必要であったのだけれど、何もかも捨てないと神に従うことはできない、というふうに考えてしまうと、それは誤解である。ペテロにしても、その後も家族との関わりはあるし、後には伝道旅行に妻を同伴もしている。「捨てて」はいない。聖書が語るのは世捨て人になることではなく、出家でもない。大事なことは、捨てることではなく、神にあって、それぞれに用意されている歩みを進めていくことである。ペテロたちの歩みについて言えば、この時点から高度なものになったような見方は、決してすべきではない。

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ルカ 5:8

 ペテロは直感的な人であるが、この言い分はなかなかである。離れてくださいと言っても、今は舟の上。離れるためにはイエスは湖に飛び込むことになる。でも、恐れながらも、ペテロのほうから逃げ出すことはしていないのもなかなかである。そして、偉大な存在を思うときに自らの罪深さを思い知らされているところも、その感覚のあり方は意義深い。もっとも、これがヨハネ21章ではイエスの偉大さを知ったとたんに御許に駆けつけていく(泳いでだが)というふうに変化していて、離れるのではなく側にと願うのが、救い主であるイエスを知るようになったゆえの大きな違いと言えるだろう。

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ルカ 5:8-10

 イエスご自身はごく自然な思いやりだったが、いやそれだからこそと言うべきか、弟子たちは自分の前にいる方の特別さを深く思い知っている。本当に偉大な方は、ご自分を示そうとしなくても、それこそ人への思いやりの行動ですら、人々を圧倒するものだ。そういう意味合いでの権威や力こそ、人を確かに祝福し、導いていくものにもなりえるのだろう。ペテロたちはまだまだイエスについての知識は十分ではないし、いわゆる神学的理解も浅いものだったとは思う。でも彼らの反応は、主なる神である方へのものとして、実に適切だった。こういう感性と言うか、神への自然な応答の中に、彼らが使徒として用いられていく大事な素地を見ることができる。彼らは人を思い、神を思う心の姿勢を抱いていた。それは知識や理解度よりも、あるいは様々な資質、能力よりも、ずっと幸いなものだと思う。

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ルカ 5:4-7

 イエスがこういう指示を与えた理由は、明確には記されていない。ペテロたちにご自身の確かな力を示すことで弟子としての活動に招き入れようとした、という見方のありえるだろうが、それはちょっと作為的すぎるようにも思う。それよりは、彼らが夜通し働いていたのに収穫がゼロだったことをご存じだったので、彼らのために大漁を与えてくださったという、まさに彼らのことを思いやっての奇跡であると見るのが妥当だと思う。結婚式でも、新郎の評判を思いやってぶどう酒を与えたイエスである。この収穫は、確かに彼らの暮らしにとって良き支えになったはずで、だからこそ彼らも、漁獲をちゃんと岸まで持ってきている。弟子たちはこの出来事からイエスへの強い崇拝を覚えているが、イエスご自身としては単に彼らの生活のため、だったろう。イエスはそのようにして人を思いやってくださる方なのだ。

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ルカ 5:1-11

 もう少し詳しくこの出来事を見てみよう。最も有名なものの一つであるから。始まりは、イエスがペテロの舟を借りて、湖上から岸辺の群集に語られたことにある。この段階で、すでに彼らはイエスの働きの手伝いをするように導かれている。彼らとしては、自分自身も心酔している方の業に手を貸すことができたのを、大いに喜んでいたに違いない。だからこそ、その後に来るイエスの突飛な指示に対しても、穏やかに従っていったのでもある。嫌々の状態だったら、こんな指示には応じずに終わっていたはずだ。彼らが果たしたのは、人々がイエスの教えを聞く機会を提供すること、である。つまり、人々の幸いのために労すること、である。何かの貢献をしたかどうか以前に、ここに喜びを覚えられることに、大きな幸いを思う。弟子たちには様々な欠けがあるけれど、でも彼らは確かにイエスご自身に倣うものとして、人々の幸いを願い、尽くすという姿勢を持ち続けている。主の前に生きる上での大きな価値である。

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ルカ 5:1-11

 ペテロたちがイエスの弟子として、本格的な活動を始めた場面だ。彼らはすでにイエスに会い、その教えには傾倒していたのだが、この時からは、それまでの仕事を離れて、イエスと共に旅をする日々へと入っていった。彼らがそのように動かされた理由は10節にあるように、イエスから呼び出されたことにある。他の弟子たちも同様だが、どれほど心惹かれていたとしても、それは通常の信仰生活をもたらすもので、その人がこの特殊な活動に入ることがあるとしたら、それは呼び出されるならば、である。ちなみに、通常の信仰生活は十分に素晴らしいもので、それ以上のものはない。ここで彼らが弟子として歩み始めたのは、そういう信仰と祝福とは別の事柄、一定の使命を与えられていくという部類のものであって、決してこっちの方が尊いなどというものではないことを、心に留めておきたい。いわゆる使徒が存在自体において高度の権威を持っているような扱いを受けるようになったのも後の話で、初代教会での扱いはだいぶ違う。

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ルカ 4:42-44

 イエスが早朝に寂しいところに行ったのは、祈りの時間を取るためである。昼間は人々が詰めかけてくるから、祈り時間すらとれない。いや、何が何でも取ろうと思えばできる。だがイエスは、そういうご自分にとって大切な時間を確保することよりも、その時間は人々のためにと提供し、自分自身の祈りのためには睡眠時間を削って朝にという姿勢を示している。多くの場合、人は結局のところ自分自身のことを優先的に考えるのだけれど、イエスはそうではなかったのだ。再び詰めかけてきた人々は、イエスのそのような心を知ろうともせずに、ただ自分たちの必要、自分たちの満足だけを考えている。だがイエスは、他の人々のためにもということを語りつつ、旅路を進めて行かれる。

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ルカ 4:40-41

 イエスは公生涯において時間的に言えば何に最も多く関わっておられたのか。それは病気の人を癒すこと、である。考えようによっては、崇高な目的を抱えておられる方にとって、これは些細なことだ。人は病が癒されても、またかかるだろう。人はいずれは死ぬのでもある。だが、救い主はそのわずかな安堵のために、彼らと関わり続けておられる。そこに私たちは神の心を見る。主は彼らをどこまでも大切に思ってくださって、小さな幸いでも何でも、しっかり届けてくださる方なのだ。

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ルカ 4:38-39

 出来事自体は些細な事柄で、イエスが何度もなさっていることに過ぎない。それがペテロの姑であったということだけが特別である。これは決してペテロを重視するための記録ではない。それよりもイエスが弟子たちのことを心から喜んでおられたことを示すものと言うべきだろう。イエスは彼らを便利な存在として利用するのではなく、彼らと共に生きることを極上の幸いとして思っておられるのだ。だからこそ、彼らにとって大事な人々のことを顧みておられる。私たちもまた、自分らの大切な人々のことを神が顧みてくださると期待して、待ち望んで良いはずだ。

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