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2017年1月

ルカ 7:38

 この女性がしたことと、ヨハネ12章でベタニヤ村のマリヤがしたこととで、大きな違いがある。使用した油の金額に注目が集まっているのはマリヤのほうで、ルカ7章の女性には見られないことだが、もう一つ、マリヤはイエスの頭に注ぎ、この女性は足に注いでいることだ(ヨハネは足と書いているが、他の福音書からすると、足もそうだが、まずは頭である。ヨハネは13章の洗足とのつながりを想起したのかもしれない)。当時の風習として、大切な客を迎える際には頭に香ばしい油を注ぐということがなされていたそうで、マリヤの行為は喜びと感謝、歓迎の思いの表れであることがはっきりしている。こちらの女性は、そんな大々的なことなどできはしない。一般に、客の足を洗う水が用意されるのだが、その代わりに、つまりは泥だらけの足をぬぐうという程度までが、彼女にできる最大限であった。マリヤの行為はそれでいのだが、この女性の謙虚な姿、それはまさに、罪の赦しと救いを願う思いに、ちょうどよく重なり合うものだ。イエスはそんな姿もご覧になっていて、彼女の真剣な心を見ておられたのだろう。

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ルカ 7:36-40

 この女性が、これよりも前にイエスと出会っていて、そこで罪赦され、助けられたという経験があったのでこういう行動に出たのか、それとも、イエスの噂を聞きつけて、すがるような思いでこうしたのかは、記録されている限りではどちらともわからない。だが、彼女が自らの罪を深く思い知り、神の助けを願い、それをイエスに願っていることは明らかで、つまりはイエスならば救ってくれるという期待と懇願が伴っての行動である。当然にイエスはそのような思いを大切に受け止めるのであり、その人が神の元に立ち直っていくことを心から喜んでいかれる。それはそうであろう。それなのに家の主人であるパリサイ人は、そんな女性と関わると自分が汚れるということしか考えていない。ルカ15章に出てくるが、勝手にさまよい出た羊を、自業自得だと投げ捨てるのか、それとも必死に探しに行くのかの違いでもある。イエスがそのパリサイ人に対して、強く、厳しく語られたのは当然でもある。

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ルカ 7:36-38

 この出来事は勘違いされていることが多いのだが、彼女の名前は決して、マグダラのマリヤではない。そういう記述は聖書には全く出てこない。でも、よくそういうふうに見られているようだ。なぜそういう誤解が広く流布してしまったのかは説明できる。まず、ヨハネ12章に油注ぎの出来事が出てくる。冷静に読むとかなり様子が違うけれど、イエスに油を注いだという点だけは、確かに似ている。そして、ヨハネ12章はマリヤという人の行動である。それで、そうか、罪深い女の名前はマリヤなのか、と考えてしまう。聖書にはマリヤが幾人も登場するが、印象に残るマリヤで、罪深いという定義をつけられそうなのは、これは消去法でもあるのだが、マグダラのマリヤのことだろうという推測が働いてしまう。まさか、母マリヤではあるまいし、ベタニヤ村のマリヤも罪深いという呼び方はあり得ない、と考えるからだ。マグダラのマリヤはイエスの葬られた所でも泣いていたし、罪深い者が受けされてもらっていたのならばわかるぞ、と、これまた想像の世界である。現実は、この罪深い女の名前をマリヤとは聖書は待ったく告げていない。ヨハネ12章はベタニヤ村のマリヤであり、全くの別人である。そして、マグダラのマリヤは7つの霊を追い出してもらっただけで、罪深いと呼ばれている箇所は一つもない。その霊が悪霊だとしても、悪霊がついていた人を罪深いと呼んでいる箇所はなく、深刻度の差はあるとしても、あくまでも病気にかかっている人の扱いと同様である。マグダラのマリヤとこの女性とは全く関係がない。

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ルカ 7:31-35

 イエスが言おうとしているのは、こういうことだ。そこに集まっている人々は、人生について、救いについて、あるいは神について、大いに関心を示しているのであって、どうでもいいとか、そんなふうには全く思っていないのだと表明しているのだ。それなのに彼らは、せっかく神からの呼びかけが語られても、真剣にそれと向き合おうとしない。ヨハネについては変人扱いし、イエスについては小馬鹿にするばかり。疑問があるなら問いかければいいし、間違っていると思うなら堂々と反対すればいい。それなら、こっちも覚悟を決めて向き合うことができるのに、神に対して情熱的ですと言いながら、そっぽを向いているだけの人々。子どもの世界だって、せっかく遊びに誘っているのにそっぽを向き、それでいて暇だの、つまらないだのと言い張っているのでは、仲間から愛想を尽かされてしまう。いったい何をしているのかというイエスの問いかけは、落胆であり、また、悲しみでもある。

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ルカ 7:30

 こういう箇所で、パリサイ人たちが批判されているのを見て、それ見たことか、と批判しているのだとしたら、それはほとんど意味をなさない。イエスはもともと、パリサイ派という仕組みを改善しようとしていたわけではなくて、彼らも含めて、人々が皆、真に神を慕い求める者となっていくことを願われている。だから、こういう箇所を読むときには、それが自分たちの中にもあることを思い出し、助け導いてくださいと神に祈り願うことが、最もふさわしい応じ方、である。

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ルカ 7:27-28

 ヨハネのことを、イエスは最大限に評価している。もっともそれはヨハネの人物像から来るものではない。神の言葉を人々に伝え、キリスト到来への道備えをする人、であるからこそだ。ローマ10:15の言葉も参照したい。だから、他の人にもできる。ただし現実には、そんなふうに生きている人は滅多にいない。ヨハネは誰よりも偉くなりたかったわけではなく、ただひたすら、神の言葉を届けることに必死で取り組んできていた。それ故、まさに偉大な人、である。そしてだからこそ、神の言葉に心を傾け、受け止め、また伝えていこうとする人、つまり神の国の人は、ヨハネ同様、いや、それ以上に意義ある存在、となっている。目の前の相手を高く評価するのはよくあることだが、せっかくの神の祝福、その一人からのものより、もっと豊かなものがあることを、ちゃんと知っておきたいと思う。

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ルカ 7:25

 ヨハネについて語るために、身分の高い人々のことを対比として持ち出した意味合いを考えてみる。預言者とは正反対の生き方をしている人々、ではあるが、それだけでは当たり前すぎて、わざわざ引き合いに出すほどの意味が感じられない。でも、考えてみると、そういう身分の高い人に対して、民衆はその言葉に聞き従い、それぞれの暮らしの中に適用させている。つまり、この世の高い地位の人については聞き従うのに、自分たちが尊敬すると言っている預言者、あるいは崇拝しているはずの神の言葉については、適当にあしらい、そっぽを向き、聞かなかったことにしている。偉い人に対してはそんなことは決してしないのに、神に対してはこの態度。あなたがたは神よりも世の人々のことをはるかに高く重視している、ということか。うーむ、と現代の私たちもうならざるを得まい。

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ルカ 7:24-35

 民衆は、もちろんであるが、ヨハネのことを預言者として認めていた。旧約時代の人々は、しばしば預言者の言葉を無視し、あるいは預言者自身を殺したけれど、この時代のユダヤ人は、自分たちがその時代に生きていたとしたら、けっしてそんなことはしない、と自負していた。だとすれば、当然に、ヨハネの言葉に耳を傾け、告げられた神の言葉に従うはず、である。だが、現実は違っていた。一部の人々は聞き従ったが、多くの人々はそっぽを向き、聞き流しておしまいにしていた。31節からの言葉は痛切な皮肉である。そういう自分たちの実態に気づかないで、我々は神を求め、預言者を尊敬しているぞ、と言い続けているなら、道は決して開かれ得ないのだ。この箇所はヨハネに関する語りではあるが、世の人々に対するイエスの血を吐くような嘆き、うめきでもある。

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ルカ 7:18-23

 イエスの答えは明確で、また、ヨハネを初め、神の御業に心を寄せようとしている全ての人にとっても、はっきりとした答えになっている。まずは旧約の預言である。ユダヤ人であればそれは基本的な理解のレベルである。そして、イエスのなさっていることである。人々のイメージしているメシヤ像とはずれがあるかもしれない。でも、預言の言葉とは合致している。それがはっきりと示されていけば、それで自分たちの理解を修正して、神の心がどこにあるのかを的確に受け止めていこうとする。そうであるはずだという期待を込めて、イエスはこのような答えを与えている。とても心楽しくなるやりとりである。

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ルカ 7:18-19

 バプテスマのヨハネが使者を送ったのは、ルカの記録からすると、こういった奇跡がなされている時である。ヨハネ自身もその知らせを聞き、その上での問いかけである。彼としては、メシヤである方はもっと大きな事柄に取り組んで行かれるのではという思いがあったのだろう。それは当時のユダヤ人全体の意識でもある。ヨハネの場合、むろんそれが単に政治的なことではなく、人々の心そのものを取り扱い、新たにしていくものであることは承知していたはずだ。でも、彼が想起していたのは、もっと大々的な事柄だったのではないか。人々に寄り添っていくような姿に、戸惑いを覚えたのかもしれない。もっとも、イエスの御業としては、やがて十字架というものがあるからこそ、そこへの道筋においては必ずしも革命的に世の中を揺り動かす必要性はなく、むしろ十字架のことを受け止められる状況を整えることのほうが大きいと考えておられたのだろうが。幸いなことに、ヨハネは一人で悩んで混乱に陥るのではなく、イエスに直接問いかけている。これが意義深い。

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ルカ 7:11-17

 引き続き、癒やしの業が報告されている。今回は、死んでしまった若者を生き返らせる業である。イエスの生涯でも、この類の業は決して多くはない。イエスがこの類のことはあまりなさらないのは、人の生死が人類にとっては決定的な意味を持っているので、それを覆す必要性は滅多にない、ということかもしれない。それに、生き返っても、人はいずれは死ぬのでもある。その決定的な定めについては、イエスはこういう形では介入していない。その代わり、救いに伴う永遠のいのちという、もっと大きなことでの変革を与えてくださっているのだが。そういった大枠を、でも、あえて覆すことを望まれたときに、この奇跡はなされている。13節の言葉は、奇跡の大きさ以上に、とても大事な記録である。主は、その一人の母のことを、かわいそうに思われた、のである。人類の救いという重大事と同様に、主は目の前の一人の人を思ってくださっている。

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ルカ 7:6

 権威に関する百人隊長の言葉が強い印象を与えてくれているので、つい忘れがちかもしれないが、彼の言動には、イエスが神としての権威を持っているのだ、という点についての疑問のかけらもない確信が伴っていることも注目しておきたい。当時、イエスの権威が様々に論議されていた。イエスご自身は明確に示されていたけれど、人々はそれを認めたり、反発したりしていた。ユダヤ人が、である。それなのに異邦人であるこの百人隊長は、最も単純に、素直に、その権威を受け止めている。ここは難解な理屈は必要がない。イエスのなさっていること、語られていることを見ていれば、この方が明確に神としての権威を示されていることは分かる。それを信じて受け入れるか、それとも、一切は嘘偽りのまやかしだと言うのか。道は二つに一つなのである。

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ルカ 7:2-10

 百人隊長の信仰について、その注目点は神の権威をわかっていたことにある。神が真にこの世界を支配する権威を持っているなら、わざわざ来てくれなくても、指示するだけで、あるいは、意図するだけで、物事は間違いなく動く。むろん、実際には神はその場に来てくださるのだし、それが人にとっての励ましになることもわかっていてくださる。ただ、論理的に言えば、確かに、来る、来ないにかかわらず、である。通常、私たちは神に、来てください、と願って良いのだ。でも、気をつけた方がいい。私たちが納得するような形で神がなさらないと承伏しなかったり、信じられないと言い張ったりすることのないように。神は権威ある方であって、決して、人の家来ではないのだから。

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ルカ 7:1

 耳を傾けている民衆に、とある。言葉というものは、相手が聞こうが聞くまいが、一方的に発することは可能だ。でも、その人に聞く気がなければ、その心には届かないし、応答も期待できない。神は全能であるが、でも、人の心に刷り込ませるというやり方はなさっていない。その理由の一つは、人との関係に愛を求めておられるからで、単なる服従、いや、操作通りに動くというようなことではないからだ。神はどこまでも忍耐強く語ってくださる。理解できないと思うならば、求め続けてもいい。でも、そういう思いを投げ捨ててそっぽを向いてしまうなら、神の呼びかけを受け取ることはできないのだ。

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ルカ 6:46-49

 この箇所は、キリストという土台の上に人生を建てる、という趣旨で語られることが多い。一般論としてはそれも大事なことだが、語られている内容からすると、キリストの語られたことを実行すること、が土台という話である。つまり、聞いて喜んでいても、そのまま放置しているのだとしたら、砂の上、である。4つの種の岩地の場合によく似ている。同じ方の話だから似ていて当たり前だが。キリストの言葉を生きるのは容易なことではなく、失敗や不足が多々あると思うのだが、それは岩を掘って土台を据える苦労にも重なるだろう。そういう奮闘も含めて、キリストにあって生きることが問われている。この方は趣味ではないし、心を豊かにしてくれる素敵な存在、でもなく、私たちを生きさせてくれる方、なのだから。

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ルカ 6:43-45

 我が身をこそ省みるべきなのは、良いものが生み出されるには、そこに良き心が存在する必要があるからだ。様々な技量を磨くのも必要ではある。だが、結局のところ、その人の心に何があるかによって、一切は左右されていく。たとえば、もてなしたいという心があってこそ客は居心地良い時を過ごし得るのであり、居心地良くいて欲しいと願えば技量も磨くだろう。でも、自己の技量を高めるため経験の機会という感覚でいるとしたら、どれほど修行を重ねても、客は居心地良く過ごすことはないだろう。むろん、人のことなど関係ない、好きなように生きるだけ、と思っていたら、自らの心を良くしようとは思わないのかもしれない。でも、人が人であるということは、自分だけではなく、他の人々と共に生きることであるのだが。

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ルカ 6:39-42

 他の人に要求する心は、しばしば他の人を審査、判別しては処置するという姿勢になりがちだ。でも、相手のために仕える姿勢を考えると、他者のことをどうこう言うよりも、まずは自分自身を見定めることが重要、ということに気づかせられる。人のことには関心を持たずに自分のことだけに集中という、自己中心的なものではない。他者と大切に関わるためにこそまずは自らを整える、という感覚である。自分は悪くない、回りが間違っているのだ、という姿勢を持ち続けていると、この世界は壊れてしまう。他者に問題があるとしても、それが改善されることを望むのであればなおさらのこと、自らのあり方を変えていくことによってしか、事は動かないのだ。愛することはその最たる例でもある。愛せと要求しても、脅しても、何も変わりはしない。できることは、自分がその人を愛して、答えがなくても愛して、そして、忍耐強く待ち続けるこしでしかない。見るべきは自分、であるのだ。

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ルカ 6:37-38

 この箇所の趣旨は、見返りを期待せずに与え、尽くしていくこと、だ。さばくな、という言葉も、その趣旨で受け止める必要がある。悪を行っている者に対して、それは間違っている、と言うことは神の前には当然のことであって、何も言わずに見ないことにする、等はとうてい神の御心に合致するはずもない。だが、聖書が言い続けているのは、厳しい言葉が発されるとしても、それはあくまでもその人自身のため、その守りと助けのため、である。決して我が身の正しさを示すためではないし、悪を断罪することで住みやすい世の中を造るため、でもない。そういう行動だから、その相手から理解されるとは限らず、良き反応が得られるかどうかもわからない。でも、案ずるには及ばない。神は決して、じっと我慢しろと言うのではなく、神ご自身が赦しを与え、救いを与え、恵みを揺すり入れてくださるのだと、そう語られている。神がおられるからこそ、人はこのような生き方ができるのだ。

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ルカ 6:27-38

 敵を愛する、という有名な言葉が出てくるが、この箇所としては、敵対する相手とどう向き合うか、という感情論ではなく、むしろ、見返りを求めずに相手に与える、という趣旨が中心に据えられている。敵のことも、相手はきっと自分を愛してはくれないだろう、でも、その相手を愛するのだという話である。相手との仲直りではなく、憎まれ続けている相手であることを変えられなくても、愛するのである。なぜか。それは神ご自身の姿がそこにあるからだ。私たちは神によって、神に似せて造られたもの、神のこのような心の故に救われ得た者。それだからこそ、である。もしそこで、見返りなしに尽くすなどあり得ないと言い切ってしまったら、それは自分たちの救いそのものを否定するような羽目になってしまう。個々人の取り組みというだけでなく、この世界全体の有り様として、見返りがなくても相手のために尽くす、という姿勢が整えられていったら、完全ではなくても、そのような方向性が願い求められ始めて行ったら、そうしたら、この世界は大きな転機を迎えるだろう。これを夢物語、にはしたくない。

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ルカ 6:24-26

 幸いな状況にいることを否定しているわけではない。神が与えてくださる祝福には、平安も繁栄もある。貧しくあれと命じているのではない。ただ、今現在、幸いにも平穏でいられるのならば、そのことを決して当たり前と思わず、神の格別の恵みとしてしっかり受け止め、安穏としているのではなくて、その幸いを他の人のためにも用いていく志を抱いていくことは重要だ。それでこそ、幸いを真に幸いなものとすることができ、また、苦難を乗り越えていくための力を手にすることもできる。神によってこその歩みであることを、しかと覚えておきたいものだ。

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ルカ 6:20-21

 ここに並べてあるのは、つらい状況に置かれている人々ばかりである。マタイでは大事なことに取り組む人々も含まれていたが、ルカの場合は、今は苦しんでいる人に対して、でも神がきっと助けを与え、道を開いて、祝福へと至らせてくださるのだと約束し励ます言葉として語られている。こういう約束は大切である。決して間違った道を歩んではいないはずだと確信していたとしても、状況がつらいものであり続けると、人の心はやはり崩れ落ちてしまいそうになる。過ちを正して叱責する言葉も必要だが、まっすぐに歩もうとしている人に対する慰めと励ましの言葉は、それ以上に価値あるものと言えそうだ。

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ルカ 6:20-26

 マタイ5章からに出てくる山上の説教と同じような教えが語られている。17節からか、平地の説教と呼ばれることもある。マタイからのコピーではない。様々な場所で同じような話をするというのは、現代でもよくあることで、マタイ、ルカ、それぞれにある日の説教を記録に留めたということである。もっとも、あえてこのように別々に書いているのだから、類似・相違にばかり捕らわれずに、それぞれに新鮮な思いで向き合いたいものと思う。テーマや個々の内容は共通していても、その時々で語られる趣旨・様相に違いが生ずるのは当然。その当たりが、教科書とか百科事典とは違う聖書の成り立ちでもある。

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