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2017年2月

ルカ 9:10-11

 弟子たちが旅から戻ってきた時、イエスは彼らに休息を与えようとした模様だ。ご褒美というよりは、疲れ過ぎることから来る人の弱さをご存じだからこその対応、だろうか。あるいは、他の福音書によれば弟子たちは取り組みの成果に高揚した思いでいたようなので、いったん冷ます必要を考えられたのだとも言える。興奮するような出来事は心楽しいが、常にそのままいられるはずもなく、また、それは決して健全ではない。静まる、ことの必要性を、慌ただしい現代の私たちも意識すべきところである。

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ルカ 9:7-9

 ルカは、イエスの活動が拡大している状況を語っているのに重ねるようにして、国主ヘロデの危惧を記録している。彼はイエスをヨハネの生き返りだとは考えていない。だが、同時期に二人も、このようにして神の業を遂行する人が出てくるというのを驚きとしてとらえているのは、なかなかの視点とは思う(具体的なことではイエスとヨハネとではしていることの中身がかなり違うだが、神の権威という点では類似する)。ヘロデは答えを見いだせずにいるのだが、それだからこそ、会ってみたいと願っているのは、それなりに素直な反応ではないかとも思う。もっとも、それは単なる興味本位の域を出ずに終わってしまっているのは、実に残念なことであるのだが。

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ルカ 9:3-6

 マタイに比べて、イエスの告げた注意事項はとても短い。その内容は、一言で表すならば、心配しないで、神の導きを信頼して行ってきなさい」ということだろう。だから、持ち物を心配することはなく、滞在先についても導かれるままに、そして、結果についても神にお任せして、というふうに語られている。準備をするのは不信仰、というような話ではない。イエスは別のところで、ちゃんと備えてから始めるべきだとも語られている。今日的に言えば、備えをせずに飛び出していく人の多くは、備えが困難であるために待っていられなくて、という様子が強い。だが、神を信頼するのであれば、備えもちゃんと与えられると信頼して待つことができるはずで、その信仰がない人が、飛び出していけば何とかしてもらえる、と思うのは、明らかにおかしな話である。大事なことは、神ご自身こそが事をなしてくださるという点で、だからこそ励むのでもあるのだが。

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ルカ 9:1-2

 弟子たちと言うと、イエスの昇天後、使徒の働きに見られる活躍が有名だが、イエスが地上で活動中もすでにその一翼を担っていたようである。もっとも、この時期の彼らはキリストによる贖いや救いのことは理解していなかったので、一般的な意味合いでの呼びかけをなしえただけだろうが。バプテスマのヨハネと似たような立ち位置と言えるだろうか。それでもイエスは彼らに権威を授けており、その意義を重視しているのがよくわかる。十分とは言えないとしても、それでもこういった働きの意義が認められているという点と、それから、彼らには救いはなしえず、あくまでも前座に過ぎないということと、その両方のことを踏まえておくことが大事である。それは今の私たちが主の働きに携わる場合にも言えることだ。

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ルカ 8:56

 なぜ、誰にも話すなと命じられたのか。もともとイエスの御業というものは、人々の間で評判になるためではなく、ご自分の権威を示すためでもない。それは目の前にいる人たちの必要に応えるため、その人々を支え励ますため。それだから、誰にも知られなくても何の問題もない。むしろ、これで評判になって、その娘が騒ぎの的になってしまうことよりは、沈黙が保たれた方がずっと良い。それこそ「何だ、死んだのではなくて、眠っていただけか」と言われるほうがずっとましなのだ。物事は、その本来の意図、目的を大事に考える必要がある。それとは別の事柄に目を奪われていると、事は閉ざされてしまうのだから。

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ルカ 8:54-55

 回りにいた人々はあざけっていたが、イエスはそんな人々は捨て置いて、まっすぐに亡くなった少女のところに行き、そして、助けている。今、そこで助けが必要なのはその娘であり、そして家族であるからだ。回りの声や評判は、ここでは重要なことではない。彼らの対応は、後でいくらでもできるし、それは別の話である。今ここで、彼らの不信感を捨て置いたとしても、後でいくらでも対応は可能で、一時的に捨て置くことで群衆が受ける傷などは、ほぼ何もない。ちゃんと考えてみれば、何をまず求めていくべきかは明らかなはずである。でも、人は往々にして、その良い意味での割り切りが難しい。そして、ほかのことを気遣いすぎる結果として、大事なことが失われていく。本当に必要なこと、大切にすべきことがどこにあるのかを、しっかりと見定める者でありたい。

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ルカ 8:49-56

 ヤイロにとっては最悪の事態が訪れてしまった。間に合わなかったのだ。この女性に対して怒るわけにはいかず、群衆が邪魔だったと言ってもどうにもならず、むしろ、もっと早くにイエスを呼びに行けばと自らを責めたかもしれず。でも、ともかく間に合わなかった。それはヤイロにとって、いや、誰にとっても、終わりを意味して、絶望を意味して、崩れ落ちる思いを意味することだ。取り返しのつかない事態は、人を圧倒し、そして、押しつぶしてしまう。だが、イエスはそんなヤイロに対して明確に、これは全くもって終わりではないことを告げている。事はまだ動いていることを、そして、助かる道がちゃんと用意されていて、事は進んでいることを、主は告げている。人にとっての限界は、でも、神にとってはそうではないことを、私たちは何としても知るべきなのである。

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ルカ 8:43-48

 この女性が、イエスに声をかけなかったのは、人前に出たくないということより、断られるかもということより、直らなかったらという不安の方が強かったのではないか。それなら、さわる程度のほうが落胆の傷は軽くて済む。どうせ無理だと自分を納得させることができる。イエスは、そんな彼女の心でも受け止めて、また、助けを与えてくださる。ただ、それで終わりにしてしまっては、彼女自身のこれからの歩みのためにもったいない。だから呼び出して、ちゃんと語らせて、そして、祝福の言葉をかけている。信仰は、助けがあればいい、というだけでなく、そこから先に、神の幸いの中を生きていくことができるようにということが伴ってこそ。だから神は常に人々に呼びかけ、応答を求め、自らの信仰を表明するようにと導いて行かれるのだ。

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ルカ 8:43-48

 ヤイロからすれば、この出来事は思いもよらない障害とも思えたはずだ。少しでも早くと願っているのに、それを妨げている女性の存在。明日でも良いだろうに、と言いたくなったとしても不思議ではない。いや、ヤイロではなく、読んでいる私たちのほうがそういう思いを抱いてしまいそうだ。でも、落ち着いて考えれば、この女性の登場はヤイロにとって大きな励ましである。一つには、イエスには確かに力があるのだと確認する機会として、もう一つは、イエスが彼女に関わって足を止めているということは、その先にある娘のことについても、大丈夫、間に合わないなどと言うことは決してないのだという、イエスご自身による保証を示されているという点でも、である。そう、娘のことはすでにぎりぎりなのだ。順調に行っても間に合わないかもしれない。でも、すべてをわかっているはずのイエスがあえて足を止めるのだとしたら。そこには50節の言葉へとつながる保証が見えてくる。

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ルカ 8:40-42

 有名な出来事が続いている。この父親の思いを考えてみよう。回りは騒いでいるが、彼としてはただ単純に、イエスに一刻も早く家に来てもらって、娘を助けてもらいたいという、ただ、それだけであったはずだ。彼は会堂管理者という立場からも、人々の思いにも配慮することが身についた習性になっていたことだろうから、決して、人々を押しのけて引っ張っていくという様子ではない。でも、それは、のんびりとしていても構わない、などという思いは微塵も含まれていないものだったはずだ。イエスは、ヤイロの思いを十分にわかっておられたようである。すぐさま出掛けていこうとされている様子が見て取れる。むろん、事態はすでに逼迫していて、間に合うかどうかわからないぎりぎりの状況ではあったのだろうが。

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ルカ 8:38-39

 この人が一緒に行きたいと願ったのは、ごく自然なことだと思う。彼はまさに人生そのものを助けてもらったのだ。その気持ちを考えれば、同行を許すのは自然な流れだとも思う。彼はきっと、良き弟子として活躍し得るはずだ。でも、イエスは彼を家に帰らせた。彼がなすべきことは、自分の家族に、あるいは地元の人たちに、与えられた幸いを語り伝えることだと言うのだ。時に、パウロのようにして世界と出掛けていって語り伝えることが貴いと受け止められることがある。だが、パウロ自身にしても、たまたま彼にはそのような使命が与えられたということであって、どっちが優れているというような話ではないことは明らかにされていた。人は誰でも、神の導きによってこそ、自分の居場所を知り、そこでこそ取り組むべきものであるのだ。この人は、イエスの言葉を受け止めて、自分のいるべき場所へと進んで行っている。

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ルカ 8:34-37

 村の人々は、一連の出来事について報告を受けて、イエスの存在に恐れをなしている。彼らはもはや、豚の損失をどうこう言っているわけではない。人は、自分の思いを越えた出来事に直面すると、そこに大切な存在を知ることもあるが、ただ震え上がって退く場合もある。私たちは神の御業と御心について、その全てを把握できているわけではないけれど、決して恐怖ではなく、私たちを顧みてくださる方としての神の力があることだけは、ちゃんと心に覚えておきたいと思う。そうすれば、理解はともかく、少なくとも、驚きあわてて、せっかくの祝福があるのに逃げ出す、というようなことにはならずに済むだろうから。

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ルカ 8:26-33

 この出来事の焦点は、汚れた霊に関する情報提供ではなく、イエスがそういうものに対して完全な権威を発揮しているということにある。格闘すら気配もない。汚れた霊はイエスに会った瞬間に圧倒されている。格の違いというか、弟子たちはこの方の偉大さをはっきりと見たのだ。時に、人の手には負えないように思える事柄があるのだが(汚れた霊のようなものだけでなく)、神はその一切について、完全に圧倒しているのだということを覚えておきたい。そして、イエスがこの男の人を助け出すことを意図して行動されていることをも。豚を犠牲にして良いかどうかの議論もわかるが、イエスはごく単純に、この人を助けることを最優先に考えておられた、ということが、この記事からはよく見えてくる。

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ルカ 8:26-29

 福音書に出てくるこういう人たちの状態を、どう説明すれば良いかは明確ではない。聖書全体の中でも、福音書にのみ顕著な存在で、いわゆる悪魔の支配下に入っている人々(エペソ2:2など)とは明らかに別の意味合いの状態だと言える。一般論としては、悪魔が人を攻撃するのは物理的な事柄ではなく誘惑によるものであり、人々を自分の側に誘うことが最大のねらいだ。こういう類の害悪をもたらしても、悪魔にとっても何の意義もない。むしろ、こういう現象を起こすことで回りの人々の心に恐怖を植え付け、神ではない別の何かを恐怖する(結局それは服従につながる)心を生じさせようとしているのだ。だから、福音書では、こういう状態の人たちが道徳的、理性的な意味から叱責されていることはなく、病気にかかった人への対応と同じようなもの、つまり、かわいそうな人々で、助けるべき人々、というふうに扱われていることを覚えておきたい。

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ルカ 8:22-25

 嵐の中で怖がらずにいられるかどうかは、とうてい自信がないというのが、ほぼ大半の本音だろう。弟子たちが恐れていたことは、とうてい責められないぞと思ったりもするところだ。それなのにイエスの言葉は結構厳しいのは、弟子たちへの強い期待があるからだと思う。彼らはずっとイエスと共に歩んでいた。その偉大な力も、人々を思う心の深さも知っているはずだった。だからこそ、震えおののくのではなく、恨みがましい言葉を発したりするのではなく、もっとまっすぐに願い求めて欲しい、そういう期待であったのではないか。いや、単なる期待ではなく、そこを崩してしまうと、信仰を生きるあり方全体の大切な力が衰えてしまうからこそ。後にパウロはローマ8:32のように語る。あるいは厳しく思えるかもしれないが、それは豊かな祝福を生きる上での、大きな要でもあるのだ。

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ルカ 8:19-21

 母や兄弟を無視した、ということではない。一つには、家族だからということで、助けを必要として集まっている人々に優先させたりはしないということを示すのと、それから、この機会を活用して、ご自分が人々のことをどう思っているのかを示そうとされているのだ。前者は、人の社会ではしばしば見られるものだが、誰が今すぐの助けを必要としているのか、を見定めるのに目を曇らせる危険性がある。後者は逆に、家族を思い、家族のためには何でもするぞ、という感覚を当てはめて、人々のためにとどれだけ思っているのかが示される。実際、御子はご自分のいのちをも差し出して、人々の救いを成し遂げられたのだ。

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ルカ 8:16-18

 あかりの話は、マタイでは種まきの話とは別の箇所で語られているが、ルカが記録した時の話では一緒に語られたようだ。イエスはいくつかのテーマを、その時々の必要に応じて組み合わせておられるということでもある。この場合は、種が蒔かれて、良い始まりが与えられているというところから、せっかくのものを無駄にしてしまわないようにという警告として考えられる。隠すのは、他の人に知られないように、というだけではなく、自分自身の生き方もその良い種は封印して別の生き方をしようとするのも含まれていくだろう。そんなことをしたら、せっかく手にした幸いも喜びも失われてしまう(18)のだ。もともと、光が他の人に届くのは、伝えようとするから以前に、自分がその光を生きることによってこそ、つまりは光を輝かせているからこそ、である。

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ルカ 8:15

 御言葉が届いても、受け手の状態に問題があると十分な祝福には至り得ないことが語られてきたが、最後は良好な成長が期待できるもの、である。もっとも、農作業として言えば、ここが出発点であって、そういう畑地でもなお、ちゃんと育つかどうかは神の御手による(第一コリント3)のであるが。良い地の意味合いとしては、正しい、良い心、とされている。頑張りの程度ではなくて、何を喜び、何を願い求めるか、にこそ注目すべき点があるのだ。とすれば、まずは日々に祈りにおいて、御心がなるように、地の上に神にある平和があるようにと、いつでも祈ることから始めたい。そうすれば、正しいもの、良いものを願い求める心、でありえるだろう。

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ルカ 8:14

 この課題は、対応が最も難しい。農作業で言えば、いばらを取り除いてしまうのが策だろうが、信仰生活にそのまま当てはめると、俗世間を離れて一人修行の道を、ということになってしまい、これは神が意図されている信仰生活ではない。この世において生き、かつ、この世とは違う者として生きる、のがふさわしい立ち位置だ。だから難しい。人の努力や心がけでどうにかなるものではなく、常に神の助けを受け、御心を常に確かめ続けることが、いばらを突破できる鍵になる。なお、ここには迫害の類は言及されていない。各自の気持ち次第で選択可能なもの、とのぶつかりが問われている。

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ルカ 8:13

 現代に限らないかもしれないが、このタイプは特に留意すべきものだと思う。つまり、福音に触れて感動はするし、喜んで受け入れもするのだが、その思いをしっかり根付かせていないために、あっけなく衰退してしまうのだと言う。この場合、いっんたは受け入れたのだから救いはありえるのでは、というような議論は別の話である。神の願いは、人々がこの救いに生きて、ぜひとも、その祝福をいっぱいに楽しみ、喜んで欲しいのである。天国に行けるかどうかだけでなく、今の世においても、である。それには、手にした感動を根付かせていかねば。難しいことではない。御言葉に親しみ(申命記6)、神の前に祈り、礼拝などにおいて他の人々と共に歩むこと、である。それがこの信仰の基軸であるのだから。

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ルカ 8:11-12

 せっかくだから、一つずつ、考えてみよう。道ばたは、もともと種が育ち得る環境ではない。全く期待されていない、望まれてもいない、そのようなところに神の言葉が提示されても、人々は見ることもなく忘れ去ってしまうだろう。福音を届ける際にも、このことはよく覚えておきたい。もちろん、人には相手の心の内はわからないので、ともかく届けるというのも必要ではある。もしかすると良い畑かもしれない。でも、できることなら、土地を耕すことから始めた方が良い。私たちの願いは、ともかく届けることではなく、それが芽吹き、生長することであるのだから。耕す方法については、よよくく考えてみるべきなのだが。この場合、悪魔は奪い取っていく存在ではない。人々はすでに捨てている。悪魔のせいにすることはできない。

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ルカ 8:9-10

 イエスのこの言葉を、わざと世間一般からは真意を隠しているのだ、というふうに受け止める見方があるが、イエスの言動全体からすると、その理解には無理があるようにも思う。隠したのではなく、人々がその真意をしっかり受け止めるためにワンクッション置いた、ということではないか。むしろ、こうやって解説をすることによって弟子たちには早期に理解をさせて、彼らが他の人々に伝えることを意図されている。すぐに答えを示すのと、時間をかけて受け止めていくようにするのと、はたしてどちらが幸いかな、とも思うのは、マタイ19:30の言葉もあるからだ。ともかく、こうやって知らされた弟子たちには、他の人々が知ることへの手助けをする責務が伴う。

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ルカ 8:4-8

 この話は9節以降のイエスご自身による解説と共に読む方が良いのだが、もともとイエスは解説を加えないで例えだけで話されたのだから、そのつもりで読んでみる。話は分かりやすく、映像としても浮かんでくるものだし、種が何か大事なものを指し示していることにはすぐ気づくだろう。しかし、その大事なもの、あるいは価値のあるものが同じように提供されたのにもかかわらず、受け手の側の状態によって、その意義・効果は全く違ったものになる、というのだ。イエスの話だから、それが神の関わることだとはすぐに理解したはずで、神が偉大な力をもって事を行われても、それが功を奏する場合と、ならない場合とがある、いや、せっかく与えられているのにそれによって祝される場合と、無駄にしてしまう場合があるのだ、ということになる。せっかく神が与えてくださったのに、それを無駄にするなどということはあってはならないことのはずで、語られたことの深刻さを弟子たちは強く意識したのではないか。牧歌的な絵物語にも見えるけれど、いやいや、かなり驚愕的な話であるのだ。

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ルカ 8:1-3

 イエスは弟子たちを伴って各地を巡り歩いておられたのだが、そこには女性たちの姿もあったことが書き記されている。信仰的な事柄に関わる女性が多いことは古今東西に知られているが、あるいはそれは、女性ならではの性格的なことだけではなく、仕事や社会に縛られることの多い男性よりも動きやすかったという面もあるのかもしれない。一方で、そういう女性たちの存在に光が当てられることが少ないのが世間一般の通例であるが、聖書ではこのように繰り返し彼女たちの存在と活躍が記録されており、神ご自身の目が確かに彼女たちに注がれていることを読む者たちに思い出させてくれる。「男子も女子もない」というガラテヤ3:28を思い出す。

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ルカ 7:48-50

 赦しをこの女性に告げるイエスの言葉は、すでに与えられているものを確認する意味は、今ここで赦しを与えるという意味か、それはこの出来事以前の女性の推移が示されていないので、確定的なことは言えない。ただ、いずれにしても、彼女はイエスの宣告によって前を向いて歩んでいけるようになったのであるし、回りの人々は、イエスが確かに罪の赦しに関わる権威を示していることを目の当たりにしたのではある。人々はそれを神に限定される権限だと考えていたので(儀式に基づいて祭司が追認的に宣告することはあったはずだが)、イエスのこういう言動は人々に驚きと覚醒と、そして戸惑いをもたらしていた。イエスは声高にご自分の神としての権威を主張したわけではない。だが、その姿には繰り返し、神としての業が表されていく。弟子たちが神の子としての告白をしていくようになるのは、こういうことの積み重ねが要因としてあるはずだ。今も私たちは、聖書に記されているキリストの姿を見ていく時に、ここに人となられた神がおられることを確信していくことができる。

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ルカ 7:44-47

 この部分は、女性に対して批判的な態度を取っているパリサイ人への皮肉的な戒めの言葉として受け止めるのがふさわしい。決して、たくさん神のために尽くせばたくさん赦されるということを教えているわけではない。人々の行為の中には、その人が赦されていることについてどれだけ自覚しているのかが現れていくということで、その点では、このパリサイ人は、女性に対する態度でも、それから、イエスへのもてなしの部分でも、自分が神から受けている幸いの豊かさ、赦されていることへの喜びが全く見出されない、ということだ。彼らに赦されているという自覚が欠落していることについて、イエスは他の箇所でも鋭く指摘している(ルカ18:9-)。彼らは律法を大事だと言い、規定通りのいけにえも捧げていたのに、赦されることの必要性を考えてもいなかったということか。それは神の前に立つ際には、深刻なことである。

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ルカ 7:40-43

 このパリサイ人は、罪深い女など、と唾棄しているのだが(取税人や罪人に対しても同様だが)、当時のユダヤ社会は、罪には赦しがあり得ることが神の教えであることを認めている。律法にはそのための儀式が書き記されており、人々はそれを行っていた。もし、罪を犯した者は二度と受け入れない、としてしまったら、それは儀式も、律法も、赦しを定められた神をも否定することになってしまう。この女性は、赦されたことに対する感謝からこういう行動に出ているのだから、それを拒んだり、やめさせたりするとしたら、それは赦しを否定し、あるいは拒絶することになる。パリサイ人は、罪の部分だけを見て拒否反応を示しているが、もし神の前に立つつもりならば、赦しがあるという観点を決して忘れてはいけないのだ。これは現代にも言えることで、罪について厳格に考えようとするからこそ、赦しの存在を決して忘れてはいけないのだが、それが抜け落ちているからこそ、この世は暗黒へと転げ落ちているのだ。

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ルカ 7:39-50

 この話はじっくり見てみたいが、まずは全体像。このパリサイ人が考えたことは、一面的には常識かもしれない。朱に交われば赤くなるのごとく、間違ったことをしている人々からは身を離しておけというのは、よく語られる忠告でもある。汚れは移るという感覚も昔からあるもので、だとすれば、「罪深い女」と関わるのは避けたいと考えるのはありがちなことで、イエスを特別な存在と考えていればなおさら、そういう思いを抱くことだろう。でも、ここに決定的な食い違いがある。イエスは救い主である。我が身を立派に成り立たせるのが目的ではなく、問題を抱えている人を助けるためにそこにいる。だから、こういう人々との関わりは、イエスにとっては必然なのだ。こんな例はどうか。スポーツ選手は我が身を最高の状態に整えて試合に臨もうとするから、風邪を引いている人の近くにはいくまい。だが医師は、その人々の治療を意図しているから、大いに関わっていく。パリサイ人の思い違いは他にもあるが、まずはイエスの意味を間違えている。今でもそういう間違いが多いのかもしれない。

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