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2017年3月

ルカ 10:29-37

 良きサマリヤ人という呼び方で知られている物語は、「私の隣人とは誰か」という問いへの答えとして語られていることを覚えておこう。このサマリヤ人の行為そのものも大いに考えさせられるものであるが、本来的には、サマリヤ人にとってたユダヤ人は隣人ではない。そんなふうには認識していない。でも、倒れているその人を見て、助けが必要なのだと悟ったときに、彼はこの旅人の隣人に「なった」のである。隣人だから助けるのではなくて、隣人になって助ける。むろん、身近にいる隣人を助けるのは大事なことで、それを放って、どこかに隣人はいないかと探し回るのはおかしい(そういう趣旨の話は聖書に何度も出てくる)。でも、私の隣人はこの人たちだけ、と限定するのは、全くもっとイエスの教えとは別のものである。

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ルカ 10:27

 神を愛すること、隣人を愛すること、この二つが神の教えのすべてを集約するのだという答えは、とても大切なことである。むろん人はそんなに素直ではないので、もっと綿密に語られねばどうにもならないのだが、でも、突き詰めて言えばここである。それをすれば永遠のいのちが手に入る、ではないけれど、いのちを与えられた者としてどう生きるのかを言うならば、この二つのことは重要である。そしていずれも愛するという言葉で語られていることも。愛は決断であり、覚悟であり、犠牲を払うことであり、自分のためではなく相手のことを思うことであり。神が与えてくださって恵みの大きさを思う時にこそ、これが実現していくのである。

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ルカ 10:25-28

 何をしたら、という問いかけは、神の前では本来、意味をなさない。神に認めてもらえるだけの功績など、人には成し遂げ得ないのだから。もっとも、だからといって諦めて、投げ出しているよりは、必死で探し求める方がいい。ルカでは否定的な扱いになっているが、マルコではその積極性が実を結んでいる様子も語られている。人の行動はたいがい、両面性があるのだ。そして、ここでイエスが導き出したのは旧約に記されていることで、だからこそ律法学者自身も答えることができている。実は、大切なことはかなりの部分で、ずっと以前から神によって示されている。人はそれに気づかず、受け止めようとしないで来ていて、まさに自ら穴に落ち込んでいるのだ。

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ルカ 10:23-24

 確かに、弟子たちは神の約束が実現していく様子を見ている。旧約の預言者たちは、この世においては見られなかったのに、である。それは実に大きな幸いである。とすれば、2000年後に生きている私たちは、なおいっそうの恵まれた境遇にいるということか。時々、イエスの時代に生まれたかったとか、イエスご自身と直接会いたかった、というようなことが語られる。その気持ちも分かるけれど、それはまあ、天の御国でということで良いわけで、むしろ、今の時に行かされていることの幸いをきちんと受け止めていくことをしておきたいものだ。

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ルカ 10:21-24

 人々自身の功績ではないと告げた上で、イエスはこれらの人々の幸いを心から喜んでいる。ここで目の前にいるのは弟子たちであるが、もっと信者一般としても良い。決して力ある者ではなく、足りないところだらけ、でも、そんな人々が神にあって用いられて、他の人々に豊かな幸いをもたらす手伝いができたとすれば、これは存外の喜びであり、また、神がそのように用いてくださったことに深く感謝を覚えるのだ。第一コリント1:26-とも重ねて読んでみたい。

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ルカ 10:17-20

 この言葉は、神の業に携わる時には、是が非でも心すべきものである。どれほど幸いな結果が生まれたとしても、それは神ご自身の御業ゆえのことである。自分たちの功績ではなくて、いや、そんなことを誇る必要性がない。もともと、私たち自身にとって必要な、十二分の祝福は、すでにキリストの御業によって確保されているのだから。キリストによって与えられる祝福以上のものを自分たちの頑張りで手に入れる、などがあるはずがない。ここには悪魔に関することでの成果が出ているが、この類のことは、格別の警戒が必要である。

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ルカ 10:12-16

 とても厳しい宣告のようにも思える。ただ、この言葉はむしろ神の嘆きであることを心に留めて読むべきである。神は超然として人類の悪をせせら笑いつつ断罪しているわけではない。この方はその罪を贖うために御子を投げ捨てられたのである。もちろん、神の言葉は厳しく、つまりは、人の抱えている罪はあまりにも重い。そのことを誰よりも嘆き、また心を痛めておられるのは神ご自身であることを覚えつつ、このような激しい言葉は読む必要がある。

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ルカ 10:8-11

 神の祝福がその相手に届くかどうかは、結局は、神ご自身とその人自身の問題である。人にできるのは、何とかして届けること、知ってもらえるようにすること、でも、それに応じるかどうかは本人次第だ。それで、もし、受け止めようとしないのであれば、次の町へ行け、とある。自己責任だから、という。これは旧約の預言者に関する言葉ともつながるものだ(エゼキエル3章)。それは、ほかにも届けるべき町はいくらでもあるから、である。もっともこれをそのまま適用して、反応がないから諦めて別の町に行こう、というのは妥当とは言いがたい。ともするとそれは単に、目の前の成果を追い求めるだけになりかねないし、面倒を回避しているだけにもなりかねない。忍耐強く、ということは神の御業に携わろうとする時の必須であることを、覚えておきたい。

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ルカ 10:5-7

 ここで告げられているのは、自分の居心地の良い場所を探してうろうろしたりせずに、神が備えてくださる場所と信じて、受け入れてくれるところに腰を落ち着けてしっかりやれ、ということである。その家の人が立派かどうか、信心深いかどうか、あるいは、自分と波長が合うかどうかは関係がない。これもまた、人の判断ではなく神のもとでの歩み、という話の続きである。なお、昨今、「平安の子」という言葉が、働きのために期待できる人という意味合いで使われるようだが、聖書ではここにしか出てこない表現だし、その人を評価する意図ではないので、その用法はあまり妥当ではないように思う。

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ルカ 10:3-4

 狼の中に、と言われているのだから、よくよく備えをして、という話になりそうなのに、何も持たずに行け、と告げられているのは、不思議な話だ。でも、羊がどんなに備えてみても、狼には対抗できない。安全が守られるのはただ、羊飼いが支えてくれる時だけ、であろう。つまりは、神にこそ期待して、寄り頼んで、という話である。何も持たず、をあえて実践する必要性はない。他の箇所では良く備えよとも語られている。ただ、自分の持っているものに寄り頼んで、これなら大丈夫、と思うのだとしたら、それは論外である。神が与えてくださる備え、神が導いてくださってこその歩み、それが要なのだ。

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ルカ 10:2

 実りは多いと言われているが、当時、彼らの前にある状況は決して、求めている人が多すぎて人手が足りない、というようなものではなくて、世の中にごく少数の自分たちがいるだけ、だったはずだ。地中海世界に神を慕い求める人があふれるのはずっと後の話である。むしろ彼らが見ているのは、農業に即して言うなら、荒れ果てた土地が広がっている光景で、それを開墾するために人手がなければどうにもならない、というのに近い。今はまだ見えていない。でも、そこには必ず神の備えた祝福がある。これは、聖書が繰り返し語っている大事なことである。

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ルカ 10:1-16

 イエスはまた弟子たちを派遣している。今度は70人であるから、いわゆる十二弟子に限らず、かなり幅広い。ルカはこの場面で、イエスの派遣に関する教えを記録している。実際には、両方でなされていたのだろうが。派遣は、その言葉のとおり、神によって派遣されるのであり、本人がやりたいからするというものではない。だからこそ、必要の一切も、成果についても、神に期待し、神に委ねるのみである。人が神の業を行うときに、何も恐れる必要はないとされるのは、まさにそれが神の業であるからこそだ。

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ルカ 9:57-62

 当時、イエスの評判は高まっていたので、ついてきたいと願う人は増えてきていた。そんな人々に対してイエスは、決意を確認するようなことを告げている。一般論としては、親の埋葬もいとまごいも悪いことではなく、もともとイエスの弟子になることは決して、世捨て人になるものではない。何もかも捨てたはずのペテロは、後に伝道旅行に妻も同行させている。イエスは、物理的な意味での専心を求めているわけではない。多くの信仰者はこの世に生きるのであって(ヨハネ17:15)、物理的な分離が求められているのではない。ただ、だからこそ逆に、最後の親孝行として埋葬するのではないのだし、今生の別れを告げる必要もない。この福音には聖俗分離はない。むしろ、世俗と言われる世界を、一切を神にあって歩むのである。人々はしばしば大きな勘違いをしている。

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ルカ 9:51-56

 ユダヤ人一般とは違い、イエスはサマリヤ人を蔑視などせずに同じように受け止めておられた。だが、サマリヤ人側は偏狭な心で応じたようである。彼らはイエスご自身の本質ではなく、どちらに向かって旅をしているかで態度を変えた。こういう姿勢が自らに大きな損失を招いている。悲しいことだ。ただし、激怒して厳罰にと語るヤコブとヨハネに対するイエスの対応は、この方の意図が人々をさばくことではなく救うことにあるのを、強く指し示すものとなっている。それにしても、この場面だけでなく、イエスは人々の姿にどれほど心を傷つけられたことだろうか。神が人を見て嘆かれること、それは最初の時から始まっているのだが。

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ルカ 9:49-50

 ヨハネのこの発言は、「答えて」なのだと言う。イエスを受け入れていることが鍵だと言われたので、仲間ではない、つまりイエスを受け入れると表明していない者たちは排除すべきと考えたのだろう。だが、その人は決して悪いことをしていたのではなく、イエスを信頼して人々を助ける業をなしていたのであるから、それをやめさせる必要はないと、主は答えている。その人自身のためを思って言うならば、むろん、しっかりとイエスへの信仰を告白すべきである。だが、その人のしている行為、そして、その存在をどう受け止めるのかでは、断罪よりも肯定から入るほうがずっと良いのだとイエスが言われているのは興味深い。人は堺を立てていこうとするのだが、神はもっと大きく広げて物事を、人々を受け止めておられる。その視点、そのあり方に、私たちは見習う必要がある。

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ルカ 9:46-48

 ルカは次々と話を進めている。1:3にあるように、出来事を淡々と書き記して提示しているという様子だ。弟子たちが偉さの順位を争う場面は何度か記録されていて、彼らの抱えている課題が浮き彫りにされている。だが、復活後にはその様子は見えず、神にあって生かされていることを思い知らされたのだろう。イエスの答えが、子どもの存在を指し示すものとなっているのに、神にあって生かされていることが土台であることを告げるものだ。人は、自分の目に見えるもので物事を評価し、判別する。だが、一切は神によるのなら、表面に現れている様子による順位付けや優劣の比較は意味がない。共に神に感謝するのみである。

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ルカ 9:43-45

 他の福音書ではこの出来事に、祈りと断食が必要だというような教えが添えられているけれど、ルカはそのあたりは何も触れずに、ご自分が十字架にかかることについてのみ語っていることを示している。一見、何の関係もない話がぽっと出ているようにも感じられるが、つまりは、ただの力や不思議を求めるのではなくて、神にあって生かされていくことそのものをこそしっかりとつかんでいくべき、ということだ。どんなに偉大に見えることがあっても、一過性のものに過ぎなかったら、その場では助かるとしても、いずれはまた問題に直面する。それよりも、私たち助けてくださる方、生かしてくださる方の存在のほうが、はるかに重要であるのだ。

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ルカ 9:41-43

 悪霊の問題として示されている出来事は、人々にとって驚愕的なもので、とうてい対応できないものとして見られていた様子がわかる。だが、キリストご自身にとってはそれは何も特別ではない、ちゃんと対処できる事柄であるという、むしろ日常的なこととして扱われている様子がわかる。悪霊の、とされる現象を詳細に分析することはできないけれど(聖書はそのあたりを指し示してはいない)、神の前には何も戸惑う必要のない事柄である点は明確で、私たちとしてもこの点をこ意識しておきたいものだ。さもなければ、人はいつも戸惑い、怖れ、逃げ腰で居続けることになってしまう。神ご自身という確かな味方がいてくださるにもかかわらず、である。

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ルカ 9:37-40

 特別な経験をした山から下りてくると、この世の現実の過酷さに直面させられている。イエスご自身にとっては承知の上のことだが、同行していた弟子たちにとってはその落差を痛感させられたのではないか。でも、神の御子がこの世に来られたのは、もともとからして、こういう世界の現実と関わるためであり、決して厳かな礼拝の賛美に包まれているためではない。苦闘する人々の中にこそ、主はその身を置いておられることを心からありがたく思うのだ。にしても、弟子たちの混迷には主も嘆いておられるのだが。

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ルカ 9:36

 神の呼びかけに震え上がっている弟子たちだが、その後で彼らが見たのは、いつも通りのイエスであり、何も恐怖する必要のない、慣れ親しんでいるイエスの顔である。これは実にありがたいことで、時に人は過ちに陥るのであるが、その先において、ちゃんと受け止めて下さり、立ち上がらせてくださる方がいることの大きさは、絶大なる幸いと言うべきだろう。彼らがこのことを他言しなかったのは、イエスご自身がそのように命じたからであるが、後に第二ペテロ1章に出てくるように、彼らにとってこの経験は、イエスへの強い確信を育むものだったようだ。まあ、それでもなお、十字架の時に離れてしまうのであり、人の弱さの現実を痛感させられるのであるが。

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ルカ 9:32-33

 ペテロは「何を言うべきか知らなかった」とあるように、事態をしっかり把握した上で、熟慮の上での発言ではなくて、目の前の光景にうっとりしていたので思わず、ということのようだ。だから、厳しく叱られているわけではない。ただ、どれほど素敵な環境にいたとしても、そこに居続けたいと願うのは、この世に生きている者としては妥当なことではない。もともと人は、ちゃんと生きて、動いて、自らの歩みを通して幸いを広げてこそという存在なのだから。天国でも、お花畑でうたた寝、ということではない。まあ、ペテロはほんの一時の惑いであり、いずれ彼は厳しい道をたどるのだから、それほど弾劾されるほどのものではない。神も、彼をそっと軌道修正してくださっている。

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ルカ 9:28-36

 この出来事については、昨日書いたような趣旨とは違って、イエスご自身が悩み迷っていて、それでモーセやエリヤがやってきて励ましたり、確認したというふうな解説を読んだことがある。なるほど、そういう話にした方がドラマチックであるが、でも、この箇所の表現自体にはそぐわないし、イエスご自身の神性にもそぐわないし、モーセとエリヤにそんな能力や資格があるのかという点も疑問である。それに、この箇所の焦点はイエスが何を話されたのかではなく(ペテロたちは聞いていたはずなのに何も記録していない)、弟子たちの驚きと圧倒にある。聖書は、それ自体の意図するところに沿って読むべきもので、読み手側の気分で物語を当てはめるのは自制した方が良いようだ。

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ルカ 9:28-36

 この出来事の目的は、弟子たちにこれから来る受難のことをしっかりと意識させ、かつ、それがただの不安や混乱で終わらないように、神がその一切を掌握していることを示すものである。モーセとエリヤは旧約を代表する人々である。彼らと共に語るとは、これから起こる出来事の一切を神は掌握されているということ、それもはるかな昔から、ということである。神がこれから起こる業を全力で進めておられるのがよくわかる。だとすれば、何も恐れる必要はない、戸惑う必要もない。なすべき使命があるのだから、まっすぐに進むだけである。イエスご自身は、そうやってこの御業を確かめておられる(神である方がそうなさるというのは、大事な意味もある)。この確信を、不安の中に漂い続けている弟子たちにも、あるいは事態を把握しないままに暢気に構えている弟子たちに、しっかり伝えようとなさっているのだ。

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ルカ 9:27

 この言葉が何を意味しているのかは、率直なところ、まだ誰も、確実なところを見定めている人はいない模様だ。一見すると、26節から再臨の話にも思えるのだが、むろん、当時の人はすでになく、この言葉は当てはまらなくなっている。復活などの話なら、逆に、そこにいた人全員がまだ生きていたはずだ。わからないものはわからない、と言う方が良い。この教えは神が発せられたものだから、人にはわからないこともあって不思議ではない。それを自分たちの思惑だけで処理しようとすると混乱の原因になる。良いではないか、自分たちの知恵は神にはとうてい及ばないのだと認めて、わかりません、と告白することは。その理解がどうしても必要になる時には、神ご自身がきっと、それを指し示してくださることだろうから。

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ルカ 9:23-27

 これらの言葉を、きつい話だ、というふうに思う人が少なくないのは当然かもしれない。ただ、この話がキリストとして神の約束を必ず果たすことを指し示す言葉と、そのために支払われる犠牲がどれほど大きいかを語った上でのことであることを思うとき、世の様々な声に惑わされたりしないで、ちゃんと後をついてきなさいという、確かに鋭い、でも、重要な呼びかけであることを痛感させられる。キリストの御業が偉大な恵みを伴っているからこそなおさら、この方を離れてしまうわけにはいかないのだと、その思いも強くさせられていくはずだ。

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ルカ 9:21-22

 ペテロがいさめた話は割愛してあるが、イエスのこの重大な宣告は、弟子たちの告白を受ける形で告げられていることは注目される。弟子たちはこの方こそと期待を示したわけだから、それなら実現される救いの業の中身も示そうではないか、ということになるのは道理でもある。それにしても、あるいは弟子たちとしては世に君臨する形でのキリストを意識していたかもしれないのだが、全く別の意味での救いが告げられていくわけで、弟子たちとしてはまだまだ混乱と戸惑いが続いていくことになる。

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ルカ 9:20

 ペテロの言葉は明確である。ルカは「神のキリスト」と書き記しており、マタイの「神の御子キリスト」とは違うようにも見えるが、ユダヤ的なことを意識しての表現と、ギリシャ世界を意識しての表現には違いが生じても不思議ではない。彼らは、この方に対する絶対的な信頼、確信を表明したのである。これが信仰である。つまり、信仰とは自分が何をするかという意思表明ではなく(選手宣誓とは違う)、どこに自分たちの神がおられるのか、救い主がおられるのかを指し示すものであって、ようするに、神が事をなしてくださるという点こそが、最も重視されているのだ。人ではなく神を見る。これはキリスト教信仰の根幹である。

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ルカ 9:18-20

 弟子たちがイエスを神の御子キリストと認める告白をした場面である。注目されるのは、当時、様々な人が様々に言っていたという点で、イエスと直接会っていた人たちでも、それぞれの受け止め方は違っていたということになる。神の威厳ということを持ち出すと、そんなことが許容される状況に違和感を覚える人もあるだろうが、もともと神の意図は人々が神を愛することであるから、それはつまり、自発的なものであるのだからして、決して腕力や威圧で教え込もうなどとはしない。様々な反応があったことは、神と人との関わりを思う上で、とても意義深いことであるのだ。

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ルカ 9:14-17

 この出来事を、心動かされた人たちが自分の持っていた弁当を分け合うようになったので満ち足りたのだ、というふうに説明する人もある。でも、もしそういう出来事であったのなら、それだけでも十分に良き話であるのだから、堂々と書けば良いことだ。そして、福音書の記録を読む限りでは、人々は明らかに、キリストの特別な力によって満たされ得たのだということを強し意識している。もし、こんな場面でごまかして、人々の善意をキリストの偉大さのように書いているのだとしたら、聖書自体が全く信用のならないものとなるだろうに。もちろん、そんなことはないわけで、聖書は他の箇所と同様に、キリストの御業の不思議と、そこに示されている温情の豊かさを伝えているのだ。

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ルカ 9:13-16

 この出来事において、イエスは弟子たちに関わらせようとなさっていることが、強く意識されて書き記されている。もちろん彼らには奇跡はできない。5つのパンで5000人を満腹などさせられない。でも、彼らにもできることはあり、なすべき務めはある。私たちは無理ということを最初に考えるのだけれど、神がその場においておられるからには、ゼロではあるまい。むろんそれは、単に積極的であれという意味ではなく、自分の役割ではないことに手を出してしまう愚かさに陥らないようにしたいものであるが。

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ルカ 9:11-17

 疲れている弟子たちに休息を、のはずだったが、結局群集が追いかけてきて、それどれころではなくなった。それで人々のためにと尽くし続けているイエスの姿がある。この出来事の特徴は、教えや癒やしなどだけでなく、空腹についても対応なさっていることだ。弟子たちの言うように解散させたとしても、それはそれで何とかなっただろう。もっと高尚なことを、と言われそうでもある。だが、イエスは人々の必要に、些細なことも含めて応えていこうとされる。最初の奇跡が披露宴のぶどう酒だったことも思い出される。神にとって、高尚とか下卑たるとか、そういう区別はないことを思う。聖俗の分離も、一切を造られた創造主である方にとってはおかしな区別になってしまうのだ。

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