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2017年4月

ルカ 12:8-9

 これを脅しと取るべきではない。むしろこれは、人は自らの願うとおりに扱われるのだ、という趣旨として考えるほうが良い。神と共にありたいと願うならそのように、神を拒むならばそのように。神の祝福は、出来、不出来とか、成績・業績で選別するものではない。求めれば与えられるのだ。だからこそ、求めるかどうか、神に期待するかどうかは大きく問われている。偶像崇拝は、神に期待することを放棄した、という意味になるからこそ、深刻なのでもある。

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ルカ 12:6-7

 この言葉は、慰めと励ましであろうかと思う。日々の中には、時に、神から見捨てられた、忘れられているという思いを抱くような場合もあるはずだ。ただの勘違いと片付けられないほどに苦悩することもあるだろう。であればこそ、主が私たちをどれほど思ってくださっているのかを知っておきたい。そして、何よりも神の心を示しているのは、ヨハネ3:16やローマ5:8のように、キリストご自身の存在と御業、その犠牲である。人にはそこまでできないけれど、でも、他の人に対して、あなたを大切に思っているのだ、ということを伝えられたら、この世界はどれほど変わり得るかとも思う。

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ルカ 12:4-7

 3節からのつながりは、パリサイ人らの批判や世間の声を恐れるな、という意味に受け取るのが最も自然だろう。パリサイ人らの間違いはいずれ明らかになるのだから、恐れずに、神の真実を進め、ということである。全ては明らかになるのだ、という点から、神への真実な信仰表明をごまかしていると、いずれは露見して神に叱られるのだ、という話に受け取ることも不可能ではないだろうが、ちょっとぎごちない。それに、恐れという言葉は出てくるが、神は刑罰の恐怖で人々を縛る方ではなく、7節のようにむしろ、神の祝福と助けは確かなのだから、ということのゆえの励ましなので、むしろ、信頼せよ、という意味合いで読んでよい箇所だ。

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ルカ 12:1-3

 2-3節からすると、ここに出てくる偽善とは、真実を隠して立派そうに見せていること、を指すようだ。とすれば、パリサイ人たちは自らの主張に課題があることを自覚しながら、人々に説いていたことになる。本気で間違っている場合も問題だが、ためらいを感じていたのに、自らの心の内の警報を無視して他の人々を間違いへと落とすとしたら、その害悪はとても大きい。加えて言えば、問題にされているのはパリサイ人自身の行動の是非ではない。彼らが他の人を教え、導こうとしているその姿勢が問われている。一般に偽善という言葉は、言っていることとやっていることが食い違う様子を指すようだが、他者をつまずかせるという最も深刻な事態を、イエスは強く問い質しておられる。

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ルカ 11:53-54

 イエスの言葉の厳しさは、パリサイ人らの強い反発を招いた。考えようによっては、もっと穏やかに進めた方が改革を成功させるには効果がある、とも言えるだろう。神ご自身の御業の多くも、大きな忍耐を伴ったゆっくりとした歩みが見られる。でも、イエスには時間がない。十字架への道筋はあっという間に近づいてくるのだ。それまでに人々に刺激を与え、主に寄り頼むことを見出させるためには、たとえ今すぐには変革が始まらなくても、しっかりと問い質しておくことが必要だった。激しい反発が生ずるほどの課題なのだと、何とかして気づかせる必要があった。一般には、一度や二度うまくいかなくても、改めて取り組めば良い。でも、ご自分にはその時間はないことを、イエスは承知されていたのでもある。

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ルカ 11:47-52

 律法の専門家たちは、旧約時代に殉教した預言者らの墓、あるいは記念碑を立てていたようだが、愚かしいことだとイエスは指摘される。そういう祈念碑の存在は、つまり、自分たちの先祖が神に逆らったことを語るわけなのだが、彼ら自身はそんなつもりもなく、反省でも悔いでもなく、預言者を大切にする自分たちは神の前に評価される、ということに関心があるだけ、ということだ。一方で、彼ら自身は相変わらず神の言葉を投げ捨てているのだから、つまりは預言者を殺してきた者たちと同列。そんなことも気づかないままに、さかんに活動を進めている彼らの姿は、あまりにも悲しすぎるのだ。イエスの言葉は、叱責と共に嘆きが込められているのだと思う。

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ルカ 11:46

 イエスが糾弾する人々の姿は、大事な反面教師である。律法の専門家は人々に負いきれない荷物を背負わせていると言う。もともと神が要求していない負担なのだから、人々がその重さに悲鳴をあげるのは必然だ。神は人々の最善のために時には厳しくも語られるが、当然に、担えるものを命じられる。それに神は、人々が担えるように手助けもしてくださる。だがこの専門家たちは、神の教えだと言って人々に要求するのに、そのやり方では神に見習うつもりはなく、自己責任とばかりに放り出している。内容的にも、やり方としても、神の御心とは異なるものがなされているのだ。

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ルカ 11:45-46

 パリサイ人へのイエスの批判は、律法の専門家にも同様に降りかかるものであるのは明らかなのに、どうも彼らは、自分たちは別格だと考えていたようだ。地道に学んで伝えている自分たちは運動推進的な感覚のパリサイ派とは違うぞ、という意識なのか。でもイエスは、活動の形態を問題視しているのではなく、彼らもまた神の言葉の真の意味をあえて見落としていることを指摘しているのだから、当然に、厳しい言葉が向けられていく。罪人を招くと語られるイエスが彼らに対して厳しいのは、彼らが自分自身としての問題だけではなく、他の人をも混乱に引っ張り入れているからだ。つまずかせてはいけないという指摘は、他でも繰り返されている。

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ルカ 11:45

 「律法の専門家」は旧約律法を熱心に探求することを主軸にして日々活動していた人々のこと。ただしユダヤの場合は自らの職業を別に持って取り組むことが多かった。現代日本で言えば、学校の先生など他の職業で生計を立てながら、地元の歴史を生涯研究する人などが似たような形態か。これに対して、「パリサイ人」と呼ばれているのは、そういう主義主張を懐く人々のことで、活動内容としては多様、政治家とか祭司とか、あるいは実業家とか、様々な職種のパリサイ主義者はいたようだ。律法の専門家のほとんどはパリサイ派である。なお、「律法の専門家」と「律法学者」と、二つの言い方が出てくるが、おそらく、同様の人々を指しているのではないかと思う。新改訳で律法の専門家と訳しているものを新共同訳では律法学者とし、新改訳の律法学者を新共同訳では聖書学者としている。口語訳ではどちらも律法学者になっている。

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ルカ 11:42-44

 それで、財産をどう使うのかが問い質されている。当時は、神への献金は人前にもよく知られる行為だったようで、人々は神への思いではなく自分の評判のために献金をしていることが多かった模様だ(43節も同じ趣旨)。一方、施しは人に知られる可能性は少なく、まさに良き業であるのみで、それで魅力を感じない人も多々いたということになる。本来的には献金もむろん大切で、ただここでは、外見ではなく本質で勝負するということを問いかけているので、施しの姿勢に強く注目している。人が神の前に生きるとは、一部分だけではなく、全体としての歩みの中に問われていくものだ。

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ルカ 11:41

 内側をきよめる手段として、施しが挙げられているのは、興味深いものだ。内側と言うと、私たちはおそらく、精神的なもの、心の中の思いなどを想起するが(34節はそういう趣旨だった)、この言い方からすると、むしろそれは内側に溜め込んでいる金銭を指すようだ。イエスの教えはしばしば、決して観念的ではなく、具体的である。金銭は人のすべてではないけれど、その有り様は、その人の心や生き方を現しているのも事実。だから、真のきよさを願うなら、懐に持っているものをどう使うのかが有用な手がかりとなる。

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ルカ 11:37-41

 パリサイ人への厳しい言葉が展開される。きっかけは、イエスが食事前のきよめの儀式を行わないのを、パリサイ人が非難したことだ。こういう儀式そのものは、したければすればよいことで、あえて反対するほどではない。ただ、イエスがもともとその類のことを超越して行かれていることはよく知られていたことであって、それを自分から招待しておいて批判を加えるというのは、何とも醜い。それで、表面的なことは大騒ぎするけれど、内実のきよめは軽視するばかりの姿勢を強く問い質されたのだ。その人が何を大切にしているのかは、表面的な言葉や態度ではなくて、中身をちゃんと確かめる必要がある。他の人の、という以上に、自分自身を問うべきだろう。

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ルカ 11:33-36

 33節の話は、マタイでは世の光、地の塩の話で出てくる。だがここでは、身体の全体が明るくなる必要性を語るために用いられている。つまり、イエスはこういった例話を、その時々の必要に応じて利用なさっていたということになる。とすれば、その場面で何を告げようとしておられるのかを踏まえつつ、こういう例話は受け止める必要がある。まさか、話の筋が違うからおかしい、などと言う人はあるまいが。全身が明るくなるための要は、32節までと同様で、神の言葉という光がその人の心に差し込んでくることにある。そうやって照らされていかなければ、暗いまま、どうにもならないままで過ぎてしまうのだ。詩篇119篇は長々としているけれど、とても大事なことを必死で語っているもの、なのだと言える。

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ルカ 11:29-32

 ヨナのしるしと聞くと、魚の腹から戻ってきたことを思い起こす人は多いはずだ。でもこの箇所ではニネベに対して神の言葉を告げた姿が注目されている。つまり、奇跡的な出来事ではなくて、人々の前に神の言葉を届けて、人々がそれと向き合うことができるようにすること、それこそが、人々が神へと立ち返るかどうかを左右する最も大切な事柄、ということである。南の女王もまた、ソロモンから神の言葉を聞いている。聖書には数多くの不思議な出来事が語られているけれど、最も重視しているのは、神の言葉が届くことにある。その言葉が人々の心を動かしていくこともまた実に不思議なことであって、それこそ、目を見張るような出来事よりもはるかに意味を持つ。ルカ16:28-31もまた、そのことを告げている。

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ルカ 11:27-28

 この女性としては何気ない言葉だったのだろう。でも、イエスご自身は、血縁とか、そういうことで分別することには強い異議を語られる。それは、神の祝福がすべての人に、生まれとか、本人の業績にすらよらずに与えられるものだからだ。悪気のない彼女にはちょっと酷かもしれないが、他の人にとっての影響力を考えると、ここは明確にしておく必要性があったのだと言える。時に、マリヤのことを特別視する人があって、その気持ちは理解できるのだけれども、その感覚は福音のあり方からすると望ましくはない。それに、マリヤにしても、彼女の意義は、決して彼女だからというものではなくて、イエスの語るように、神の言葉を聞いてそれに従って行った姿、ルカ1:38の姿勢にこそあることを、ちゃんと覚えておきたいと思う。

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ルカ 11:24-26

 とても深刻な警告である。どんなに頑張って悪いものを取り除いたとしても、もし、そのまま空にしているとしたら、結局は悪いものが戻ってくるだけだと、イエスは語られる。大切なことは、除去すること以上に、そこに良きものを宿すことにあるのだ。このことは、カルト的なところで洗脳的な扱いを受けた場合に、かなりはっきりと現れてくるのだと聞いたことがある。つまり、その誤った教えからは解放したとしても、そのままにしておくと、空虚な心で放り出されてしまい、そうすると、何かで心を埋めようとして、別の間違ったものに引き寄せられたり、元に戻ってしまったり。解放するだけでなく、ちゃんと確かなものをその心に提供していくことが欠かせない。このことをもう一歩進めて考えるなら、きれいに掃除することよりも、良きもので満たすことに取り組んだ方が、はるかに有意義な結果をもたらすだろう。それは信仰生活の全般にも当てはまることだ。

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ルカ 11:23

 この言葉も、字面だけを拾って悪用される可能性はある。つまり、味方以外は敵だ、というふうにして選別をし、敵愾心をあおるような行動である。だが、イエスはルカ9:49-50で、仲間内かどうかで相手を切り捨てるようなことはするなと教えておられる。この言葉は、一般化はしないで、この場面に即して考えると分かりやすい。つまり、せっかくイエスが幸いをもたらしているのにそれを拒み、あるいは人々がそれを受け取るのを妨げる(集めない)パリサイ人などに対して厳しく語られている、ということだ。このことは37節以降でも詳しく取り上げられている。ルカ17章でも、人々がせっかく神の祝福を手にしようとしているときにそれを妨げる人々について、かなり厳しい言葉が投げつけられている。

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ルカ 11:20-23

 彼らはイエスの業を批判した。だが、よくよく考えてみるなら、イエスの業は人々にとっての希望だ。イエスは悪霊の力を排除して人々を解放した。悪霊は自らの力を誇り、現に人間たちよりも強い力によって、その意図を遂行してきている。人はその前で圧倒され、どうすることもできずにいた。でも、もっと強い力、つまり神ご自身の力が発揮されることで、人は解放されたのだ。自分たちは弱くとも、神ご自身が強いからこそ、人は安堵することができるようになったのだ。神の国が来た、のである。とすれば、人々としてはイエスの業を歓迎こそすれ、それを拒む理由はない。拒むとすれば、神に助けてもらいたくはない、ということか。イエスの提供してくださる幸いを拒む姿は、その人自身の心の内を問うものとなる(ヨハネ3:19-20)。

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ルカ 11:17-19

 ただ、こういう批判を戒めるイエスの言葉を悪用する動きもあるので警戒は必要だ。つまり、良くないものであるからこそ批判されているのに、批判することすべてを間違いだと拒絶し、自らの悪をごまかすという人々も少なくない。この点で、イエスの反論は明確だ。つまり、批判自体が問題視されているのではない。はたしてそこで何が行われているのをちゃんと見れば、それが良いものか、悪なるかがわかるはずだということである。もし、悪の力が悪を行っているとして、それを自ら壊して回っていたら、たとえ一時的には格好良く見えたとしても、必ず破綻する、というのだ。確かにそのとおりで、だとすれば、私たちはやはり、何が起こっているのかを、ちゃんと見ていくようにしたいものだ。ただの不思議ではなく、あるいはただの立派さや熱心さでもなく、そこに神の幸いがあるかどうかを。このことはカルト化することへの警戒としても意味がある。

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ルカ 11:14-16

 目の前にある偉大な業を否定できないので、今度はそれを悪魔の力だと批判する。物事に反対する口実というのはいくらでもある、ということか。このことと、しるしを求める声が同列に扱われているのは印象深い。つまりは、どちらも神のなさることを受け止めようとしない姿と言われているわけだ。もともと人には神のなさることを完全に理解することはできない。であれば、そこは信頼して期待して委ねるしかない。それを自分が納得できる形になっていないから、ということで否定するなら、せっかくの幸いを失うことになる。わからないことを尋ね求めるのは良い。だが積極的な探求と、否定するための拒絶とは違うことを覚えておきたい。

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ルカ 11:13

 求める者に聖霊をくださる、という話が出てきている。ちょっと唐突にも感じられるのだが、信仰に関わること、神の祝福に関わることは,結局のところ聖霊が事を成し遂げてくださるのであることを思い出すと,その聖霊が手元に与えられるというのは、つまりは全てのところへと続く扉のマスターキーをもらったようなものである。神であられる方を鍵扱いは申し訳ないけれど,イエスはそのような言い方を用いるほどに、人に対して深く思いを傾けてくださっている。実に,実にありがたいことである。

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ルカ 11:9-13

 つまり、何としても手に入れたいと必死になって相手に願い求める。相手が知らないぞと応えるのだとしたら、どこかに落ちているはずだ、必ずあるのだと、一生懸命に捜し求めていく。それが扉の向こうに隠されているのだと知ったら,ぜひとも扉を開けて,それを私に返してくださいと、必死になって、扉を叩き続けるのである。前の部分にある、夜中に扉の向こうで求め続けていた友人のようなものか。主ご自身がそのように願うのが神のみこころだと語られるのだから,遠慮なく,精一杯,必死になって願い求めていけばいい。せっかく与えられている権利なのだ。もちろん裏などない。さあ、ぜひ、そのように申し上げたい。

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ルカ 11:5-8

 言いたいことは,ようするに、うるさいほどに諦め悪く求められたら,よほどのことがあってもなお、その願いに応えようとするものだ、ということだ。18章でも似たような話が出てくる。とすれば、である。もし、私たちが切に,諦めず,どこまでも願うとしたら,神はその祈りに,求めに,必ず応えてくださるに違いない,のだ。むろん、勝手にしろと投げ出すような神ではない。害悪になるような願いには,決して応じてはくれないだろう。でも、それが必要なことなら、意義あることなら,たとえそれが常識に反していても、礼儀を損なうようなものであっても、わがままにすぎると思われるような場合であったとしても,神はそのことに応えてくださる。むろん、神にとっては決して、うるさいから,などということはないのだが(そのあたりは例話の効果をねらった過剰表現である)、願う側の意識としては、うるさがられることを目指して,という感じで良いということだ。

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ルカ 11:2-4

 マタイ5章にある祈りと同じようなものだ。短縮版にはなっているが。神が信頼できる方であることを心から告白する言葉と,その神に対して願う言葉と、まさに祈り,あるいは信仰の基本的なあり方が告げられている。日々,この言葉を祈りとして口にする人もあるだろうし、言葉としては用いてはいなかったとしても、そこに込められている意識,精神は,皆にとって必要なことである。

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ルカ 11:1-4

 弟子たちは,イエスの祈りの様子を見ていて,大いに心が惹かれたようである。これは素敵なことだ。信仰に関することで、誰かの良き姿に見習っていきたいと願うのは、健康的な成長にとって役に立つ。しかも、これはイエスご自身に倣うのだから、決して,効果的な結果に結びつく祈り,などが意識されたのではなくて、ごく素直に,イエスのようにして神と向き合いたいという、人が本来持っている神に対する思いが触発されたということだろう。お手本は大事である。

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ルカ 10:42

 昨日のコメントを踏まえた上で、イエスがマリヤの姿を「良い方を選んだ」と語られたことを大きく受け止めてみるならば、仕えるという点からすればマルタはとても意義深い。それは大いに称賛されるべきものだ。だが、人のなしえることは限られていること、神から受けてこそであることを重視して考えるなら、人にとって欠かすことのできないものは、マリヤのように神に求めること、ではある。マルタのように取り組めるのは素晴らしいことだ。でも、マルタのようにはできなくても、神はその人をも喜んで受け止めて下さる。しかし、もし、神の呼びかけに関心を持つことをやめてしまったら、それは悲劇である。マルタ自身は御言葉も聞き、仕えもし,だったのだろう。イエスはマルタにも,座って話を聞け,とは言っていない。でも、耳を傾けることで精一杯,必死になっているマリヤから,その機会を奪うことは決して許されないのだ。

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ルカ 10:38-42

 マルタの頑張りそのものは、決して悪いことではないし、その奮闘のおかげで助けられ、支えられた人々はいくらでもいる。イエス自身、その支えがあるからこそ、この家を拠点にしていたのだ。ただ、彼女は自分の取り組みを妹にも押し付けようとしてしまい、しかも、イエスにも自分のほうを認めさせようとした。良き業には様々あることは聖書に繰り返し語られていること。それを他者との比較や争いにしてしまったらせっかくの幸いが崩れてしまう。これはイエスの思いやりの言葉である。この姉妹との関係は、これからもまだまだ続いていく。イエスは、この二人、いや、この家を心から愛しておられたのだ。

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ルカ 10:36-37

 イエスは、隣人になった、と言っている。そして、行って同じようにしなさい、と。うまくいかないこともあるかもしれない。でも、そこに神の幸いがあること、自分たちがそのようにできるように導かれていることを心に覚えて、私たちはやはり、隣人になる、べきなのだ。もっとも、遠くまで出掛けていって隣人候補を探すのではない。サマリヤ人だって、たまたま旅をしていて、それでたまたま出会った相手である。探しに行かなくても、隣人であるべき相手は、様々な機会にいくらでも出会っているはずである。そこにいる人に目を向けてさえいれば。しくじりや見落としを恐れずに、主が導いてくださることを信頼して、向き合ってみたいものだ。

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ルカ 10:33-35

 サマリヤ人の動機は、立派に生きようとか、隣人を愛そうではなく、「かわいそうに思った」ことである。そういうごく自然な感情が、大事ことへとその人自身を導いていく。理論や概念も大事だし、倫理的な教えも必要だ。でも、人が動かされていくときには、そういうものだけではなくて、困っている人を見たらかわいそうに思う、つまりは、その人に心を寄せるということが、大きな意味を持ってくる。逆に言えば、そういう当たり前の感覚が失われてしまったら、人は神の前での大切な真理を見出すことをも失ってしまうということか。人を見て、人と関わって、この心がちゃんと動いて、反応するようにしておきたい。没交渉にしていると、心も堅くなり、動きが鈍くなってしまうのであるから。

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ルカ 10:31-32

 少し詳しく見ていこう。祭司とレビ人は、本来はこの旅人の隣人である。彼らは同胞であり、困っている人を助ける立場の人でもある。だが、彼らはその旅人の、助けを必要としている旅人の隣人であることを拒否して、その関係を断ったのである。隣人は、なることもできるが、拒むこともできるようだ。できるかどうかはともかく、人々はそうしているということである。でも、明らかにこの姿は嫌悪すべきものとして語られている。祭司やレビ人への批判が目的ではない。都合が悪いと隣人のはずの相手をも切り捨てるのが人の常だとおっしゃりたいのである。この指摘はとても大事なことであると思う。

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