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2017年5月

ルカ 15:7,10

 悔い改める必要のない人々、などは存在しないのだが、事情を知る者からすれば、パリサイ人らへの皮肉にも聞こえる。とはいえ、告げられているのはもっと本質的なことで、この世では見捨てられ、投げ捨てられている罪ある者たちが神に立ち返ることが、どれほど幸いなことか、という話である。人々はそれに気づかず、あんなやつらは、と言うわけだし、本人もそう思っているのだが、だから、たとえ受け入れたとしても片隅に追いやるくらいの感覚になるのだが、神にとってはとんでもない、この大いなる喜びよ、ということである。そういう喜びをちゃんと味わっていきたいものだ。

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ルカ 15:6,9

 イエスのたとえ話で興味を覚える一つのことは、見つけ出した持ち主が、回りの人たちを呼び集めて、その喜びを分かち合っていることだ。23節でも同様である。なくなったものが人間なら、近所の人たちは誰だという論議になって、天使たちだろうかというふうに言われるけれど、そこまで厳密な話にしなくてもいい。ようするに、誰かが神の祝福を受けて立ち返るなら、それは世界全体、人々全体の喜びとなるだけのものなのだということで、こういうことが決して一個人の話ではなく、皆の幸いとして受け止められるべきものだという趣旨である。そうすると、せっかく罪人たちが神の教えに関心をもって集まってきているのに、それを否定的に言うパリサイ人らは、全くもって神の心をわかっていない、ことになる。御心を知らずにいると、幸いの機会すら失ってしまう。

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ルカ 15:3-10

 イエスがなぜ罪人らを迎え入れるのか、その理由が3つのたとえ話によって語られていく。いずれも、神ご自身の姿勢、御心を伝えるためのものだが、このように重ねて語られているのは、それが人々にとって馴染みのない教えであること、とても重要なことであることを考えさせられる。それにしても、イエスの教えは絶妙だ。飛び出してしまった人々、つまりはやっかいな人々に対して、この世は冷たいし、切り捨ててしまう感覚が強い。だがイエスは言うのだ。もしそれが羊だったら、銀貨だったら、何が何でも探し出そうとするはずだ、と。なくなったから仕方がない、で済ませるはずがない。まして、かならずどこかにあるはずだとわかっているのなら。神にとって、ご自分から離れて知ってしまった人間たちは、それと同じように大切、貴重、何としても取り戻したいものなのだとおっしゃるわけである。

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ルカ 15:1-2

 取税人や罪人たちは、どうしてイエスのもとにやってきたのだろう。パリサイ人らの批判は、彼らの行行が神から遠く離れているゆえだが、その異質性は、イエスの教えとの間にも当然、存在するものだ。近づいて来て、教えに耳を傾ければ、耳に痛い、いや、激しく心を刺されることは多々あるわけで、こういう部類のものから逃げようとするのは多くの人の傾向のはずだ。実際、彼らは会堂には近寄らず、パリサイ人らに教えを請うこともないのだから。とすれば、イエスの教えが従来的な「正しさ」を説くものではなかったことになる。むろん、正しい。真理であり、正義であり、悪を毅然と否定するものだ。でも、神の呼びかけは同時に、罪に墜ちた人々を救い出すことを意図されるもので、だからこそ、厳しさと慈愛が同居している。この特質がこの世には、人には、どうしても必要である。パリサイ人らの教えはそれに気づいていない。ということは、自分自身についてもまた、神のあわれみと助けを願い求めてはいない、ということか。深刻な事態である。

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ルカ 14:34-35

 一連の話は、ちゃんと心積もりをして、備えているのか、ということだった。いくら感情的に盛り上がって、「神様」とか叫んだとしても、そこに真実な思いがないとしたら、岩地に落ちた種と一緒である。むろん、信仰は人の力で成り立つものではない。だから決して、鍛錬して、心の力を強くしてというようなことではない。むしろ、何もできない自分であることをちゃんと自覚して、それだからこそ神に助けていただき、導いていただくことを切に願い求めるかどうか、そこに「塩気」というものがある。そう、塩は回りとは違う。人々の情熱と同じものに過ぎないとしたら、対象が変わってもさほどの違いはない、ことになりかねない。主にこそ寄り頼み、主の導きの中でこそ歩むことの幸いを知るならば、信仰の歩みは大きく違ってくる。

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ルカ 14:25-33

 26-27節は全てを捧げる覚悟を伴った信仰という印象が強く、神のために全てを捨てた者が評価される風潮の根拠としても扱われる。献身も、ルカ5:11などから、一切を手放すことと重ね合わせて語られることが多い。だが、この時、ペテロたちは家族を捨てたわけではないことは、他の箇所からも明らかであって、そういう自己犠牲的信仰という概念は、決して聖書的ではない。確かに、必要が生じれば、その実現のために我が身を投げ打つ覚悟は伴うだろう。究極の選択という場面はありえる。だが、常日頃から、所有物をすべて否定していかねば信仰とは言えない、というのは違う。個人的にそういう生き方を選択する人がいるのはそれで良いのだが、一般化してしまうのは弊害のほうが大きい。それにこの箇所は、捨てる覚悟ではなくて、ちゃんと備えておくことに関する覚悟の足りなさを問うものだ。罪は捨てるべきだが、神が造られたこの世界、それを投げ出すことを信仰としてしまうなら、大きな誤解である。

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ルカ 14:23

 この「無理にでも」という言い方は、せっかくの招待を断っている人々の愚行を浮き彫りにするためのものだが、第二コリント5章に出てくる「和解への懇願」のことを思うと、この小さな言葉遣いの中にも、神の切なる心が示されていることを思わせられる。人はそっぽを向いている。あるいは、もともとからして入れてもらえるような資格などない存在だった(彼らは元々は招待されなかったのだ)。でも神は、無理にでも引っ張り入れようとするほどに、人々の救いを切に願い、事を進めてこられていたのだ。その重みをよくよく受け止めたい。

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ルカ 14:15-24

 神からの見返りを期待する声に、イエスはとても深刻な指摘をしている。つまり、人々は神の祝福を期待すると言っているが、実のところ、求めてはいない、というのだ。なぜなら、人々は神が与えようとしている幸いを拒み続けているから、である。この話に出てくる、せっかくの招待を断っている人々の姿、それこそが人の世が示しているあり方なのだ。何もできなくてもいい、仕方がない、でも、せめて、紹介されたら喜んで応じること、救いを与えたいのだと言われたら、ぜひよろしくと願うこと。それを自ら壊している現状は、まさに嘆きである。

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ルカ 14:12-14

 話の流れからすると、人を食事に招くのは自分の評判を上げたいから、ということになりそうだ。ありがちなことだが、その効果は薄っぺらなものだ。どこかの誰かがもっとご馳走したら、すぐに印象は薄れるだろうし、お返しにと招待されたら、それで解消されてしまう。せっかく人を招くなら、もっと価値のあることのために、つまり、自分のためではなく、必要としている人のためにこそ、それはなされるべきだとイエスは告げている。だからこそ、お返しなどできない人をこそ、と言う。義人の復活の時のお返し、とは、いずれは見返りが期待できるという話ではない。それは真の幸いを目指す姿、である。

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ルカ 14:7-11

 自分の立ち位置を気にするのは、それが自分に対する評価を決めるものだと考えているからだろう。でも、人の間での序列など、結局は、お互いの考えがあれこれ動く中で左右されるものであって、その人の本質を指し示すものとは言えない。評価を願うのならば、それよりも、神の前に生きる姿を、神が喜んでくださっているかどうかに関心を持った方がずっとましだ。その場合も、頑張ったから評価が高いとか、他の人と比べてどちらが、などと考えるのではなくて、もっと単純に、まっすぐに、神がこの自分を喜んで受け止めてくださることを願い求めて歩むのがふさわしい。神は、他の人との比較ではなく、その人自身をこそ、ちゃんと見て、ちゃんと受け止めて、ちゃんと関わってくださる方である。

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ルカ 14:1-6

 この類の出来事が、聖書には何度記録されていることか。ちゃんと数えてみたことがないけれど、実に悲しいことである。目の前に助けを必要としている人がいる。助けてあげられる力もある。それなのに、助けるべきかどうか、それも本人にとってどちらが良いかではなくて、自分の都合とか評判とか、そんなことで悩むことが期待されているのは異常でしかない。いや、神の前での正しさの問題だと言うかもしれないが、でも本来、安息の定めは神の前に生きることを確立するためのもので、誰かを助ける業を制限したら、安息の本質そのものが崩れてしまう。それなのに、こうやって人々はイエスがどうするかを見ている。これは注目する必要のない場面だ。見つけてすぐに癒やされて、回りも良かったねと喜んで、それだけの話であるべきものだ。

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ルカ 13:31-35

 パリサイ人の忠告が、イエスの身を案じてくれたものなのか、脅すことで逃げ出させようという趣旨なのか、ここだけではわからない。どちらにしても、イエスご自身は全く動じず、自分が死ぬかどうかは父なる神の御心次第であって、ヘロデがどうこうできるものではないと言い切っている。人自身の言動の責任を無視して良いということではない。それでもなお、人の業を恐れるよりも、主の御手にこそ期待するのでなければ、それこそ、神を信じていることの意味がない。生きて働いておられる主がいることこそが、神の前に生きることの鍵であるのだから。そのように、ご自分の身について案じる必要を意識しなかったイエスは、だからこそむしろ、この街のこと、人々のことをこそ案じている。神がついていてくださるからこそ、他への思いを強く、大きく抱いていくことができるのだ。

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ルカ 13:22-30

 30節の言い回しは、マタイ19では別の趣旨で用いられているが、ここでは救われることを求めて、切に主に願い、寄り頼むようにということを告げるものとして語られている。刺激的な言い回しは、様々に用いておられるのが、イエスのお姿でもある。なおここは決して、神の国に入れる人数が限定されているということではなく、適当に放り出していると大変なことになる、と告げるためのものだ。ただし、一生懸命に頑張ったら入れるのではなくて、神の御心に沿って願うこと、つまり、人ではなく神の御手によってこそと自覚しつつ、主の後を歩んでいこうとする姿勢、信頼という言葉が最もふさわしいと思うのだが、それによってこそ開かれている道をちゃんと歩んでいくことができるということが告げられる。これを競争して、出し抜いてでも自分が上に立てばというようすに読んでしまうと、そうやって先頭に立っているつもりの者が、実は最も後ろでうごめいているだけ、という、まさに30節の光景となってしまう。

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ルカ 13:18-21

 神の国をどのように説明するかは、なかなかに難しいものだが、イエスはしばしば、その一側面だけに絞って人々に語っておられる。ここでは、ほんのちっぽけなものが、大きく広がっていくのだということが告げられている。前の部分に関連させるなら、とても小さく生きている人々が世間では熱心だと言われているけれど、真に良きものというのは、人が考えているよりもはるかに大きなものであって、ただ、人の目にはそれが見えていない、ということなのだ。良い悪いだけでなく、何とも残念なことではないか。

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ルカ 13:10-17

 安息日は、神の御心がなされるべき時である。何かをしないことが問題なのではなく、何をするのかを考えるべき時だ。それを思えば、この女性が癒されたのはむしろ当たり前で、安息日が終わるまで待たせることの方が御心に反している。結局、あれはだめ、これはだめ、と言っている人々というのは、神の心を生きるつもりはなく、単に自分は立派にやっているぞ、ということを自他共に対して指し示そうとしているだけではないのか。この課題は、いつでも同様に問われていることでもある。自分たち自身が同じことをしているかもしれないのだと、自戒すべきだろう。

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ルカ 13:6-9

 この話は、番人の思いを軸にして読むべきものだ。一般論として言えば、出来が悪ければ切り捨ててしまって当然、という、この持ち主のような意見が正論であるだろう。でも番人は、何とかしてその木を残そう、それも、ただ残すだけではなくて、ちゃんと実がなることをも望み願っての思いを、切々と語っている。9節は、あくまでも正論に対する弁明としてのものであって、番人自身も諦めますという趣旨ではない。実際問題として、こうでも言わなければ、持ち主はすぐさま切り捨ててしまうだろう。この持ち主の声が、人間の世界の声である。番人の言葉は、それにたいして神のなさっていることを示すものである。厳しい神の姿と言われている旧約ですら、実は神は忍耐強く、どこまでも関わり続けておられるのだから。

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ルカ 13:1-5

 イエスの応答は、人々の抱えている課題をさらに追求するものとなっている。人々はそうやってガリラヤ人たちを悪者扱いすることで、自分たちはそういう目に遭っていないから大丈夫だと安堵している。だが、その安心は大いなる勘違いに過ぎない。たとえ今は平穏な状態にあったとしても、罪そのものは誰もが抱えている課題であって、安穏としていられる者はいないのだ、という指摘だ。こういう教えを聞くと、いわゆる因果応報、つまり、善なら幸い、悪なら災いという方程式を、神は決して認めてはおられないのだということを痛感させられる。人が物事を把握するには分かりやすいかもしれないが、もっと大事なことは、人の判断する善悪を越えて神はこの世界と、人々と、しっかりと関わり、手を差し伸べ、掌握されているのだということを認めていくこと、だ。そのことをわきまえていることのほうが、因果応報的な理解よりもはるかに全うにこの世界を見て、この世界にあって生きていくことができる。人間自身の理解の限界で物事をきれいにまとめすぎない方が良い。

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ルカ 13:1

 イエスの言葉からすると、人々はこの出来事を、そのガリラヤ人たちが何かとても悪いことをしたために悲惨な目にあったのだというように受け止めていたのだろう。そうでも考えないと受け止めきれないほどの衝撃だったのだろうとは推測できる。でもそれは、一見、同情しているように見えて、その実、自分たちの感情を納得させるためにそのガリラヤ人たちをおとしめている姿でしかなく、最も忌まわしいあり方の一つと言える。でも、悲しいことに、似たようなことはいつも起こっている。その相手の痛みを自分のこととして受け止めない限り、人は結局、自分のことしか思いやろうとしないのだ。

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ルカ 12:58-59

 この言葉は、マタイ5:23-.では人の争い、いさかいの課題を語るためのものだが、ここではそのことよりも、自分たちが置かれている事態はかなり危機的なのだということを説明するために用いられている。イエスはご自分の中で慣れ親しんでいる言い回しや例話をお持ちで、その時々の必要に応じて活用されていたということだ。だからといって分かりにくいわけではない。前後を読めば、イエスが告げようとしていることは十分にわかり得るのだから。

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ルカ 12:57-59

 この57節の言い方と、これが群衆相手に語られたこと、そして12:1.の言葉を考えると、人々がパリサイ人らを無条件に信じてしまって、神の告げられたことそのものが見えなくなっているという課題が背景にあるようだ。何も、パリサイ人らの教えていたことの全てが間違っているわけではない。彼らもまた律法を学んでいたのであり、個別具体的にはまっとうな事柄は多々ある。しかし、徹底的に探求し続けていた彼らが、結局は真のメシヤを見いだせずに過ぎてしまった事実は、彼らのものの見方が根底部分でずれていることの悲しい印だ。だからこそ、彼らの見方から離れて、改めて神ご自身の言葉に向き合う必要がある。御子は、真実な神の言葉を指し示し、実行するためにここにおられる。

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ルカ 12:54-59

 時代という言葉が出てくるが、告げられているのは、単に時流とか現在の問題点を考えることではなく、真に大切なことは何かをちゃんと見分けること、ピリピ1:9.では真の知識と識別力という表現が用いられているが、そこにある。ユダヤの人々は神に従うつもりはあったし、どう生きるべきかも分かっているつもりであったのだが、この章でイエスは繰り返し、人々が思い違いに陥っていることを指摘されていた。そして、わからないということ以上に深刻なのは、わかっているつもりでいることで、第一コリント1:18-.にも通ずる警告である。詩篇119のように、主に尋ね求めてこそだと悟る必要がある。

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ルカ 12:49-53

 むろんのことだが、イエスは決して世界を争いに巻き込もうというのではない。でも、真実なものが提示されていくときには、人々はそれに対する自らの反応を明確にしていかざるをえなくなる。そうしたら、主の呼びかけに同意する者、反発する者が出てくるのは必定で、その食い違いは大きなものとなる。どうでも良いものならば、ほどほどで済むだろうが、真剣だからこその衝突でもある。地に火を投げ込むとは、そういう深刻さを言う。思い浮かべてみよう。火事になってすぐさま避難する必要が生じたとする。どっちに逃げたらいいのかは重大で、間違った方向に入り込んだら大変だ。そういう時、好きなように、とか、どっちでもいい、とは言わないだろう。はっきりと、厳しく、こっちに逃げろと叫ぶはずだ。イエスの言葉は、そういう意味での厳しさがある。

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ルカ 12:41-48

 手厳しい言葉も語られているが、イエスの言いたいことは、神が喜んでおられる生き方は何か、ということだ。もう一度、振り返ってみると、パリサイ人らのような戒律は守っているようでも神の心を知らずにいる生き方は違うと言われ、神ではなく物に寄り頼んでいる生き方も違うと言われ、そして、たいしたことはないと油断している生き方も違うと言われてきて、そして、主人の心を生きようとすること、神の心を生きようとすることにこそ意義があると語られているのだ。結局、それまで語られてきたものは、自分が中心であって、自己満足か、自分の力を誇るものか、好き勝手であったりなど、神ご自身と向き合って生きようとするものではない。それではどうにもならないからこそ、こういう厳しい言葉も出てくる。ちなみに、神とまっすぐに向き合うことをやっかいだと考えるのなら、それは人と人との友情や、あるいは愛情もまた手にすることができずに終わってしまうだろう。信仰とは何も特殊な世界のことではなくて、本来、この世界に、人の歩みの中にあるべきはずの、よき姿に同類のものは含まれている。

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ルカ 12:39-40

 ポイントは、思いがけないときに来るのだから油断するな、ということである。泥棒と救い主とを並べるなんてと言われそうだけれど、イエスのたとえはそういう点でのこだわりがない。とは言え、それがいつなのかは知り得ない。泥棒だっていつ行くのかは決して知らせない。怪盗ルパンでもない限りは、そんなことはしない。だとしたら、いつなのかを知るために必死になることよりも、いつであっても備えはできている、というふうに生きていくことの方がはるかに意味がある。終わりの時についての人々の思いは、神が語られているごく常識的な対応に比べて、実にいびつなものになっているのだ。

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ルカ 12:35-38

 似たようなことが語られている他の箇所では、帰ってきた主人のためにしっかりと給仕をすることでほめられる、という話になっているが、ここでは主人の方で歓待してくれるという話が告げられている。イエスも、その時々に調整しながら話をなさるわけで、こういう多様性がまた、主の教えの豊かさを指し示してくれる。それに、たとえ話ではなく現実のこととして言えば、この箇所のように、確かに神は私たちのために尽くしてくださって、犠牲を払ってくださって、私たちが幸いを手にするためにご自身が仕えてくださっている。給仕ではないけれど、それよりもはるかに大きく、人の救いのために御子の犠牲を払ってくださった。これは実に歓喜に満ちたことだ。

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ルカ 12:29-34

 神を忘れると、人の心は物的なものに縛られていくようである。神のもとにあってこそ物的なものを喜び楽しめるのだが、神への思いが消え失せると、それらにしがみつくしかなくなってしまう。神は多くのものを人の手に託し、それを管理するようにと命じられたが(創世記1:26-28)、神を捨ててしまうと、自分がそれらのものに頼ることになってしまっている。何かに熱心である場合でも、喜び楽しむのと、捕らわれてしまっているのとは全く違う。だからこそ、神をこそ求めよと告げられている。いわゆる修行的な、神以外のものはすべて排除、みたいな話がなされているのではない。最善を楽しむためには、与えてくださっている神を軸にしていかねばどうにもならないから、であるのだ。

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ルカ 12:22-28

 有名な言葉である。心配するなと言われる理由は、神が必要を覚えてくださっているから、である。労することや備えることが否定されているのではない。神が与えてくださるからこそ労し、備えるのであればふさわしい。でも、神抜きで、神などいなくても良いというふうにして自分の力に頼るなら、人は永遠に心配し続け、思い悩み、決して心が安まることはないままになってしまう。これらの言葉を、物質的なものへの思いは悪だというような話として読むべきではない。神に頼るのか、神を捨てているのかの違いが、最も重要なこととして掲げられているのである。人にはそんなに力はないのに、自らのいのちさえ支配できないのに、それなのに、自分だけで大丈夫だと言う。これほどの悲劇はない。

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ルカ 12:16-21

 富や豊かさが糾弾されているのではない。本来、そういうものは神からの幸いな贈り物である。倉を建てるのも、収穫を楽しむのも悪くはない。ただ、この人の言葉には、与えてくださった神の存在が皆無だ。まるで自分一人の力で豊作を手に入れたかのようである。イエスがこの話を豊作として語ったのは、農作物のことは、よりいっそう、神からの賜物であることを意識しやすいものだったからだろう。でも、彼はそのことを全く意識していない。神からの祝福だとわかっていれば、「食べて、飲んで、楽しむ」だけでなく、与えられたものを良く用いること、たとえば他の人と共に楽しむとか、あるいは施しをするとか、律法にも何度も出てくるそういう行動が伴うものだろうが、その点でも彼の言動には自分のことしか出てこない。そう、問題とされているのは、神が不在だということである。でも、神を拒むなら、神が与えてくださったいのちをも失うことになる。創世記2:17は単なる罰ではなくて、人が選んでいこうとしている道が何であるのかを問う指摘なのだ。

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ルカ 12:13-15

 当時、宗教面の教師は人々の暮らしに関わることについても手助けをしていたようだ。もともと律法にはその類のことがたくさん書き記されているから、当然のことでもある。遺産問題などは俗的なもの、などという切り捨ては、神の意図するところではない。イエスも、相談を持ちかけられて迷惑だと拒絶したのではない。この言葉の意図は、続きの部分に出てくる話から考えるほうが良い。つまり、この人は相続問題に心が奪われて、気持ちの安定も、余裕も失い、兄弟との仲も悪化していたということなのだろう。だからこそ、財産問題に心を支配されないように、人が生きるというのは、財産だけで決まることではないのだから、と告げている。これは29節に続く話である。だから、決して、財産問題など俗的な話を持ち込むなという禁止や拒否ではない。

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ルカ 12:11-12

 この言葉は、誰かに神様のことを語ろうとする時、何も準備をしなくてもいい、という意味ではない。第一ペテロ3:15にもあるように、良い備えは大切で、価値のあるものだ。ただし、十分に備えればそれでうまくいく、というわけではない。事は神がなさせてくださるものだ。それに、イエスが語られているのはむしろ、真剣に向き合おうとする人のことである。そういう人は、どんなに準備を重ねても、不十分さのほうが心に迫ってきて、不安にさいなまれることもあるだろう。だからこそ、聖霊が導いてくださるので心配はいらない、と告げられている。そういう土台があるからこそ、人はまたそれぞれに、誠実に備えて、取り組んでいくのである。

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ルカ 12:10

 聖霊を汚す罪、と言われているものの意味を、この箇所は明確に告げている。いわゆる暴言を吐いたとか、態度がどうか、というようなことではない。救い主など知らないと言う、つまり、必要ない、関係ないと言って、本心から救い主を拒絶するのだとしたら、それこそが深刻な事態をもたらす。聖霊の御業は人の救いの実現にあるからこそ、この方のしてくださることを拒んでしまったら、どうすることもできなくなってしまうのだ。私たちはここに、大いなる希望と確信を抱き、そしてまた、心定めて主を慕い求め続ける覚悟も必要と言えるだろう。

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