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2017年6月

ルカ 17:22

 ちょっと難解な言葉だが、5:35からすれば、今現在の状況には終わりが来ることを指摘されたものと言える。今はまだ、神の国は実現していない。祝福という面では、もっと早くと願う思いもある。一方で、それは神が与えてくださっている猶予でもあり、真に神を待ち望む者にとっては、忍耐強く、しかし、明るい希望を胸にしつつ、世界の人々も共にという願いを抱いて歩んでいる日々。しかし、いずれは決着の時が来る。神の国の到来は、祝福の全面的な実現でもあるが、待っていてくださる時の終わりでもあるから、喜びでもあるが、厳粛な時でもあり。この言葉は、「あと少しの猶予を」という思いが成り立たないときが来る、という趣旨で読むのがよさそうだ。

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ルカ 17:20-21

 誤解は避けきれないが、それでもここでは神の国がこの世的な力で成し遂げられるものではないことを明示するために、この発言を主はなさった。もっとも、これもまた誤解する人はあって、イエスの目指したことは心の内の事柄であって、感情的、感覚的な慰めや励ましの類だというふうに思う人は少なくない。でも、イエスはずっと、ご自分の与える救いが実質的で、暮らしも世界も根底から変えていくものだと語られていた。この言葉は、どのように実現するのかを指し示すもので、人のなすような力での遂行ではなくて、一人一人の心そのものを変えることでの変革なのだということを告げる。マタイ26:52も参照できる。

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ルカ 17:20-21

 パリサイ人の問いかけは、イエスが神の国の話を繰り返しなさっていたからだが、それを、イエスが王として旗揚げすることだと思い込んでいた人たちは少なくなかったようだ(19:11)。ヨハネ7:3-4ではイエスの兄弟たちもそんな言い方をしており、この誤解は根深いものだったと言える。救い主であるイエスにとって、この自体への対処は難しい。誤解を避けようと謙虚に身を引いてしまうのでは、救い主としての権威と御業をも否定的に受け止められてしまうし、むろん、この世の力で人々を支配・統率するつもりはない。全体として言えば、主は誤解よりも否定を避けることを意図されたようだ。神は全能だが、受け取る側の限界ゆえの混乱は避けられない。

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ルカ 17:11-19

 それにしても、サマリヤ人一人が戻ってきたというのは考えさせられる。それまでは10人は一緒に行動していたのだ。ユダヤ人とサマリヤ人という違いなど気にせず、共に暮らしていたのだ。それが、癒やされたとたんにバラバラになってしまう。このサマリヤ人は仲間たちに、お礼を言いに行こう、と呼びかけたはずだ。でも、すでに彼らは仲間ではなくなってしまっている。誰一人、サマリヤ人と共に行く者はいなかったのだ。苦しいときには心が開かれ、幸いになると心が狭くなっていくという、このあまりにも悲しく、愚かなあり方を、でも、人はなかなか克服できない。

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ルカ 17:11-19

 ツァラアトのいやし、そして、サマリヤ人がいやされていることに示されている神の恵みの豊かさは、他の箇所でも取り上げられている。ここでの注目点は、祝福を与えられて、それでどうしたのか、である。9人が邪悪というわけではない。彼らはイエスの指示通りに動いたのだとも言える。サマリヤ人はユダヤの祭司に会いに行くわけにはいかないから、戻って来やすかったのだとも言える。そう、理由は様々あって、それぞれにもっともだ。ただ、このサマリヤ人の姿が、他の人々の行動がやはり何かおかしいぞと気づかせてくれる、そういうきっかけになった。日頃、ユダヤ人はサマリヤ人を蔑視していたが、そういう人の存在によって自らが問い質される。これを恥とか、そんなふうに思わないで、実に意義深い、ありがたいことだというふうに受け止めていくならば、この出来事はユダヤ人にとってもまた、価値あるものになっていくのだが。あいにく、人の心はそういう素直さ、謙虚さを、なかなか持ち得ずにいる。

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ルカ 17:10

 なすべきことをしただけ、という言葉は、神の前に生きる者として大事な指針だ。高ぶるなとか謙遜であれという点ではない。そこで取り組んだ業について、一々評価してもらう必要性がない、感謝してもらう(9節)必要性がない、ということだ。評価に値しないと軽視されているのではない。偉大なことをなしえたかもしれず、そうありたいと願うのであるけれど、それでもなお、湖の業によって認められる必要性がない。とても簡単な理由だが、すでに十二分に、あふれるほどに神から恵みを受けており、それ以上入りきらないほどに祝福は注がれており、全面的に認めていただいているから、だ。私たちに注がれている神の幸いは、何よりもキリストの救いによって実現しているものだ。それを越えられるものなどありはしないし、比較できるものすらない。だからこそ私たちは、喜々として仕え、そして、何一つ、追加の評価などなくても十分、と言える。そう言えるかどうかは、この救い、この信仰の理解に大きく関係している。

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ルカ 17:7-10

 話の流れからして、当然、イエスはこの話を、「信仰を増す」に関連して語られている。とすれば、信仰を増すとは、何か偉大なことを成し遂げられたかどうかではなく、頑張ったかどうかでもなく、ごくごく単純に、なすべきことをしているまでだ、という主への全面的な信頼と期待によって生きている姿にこそあるのだということになる。世の中では、自分の出来次第ということを考えるのが常だが、神の思いはそうではない。だからこそ、罪ある者たちが赦され、受け入れられ、祝福されていくのであるのだが。

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ルカ 17:5-6

 信仰を増す、という意味合いを、弟子たちは、自分たちの精神力の向上という感覚で思っているようだ。それは古今東西、ごく一般的な理解の仕方でもある。でもイエスは違うと言う。本人の精神的な力の問題ではない。事がなるかどうか、本人の問題ではなく、神ご自身の御手が働くかどうか。人にできるのは、主がなしてくださると信頼して待ち望むこと。それだけであって、事が起こっても、それは神の栄光であって、人の側の功績ではないことを、よくよく覚えておきたい。信仰に関するこの理解は、神の前に立とうとするときには、とても大事なことである。

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ルカ 17:3-4

 つなずかせるな、という教えが、赦しの話につながっていることは、マタイよりもルカのほうが言葉数が少ない分だけ、明瞭に示されていると思う。つまずかせる行為には様々あるけれど、この箇所からすれば、主が意図しておられるのは、赦そうとしない姿勢であるのだ。人は愚かにも罪を犯してしまう。むろん、放任はできない。まあいいよ、とも言えない。罪は罪であり、なかったことにはならない。でも、そのように厳しく見定めた上で、それを赦していくことこそが、小さい者をつまずかせないあり方なのだと言う。確かに、そうやって支えられていくのでなかったら、人はとうてい立っていられない。誰でも、である。ヨハネ8章の、あの、罪のない者が・・・という言葉は、この視点で考えていくと、理解が深まるだろう。

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ルカ 17:1-2

 イエスの言葉は、時に過激でもあるが、それほどに、小さい者たちを大切に思っておられるということだ。こういう箇所を、小さい者たちだけが特別扱いされるのか、というふうに読んでしまうとすれば、それは自分自身に強い自信を抱いていることを露呈することになってしまう。18:9からのパリサイ人のように、である。そう、主の思いは、すべての、ひとりひとりに注がれている。あなたが失われるなど、そんなことは決してあってはならないのだと、主は切望しておられるのだし、だからこそ「全ての人が救われることを望んでいる」という言葉も出てくる。主の本気度は、十字架によって確かにうかがい知れるのだ。

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ルカ 16:27-31

 この話でイエスが伝えようとしたのは、この世での安穏が決して御国に連動するわけではないという警告と共に、この最後の箇所に出てくる話である。つまり、真に意味を持つのは、奇跡でも不思議でもなく、神の御言葉に耳を傾け、心を開くかどうか、であるのだという点だ。これは、多くの人にとって驚きだろう。この金持ち同様に、多くの人は思っている。何か不思議なことが起これば人々は神に立ち返るのだ、と。でも、それは現実ではないことを、旧約も新約も指し示している。神がどれほど偉大な御業を行っても、それだからといって人々が真に敬服することはない。きっかけにして神を見上げようとする人はいるが、ただの興味本位で終わる人の方が多い。神がこの世に対して呼びかけておられる最大の手段は、聖書なのだ。聖書こそ、はとても重要なことである。

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ルカ 16:25

 ここを、地上で良いものを受けたら御国では苦しむのだというような構図で受け止めてしまうのは避けた方が良い。地上でも御国でも良いものを受ける人もあるし、どちらでも邪悪なものしか手にできない人もある。ここはあくまでも、悪人たる金持ちと善人たる貧者という、話の盛り上げとして実に分かりやすい設定にしているだけのことだ。人の評価とか、あるいは神ご自身の評価を推察する場合には、分かりやすい判断の部類は避けておいた方が良い。人はそ複雑な存在であるし、そして、神ご自身の御業は、人の思いを越えてもっと複雑である。聖書の単純な約束は、主を信頼して寄り頼むならば救われる、ということであって、こういう明確な約束についてこそ、そのまますっきりと受け止めれば良い(第一テモテ1:15)。

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ルカ 16:23-26

 この話から、死後の世界について様々なイメージを思い描く人は少なくない。ただ、たとえ話の、しかも本筋以外の部分を根拠に何かの理論を形成するのは、差し控えるべきだと思う。この箇所で言えば、地獄は焼け付くような暑さというイメージがあるが、確かに火の池という表現も黙示録には出てくるが、それが象徴的なものかどうかはその時になってみないとわからない。もともと、死んだ後にすぐに地獄へという構図は、聖書全体からすると合致しない。それは最後の審判の時に関わる話だ。神の御許と地獄とが隔絶されるという構図も、そのこと自体はおおよそ聖書全体に合致するけれど、でもここでは両者の間に会話が成り立っているのだが、それがありえるのかどうかについては、確かなことは何も言えない。そのあたり、読み込みすぎるのは警戒した方が良い。

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ルカ 16:22-25

 死んだらアブラハムの懐に、というのは、ユダヤ人を意識した語り方で、アブラハムだって御国の住人の一人に過ぎず、別段、アブラハムが世話係をしてくれるわけではない。でも、こういう表現がユダヤ人にとっては最もしっくり来るわけで、だとすれば聖書はそういう機会を逃すつもりはない、のである。パウロが、全ての人のために全ての人になると言っていたのを思い出す(第一コリント9章)。告げられているのは、この世での扱いは、その人の本質を現しているとは言いがたく、だから、御国では全く違う扱いになることは多々あるのだ、ということである。誰かに対する扱いや評価を思う時には、人の思いと神の御心とは大きく違っていることを肝に銘じるべきだ。

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ルカ 16:19-22

 これは決して、金持ちはだめで、貧しければ天国へ、という意味ではない。聖書は全く、そういう扱い方はしていない。告げられているのは、逆の発想で、金持ちだから安心ということはないのだということ、そしてまた、貧しくてどうにもならない状態だとしても、それで御国から除外されるなどあるはずがない、ということだ。ヤコブ2章や第一コリント11章なども参照したい。神はその人の心を見ると語られているように、社会的な裕福さによって物事が左右されることはないのだと、よくよく心に刻んでおきたい。

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ルカ 16:19-31

 14節の「金の好きな」を受けて、さらには13節の「神にも富にも仕えることはできない」を受けて、このたとえ話が語られている。たとえだから、分かりやすく強調している部分はあるし、話の都合上出てきていることもあるから、これが死後の世界の実像と受け止めるのは避けた方が良い。ただ、人を救うのは財産ではないのだ、ということが強く指し示されているのは確かなところだ。この金持ちは死んでからそのことに気づいたのだが、こうやって話をしているということは、イエスとしては人々に、是非とも今のうちに気づいて欲しいと願っているのである。単なる断罪や善悪の理論ではなく、人々を案じるからこその話。それはこの金持ちが27節以降で示している思いの中にも込められている。

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ルカ 16:18

 イエスの教えに、離婚問題が時々出てくるのは、当時の人々にとって、これが大きな課題であったからだろう。結婚生活にはそれなりの定めがあり、縛りがあったから、それで人々は自分たちの思うがままにならないと、安易に離婚してしまえばいい、というふうに考えていたようだ。ある部分では正しく生きているつもりで、そこからの抜け道を探ろうとする。でもそれでは真に神の祝福を生きることにはならない。結婚問題は、あれはだめ、これはだめ、というだけでは解決しないのはもちろんである。だが、人々が安易に走って、かえって事態を悪化させていることをふまえて、主はこのように、まずは崩壊を食い止めるところから話しておられるのだと考えて良い。この箇所も、結婚問題の話をしていないのに、こういう話がポンと出てくるのは、本質自体の解決ではなく、人々の思い違い、神に従うことへの深刻なずれのひとつとしての話であるのだ。

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ルカ 16:16-17

 律法は養育係のようなものだとガラテヤ3章に書いてあるが、だとすれば、救い主が到来したからには、物事の本来の価値輪全面的に受け取っていこうとする歩みを目指す方が良い。そのように指し示すイエスは、そのためにしばしば、放縦だといって批判されていた。だが、一連の話を思い返せば、それが愚かな誤解であることに気づくだろう。神が示しているのは、富などに支配されてしまう生き方ではなく、神ご自身が軸となるからこその、すべてを取り扱い、決して投げ捨てるのではない生き方だ。だからこそ、律法が指し示している様々な戒めは当然に保持されるわけであり(もともと律法は、神のもとで幸いに生きることを前提とした道筋を指し示している。人々がそれを制限の教えとして考えているだけのことだ)、だから、律法は何も変わっていない、しかも神の前に喜び生きることも積極的に提唱されている、ということになっていく。出発点を取り違えると、何も良いものは生み出されない。

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ルカ 16:14-18

 このパリサイ人たちは、おそらく、神の前に生きようとすれば、その他のものをすべて放棄することになるしかないのだと考えていたのだろう。パリサイ人と言えば、基本的に真面目で熱心な人たちであるのだが、その研ぎ澄ましていこうとする姿勢が、神の与えてくださる幸いの豊かさというものを見失わせてしまうこともあるようだ。人にとっては、神か富かという二者択一しか考えられないのだが、神ご自身は、そういう対立を超越してご自身が一切を導き、豊かにもしてくださる方だ。そういう神を信じられず、むしろ自分たちの力や意志によって遂行しようとするからこそ、そんなのは無理だといって投げ出してしまうことにもなる。自分に厳しく、の思いが自らを追い込むことにもなる。神の恵みの豊かさを狭く考えてしまうと、神の前に生きること自体もそぎ落としてしまう。あまりにも愚かで、でも、それが人の現実である。

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ルカ 16:13

 この言葉を、富を捨てて神のことだけに専念せよ、という趣旨で受け止めてしまうと、話の脈絡が混乱してしまう。でも、主が告げているのは、主人はどちらなのか、ということだ。神のことも富のことも、それぞれ大事だという姿勢ではうまくいくはずもなく、結局は富のほうに牛耳られて、支配されるだけのこと。しっかり、神ご自身にこそ基軸を置き、その御心に従って行くのであればこそ、富をも良い形で用いることが出来、人々の、あるいは自分自身の幸いにもつながるというものだ。マタイ6:33の「まず第一に」という言葉は、とても重く響いてくる。

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ルカ 16:9-13

 13節は9-12節と逆のことを言っているように見えるだろうから、改めて考えるとして、神のもとに生きる者として、与えられている能力、機会、あるいは今のその時というものを、ちゃんと受け止めて、ちゃんと用いていくということは、本来的に神への誠実さにつながることだ。でも、意外と、神に対して熱心であると言い、清く正しく生きているのだと言っているはずの人々が、なすべきことを放置していたり、それこそ真剣に取り組んでいるとは言えない場合があることを主は指摘している。イエスは問うのだ。「あなたがたはこの世のことを些細なことと軽視している。そして、御国のことこそが重要だと言っている。だとするなら、その些細なことを放り出している者に、神はどうして重要なことを託したりすることがあるか。そうやって軽視することで、あなたがたは自分自身の失格を自ら宣言しているようなものだ」と。ちなみに、神ご自身は決してこの世のことと御国のこととを分断してはいないし、どちらが価値があるとか、そういう言い方はしていない。人々の言い分を前提とした話である。

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ルカ 16:1-8

 言うまでもないだろうが、イエスは決して、不正を奨励しているわけではない。たとえ話というものは、意図の部分に焦点を当てて、そこを強調するために話を作っている、と思って受け止めるのがふさわしい。で、ここに登場するのは財産の管理人である。彼の能力は、手の内にあるものを用いて最大限の効果を発揮させることにある。その点ではどうか。彼は自分の権限の及ぶ限りを尽くして、罷免された後の生活保持のために奮闘している。この主人は後者の点を評価したようである。もう少しわかりやすい話にするなら、怪盗ルパンが(ルパン三世でもいいが)厳重な警戒をすり抜けて秘宝を盗み出す物語を、人々は大喜びで歓迎する。そこに発揮できるものがあるのなら、大いに発揮されることを願うのがこの世の常で、それはごく自然な反応でもある。むろん、泥棒は良くないのだが、でも、こういう拍手喝采をしているときの人々の感覚は、スポーツ選手が活躍するのに歓声を挙げるのとも似ている。それなのに、ということをイエスは告げようとしているのだが、それなのに神を信じ、神によって与えられているいのちを幸いだと言っているはずの人々が、でも、与えられているものを用いようとせず、眠らせていたり、放り出していたりする。あり得ないことだと、主は問いかけている。

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ルカ 15:31

 兄息子の怒りの言葉については、一つ一つ検証しなくても良いかと思う。憤りと、やっかみと、もちろん正義感も含まれて、彼は怒り、そして神は彼を慈しんで、和らげようとしているようだ。ただ、その中でこの31節は考えさせられる。これをイスラエル民族は特別扱いなのです、という話に縮めてしまっては、あまり望ましいとは言えない。これは人類が本来持っている姿だ。創世記1-2章のように一切を託されている者であり、その責任はまだ消えてはいない。よく、他者の幸いを見ては憤る人があるけれど、そういう人ほど、自分が本来神から託された使命がどれほど豊かであるのかを、全く見ていないことが多い。最も悲しい、あまりにも痛ましい姿である。

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ルカ 15:25-32

 放蕩息子の話は、前半だけで終わりにしてしまうと、もともと何のために語られていたのかを見失ってしまう。そう、これは、罪人を迎え入れるイエスに腹を立てていたパリサイ人らに、なぜ罪人が歓迎されるのかを語るためのお話だ。だから、この兄息子は、ちゃんと生きているつもりの人々のことである。彼らが勤勉に、忠実に生きてきたのは事実である。たいしたことはない、などと揶揄するつもりは、聖書にはまったくない。でも、問われているのは彼らの処遇ではない。このどうすることもできない状況の人々である。それを、自業自得だと切り捨てるのは、神にとっては全く受け入れがたいことで、だからこそ赦しが実現している。もし、人が神ご自身の心を大事と思い、同じ方向に歩んでいきたいと願うのならば、確かにどうしようもない人々である。でもその彼らを受け入れることによってこそ、私たちは神の心を生きられる。いや、自分自身がそうやって受け止めていただいた者であることを、決して忘れてはならないのだ。

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ルカ 15:24

 父親のこの言葉は、32節でも繰り返されている。それは、神の切なる思いを示すと共に、人がいた状態が何だったのかを、強く告げているものでもある。些細なこと、たいした問題ではないと、人はそのように自覚しているのだろうが、神はそれこそ創世記の当初から言い続けているのだ。この者たちは、死んでしまっていたのだ、と。キリストの復活は、死を打ち破り、人に永遠のいのちをもたらすものであるが、それはこの肉体の死だけではなく、さらに深刻な、罪による死のことを解決する偉大な力の発揮であることを思う。そう、キリストをよみがえらせた神の偉大な力が人々にも働くのだという宣言は、とても豊かで、重たいものであることを思い知りたい。

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ルカ 15:22-23

 父親の歓迎ぶりを、イエスは実に盛大に語り描いてみせている。罪ある者を赦して受け入れるという場合、それは赦してあげている、とか、寛容の心をもって受け止めてあげた、という感覚になるのが自然なことだと思う。本来は、そこにいる資格のない者が、温情によって入れてもらっているという図式だ。本人としては、むろん、その自覚はあって当然だ。この弟息子もそうしている。だが、父親の態度は全く別のものだ。それは、賓客を迎えたときの態度にそっくりだ。来ていただいてありがたいと、こちらのほうが平身低頭するような場合に似ている。でも、第二コリント5章で「懇願」という言葉が使われているように、神の本心としては、まさにそうなのだ。何としても取り戻したい相手、人間が悪いことも、罰すべきであることも、甘い顔をするとつけあがる連中だと言うことも、すべて承知の上で、それでもなお、人をいとおしんでおられる主の思い。御子を代償としてまでも人を取り戻そうとなさる、神の心はこういう話の中にも色濃く表れている。私たちとしては、それほどまでに求められていることの幸いを、決して忘れてはならないのだと思う。

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ルカ 15:20-24

 しかし、弟息子が父について考えていたことは、大きく間違えていた。彼は、雇い人として迎えてくれるだろうという意味でのあわれみを父に対して抱いていた。それ自体が驚くべきものだが、実際には、父の心はそれよりもはるかに大きく、想定外のものであったのだ。彼を全面的に受け止めて、歓迎してくれる父の姿は、羊や銀貨の時よりもはるかに、人を愛おしんでおられる神の心を指し示している。神の心は人の心よりもはるかに高いと告げられているイザヤ55章の言葉は、ここにも力強く語られている。

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ルカ 15:15-19

 羊や銀貨と違うのは、本人が悔い改めて立ち返ろうとしたこと、である。ここがやはり人間の幸いである。彼は助けを求めて父のもとに帰る決意をした。そこには幸いがあるのだと気づいたことはとても大事なことだ。とは言え、彼は自分が受け入れてもらえるような立場ではないことを承知している。だから、息子として受け入れてもらえることは願わず、使用人として雇ってもらえるようにと願うのみである。このような姿は、彼が真剣に自らの過ちを認めていること、そしてまた、父親のあわれみを期待していることを指し示している。そう、彼は父について、厳罰ではなくてあわれみを見ている。人が神に対して抱いている思いは、かなり間違えていることが多い。この弟よりもなお、間違えているのだ。

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ルカ 15:11-16

 詳しくこの話を眺めてみよう。たとえ話は、微細なところに深入りしすぎないのが鉄則だが、それでもこれだけ綿密に語られたのだから、じっくり受け止めてみたいものだ。弟息子の行動は、当時の社会ではありえないことだ。父親が生きているのに財産の分け前はありえず、それは親の所有物を強奪するに等しい。遠くに旅立ったのも、自立・巣立ちなどと言ってはいられない。親を捨てるのは子としてありえない行動だった。彼が遊び暮らして財産を失ったのはその姿勢からすれば当然の帰結で、彼はまさに失われた者であって、回復の可能性はない存在であったのだ。イエスの話は徹底していて、考慮の余地を完全に排除したものとなっている。そんな者が、それでもなお受け止められていくことが語られるのだ。もっとも、パリサイ人たちは、自分らもまた神に対しては、この弟と同じ者なのだということを、全く悟ろうとはしなかっただろうが。

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ルカ 15:11-24

 このよく知られた話の基本的なテーマは、羊や銀貨と同じで、24節にも出てくるように、失われた者が取り戻されたことを心から喜ぶ神ご自身の姿、である。羊や銀貨は、見つかって良かったと喜ぶのは自然なことだったが、放蕩息子ではもう一歩進めて、悪辣なる弟息子ですら、失われた者が見つかれば喜ぶのだということが告げられ、冒頭にあった罪人を迎えることに直結していく。この息子のケースは、現代なら歓迎して当然と見られそうだが、当時であればまさに勘当、縁を切られて当然で、それを神は迎えるというのか、という衝撃が走ったはずだ。そのためにも、羊と銀貨で助走をつけたわけである。

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