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2017年7月

ルカ 19:27

 14節からの続きになるが、神は決して、逆らう者たちはなぎ倒してしまえ、と思っているわけではないし、そういうやり方はしておられない。ただ、当時の常識からすれば、この回りにいる人々は断罪されで当然、枷らが放置されること事態そのものがありえない。そんな世界に対して、でも、神が実際になさつたのは、滅ぼされても当然の者たちを顧みて、助け、救いを与えてくださったということ。このギャップが、イエスという方の意味合いを、鋭く告げている。

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ルカ 19:24-26

 これを10ミナの人へのご褒美というふうに考えると、人々の戸惑いも分かるのだが、よく考えれば、もともと主人はしもべたちにその金をあげるとは言っていない。手にした10ミナもつまりは主人のものだ。とすれば、これは褒美ではなく、むしろ、ちゃんと管理するためにこそ、である。村とか町に当てはめたら、無能でやる気がない市長に任せるよりも、ちゃんと実績を積んでいる人に託した方がずっとましだ。彼は、自分の利益よりも、より多く使命を託される、という意味合いだったことを心に留めておきたい。

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ルカ 19:20-25

 もともと信じられないのなら、預からねば良かった。あるいは、それこそ銀行にでも託せば。でも彼は何もしなかった。危険を回避するという口上はそれなりでも、彼は何もしなかった。彼は弁解の余地なく、主人に積極的に逆らったのである。10ミナの人も5ミナの人も、同様に喜んで受け止められていたことからすれば、もし彼が精一杯やって、その結果としての1ミナだったら、意味はずいぶんと変わっていただろうに。成果の問題ではない。その指示に聞き従おうとしたのかどうか、それは重大な意味を持つ。

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ルカ 19:16-19

 この人たちは、主人の命じたことに従ったのだ。13節で、商売せよ、と言ったのだから。しくじる可能性があるので、危険を避けて残しておく、という選択肢は、主人の命令からすればあり得ない。こういう場合にも、主人に対する信頼があるかどうかは鍵だ。信じていなければ、せめてもの危険回避で、そのまま残しておくという考え方も出てくるが、信頼して託してくれたのだと思っていれば、精一杯やってみようと考えるのが最も自然なはずだ。人ははたして神を、ちゃんと信頼しているのか。

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ルカ 19:12-14

 マタイ25にも類似の話があるが、場面設定などはルカの方がはるかに綿密だ。この人が憎まれていたという話は、イエスが人々から憎まれていくことを意識したものとしか説明のしようがないだろう。27節にもつながるこのことは、「神の国」到来を待ち望んでいる人々のありようとは全く言いがたい。彼らは自分に都合の良いリーダーを求めたのみで、真にそのメシヤに従うつもりもない。その姿勢が、1ミナを隠していた人の存在にもつながる。人々は、真のメシヤなど求めてはいない。この辛辣な指摘は深刻である。

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ルカ 19:11-27

 このたとえ話の発端は、人々が「神の国がすぐにでも現れる」と思っていたから、だと11節に書かれている。人々が思い描いているのは、イエスが毅然として立ち、ユダヤ復権のためにローマなどに立ち向かい、勝利してくれる、ということだ。これが大きな誤解であることは、いずれは明らかになって行くが、この段階ではどれほど口を酸っぱくして正しても、なかなか理解できなかったようで、イエスも強くは反論していない。ただし、実質的には人々の思惑を根底からひっくり返すことを何度も語られていて、ここもその一つ、ということである。時に、人々の思いがすぐには刷新され得ないことがあるが、だからといって諦めるわけにはいかない。いくつかの誤解が残ったとしても、人々の生き方がまっとうであるようにと語りかける必要がある。

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ルカ 19:9-10

 イエスの言い方も、ザアカイを特別視するものではない。彼もまたアブラハムの子、他の人と同様に、神が祝福を与えようとしている者の一人、ということである。時に例外的なことも必要だろう。でも、より大切なのは、神がすべての人に対してなしてくださっていることは何か、である。そういうものだからこそ、誰もが期待し、誰もが願い求めていくことのできるものを見出すことができる。そしてそれが、失われた人を捜して救うこと、であるのだから、私たちとしては大いに慰められ、励まされることではないか。

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ルカ 19:8

 ザアカイの、こういう態度が、彼がイエスに受け入れられた理由、ではない。ここは大事なところで、この対応は、あくまでも結果である。神の恵みを与えられた者としての、その幸いゆえの応答である。物事は、前後、つまり、何が原因で、何が結果なのかを見誤ると、話が全く意味を失ってしまうこともある。なお、この言い方からすると、彼は何も全財産を捨てることを意図したわけではないようだ。半分を施すというのは、社会人としての立場を保持しつつ、その人としての全力での取り組みを示すもので、四倍にして返すのは律法の定めに準ずるものだ。彼は我が身を滅ぼすとか、そういう話ではなくて、当時の社会にあった定めに基づいて誠実に取り組んだ、ということである。それでいいし、それがいい。過度であれと言われているのではない。

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ルカ 19:7

 街の人々の反応は、当時としてはごく当たり前のものだった。イエスのなさったことが驚きであって、人の社会にはそんな許容性はなかなか期待できるものではない。おそらく、いつでも人の最初の反応はこんなものだろう。本人ですら、そのように反応することがある。だから、注目すべきは、神の御業を知った後でどうか、である。そのまま、神が何を言おうが、しようが、断固として否定し続けるのであれば、それはどうにもならない。でも、神のなさることを知って、それならばと受け取れるのであれば、それが、主を信じて、慕い求めようとする者たちのありようと言えるだろう。

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ルカ 19:4-5

 この言い方からすれば、イエスはもともとザアカイを目指ししてやってきたわけではなかったようだ。たまたまそこを通り過ぎようとしただけ。でも、そこで目に留まったザアカイのことをわかって、彼に助けの手を差し伸べている。この呼びかけは絶妙で、もし、彼が拒むならば、あるいは逃げ出すならば、それで終わってしまっていた。イエスはザアカイを捕まえたわけではなく、無理強いをしたわけでも、命じたのでもなく、だから、ザアカイ自身が思いを抱き、そして、応答することによって、事は進んでいった。出来事は、誰もが驚くほど突然であった。神の偉大な御業は、人が切望して待ち続けている時だけではなく、思いがけなく動き出すこともあるのだ。

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ルカ 19:1-10

 よく知られ、また、多くの人が好んで読み返している出来事だ。それだけに、聖書に書かれている以上に話を膨らませる傾向もあるが、本旨を外さなければ、多少のふくらみは構わないだろう。そのくらい、事の意味合いはまっすぐに指し示されている。何より、このザアカイが邪悪な人で、回りからも唾棄されるような存在だったことは、2-3節ではっりきと示されている。彼には、何一つ、評価され得るようなものはなかったのだ。彼がいちじく桑の木に登ったのも、そのことだけで熱心だと評価できるわけではない。たとえばザアカイは18章終わりの盲人のように、諦めずに必死で叫んだわけでもないのだ。でも、その人に目を留めて、つまり、彼には助けが必要なのだと見定めて、イエスご自身が近寄っていき、声をかけておられるというのが、この出来事のまさに出発点である。それが神のなさりようであると、聖書はずっと言い続けている。

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ルカ 18:35-43

 この出来事、一連の流れを辿り直すなら、こういうことだろう。エリコの町にイエスが来ると知らせが届いて、街中が大騒ぎになった。それでこの盲人が、何事かと回りの人に尋ねて、彼はイエスがまだ遠くにいて、姿も見えてはいないのだとは気づかない、すぐさま、大声で助けを願い求め始めた。回りとしては、まだイエスは到着していないのだし、うるさいと押しとどめようとするのもわかる。でも彼としてはここで諦めてなるものかと必死で叫ぶ。なおさら辟易した人々は、イエスがいよいよやってきた時に、邪魔だとばかりに、必死で押しとどめようとした。そんな騒ぎを聞きつけたイエスが、すぐに彼を呼び寄せられた、というのが、事の成り行きだろう。回りとしても、イエスが受け入れてくれるのであれば、これは幸いなこと、すぐに彼を連れて行ったのは、必然でもある。

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ルカ 18:40-43

 当初は遮っていた群衆が、イエスに指示されると、ちゃんとこの人を迎え入れ、イエスのもとに連れてきて、そして、彼の願いがかなったことを喜んでいるのは、とても意義深いことだ。時に理解できないことがあるのは事実だ。人の思いには反するように思えることもあるだろう。でも、神の確かな指示があるときに、それに応答するのであれば、それはたとえば、「でも網を下ろしてみましょう」と言った姿とも重なる。そしてまた、彼の癒やしを共に喜んでいる姿も心地良いもので、喜ぶ者と共に喜ぶことは、神の前に歩もうとする者にとって不可欠の姿の一つと言える。もしこれがやっかみや批判の反応だったら(パリサイ人らには見られたものだが)、これほど嘆かわしいものはない。

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ルカ 18:35-43

 人々の反応は、つまり、イエスは大事な仕事をしているのだから、この人に関わっている余裕はないぞ、というものである。彼に対する意地悪ではなく、イエスを思うが故に、だとは考えたい。でも、もともとイエスは、助けを必要としている人々のためにこそそこにおられる。だから、彼を迎え入れ、彼の必要に応えてくださっている。人間には限界があるので、すべての必要に応えることはできないだろう。教会の取り組みも限定的にならざるをえない。でも、神の全能は、すべてのことに応じられることを忘れてはいけない。だから、神には期待し、神に委ね、だからこそ神に祈り求めていくことは、何もできないと痛感する時にもなお、忘れたくないと思う。

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ルカ 18:31-34

 この時、イエスはエルサレムに向かっている。到着すれば、十字架の時である。だからこそ、弟子たちには何度も予告していくようになる。それは、これから起こることの一切が、神の御手の中にあることをはっきりと指し示すためでもある。驚愕するような困難に直面するのだが、いやいやそれもまた御手の中、と知っているかどうかは大きなことなのだ。あいにく弟子たちはそれを悟らず、イエスに対する熱心さはもちろんあったが、神のご計画には無頓着で、それで大混乱に陥ってしまう。熱心であることと、真に神の御心を受け止めていることとの違いを、大いに痛感させられる。

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ルカ 18:28-30

 私たちは頑張っています、と言っているペテロの言葉には、金持ちの役人はだめだったが、私たちはやっていますよ、という自負心が感じられる。話の流れからすれば、そんな言葉に対しては厳しく叱責をする、ということもありえただろう。でもイエスは、彼らの取り組みと熱心さを喜んで受け止めて、彼らを励ます応答をしている。一見、それは前の部分に矛盾するように感じられるかもしれない。でも、イエスは教科書的に教えているわけではなく、その時々の状況と、相手にとっての必要を思いつつ対応なさっているのだ。時には厳しく叱り、時には肝要に受け止めて励ます、それは、誰かと真剣に向き合う場合には当然のことである。まあ、弟子たちは、他の場面でいくらでも厳しく指導されているのだが。

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ルカ 18:24-27

 金持ちを否定しているわけではない。イエスの言葉をそのように受け止めるのは偏狭だ。彼にとっては、他の事柄はいくらでも犠牲的に頑張れるのに、財産を手放すことは難しかったが、他の人にもそれぞれに、しがみついているものがあり、それを突破するというのは容易なことではない。だから、そうやって神の国に至ろうとするならば、どうにも道はふさがれてしまうことになる。弟子たちは、イエスの言葉に意気消沈しているが、もちろん、道はある。そう、27節に言われているように、人にはできなくても神にはできる、のである。事は金持ち云々ではなく、神によってこそ導かれ、助け出され、受け止めていただくことが、神の国に入るためには、それしかないのである。

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ルカ 18:18-23

 同じテーマの出来事だ。この役人は、自分の力と頑張り、志に自信があった。だからこそ、何をすれば、と言う。どんな課題でもやってみせる、という自信がみなぎっている。財産の施しは、それが重要なのではない。この人の弱点を指摘しただけである。その懸念通りに、彼は悲しんだ。ここには立ち去ったとは書いていないが、「とうてい応じられない自分を、それでも助けてください」と願ったようには書いていないので、失望落胆して終わってしまったのだろう。自分の力に寄り頼む者は、それが破綻すると、すべては終わりだと思ってしまう。本当は、何もできないと悟るところから、大切なことは始まるのだが。

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ルカ 18:15-17

 子どもたちが気高いなどという話ではない。弟子たちは彼らを退けようとしたのだ。能力、資質の不足、何もできないのだから、ということだ。たとえば、選挙運動で、赤ん坊や小学生相手に必死で説き伏せようとはしないように、である。相手を嫌いかどうかではない。弟子たちは、イエスの運動を盛り立てようとしていたので、役に立つ人を求めていたのだ。だがイエスは、ご自身が人々を助けるのであって、だからこそ、その人の善し悪しで区別はしない。何もできない者たちを救い出すことこそが、神の国の意義である。それを、自分は役に立つからと言っているとすれば、それは大きく間違えている。

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ルカ 18:14

 この言葉は、イエスの語られたものであるからこそ、いわゆる謙遜を説くような一般的受け止め方は避けたい。ここで語られている自分を低くする理由は、それが高潔な姿勢だからではなく、救いを与えて事を解決してくださるのは神ご自身しかいないから、である。自分の頑張りや立派さではどうにもならない。だからこそ、パリサイ人の姿は否定されている。断罪ではない。それでは助からないから、である。パリサイ人の姿を思うイエスの心は、泣いていたに違いない。取税人の生き様は論外である。でも、彼は助けを求めている。ここしか頼れるところはないことを、よくよく心に刻んでおきたい。ガラテヤ2:15-16も参照。

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ルカ 18:13-14

 取税人のしていることが良い、などということは全くない。彼は自分でも認めているとおりに、悪事を行っていた人なのだ。でも、そんな者が神によって受け入れられる唯一の道筋は、神の前にへりくだり、神の助けに委ねることのみ。「私はそこそこやっています」と胸を張ることでは、これはどうにも手に入らない。なお、「義と認められて」とは、義ではない者をそれでも神は受け入れてくださっているということだ。彼が実質的に義になったなどということは全くない。だからこそ救われた者たちは、自分たちが立派だなどとは、決して勘違いしてはならないのだ。

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ルカ 18:10-12

 パリサイ人の祈りはよくあるものなのだが、神との本来の関係からするとうまくない。理由は、昨日も述べたように、必要のない訴え、であることが一つ、そしてもう一つは、我が身を誇ってみせる姿の課題である。誇れることなど何もない(ガラテヤ6:4)自分であるとも気づかずに、立派にやっているから安心だと思っている悲しさである。油断、いいや、ありもしないものに頼るのは悲劇だろう。だからこそ、取税人の祈りのほうが良いとされる。

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ルカ 18:9-14

 この話、当時の人々の感覚では、パリサイ人のような祈りは立派なものと理解されていた、ということを前提とする必要がある。彼は世間的感覚で言えば、何も偉そうにしているわけではなく、取税人を見下げているわけでもなく(そんなことを意図する必要性はない。一緒に並べられる可能性など皆無というのが常識だったのだから)、自分のことを見て、胸を張って祈っているだけのことである。でもそれが違うと言われている。頑張ってきたのだから報いを、報酬を、と願うことは、道徳的には問題ないし、世間的にも当然なのだが、ただ、神の前では意味がない、ということは知っておいた方がいい。神は人々の歩みをご存じで、必要にはちゃんと応えてくださり、必要以上に与えてもくださり、だから、報いをと願い求める必要性はない、のだ。無駄なことをしているからこそ、このパリサイ人の祈りは、立派な姿を示しているはずなのに、醜悪に感じられていく。

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ルカ 18:8

 後半部分に注目。人の子が来たとき、とは、通例に考えて、この世の終わりの時を指しているはずだ。でもその時、「信仰」が見られるかどうかと案じている。この場合の信仰とは、立派な生き方などではなくて、ここに語られている通りに、神に期待して、信頼して、願い求めることだ。それがなくなっているということは、つまり、神を思うことがなく、神は捨てて人だけで生きるのだというつもりになっている、ということで、言い換えれば、神を恐れることを忘れている。終わりの時だけでなく、この課題は人類が常に持ち続けている根本的なもの、だ。そう、初めの時から、である。

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ルカ 18:3

 たとえ話は細かく分析しなくても良いのだが、この女性のことは少し考えてみたい。彼女はおそらく身分のない、財産もない人だ。そんな彼女にとって裁判官は遠い世界の人で、恐ろしく感じられ、自分の思いなど受け止めてくれるはずがないと感じられる相手のはずだ。期待などできるはずもなく、と。それでも願い続けたのは、彼女には切なる必要があったからで、放ってはおけないことだったからだろう。守ってください、という言葉も出ている。神に対して、しばしば恐怖心や敬遠の思いがあるのは世の常だ。でも、その神ご自身が願えと言い、求めよと言っておられるのなら、臆することなく願えばいいというのは、ごくごく常識的な判断ではないのか。

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ルカ 18:1-8

 このお話の要点は、すぐには答えがないように思うときでも、失望せずに祈り続けなさい、ということである。理由は、神は必ず応えてくださる、からだ。そのことを説明するために引き合いに出されているのが不正な裁判官。こんな人でも、そして、うるさくて仕方がないという理由ですから、答えてくれることがある。まして神が無視したり、忘れていたり、などありえるはずがない。とすれば、たとえ今はまだ答えがないように思えても、諦めるなど、自分で自分の幸いを投げ捨てているようなもの、なのだ。この指摘は、なかなかに鋭いものだと思う。

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ルカ 17:25

 この説は後で触れる、と書いていたので、後戻りするが、このように終わりの時について語られているイエスだが、そういう先の話の前に、まずはご自身の十字架のこと、贖いの業のことがあるわけで、それを経た上でのことであることを、よくよく意識しておく必要があるのだ。さもないと、一連の話は、単なる未来のお話になってしまうし、たとえば、自分が生きている間はまだ、という場合にはほとんど意味のないことになってしまう。一連のことは、御子による救いが実現した上での話であって、一切は神の御手の中にあり、絶対的な安堵が前提であり、決して、突然可の嵐に翻弄されるような話ではないことを覚えておきたい。

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ルカ 17:34-35

 このような箇所を、終わりの日にそのまま起こることとして考えるのは、話の脈絡からすると、ちょっとのめり込みすぎではないかと思う。イエスが語られているのは、思いもよらないときにその時は訪れるのだということで、二人いるのに、突然に一人が目の前から消え去る、みたいなことを告げようとしているわけではない。私はむしろ、戦時中の話を思い出す。空襲があって、戦闘機が襲いかかってきて、そうすると、自分は無傷だが、隣にいた人は倒されているということがあったのだと。現代なら、交通事故の類でも似たようなことはある。まさに思いがけないことに、であって、その点にこそ注目すべき箇所で、ポンと消え去るかどうか、の話にしてしまうのは、興味本位的な扱いであって、望ましいことではない。

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ルカ 17:20-37

 それにしても、終わりの日について、人は大概、自分のことばかり考えているのだなと思う。ある人は早く、と言う。つまり自分は大丈夫だという思いでいるのだが、しかし、他の人のためには、もう少し猶予をという思いもありえることを全く顧みてはいない。別の人はまだまだと言う。それは今の猶予に甘んじているばかりで、真剣な問いかけに応答しようとはしていない。神のあわれみや慈しみと放縦とを混同している。神の国のその時について、どう祈り願うべきか。御心のままに、としか言いようがないことを、痛感させられる。

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ルカ 17:31-32

 到来の時についての厳粛な宣言に伴い、警戒するようにと告げられている。油断という言葉が日本語ではあるけれど、日頃から主の呼びかけを聞いて、応じていれば良いことではあるのだが、それがどうにも投げ捨てられている現実を思わせられる。37節は手厳しい。どこで残されるのか、との問いかけに、人はそれぞれ、自分の状態に似つかわしいところにいるのだと言う。生きることを選び取る者は生きる者の場所で、滅んでいくことを選び取る者はそういう場所にいることになるだけのこと。問題はどこにいるかではなく、自らが何者か、そして何を選び取るかにかかっている。

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ルカ 17:23-30

 25節は後回しにするが、告げられているのは、事がなる時には、それは突然で、そしてまた、即座のことで、ちょっと待って、はないということだ。予告がないわけではない。それはずっと語られ続けている。そして、何の問題もなく、安心して迎えられる道もすでに備えられている。何の難しさもない。でも、それを求めるのかどうかは、それぞれの選択次第であって、ノアやロトの出来事においては、多くの人々がその呼びかけを顧みることもなく、自ら壊滅の道を選んでしまったのだ。ヨナの出来事は、それとは逆の可能性もあることを指し示してくれている。

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