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2017年8月

ルカ 21:7-9

 イエスのこの言葉は誤解されることが多い。つまり、戦争やその他、後ろに次々と語られていることなどがあれば、それは終末が近づいていることの印だ、というふうに、である。一つの項目が終われば、一段落前に進み、ということだ。でもそれはイエスの言葉を受け止め違っている。イエスが語られたのはむしろ、そういうふうに世の終わりかなと思いたくなるような出来事があっても、でも、これで終わりだというふうには考えるな、ということである。回りばかりを見ていると混乱もする。だが神を見上げていれば、そんなことにはならずに済むのだ。世の中は動揺するが、神は何ら影響されることなく、粛々とご自分の業を進めて行かれるのみ、なのである。

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ルカ 21:7-9

 イエスの言い方からして、それが世の終わりに関係することだというのは、群衆も気づいたようである。終わりの時についての意識は、当時のユダヤ人も多くの者が、抱いていたようである。そういう場合に人々が思う最初の疑問、関心は、それはいつか、である。だが、人はなぜ、時期を知ろうとするのだろう。時が分かれば、それに対処できるというのか。準備して、抵抗できるように備えるのか。それとも、乗り切ることができるように知恵を絞っておくのか。聖書が語る終わりの時に最も必要なこと、それは神を信頼して委ねること、である。でも人々は、その時を知ることで自分で何とかしようと心掛ける。これでは、神はあえてでも、その時期を示してはくださらないだろう。人にとって百害あって一利なし、の知識になってしまうからこそ、である。

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ルカ 21:5-6

 この話も、前の部分と趣旨は共通する。人々は目の前にそびえている神殿の大きさに感銘を受け、これなら盤石と思っているわけで、でもイエスは、人の手によるものはいずれは崩れ去るのだと、冷静に考えれば当然であるはずのことを、あっけなく忘れ去っている人々に対して、それは愚かすぎると語られている。よく、形あるものはいつかは壊れる、という言い方を聞くが、人はしばしばそのことを忘れ、目の前にあるものは永遠だと思い込んでしまう。だがそういう感覚は、真に永遠である方の存在を忘れさせ、神にこそ信頼し、期待することを忘れさせてしまう。そういう課題があるからこそ、たとえそれが神殿でも、それを褒めそやしすぎるのは危険なことなのだ。

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ルカ 21:1-4

 この出来事の背景には、群衆の目が金持ちたちの行動に注がれ、称賛を浴びせていたということがあると推察される。直前の言及とも結びつく。もっともここでは金持ちが非難されているのではない。そういうものの見方しかしようとしない群衆を問い質しているのだ。だから、彼女が全財産を献金したわけではあるまい、という指摘は、さほど必要ではない。確かに、貨幣経済のみに限定されていたわけではない立場でもあったからこそ、彼女はそのとき持っていたものを投げ入れたのだろう。明日の食事よりもこの献金を、と覚悟を決めてしたというわけではあるまい。でもそれはイエスの言葉の重要点ではない。むろん彼女をほめよ、と言っているのでもない。人知れず、良き業がなされていることを心に刻んでおき、目に見えるものばかりを称賛するなと、そういうことである。

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ルカ 20:45-47

 一連の対話の中で、イエスが当時の宗教的指導者たちと対決しているのを注目していた民衆の前で、彼らの抱えている課題を、分かりやすい実例をもって指し示し、そういう人々の呼びかけではなくて、神ご自身の呼びかけにきちんと向き合うようにと告げるための言葉である。彼らは神のことを思うのではなく、あるいは回りの人のことを思うのでもなく、自分自身の利得や満足を追いかけているではないか、と指摘している。人の心の内にあるものはその人の言動に表れるのだと語られるイエスの言葉は、誰もが常に意識し、何より自らのあり方について問いかけるべきものだ。

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ルカ 20:41-44

 旧約の言葉を用いたので、同じように話を続けたのだろうか。話のテーマとしては前の部分と繋がりはない。キリストをダビデの子と呼ぶのは新約でも繰り返されていることだが、ユダヤの人々はその言葉の意味をダビデの後継者という程度に考えていた。つまり、ダビデのようにして民を救ってくれる存在、ということだ。でも、旧約も含めて、神が指し示している真実は、ダビデの活躍とは比較にならないほど徹底的な救いの業を実現する存在としてのキリストだから、人々のこの誤解を何とかする必要があった。イエスは、旧約においてすでにキリストの特別さは明記されていることを指摘して、人々が目を覚ますように呼びかけている。いつの時代も、人は自分に都合の良い程度の救い主を思い浮かべやすい。深刻なことである。

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ルカ 20:37-38

 アブラハムの神・・・という表現は、聖書全体としては、真実な約束をされた神様、ということを意識させる使い方が多い。その意味合いを当てはめようとすると、神の真実はどこまでも尽きることはない、のだから、人の限界にばかり捕らわれないで、もっと大きく生きていけ、という趣旨にも読める。そのようにとっても結論としては間違っていないが、ここで取り上げている死者の復活はあるかどうかの議論とは関係がなくなってしまうので、ここはやはり昨日のように理解するのが良い。死は罪の結果としても厳しさにあるが、でも神はそれを打破してくださるのだ。

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ルカ 20:37-38

 死後の状態を引き合いに出しての反論を切り上げて、イエスは次に旧約に出てくる言葉を手がかりにして、復活を顧みようとしないサドカイ派に反論している。ただ、日本語訳を読んでいる私たちには、出エジプト3章のこの箇所が何の関係があるか疑問に思うとしても不思議ではない。日本語は時制、つまり現在か過去か未来かをさほど厳密に分けずに語る。でも、新約のギリシャ語もそうだが、その区別は厳格だ。ところでその箇所は現在形で、つまり、アブラハムたちが今そこにいるような感覚で語っている。アブラハムはイエスの頃から2000年ほども前に死んでいるのに、である。つまり聖書はアブラハムたちを大昔の過ぎ去った人とは見ず、今も存在している者として扱っていることになる。サドカイ派は、死んだらおしまい、消えてなくなるのだと考えていたようだが(日本にもそういう感覚の人は少なくない)、神は決してそのようには扱っていないのだと、イエスは説いている。生きている者の神、という言葉があるが、意味合いとしては、神は人々を生きている者として扱っておられるのだ、と言い換えても良さそうだ。だとすれば、人間の側で勝手に、あの人はもういない、とか、自分の人生もそこそこで終わる、などと考えるべきではない。諦めるには早すぎ、油断するにも早すぎる。

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ルカ 20:35-36

 この箇所の解説として、復活後はもはや子どもは生まれないのだ、と書いている注解書もあるようだが、厳密に言えば、ここではその点は何も語られていない。当時のユダヤ人が考えていたことを背景にして、そういうことを前提とした論理は使われているけれど、明言されているわけではない。死なないことと子どもは生まれないこととは別の話であるのは、創世記の始まりを見るとよく分かる。諸々の状況を勘案すると、もはやこれ以上は増えない可能性はあるが、それもまた、神のみぞ知る、の部類ではある。聖書の理解は、書かれている程度に広く、また狭くの原則を大事にする必要がある。

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ルカ 20:35-36

 復活後の夫婦関係のことについては、率直に言って、聖書は明確なことは語っていない。告げられていない以上は、わからない。もしサドカイ派が真剣な問いかけとして、つまり復活を待望している人々が問いかけたのであるならば、イエスはもっと別の答え方をなさっただろう。ただし、おそらくそれは、「あなた方は今はまだ知らなくて良いのだ、心配はいらない」というものになっただろうが。この言い方はサドカイ派への反撃としてのものである。だから、これを根拠にして先の世の姿を思い描くのはやめておいた方がいい。もう少し、このことを続けて考えてみる。

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ルカ 20:35-36

 イエスが言おうとされたのは、サドカイ派の屁理屈をひっくり返すための話と考えるほうが似つかわしい。彼らは復活を否定するために、復活後に一人の女性を7人の男性が取り合う、または共有するという想定をして、もちろん彼らはそれをおかしな話だと言っている。それに対してイエスは、想定されている取り合いというのは、つまりは、次の世代を残すための関わりを言っているわけなので、その前提部分に問題があるということを告げている。今の世の人々が次世代を残すことに必死になるのは、自分たちがいずれ死ぬからであるのだが、もはや死なない者になっていることを考えると、その必死さの動機が存在しなくなっている、ということだ。ただしこれは、先の世のことについて、何らかの具体的な姿を指し示した者ではないと考えた方が良い。もはや死なない、という点は復活を意識する者たちの共通理解だったので、そこだけを手がかりにして、サドカイ派の屁理屈は奇妙な話だと退けている、というのがこの話の中身だと見るのが良いだろう。

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ルカ 20:34-36

 イエスはここで、復活の姿というものは、めとることもとつぐこともないのだと語られた。サドカイ派の問いかけをそのまま当てはめると、生きている間に夫婦として生きていた者たちのつながりが、復活の際には消えてなくなっている、ということになる。この場合、いわゆる肉体関係のことだけでは済まない。夫婦のつながりは、共に生きるという一切の感情と思考に関わることだからだ。それらも一切消えなければ、一人の女性に7人の親密な関係であるはずの男性、という位置づけは残ってしまう。でも、天国では個々人の認識が消えるとか、過去の記憶はなくなるとか、あるいは、記憶はあっても感情的には霞んでしまう、みたいな話は聖書全体の意味合いとは違う。もし、そういう感情や記憶が消えるのだとしたら、肉体そのものは物質的には新たになっているのだから、そこに個人としての継続性を見ることは難しくなってしまう。そうう話をイエスがなさったとは、どうにも考えにくいのだ。

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ルカ 20:27-33

 この話でイエスが語っていることの意味合いは、聖書の中でも難解なものの一つであり、気軽に解説してしまうことをためらわせるものだ。サドカイ派の意図は難癖だから、それを堂々と退けたのは、それで良いのだが、はたしてイエスはどこまで御国について解説するつもりだったのか、あるいは話の流れから一つの想定を示されただけなのか。サドカイへの強力な反論としてはどちらでも十分に意味があり、それで満足するのでも良いのだが、やはり気になるので、慎重に探ってみることにしよう。サドカイの提示した例は、旧約から見られる制度で、家系を絶やさない方策の一つだ。日本でも旧家や同族経営の会社などでは見られる可能性がある。そのこと自体の是非は、今は考える必要はない。ともかく、そういう可能性があり、それでもし、そういう事態になったらどうするのか、というサドカイ派の設定は、それ自体は悪いとは言いがたい。周りにいた人々も、イエスの答えに注目したはずである。

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ルカ 20:27-40

 サドカイ派は社会的地位の高い人々が多く、現状に対する否定感が弱かったためだろうが、今の生涯を重視して、死後のことはあまり意識しなかったとされている。ここで言う復活とは、死んだ者は、後に神の定めた時が来ると、皆、肉体をもってよみがえる時が来るのだ、というもので、ラザロのような生き返りとは別の話だ。パリサイ人を初めとして、当時のユダヤ人大半はこのことを信じていたとされる。旧約前半はこの認識が薄いとも言われるが、預言書などには復活を前提とする教えも多々見られるし、もちろんキリストご自身は復活を明確に肯定されている。この部分は、そういう議論の中での対話であることを、まず踏まえて読んでいくことが必要だろう。

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ルカ 20:25

 イエスは、神かカイザルかという二者択ではないのだと告げている。もともと、すべての権威は神のもとにあり、なのだから、カイザルと関わることが神への否定になるはずもない。このやりとりの背景には、当時のユダヤ人の意識も関わっているのだが、そうそいう対立的意識で見るのは御心とは違うのだ。そして、大事なこととしては、単にどう見るかの話ではなく、どう関わるのかということ、そこでそれぞれかどう自らの責任を果たすのかということが問われるのだと、イエスは告げている。議論だけでなく、事はやはり、人がどう生きて、どう行動するかにおいて、強く問われていくことを覚えておきたい。

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ルカ 20:19-26

 20節の解説は、他の福音書よりも分かりやすい。ヨハネが書いた当時、誤解がみられていたからだろうか。ともかく、だとすれば、間者たちの言い分はあまり注目する価値がない。イエスの答えは、受け答え自体としての鋭さがある。間者は、カイザルに税金を払うことが神に対する冒涜では、と言うが、だとしたら、日頃、カイザルの銘が記されている貨幣を用いていることも冒涜ということになるわけで、一切の貨幣経済には関わらない覚悟があれば別としても、自分に都合の良いところは大目に見て、税のように払いたくないものについてはその論理で正当化しようというのは、あまりにも都合の良すぎる話であろうということだ。これでは間者側としてもぐうの音も出ない。ただ、こういうふうに神の言葉を自分の都合で理由しようとする人は、いつでもある。自戒すべきことだ。

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ルカ 20:17-18

 キリストという礎石は、人々の救いを実現するための土台である。だから、この石が存在することで神に逆らう人々が滅ぼされてしまう、ということではない。むしろこれは、人々の思い、そして考え方、当時の人々が思い込んでいた神への熱心さの姿など、そういったものが粉みじんに、ということを指摘するものとして受け止めるのが妥当だ。イエスはしばしば、当時のユダヤ社会が抱いていた信仰態勢というものを、強く否定なさっていた。人間的には熱心だったけれど、その方向性は神から人々を遠ざけるものであったからである。そういう厳しさから、私たち自身も陥っている過ちの可能性を、ちゃんと考えておくべきだろう。

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ルカ 20:15-18

 話の意図が絞られていたからこそ、ぶどう園の主人は農夫たちを滅ぼすのだ、という話が出てくる。実際には、神はそういう扱いをしてはいない。つまり、御子を殺されたので民を滅ぼす、ということはしていない。御子の死は、人々を助けるためのものである。むしろ、御子を送らなければ、その結末はこの世界の滅亡だったろうが。だからここでは、あくまでも一般論として、もし、神の呼びかけを拒んでしまうならば、その結末はどうなっても当然か、ということを問い質しているものである。私たちはイエスによる救いを知らされているが、人の本来の事態が何であるのかも、ちゃんと知っておく必要がある。

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ルカ 20:13-15

 旧約では、神はここまではしていない。これは明らかに、御子であるイエス自身のことを意識しての語りである。イエスは明確に、ユダヤ社会の意図を見ておられたということである。もっともここでは、贖いのための犠牲という意味合いには触れていない。むろんイエスはすでにその意味合いを語っているのだが、ここの話題はあくまでも人々が神の呼びかけに耳を貸そうとしていないということだから、話の趣旨を混乱させないためにも、十字架の持つより本質的な意味合いは割愛している。

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ルカ 20:9-18

 ここには旧約時代の預言者が扱われていることを、人々はすぐに察知したはずだ。神はイスラエルの民を復帰させるために預言者を送り、呼びかけ続けたのだが、でも人々は彼ら預言者を殺し、神の呼びかけを拒み続けた。新約当時のユダヤ人は神に対して熱心だったと言われているが、でも、預言者を拒み続けた経緯を認めててはおらず、悔い改めてもいない。どれほど熱心でも、もし、神ご自身の呼びかけを受け止めて、そこに応答することを志すのでないとしたら、その熱心は、少なくとも主なる神の前では意味をなさない。神のことばであるイエスの呼びかけが拒まれたのは、必然でもある。

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ルカ 20:1-8

 それにしても、バプテスマのヨハネについては、当時のユダヤ社会ではおおよそ肯定されていて、それこそパリサイ人などでも高く評価していた人たちはいた。加えて言えば、彼はすでに死んでおり、政治的な面倒を起こすこともない。真っ直ぐに向き合いやすい相手であったのだ。それなのにこの人々は答えを回避した。人は、十分に応え得るときですら、そこから逃げようとする場合がある。それではどうにもならないことを、深く考えさせられる。

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ルカ 20:1-8

 イエスのこういう受け答えは、あるいは、まともな答えを回避しているように見えるかもしれない。だが、まともに応じても、それを真剣に受け止めようとはせず、付け入る口実を探すばかりだった人々への対応としては妥当、ということが一つ。この類のことについては何度もすでに語っておられたということが一つ。それから、バプテスマのヨハネを引き合いに出すことで、彼らが自分としても真剣に受け答えする機会を与えようとしたということもある。もし彼らがヨハネについて、まっすぐに向き合おうとするなら、イエス自身のことについても、その意味を見出すことはできただろうに。あのニコデモのように、である。

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ルカ 19:47-48

 こういう説明書きは、あの日の出来事の意味合いを知るのに、良き示唆となる。夜中に急襲し、夜の内に裁判で決着をつけようとしたのは、時間を置くと民衆の反応が不安だったということがあったということになる。とすれば、あれだけバタバタの、整合性もない強引さは、なるべくしてなったということか。言い換えれば、当時のユダヤ社会においてすら、イエスへの処刑判決は妥当性を持ってはいなかったということか。このことは、後に人々がキリスト教信仰に入っていく上では、大きな意味を持つ。キリストの死は罪の身代わりだから、ともかく命を提供すれば良いのではなくて、徹底的に善であり、何一つやましさのない状態、それも世の人々がそうだと納得するような正しさ、清さということは、これが神から人に向けられた呼びかけであることを思うと、とても重要な要素であったことになる。

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ルカ 19:45-46

 ルカはこの出来事を他の福音書より簡単に記している。読者層からして、イザヤの預言に込められた重い意味合いまで悟るのは容易ではないと考えたためかもしれない。神に祈るための場として大切に確保されるべきものが、人々の利得を優先する扱いがなされていたことへの厳しい叱責という意味では、むろん、提示されている意味合い同じである。イザヤの言葉には、異邦人などが共に神の前に祈ることも含まれているが、そこまで掘り下げなくても、当時の神殿が本来の意図を忘れて使用されていたことの課題は重大である。ちゃんと祈りの場として、ということを重視していけば、いずれ、自分だけでなく、という要素にも目が開かれていくだろう。

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ルカ 19:41-44

 エルサレムが言葉の通りに崩壊するのは、ローマに責められた70年代の事件だろう。だが、イエスの言葉は、そういう紛争の類を予告するだけのものではないように思われる。ユダヤが壊滅していくのは、彼らが自分たちの存在意義、神が与えている役割の意味を悟らずに、自分勝手に「神の民」としての特別性に固執したからでもある。それは、キリストに到来を悟らず、受け止めずに反発していく姿と、根本的には同じことで、そう、彼らは神の民と自負しながらも、神の心を受け取ろうとはしなかった。それは、あまりにも悲惨な、悲劇的光景である。ユダヤ人の責任だ、仕方がないと言い捨てることも可能だが、神はそのようにはしない。本人の責任でも、それでも神はその悲劇を嘆き、悼むのである。だからこそ、呼びかけ続ける。

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ルカ 19:39-40

 イエスへの反発を強めていたパリサイ人としては、この抗議は当然かもしれない。それほど群衆の叫びは、メシヤそのものへの思いを表す部類のものだった。彼らとしては承服できないものだったのだ。通例としては、これは道理である。もし、誰かが自分をさも偉大なものであるかのように言ったら、それに反発するのは健全なことだ。ただし、これはイエスがたきつけた騒ぎではなく、群衆のうちから自然発生的に出てきたもの。彼ら自身ですら理解しきっていない、でも、神の用意してくださるメシヤの存在について、人々は叫んだことになる。それが人の思惑からずれているほどに、ここにまた、神がイエスのこの出来事に強く関与されていることを思わせられる。念のため、表面的な騒ぎではなく、その根底に神ご自身の御心を理解していくことが、やはり必要である。

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ルカ 19:35-38

 それにしても、民衆の大騒ぎは何だろう。ガリラヤからついてきた人々の騒ぎだ、という説明もある。むろんそれもあるだろう。でも、当時はすでに、ガリラヤの人たちの熱狂は消え去りつつあった。エルサレム在住の人々も呼応したからこそ、である。数日後には怒号に変わるのだが、それでもこの時、人々はイエスに期待したのだ。中身は明らかに食い違っていたのだけれども。人の愚かさと、自己中心的な姿と、そして、それですら、こんな歓喜が起こるというところに、神の御業というものの偉大さを思う。そう、彼らが語り叫んでいたこと自体は、かなり鋭く真実を指し示すものとなっていたのだから。神の圧倒、として受け止めたい。

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ルカ 19:35-38

 イエスは堂々とエルサレムの都にやってきている。現代なら、世界中に生中継されても良い、そんな感じだ。クリスマスの時は、世の大半は知らなかった。でも、これから起こる十字架の出来事は、すべての人の前に示されるべきもの。だから、当時としては可能な限り、人々の目の前で事は進んでいく。むろん、それは反発も生む。でも、十字架はすべての人のために神が与えてくださってかけがえのない贈り物。だから、例え反発する人がいたとしても、それも含めて、皆の前に指し示されることが欠かせない。そう、それは今でも同じで、だからこそ福音はあり揺る人々の前に提示される必要がある。

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ルカ 19:29-34

 弟子たちがろばの子を連れに行ったときの出来事は、必ずしもイエスの奇跡的業と考える必要性はない。事前に依頼してあったとしても、これと同じ受け答えになっただろう。注目点はむしろ、弟子たちがろばの子などは全く思い浮かべもせずにいて、だからこそ戸惑っていることだろう。彼らが用意するとしたら、それはろばではなく、間違いなく馬だったはずだ。神は人間たちの思い違いをすぐさま叱責することはしなくても、真に必要なことを成し遂げるために、ご自分で事を備えて行かれるということは、聖書にしばしば見られることだ。

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ルカ 19:29-34

 ろばの子に乗ってエルサレムに入ることにしたのは、ゼカリヤ9:9にある預言を念頭に置いたものであるのは明らかだ。ただし、当時のユダヤ人が意識していたメシヤは、ろばに象徴される平和ではなく、軍馬が象徴する、敵を打ち倒して確立する平和だから、人々にとってイエスの行動は戸惑いだったことだろう。でもここには、真にメシヤであり、かつ、神の御心にある平和の実現が何であるのかが、はっきりと指し示されたのだ。私たちも、神の支配を考える時には常に、ろばの子を思い出す必要がある。

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ルカ 19:28-34

 いよいよエルサレムである。回りは誰も気づいていないが、イエスご自身は、これが最後の時であるのを知っている。望んでの道だが、ゲツセマネのように、それは苦悩の歩みであり、晴れ晴れとした心ではないし、まして、都に凱旋するような感覚ではない。でも、王として、この世界を助ける王としての到来だからこそ、いつもとは違う、大げさなくらいに堂々と、はっきりと存在を知らしめてのエルサレム到着となっている。謙遜であることと、時に必要性から、自分の存在を明示する必要性ということの違いは、はっきりとさせておかねばなるまい。

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