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2017年9月

ルカ 22:54-62

 ペテロが慌てたのは無理もない。だが、彼はここに入り込むべきではなかった。イエスは警告されていたのだ。危ういのだと。自分なら大丈夫と考えたのか。それは全く意味のない自信である。人は自らの限界をわきまえるべきで、熱心さだけで突っ走るのは危険なことだ。イエスにとって、ペテロがついてくることよりも、彼が崩れ落ちないことのほうがどれほど幸いであったことか。でも、だからこそ鶏の話が予告されていた。主は、ペテロをそこでも守っておられる。そしてペテロも、自らの姿にはっと気づき、慟哭し、でも、それは彼を守る幸いであったことを思う。主はどこまでもあわれみ深い。

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ルカ 22:52-53

 この指摘は鋭い。そう、祭司長たちはこれまでだっていつでもイエスを捕らえることは可能だった。彼らがそれをしなかったのは、民衆の声を恐れたからだ。それを、こうやって夜中に捕らえて、一気に片をつけてしまえば民衆も操れると考えるあたりは、真実は何かとか、神の御心は何かということではなく、自分たちの考え、思いをなすのみ、という姿勢であることを思わせられる。

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ルカ 22:49-51

 斬りかかった弟子はペテロである。だがイエスはそれを遮った。ペテロとしてはイエスを逃がすために抵抗したのだが、イエスはそれを望まなかったし、まして、力で対抗するつもりもなかったからだ。ここには書かれていないがマタイには、圧倒的な力を持ちながらも、ただ静かに捕らえられていったイエスの姿、その意思が、さらに強く示されている。イザヤ53章の言葉を思い出させられる。

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ルカ 22:47-53

 ユダがやってきた。イエスを引き渡すため、である。現代とは違い、夜は暗い。その中でも取り違えたりしないように、イエスをよく知っているユダが、人々のいるいつもの場所に手引きして、そして、はっきりとイエスを指し示した。彼はそのために必要だったのであり、祭司長たちはそのために彼に金を払っている。それにしても、親密な関係を表す習慣だった口づけを合図にしたのは、ユダがイエスのことをもはや軽視していたことの表れと考えて良さそうだ。もし、思いを残していたら、こんなふうにはしないだろうが。

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ルカ 22:45-46

 この言葉からすれば、弟子たちは単に怠けて居眠りをしていたわけではないようだ。彼らは、まだ回りの事態は察知していない。でも、イエスが示されている極度の緊張感に、戸惑い、不安を覚え、そして、それに押しつぶされるように、疲れ果ててしまっていた、ということになる。ルカはこの場にはいなかったから、後に弟子たちから聞き取った様子であり、彼らがどれほどの重圧を感じていたのかを思わせられる。ただ、そういう重圧は彼らにとって良い影響にはならず、直後の事態の中で彼らは混乱し、逃げてしまった。イエスが、祈り備えよ、と告げておられたことの重大さを痛感する。

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ルカ 22:44

 血の滴のように、というのは、形状が血の滴のよう、だったのか、色合いが真っ赤だったのかは、ギリシャ語の表現からは何とも言えないように、私は思うのだが・・・。いずれの場合でも、イエスの苦悩の大きさを指し示すものであるのは間違いない。なお、真っ赤だったという意味とすると、それは医学的にはあり得ることで、激しいストレスによって皮膚の毛細血管が切れて血がにじむことはある、のだという説明を読んだことがある。

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ルカ 22:43

 この部分は他の福音書にはない。ないことはさほど問題ではないが、天使の関与が語られているのは印象深い。もっとも、荒野での誘惑の場面では、マタイ、マルコは天使が仕えたということが語られ、ルカではふれられていないので、それぞれの場面での伝え方の中での取捨選択ということだろう。力づけた、というあたりは、今そこでは、弟子たちの存在の意味を考えさせられるものだ。ただ、人は残念ながら、私たちのために苦しみを受けてくださったキリストを支えるような者とはなりえていない。それは仕方がない。でも、だとしたらなおさら、他の人のことを、隣にいる人のことを支える者でありたいと、そう願う。

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ルカ 22:42

 神の御子である方の祈りは、単に、神の指示には嫌々でも従います、というような意味ではない。そのことの意義と、そのことの必要性は、キリストご自身が自らの判断としても持っておられたのであり、使命だから仕方がなく、ではなく、そうしたいからこそする、という意味合いのものだ。私たち人間が神の御心に従う場合にも、もし、その御心を自分自身の確信として受け止めることができるとしたら、それは単に従う、あるいは従わせられるという意味合いから抜け出て、もっと積極的なものになり得るだろうが。積極的であれということが重要なのではなく、御心を自分自身の確信とすることができる幸いを思わせられている。

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ルカ 22:40,46

 弟子たちに対するこの言い方は、イエスのために祈っていて欲しいという趣旨が含まれるマタイの書き方と比べると、弟子たち自身のため、という意味合いが強くなっている。本来的には両方の意味合いが込められているのだが、ルカとしては、31-34節のこととの関連から、こちらを意識して書き留めることを願ったのだろう。神の言葉としての意味合いからすると、神ご自身はそれぞれの福音書を通して、人々に呼びかけることで、その趣旨の厚みを示して下さっているのだと言える。にしても、このぎりぎりの時に、なお、弟子たちのことを思っておられる姿は、まさにここに救い主がおられるのだということを、見る思いである。

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ルカ 22:39-46

 オリーブ山での祈りは、十字架という業の重さを強く指し示すものである。御子は、むろんのこと、人の救いのためには何でもする、という決意をなさっている。だが、それでもなお、十字架ではない道があるならばと口にされるほどに、事は重い。私たちは、十字架を軽く考えすぎているのではないかと、こういう箇所を読むと考えさせられる。と同時に、この祈りの姿は、結局、十字架以外には救いを実現するものはないのだと、そのことがはっきりと指し示されているのだということも、考えさせられる。ほかに道があるなら、たとえば人がそれぞれに頑張れば何とかなるのなら、神はこの道を選びはしなかった。人に楽をさせるための救いではなく、ほかに道はないからこその犠牲であることを、決して忘れてはなるまい。

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ルカ 22:35-38

 話題がポンポン変わっているように見えるが、弟子たちのことを案じているイエスの思いを軸に考えると、話がつながっていることに気づくだろう。そして、語られている内容も、つまりは、イエスご自身が弟子たちのそばからいなくなる、ということが大前提になっている。弟子たちはまだ気づいていない。なぜ気づかないのかと腹立たしく思えるほどに、でも、弟子たちは気づいていない。そう、人は大事なことなのに気づかない、ということがある。だとすれば、せめて、後になって慌てふためいたときに何とかなるように、助けを与えておこうとなさっている、そんなイエスの心が見える光景だ。

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ルカ 22:31-34

 弟子たちが偉大な扱いを受けるのだと語った直後に、彼らの離反が予告されているのは、実に印象深い。とすれば、彼らに約束されたことは、彼ら自身の功績ゆえではなく、まさに神の恵みであることになる。イエスがこのように語られた背景には、もちろん、弟子たちが崩れ落ちてほしくないという切なる願いが込められているのは言うまでもない。人は、神のそのような願いを真剣に受け止める必要がある。だが同時に、その希望はかなわないのも事実で、人は崩れ去ってしまうことが多々ある。だからこそ、回復のために主ご自身が祈ってくださるのと言葉は、後々、弟子たちをどれだけ励まし、支えただろうかと思う。ペテロは胸を張っているが、それは霧よりもはかない自信なのだ。

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ルカ 22:28-30

 この当時は、ブラック企業などという言葉はもちろんない。でも、社会全般に、そうやって使い捨てられていく人々はたくさんあった。神に強いられて仕え続けて、それで使い捨てられる・・・。弟子たちがそのことを心配していたかどうかはわからないが、世の中にはそういう危惧が広がっているのは事実だ。イエスは明確に、その点は何の心配もいらないと告げておられる。この弟子たちだけが優遇されるとか、特別な地位を与えられるという話をしているわけではない(使徒の権威は、その職務・責務に関わることで、存在そのものを高貴だと言っているわけではない)。安心して、神の祝福に委ねておけば大丈夫、ということである。黙示録にも記されているような幸いは、ちゃんと、主を慕い求めようとするすべての人に、使徒だけでなくすべての人に、用意されているのだから。ヨハネ14章にも、場所は十分に、と語られている。

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ルカ 22:26-30

 イエスの示されている道には、イエスご自身という前提がある。神としての権威と栄光をお持ちの方が、でも、人の救いのためにその威光を手放し、十字架の死にまでも従われる。それであってこそ、ご自身の意図されている、人々の救いは実現する。逆に、それがなければ、事は動かない。もし、自分の利益を、それも、今この瞬間の目の前の、そして、薄っぺらな利益を最優先に考えるのならば、それは確かに、人を虐げてでも行動する方が手っ取り早く思えることはあるだろう。でも、願い求めていることがこの世界全体の幸いであるのならば、そういう選択はすべてを瓦解させるだけであることを、人はなかなかに悟ろうとしない。主のうめきは続いている。

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ルカ 22:24-30

 話の推移からすると、裏切り者が話題になって、自分はそんなことはしないと言い張り、それで、誰が一番立派かという話になったのだろう。弟子仲間の場合、権力的な意識よりも、神に認められる立派さという意味での「偉い」だと推測される。だがそれもまた、他の人を圧倒して、自分こそが神の覚えめでたく、とするのだから、世の権力と方向性としては同じである。なぜ、人はそうやって、他の人よりも上であろうとするのだろうかと考えてみることは、有意義なことだと思う。神の祝福をより多くと望むのか。誰にでもあふれるほど与えてくださる神なのに。単に上に立ちたいという欲求か。それがどれほど大変なことを担う話であるのかを、イエスは指摘されているのに。結局、人は自らが望んでいることの意味すら悟らずに、他者を押しのけたり、決して望ましくないあり方で競ったりしている、ということだ。それでは、上に立って多くの労を担うことになった場合に、間違いなく崩れてしまい、自分も回りも壊してしまう。主が嘆かれるのは当然である。

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ルカ 22:21-23

 イエスはユダのことを念頭に語られたに違いないが、弟子たちは事を深刻には受け止めていなかったようだ。イエスのもとから去って行った人々はこれまでもいたので(十二弟子ではないが)、今度は側近の中からも離反者が、という程度までで、まさか売り渡そうとする者があるとは考えていなかったように見える。さらに言えば、イエスの言葉を警告として受け止めている感もある。それと共に、彼らは犯人捜しを始めているから、自分自身が離反の危険を抱えていることは、全く意識していない。この危機感のなさに対して、この後、イエスは鋭く踏み込んで行かれる。神ご自身に守られているなら、もちろん何の心配もない。だが、単に自分は大丈夫と慢心しているなら、それはあまりにも危険である。

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ルカ 22:14-20

 聖餐式の教えが、あっさりと語られているのは印象的だ。教会は最初の時から聖餐式を重視してきたのだから、その発端を語ろうとすれば思い入れ強く、になりそうなものだが。イエスにとって、それは単なる儀式の伝授ではなく、そこに込められている意図、救いの御業についての教えと、そしてまた弟子たちへの思いと、そういうものも全部含めて届けていこうとなさっている、それ故のことと考えられる。ただ、この時点では、弟子たちはまだ、まもなく何が起こるのかを悟っていない。彼らは漠然と、イエスと共にいることの幸いを喜んでいたのみである。それはあまりにも大きな欠損であるが、でも、それでもなおイエスが彼らと共に過ごすことを願い求められたという点を、しっかり覚えておきたい。

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ルカ 22:7-13

 この経緯を、イエスの奇跡的な業と見るか、単にあらかじめご自分で予約していたと見るのかは、どちらでも良い。聖書が指し示しているのは、その手法よりも、イエスご自身が食事の場所を用意なさったという点だ。過越の食事は準備に時間がかかる。定めに従ってきちんと整えていくのは容易なことではない。むろん、イエスが望めば、様々な人が自分の家での食事に招いてくれただろう。だが、弟子たちと共に特別な時を過ごそうとされたイエスは、ご自分で場所を確保されていたのだ。それほどに弟子たちのことを思われている心の内は、ヨハネ17章の祈りにもよく見ることができる。

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ルカ 22:1-6

 ユダがなぜ裏切ったのか、そのはっきりとした理由は聖書に明示されていない。ただ、彼の呼びかけは祭司長たちにとって何よりのものだったろう。手詰まり状態を一気に解消できる機会を手にできたのだから。彼らが喜んだと記されているのは、事態が大きく動いていくことを指し示す言葉だ。にしても、ユダという人、慎重に考えて、明確な決断として行動を起こしたのではないようだ。聖書にある限りで言えば、彼が裏切りを意図した様子が出てくるのは、この週に入ってからであり、以前からの疑問や怒りなどの様子は皆無だ。その短慮が、自らを滅ぼすことになっている。

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ルカ 21:37-38

 エルサレムを訪れる時、イエスの一行はベタニヤ村に寝泊まりすることが多かったとされているが、ここではオリーブ山にいたと記されている。十字架目前のため、都のすぐそばにいることになさったのか(ベタニヤもそれほど遠くはないが)。ルカがこの言葉を記したのは、やがてオリーブ山でイエスが捕らえられることを意識して、あの夜も、前日などと同じ場所に行ったのであり、ユダもそれを承知していたということを指し示しているのだと考えられる。それにしても、王である方が都に来たのに、夜になると出て行くという姿は、ご自身、まさに王としての何よりの使命である十字架の贖いが、まだなされていないことを意識されたのだと受け止めるのが良いだろう。

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ルカ 21:34-36

 無用の慌てふためきが戒められている一方で、根拠のない安堵や、「油断」の問題が警告されている。このことは以前から語られていることで、留守にしていた主人が突然帰ってくる、という話は何度も出てきている。きちんと神の前ら生きていこうとしているならば、恐れる必要はない。自分の力量ではなく、神ご自身の支えに生きている限りは、案ずるには及ばない。でも、その神を忘れて放縦に生きているとしたら、その時が訪れた場合には恐慌に陥るだろう。顔面蒼白のしもべのようになるな、とは、主が何度も語っておられることだ。日々を主の前に生きる方策は決して難しくはない。主の祈り、聖書という主の御言葉を受け取りつつ歩むならば、それこそが確かな歩みを形作っていくのだから。

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ルカ 21:29-33

 イエスが終わりの時について語られた理由は、21:5以降に出ていたように、人々が目の前にある壮麗な神殿に感激し、こういうものが永遠に続いていくかのような思いを抱いていたからだ。それに対してイエスは、世に起こる様々な困難や混乱のことを語り、「ごらん、世は決して安定などしていなくて、今にも崩れ落ちそうだ」と指摘される。そして、この世が決して盤石ではなく、終わりの時を迎えることになるのだと、人々の思いを正そうとなさっている。告げられているのは、終わりの時のスケジュールではなく、終わりがあることを知れ、という宣告で、戦争やそういうものを見るときには、その宣告を思い出せとおっしゃっている。同時に、世は自ら終わりを迎えるのではなく、あくまでも神の御手の中にあり、だからこそ、神に寄り頼んでいれば何も心配はいらないのだということも含めて、主は人々に語られている。その意図を取り違えると、おどろおどろしい世の終わり物語になってしまう。映画などでは格好の題材だろうが、それと神の意図を混同してはまずい。

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ルカ 21:25-28

 イエスのこの言葉は黙示録の描写とよく似通っている。神ご自身の提示されている事なのだから当たり前でもあるが、初期の教会で、その理解がきちんと共有されていたことの印にもなる。終わりの時について、室はそれはすでに起こっているのだ、というふうに言う人もあるし、中には、自分は再臨したキリストだと主張する人もあるが、この言葉を見る限り、やはりそれは劇的な事態で、誰もがそうと気づくようにして実現するものなのだと考えさせられる。現象の中身そのものは、この言い回しが個別具体的なのか、それとも象徴的なのかは不明だが、明確な出来事であるのは疑いようがない。ただ、忘れてならないのは28節、それは決して悲劇ではなく、むしろ堂々と歓迎すべき時、なのだ。神を待ち望む者にとっては。それを見落として慌てふためくのは愚かなことだ。

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ルカ 21:23

 これは決して、「身重の女」や「乳飲み子を持つ女」を否定的に言っているのではない。そういう、身体的に負担を抱えている人々にとって厳しい事態、つまり、回りが自分のことだけで精一杯だと叫び、助けを必要としている人々を投げ捨ててしまう、そういうふうになってしまうからだ。本来はそれは全くふさわしくない。厳しいほどに助け合ってこそである。だが、人はそういう生き方をすぐに忘れて、仕方がないと口にする。それが当然のように見られ、横行するという現実を、主は鋭く指摘しているのだ。これは一部の人々の不幸ではなく、人類全体の問い質されるべき課題である。

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ルカ 21:20-24

 この箇所は、西暦70年頃のユダヤとローマとの戦いを思い浮かべさせてくれるし、実際に、この言葉を思い出して逃げた人々もいたと伝えられている。ただ、話の流れとしては、世の終わりについて語っている際に、唐突に70年頃の出来事への警告を発するというのでは、何だか場違いな思いがある。イエス自身の理解のうちには、その事件のことがあっただろうが、語られた意図としては、もっと一般的な話だったと考えるべきか。神の民、神の都と言われていたものが崩壊していくことへの言及は、旧約も見られるもので、その中でも決して慌てず、しっかりと踏みとどまるべきことを語る言葉は少なくない。つまり、大丈夫だ、心配はないと思い込んでいる人々に対して、この章の冒頭から続くテーマの通りに、厳しい事態は起こるのだと語り、そしてまた、それでもなお主の助けはあると語る。あのバビロン補囚の時も、その基軸こそが人々に告げられていたことだった。結果的には、ユダヤ戦争時の人々は、この言葉を思い起こして助けを得たわけで、そう、神の言葉は身近な日常の中にも具体化するのだ。

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ルカ 21:18

 苦難について語る部分でこの言葉が告げられているのは、とても印象深い。髪の毛一筋という言葉そのものについては、現に、殉教する人々もあるのだから、文字通りを意図しておられたわけではあるまい。様々な厳しさはある。でも、その上でなお、主が顧みてくださり、受け止めて下さっているからこそ、人々は心から確信するのだ。これはまだ終わりではない、これで崩れ去るのではない、主がよみがえられたように、神は私たちのためにも道を用意してくださっているのだ、と。

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ルカ 21:10-19

 迫害も、終末到来を推し進めるものだというふうに受け止められていることがある。でも、神の願いとしては本来は迫害などないのが一番である。一時的な介入で片がつくなら、あるいは神はそのようになさったかもしれない。でも、こういう形での介入は良い結果にはならないからこそ、神は迫害が横行しても、なお事を動かしてはおられないのだ。それを考えると、迫害などが起これば、神が終わりの日に向かっての時を進めている、という意味にはなり得ないものと思う。重要なのは、そういうふうに厳しい事態に陥っていても、それでもなお、慌てず、騒がず、動揺しないで、神への信頼を守り続けていくことだ。そうであれば困難な時代をも乗り越えられるだろうし、信仰が真に目指しているものを見出すこともできる。

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