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2017年10月

ルカ 24:18-24

 この部分は、論理的には表現が混乱しているようにも見える。論理的に言えばこうなるはずだ。イエスのことをずっと期待してついていったのだが、残念なことに人々はそれに反対して、イエスを殺してしまった。期待を掛けてきたのに、それが潰えてしまい残念だ。そう思っていたのだが、またまた奇妙なことが伝えられていて、イエスの復活したという話が出てきている。でも、自分たちとしてはまだ納得していなくて、ガセネタだと考えているのだが、と。それなら25節のイエスの言葉にもつながる。もうちょっとすっきりと語れば良いのにと思うが、動転している彼らの様子が、言葉遣いにも現れていたことをルカはそのまま記録しようとした、のだろう。

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ルカ 24:16

 なぜわからなかったのか、は、あるいは永遠の謎であるのかもしれない。イエスの姿が変わっていたはずはない。それこそ、すぐ近くで共に歩んでいた弟子たちが、そしてまた、復活を期待していなかった弟子たちが、全く別人の姿形をしている誰かが「私はイエスだ」と言ってみたとしても、それで納得するはずがない。魂だけ乗り移る、みたいな感覚も、彼らの文化にはない。人は、自分の見たくないものについては見えないもの、だとも言われている。そういう心理的な作用が働いたのかもしれない。いずれにしても、当初はわからずにいた弟子たちが、でも、最終的にはちゃんと認識しているということが大事なところだ。彼らは目撃者としての自分たちの存在意義を強く語っているから、「見た」のか「そんな気がした」のかの違いには、とても強い思いがあったはずだ。

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ルカ 24:15-17

 つまり、立ち去ろうとしていた彼らに、イエスが追いかけてきて、近寄ってこられた、ということである。それが聖書の繰り返し語っている神のなさること、である。迷子の羊を捜す羊飼いの話に限らず、旧約でも、すべての場面において、と言っても良いだろう。人は大概、自分たちが神を探し求めているつもりでいる。だからこそ、自分たちの都合によって神をイメージし、あるいは神を生み出したつもりですらいる。だが現実は、捜そうとも、求めようともしない人間たちを、神のほうで願い求め、尋ね求め、そして、見出してくださっている。人が神を愛することを教える前に、聖書は、神が人を愛されたことを告げている。

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ルカ 24:13-24

 聖書の中でも印象深い出来事として有名な場面だ。この二人の行動はやはり奇妙だ。どんな理由があったにしても、この時点でエルサレムを離れることは考えられない。実際、33節ではすぐに戻っている。十字架からまだ3日目である。それに、女性らからの知らせも届いている。復活が信じられなくても、イエスの遺体がなくなったのは明らかで、騒動が起こりつつあることは明らかだった。それでも離れていくというのは、やはり、彼らが圧倒的な絶望に陥っていたからこそ、だ。彼らは、イエスのことはもう終わってしまったのだ、と受け止めていたとしか言いようのない語り方をしている。希望が閉ざされると、常識的にもあり得ない行動すら、人は取る。何が何でも、神の約束から目を離してはならない、のだ。

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ルカ 24:11-12

 男性陣の反応は、何ともはや、である。第三版までで、12節を括弧に入れたのは、ヨハネ福音書に基づいて後で加えられたものだろうと推察されたためだが、新しい翻訳では括弧を外してあるので、やはり、もともと書き留められていたのだと判断されたようだ。ルカはあっさり書いていたことを、後に当事者であるヨハネは詳細に書き記したということになる。この点では、たとえその時点では信じられなくても、神ご自身のなさることならば、せめて、確認に行くくらいはしておきたいものだと思わせられる。そう言えばペテロも、湖で網を下ろせと指示されたとき、信じられなかったけれども応じた、ということがあった。こういう期待感、率直さは、必要なのである。

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ルカ 24:8-12

 思い出した、と書かれていることに、深い安堵を覚える。確かに忘れていたのだが、でも、告げられて、思い出した。このパターンは何度も繰り返されている。人は忘れ、でも神は改めて呼びかけてくださり、そして思い出す。忘れていたことについては申し訳ないけれど、でも、そのように関わり続けてくださることに、感謝せずにはいられない。そして、こうやって思い出させてもらったからこそ、彼女たちは他の弟子たちにもそのことを告げようと、道を急ぐことになる。男の弟子たちは「たわごと」だと思ったと、悲しい言葉が記されているが、彼女たちはそれにひるんだりはしなかっただろう。自分もまた忘れていたのであり、思い出させてもらったのだから。この自覚があればこそ、福音を語り続けることもできる。

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ルカ 24:4-7

 この二人は「天使」とか「御使い」とは告げられていないが、その描写は明らかに、ただの人間ではないことを物語っている。だからこそ彼女たちはひれ伏したのでもあるが、天使の言葉はさらに驚きで、イエスの復活を明確に宣言している。それにしても、以前から話していたことなのに、ということが告げられて、それを聞いている弟子たちとしては、穴があったら入りたい、思いだったに違いない。イエスは何も突然に、意表を突くようなことをしているわけではない。予告済みのこと、何度も語られていたこと、それをそのまま実行しているのだから、まともに耳を傾けていなかった弟子たちのほうが、その姿勢が大きく問われるものとなっている。信頼できる相手(神様)からの呼びかけは、ちゃんと信頼して受け止めていくことは、必須の話なのだ。

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ルカ 24:2-3

 ルカは番兵の話を記していない。どの福音書記者も、全てのことを書き留めることはできないので、それぞれの判断で必要と思うことを拾い上げているわけだが、番兵たちという第三者の証言など気にしなくても、弟子たち自身の体験と証言で十分、と考えたということか。それはルカ個人の判断というよりも、当時の教会自体の認識だったとも言えそうだ。ともかく、女性らはイエスの遺体がない、という現実を目の当たりにしている。「ない」というのはとても大切な点で、ではどうなったのか、が問われることになる。続けてルカは、最も明確な説明があったことを書き留めている。

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ルカ 24:1-10

 安息日は動けない。真っ暗なうちも女性には無理だ。だから、彼女たちは可能な最も早い時間に、墓へと急いだのである。イエスの遺体を手当てして、本格的な埋葬をするためである。彼女たちの思いは尊い。ただし、そんな彼女たちもまた、復活のことは微塵も考えていない。他の弟子も含めて、誰一人、最も敬虔で、犠牲を払う覚悟をしている者ですら、復活のことは考えていない。イエスは何度も語られていたのだが、それでも、彼らにとっては十字架で死んだ方ゆえの絶望が心を支配してしまったのだ。彼女たちは直後に幸いを手にした。でも、熱心さよりも何よりも、神への期待を失わないことを、第一に考えていきたいものと、そう思わせられる。

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ルカ 23:54-56

 安息日である。その日は、何があっても、墓には行けない。遺体の世話もできない。人々は、イエスの葬られた場所から否が応でも引き離されていた。これまで、人々の生き返りは、目の前で遺体が動き出すというふうだったけれども、イエスについては、その瞬間を見た者は誰もなく、後に生きておられる主に出会って、確かめて、それで、復活を信じることになる。激しい衝撃を受けた人々のためには、この一日の空白が必要だったのだとも言える。それは後に、弟子たちが福音を公然と語り始めるまでに50日の時を置いたのとも通ずるところがありそうだ。神は、ただ人々を驚かせるのではなく、人々がちゃんと受け止められるように導くこともまた、主の慈愛なのだ。

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ルカ 23:55-56

 十字架と埋葬には、女性たちの存在が重要な意味を持つ。男性陣は隠れてしまったけれど、女性たちは最後まで残り続け、見守っている。不安はあっただろうが、さすがに当局も、彼女たちを脅すようなことはせず、それもあって、近くで見守り続けることができたのだろう。彼女たちにも、事の次第はわかっていない。神の計画もわかっていない。そして、何も対抗できない自分たちであることも痛感している。ただ見守るだけ、それ以上の何者でもないのだが、どうやら彼女たちは、自分に何ができるか、という考えではなくて、ひたすら、主のそばに居続けたい、見ていたいという、それだけの思いに動かされていたようだ。人はしばしば、物事の意味を考え、意義があるかどうかと考えるのだが、より必要なことは、ただひたすら共にいる、ということである場合も、決して少なくないのだ。

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ルカ 23:53

 ヨセフが持っていた墓は、まだ未使用だったようだ。その場所が刑場の近くにあったので、そこに葬っている。十字架は嘲りであったが、復活への備えとしても、きちんと埋葬することは必要で、ヨセフの申し出はイエスの御業にとっても、とても大事なものとなったのである。このことはまた、イザヤ53:9にもつながる。聖書では本来、富む者とは神に祝福された者、という趣旨が強いので、処刑されたにもかかわらず立派な人々の一員として葬られているという不思議な光景が、イザヤには語られている。その通りになっている様子は、後にこのことを思い返した人々にとって、イエスの存在と、その十字架の意味をしっかり見定めるのに大いに有意義なものとなったはずだ。

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ルカ 23:51

 同意しなかった、というのは、だとすれば彼は、イエスの裁判を欠席した、ということだろう。満場一致であったと記されているのだから。ルカには、ヨセフが弟子であることを隠していた話は出てこないが、それを考えると、出席して反対票を投じる覚悟はなく、でも、まさか賛成もできず、という苦悩が見え隠れするようである。人は、そう易々と信念通りの行動ができるわけではない。やろうとして失敗したペテロの例もある。だとすれば、せめても愚かな行動に加担しないで済むように身を避けることも、大事な知恵の一つだ。そうすれば、後でまた、行動できる時もあるのだから。

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ルカ 23:50-53

 この時点で、ヨセフはむろん、イエスの復活などはわかっていないし、十字架の意味も悟ってはいない。だから、この行動はイエスを慕いつつもこれまで行動できなかった自分を悔いて、せめてもとの思いから出たものと言える。立場が悪くなるのは必定で、しかも、助けてくれる救い主もいなくなって、という、とても厳しい状況だったが、この人は強い心の持ち主だったのだろう。それなら、以前からちゃんと表明していれば、とも言えるのだが・・・。幸いなことに、この先が見えない行動が、でもすぐに、光り輝く日々へと進むことができた。彼自身はそれを期待していたわけではないだろうが、神は確かに、こういう行動をちゃんと見ていてくださる、ということだ。

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ルカ 23:49

 これは、イエスの弟子であった人々のことである。「しかし」というのは、人々は立ち去ったけれども、この人たちは残り続けた、という趣旨だろう。安息日の始まりが近づいていたから、人々が立ち去るのはごく自然な行動だが、彼らはちゃんと葬るところまでは留まり続けたのだ。イエスは十字架で死んだが、でも、弟子たちはそれでイエスに失望したり、これまでの思いは間違いだったと考えてはいないようである。むろん、理解はできていない。彼らは救い主がなぜ死ぬのか、全く理解していない。でも、理解はできなくても、彼らが抱いてきたイエスへの確信、この方は間違いがない、頼れる相手であるという確信は、彼らをなお留まらせている。神のことについて理解できないことは多々ある。そこで問われるのは、信頼できる方なのかどうか、だろう。「神を理解する」ことが求められているのではなく、「神を分析する」のでもなく、「神を信じる」ことが問われているのだから。

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ルカ 23:48

 この群衆は、49節からすると、もともとの弟子たちではない、一般の人々のことだと見るのが妥当だ。とすれば、彼らは積極的かどうかはともかく、イエスを罵倒する側にいたということである。でも、そんな人々がイエスの一連の姿を見ていて、百人隊長同様に、この扱いは間違っていたのではないか、という戸惑いを覚えるようになったということになる。これもまた、すぐさま信仰に至ったわけではないだろう。でも、こういった人々が50日後に、弟子たちによって語られたイエスの真実に、強い関心を抱くようになったのは、十分にありえることである。社会に対して、イエスのあるいは神の確かさを示していくことは大切だ。そうすれば人々は、そこにある何かに関心を持ち、ちゃんと見極めようとするだろう。もし、何の関心も抱かず、通り過ぎてしまったら、それでは福音そのものの意義を考えてみる機会すら持ち得ないことになってしまう。それではあまりにも悲しい。

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ルカ 23:47

 ルカは明らかに、この百人隊長の言葉を、彼がイエスを高く評価したという趣旨で書き留めている。百人隊長はユダヤ側でも、イエスの弟子でもないので、客観的な観察者と言える。それも、この十字架の場面しか知らない。そのような人が、こういう感想を述べたということは、十字架でのイエスの姿は、回りにいる人々に対して強い印象をもたらしたのだということがよくわかる。外面的に言えば、ぼろ雑巾のように投げ捨てられている姿でしかないのだが、群衆も罵倒したくなるようなものなのだが、それでもなお、この方の特別さは隠しきれなかったということだこの百人隊長は、このことだけでイエスを信仰するようになったわけではないだろう。でも、後に、このイエスについて語られていくことを聞いた彼が、真剣な思いでそのことを考えるようになったことは想像に難くない。イエスは確かに、ただの人として死に至られた。でも、そこになお、ただの人、ではないその姿が、表されていたということである。

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ルカ 23:44-45

 この暗闇は、父なる神が御子から顔をそむけられたことの現れである。御心のとおりに歩んでおられる方から目をそらすのは奇妙だが、それこそ、御子が人類の罪を背負っておられることの何よりの印だ。神を捨て、神の助けを拒む人類は、神から遠ざけられ、神の助けを失うべきものである。その結末は壊滅である。だが、その痛みを、苦しみを御子ご自身が引き受けてくださったことによって、神が自ら受け止めてくださったことによって、事態は一変した。文字通り、主は命の道を開いてくださったのである。だから、この暗闇は重要だ。それは神のご計画そのものを指し示すものである。

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ルカ 23:43

 パラダイスの意味は何だろう。という疑問が出てくるのは、いわゆる新天新地、神の御国は、「今日」ではなく、定められた日が来たら、であるからだ。とすれば、すぐさま「天国」に行けるわけではあるまいし、それともイエスは特別な抜け道を用意されたのか、というふうに。だが、聖書の言葉を信じ、主の言葉を信じるということは、言われた言葉の表面的な意味合いだけ、そのまま適用してしまうことではあるまい。主は彼に全面的な受け止めを約束された。彼に絶対の安心と確信を与えようとされた。だとすれば、以降の手順がどうこうという話ではなくて、一足飛びに結論を語るというのは、全く不思議なことではない。ここにあるのは、彼を愛おしんでおられる主の言葉であるのだ。

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ルカ 23:43

 イエスが語られた意味合いを限定的に捕らえようとする人もある。極悪人が受け止められて良いのか、という憤りもあるだろう。だが、神ご自身の特別な恩恵がなければ、人は誰でも同じことだというのが、聖書の語るところである。だからこそ、この人、ぎりぎりのところで神に受け止めてもらえたこの人の姿は、すべての人にとっての希望である。これで良いわけではない。彼は徹底的に間違った日々を過ごしてきた。それは全く認められないものだ。でも、神の恩恵は人の限界を大きく越えていく。それこそが、私たちすべての者にとっての希望である。

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ルカ 23:39-43

 十字架での出来事において最も印象深いものの一つ。一方の強盗は、当初は一緒になって罵倒を浴びせていたのだ。苦しみを受けている強盗としては、誰かを悪者にして、自分も民衆の仲間に立つことが、せめてもの緩和剤になっていた。だがこの人は、イエスの姿を見続けて、そして気づいたようである。それが決して極悪人のそれではなく、また、祭司長たちに負けて殺されていく姿でもなく、毅然として、神の権威のままにご自分の道を進んでいる方の様子であることに。磔という悲惨な姿にもかかわらず、彼はむしろそこに神としての偉大な栄光を見た。だからこそ、共に死んでいくに過ぎないように見えるその相手に、彼は助けを求め、救いを願っていこうとしている。人は、どれほど極悪でも、それでも、神ご自身の姿を見ていこうとするなら、その人の生き様は変わり得る。たとえぎりぎりの状態だったとしても、である。

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ルカ 23:35-38

 祭司長たちのあざけりはもともとからのものである。民衆の罵声こそ、イエスにとってはつらいものであったはずだ。つい先日まで歓迎の歓声を挙げていた民衆が、一転してのこの光景である。しかも、イエス自身の側には何も落ち度はない。むろん、すべてを承知の上でのことだが、わかっていることと、事態の厳しさとは別の話である。そこには祭司長たちの計略が功を奏したというのもある。十字架に磔になるような者に神の権威があるはずはない、という認識は、一般論としては正しいのだ。でも、そこまでして人を救うことを求めておられる神の心の深さは、人には推し量ることのできないものだ。主ご自身の御声に耳を傾けなければ、人は決して、主のご計画を、御業の意味を悟ることはできない。

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ルカ 23:33-38

 酸いぶどう酒は鎮痛の効果があったようで、十字架での苦しみを長引かせるためのものだったらしい。せっかく十字架につけたのだから、徹底的に痛めつけ、嘲りを投げつけてやろう、ということだ。人々の嘲笑は増大しているが、直前までイエスに対する評判が高かったこととの関連は明らかである。でも、その光景はピリピ2章に出てくる、神としての栄光を捨てられたイエスのこととも結びつき、この事態が御子にとってどれほどの激しさであったのかを、ひしひしと思わせられるものである。

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ルカ 23:27-31

 訳文というのは難しい。淡々とイエスが語られているように読めてしまうのだが、十字架を運ぶこともできない状態なのだから、息も絶え絶えの中で語られた言葉のはずだ。ともかく、回りの人々はイエスの苦難を取りざたしているのだが、イエスご自身は、エルサレムの町、そして人々自身にこそ、大きな苦難が襲いかかることを語られている。何も気づかずにいる人々を批判的に、ではなくて、何も知らずにいる人々のことを深く思い、案じ、そして悲しんでいるがゆえの言葉である。人々のために嘆いている、のだ。

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ルカ 23:26

 この人について、福音書は詳しいことを語っていない。ただ、その取り上げ方からして、初代教会の中ではよく知られていた人だったのではないか、と推測されている。つまり、後にクリスチャンになって、ということである。この時点では、弟子だったわけでもない、たまたま通りすがった人、というだけであるのに、理不尽にも巻き込まれたということである。代わりに十字架を運ぶなど、屈辱以外の何ものでもない、まさに災難であるのだが、彼は後に、そういう事態に至ったことを喜んだことだろうと推測されている。

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ルカ 23:20-25

 ピラトの姿は、よくあるものなのだと思う。それなりに誠実に取り組もうとはするが、回りの状況や圧力の前では尻込みをする。彼だけの性質ではなく、大半に見られるものだ。だから彼だけを批判的に言うつもりはないが、でも、そのような状態ならば何も良きものは生み出され得ないことは肝に銘じておきたい。そこにあるのは、ただ瓦解していく世界でしかなくなってしまう。

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ルカ 23:18-19

 バラバの名を出したのは、他の福音書によればピラトのほうで、ルカの言い方からしても、バラバは極悪人として名高く、人々に嫌悪されていた人物のようだ。どちらをと選ばせれば、まさかバラバは選ぶまい、ということだ。一部に、バラバを反乱軍の勇者のように見る説もあるが、聖書からすればその様子はない。だが、そういう選択を投げかけてもなお、人々はイエスの処刑を主張した。このあたりではすでに、祭司長たちだけでなく、民衆とも対峙しており、その圧力は総督をすら困惑させるものになっていたということだ。

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ルカ 23:13-16

 ピラトは無能な人ではない。ローマの総督は、それなりの人材でないと着任もできない。彼はローマ帝国としての視点で見ているから、当然に、イエスに罪状などは見出さない。厄介ごととして却下の予定である。そういう意味では、ピラトのこの発言をイエスの本質的無罪性と重ね合わせるのは、ちょっと無理があるかもしれない。そちらはもっと根源的に、この方が神であることから発するものだ。ピラトとしては、日頃の様子からも、これで決着がつくものと考えていたはずだ。でも、ユダヤ側の思いは収まらず、ピラトは追い込まれていく。イエスにはそこまで憎まれようなものは何もないのに、ということもまた、この事態の異様さ、そして、この世の抱える罪の底知れぬ深さを思わせられる。

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ルカ 23:8-12

 ピラトがヘロデにイエスの身柄を送ったのは、話が面倒という思いがあったからと理解できる。このヘロデは、本格的な権力を夢見る可能性もなく、一方で、ユダヤの信仰には関心を深めていたとされるので、イエスを見てみたいという思いは、まさに本心だろう。ただし、事態はすでに贖いの死を目前としており、ゆっくりヘロデと語り合う状況ではなかったので、イエスは彼の興味に応じることはなかったのだ。もっと別の時であれば、座り込んで話をなさっただろうが。ヘロデにとって言えば、せっかく関心を抱いても、時機を逸すれば残念な結果になってしまう、ことを思わずにはいられない。今現在、主がこうして私たちを、この世界を待っていてくださっているのは、実にありがたいことであるのだ。

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ルカ 23:1-7

 ローマ総督ピラトへの告発は、22:71で出した結論とは異なり、ごく政治的な理由に変えられている。総督は宗教的な事柄には関与しないので、このやり方を非難するのは筋違いだとは思う。ただ、結果としてユダヤ側の告発には力がなくなる。それはそうだ。彼ら自身、もともと騒乱罪を意図したのに、それはうまくいかず、全く別の結論を持ったのだから、今さら騒乱罪で訴えてみても、根拠を示せるはずがない。ピラトがユダヤ側の訴えを拒絶したのは、ごく当然のことである。だから最後は暴動の徴候を示して、脅すようなやり方で処刑を承諾させることになった。もし、ユダヤ側での処刑を意図していたら、話はずっと簡単だったろうが、十字架刑にこだわったがゆえである。人々の迷走と、そして、結局のところ、神の意図されることが進んでいるという不思議を、この経緯は示してくれている。

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ルカ 22:66-71

 イエスの裁判の様子を見ると、死刑判決の理由は、イエスがご自分のことを神の子だと言ったから、ということにあるのが分かる。むろん、ピラトへの告発はそれでは通らないから騒乱罪だったが。祭司長たちとしては邪魔者を消せ、というつもりだったのだが、彼らの思いを越えて、ユダヤの論理からすれば神への冒瀆罪になることをイエスご自身が語られたので、驚き、戸惑い、でも飛びついたわけである。これは大事なことで、イエスは明らかに、自らの神の子と、それも、神に近い人間というような意味合いではなく、神と同格のものとして認識されていたことがはっきりする。イエスは人間だと言う人は多いが、それは各自の自由かもしれないが、少なくともイエスご自身の認識とは違う。そして、イエスの主張が真実ではないと言うのならば、そんな嘘をつく相手の言葉を大切に受け取る必要はないはずなのだが。イエスは主であると告白するなら、イエスの宣言されたことは真実だと認めるのが自然なことである。

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