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2017年11月

第一列王記 1:52-53

 アドニヤに対してソロモンが言ったことは、ごくごく単純に正義のこととして扱うことはできる。王位を手にしようと画策したことについては、不問である。もともと指名していなかったダビデの罪でもある。願うこと自体は、それだけでは良いも悪いもない。だが、そこで神に問うことは考えていないことは深刻で、そういう態度のままでいれば、結局は道を踏み外すことになる。その点でも、ソロモンの対応は妥当と言えるだろう。私たちは物事の真偽をしっかり見分けられるのか、また、それに的確に対応しているのかどうか。鍛錬が必要だと思わせられる。

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第一列王記 1:49-53

 アドニヤの恐れは、彼自身がソロモンを排除しようとしていたからこそ、自分も同じようにされると考えたためだ。物事は自分に跳ね返ってくる。ソロモン自身がどう考えていたのかは明記されていないが、ここには、ソロモンが公正であることが語られている。彼の本質がどうであるとしても、そうあろうとしている姿勢は、大事なことだと思う。アドニヤが宴を張っていた場所はエルサレムの近くだから、祭壇というのはエルサレムにある聖所のことだろう。慌てて戻ってきて、ということだ。追われている者が聖所や神殿に身を寄せるというのは、よく見られる光景だ。

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第一列王記 1:41-49

 ダビデがソロモンを王位につけたと知らされた時点で、アドニヤの計画は消え去っている。アドニヤに加担した人々は、ダビデの意志を知らなかったということか。誰とも決めていないのなら、自分たちの判断でアドニヤを選ぶ、というふうにしていたようで、それ以上の覚悟はなかったから、すぐさま立ち去っている。ダビデの意図を推測できていたはずの人々が、ヨアブなどだが、彼らが後で対処されることになる。気づいていなかったはずはないのに、という人々は、衰えたダビデを軽く見たということか。でも、イスラエルの王位は神が決める。ダビデがどうかではなく、神ご自身の意図をこそ求めるべきであるのだ。

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第一列王記 1:32-40

 事を定めれば、さすがにダビデ、行動は早く、対応も適格だ。アブシャロムの時も、追い込まれていても、ダビデの反撃は適格だった。どうすれば事態を覆して、ソロモンの後継を確立できるのか、ダビデはしっかりと見極めている。そして、民もまた、ダビデの意志を受け入れたので(そうなることも見極めていたと言えるだろう)、事は一気に進み、ソロモン王の即位は決定的となっている。ちなみに、この経緯においてダビデはソロモンで良いかどうかを神に尋ねてはいない。だがそれは、すでになされていて、そのように心積もりしていたということで、むしろ、ここまで御心を問うてはいなかったとすれば、そのほうが深刻な話であろう。

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第一列王記 1:28-31

 すでに年老いていたダビデだが、さすがに混乱の危機を察知して、事を明確にすることを決意している。この時点ではまだまだ、ダビデがはっきりと宣言すれば、それが国の意志になる。ダビデがなすべき、王としての最後の責務とも言える。むろん、民主主義の社会ではこういうやり方はないのだが、王国であり、かつ、神の意志によって王位が定まる社会においては必須のものだった。人は最後の時にも、自らが果たすべき責務というものはあるし、それを曖昧に放置することは許されない。30節のこの言い方からすると、やはり、ソロモンを後継者にという話は、バテ・シェバ個人に対しての誓いであり、公的なものではなかったようだ。

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第一列王記 1:22-27

 ダビデへの訴えは、後継者決定がダビデの意志を無視してなされていること、を中心的な理由として掲げている。その際に、ソロモンが後継者だとダビデは決めていたはず、という話は、サムエル記には出てこない。歴代誌にはあるし(第一歴代22:9-)、神殿建設の準備という意味合いでは確かにこの引き継ぎを意図していたのだと推測されるのだが、公に宣言していたものではないようだ。むしろ、愛情を深く注いでいたソロモンがいるのに、明確に後継として定めていなかったので、ダビデの意図は確定していないと回りが考える余地も出てきた、ということか。ダビデは息子たちの処遇についてはあまり計画にしない傾向があるが、それはしばしば混乱のもとになっていたのは、これまでも語られてきていたことである。

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第一列王記 1:15-21

 12節のナタンの言葉にも、バテ・シェバの言葉にも、もしアドニヤが王になればソロモンは殺される、という意味合いが刻まれている。王子がたくさんいれば、誰かが王になり、他の者は王にはならないというのは当たり前で、本来、それで殺し合いになる必要性はない。だが、ダビデの息子たちの間では、とりわけ、ライバルになりそうだとなれば排除するという方向で事が動いている様子は、実に悲しい。それはソロモンの場合も同じで、2:25でアドニヤは殺されているので(理由はあるが)、第二サムエル12:10の言葉は続いていると言わねばなるまい。

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第一列王記 1:11-14

 ナタンと言えば、バテ・シェバ事件で厳しく神の言葉を告げた預言者だ。その人が、当のバテ・シェバに味方しているというのは、あの出来事そのものは断罪されても、その後の彼ら、とりわけソロモンの存在については、神は積極的に支援なさっていたことの現れでもある。確かに、罪は罪であり、看過はできない。でも神は、罪人を再び立たせることのできる方であり、この意義は大きい。

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第一列王記 1:9-10

 王子として宴会を開くこと自体は、さほど異様なことではない。もっとも状況によってはそれは、支持を集めるという意味もあり、アドニヤとしてはその様子を見ながら、王位に就くことを宣言するタイミングを見計らっていたのだと推察できる。この宴会では無理なら、次の機会にということもあっただろう。王であるダビデからの推挙を得るのが通例のはずなのに、それをしなかったというあたりは、彼自身不安を抱えていたということか。ダビデに叱られたことのないアドニヤでも、父と息子の関係はあまり良かったわけではないようだ。ダビデの一家は混乱に満ちている。ソロモンを招かなかったということは、対抗相手として意識していたことの現れだ。他の王子たちは、自分が後継者になるとは考えられずに、依存して生きていくつもりだったと見受けられる。

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第一列王記 1:5-8

 アドニヤはダビデの四男である。とても優秀な人だったようで、ダビデの評価も高く、それに長男、三男がすでに死んでいるから、ここは自分が後継者というふうに考えたのは、無理もないことではある。ダビデの右腕である将軍ヨアブ、それから祭司エブヤタルも支持している。ただし、祭司ツァドクや預言者ナタン、それから歴戦の勇者たちは支持しなかったとあるので、何か問題があったのか。いずれにしても、国内の支持は一枚岩にはならなかった。人々の思惑が交錯するのだが、ただ、忘れてはならないのは、イスラエルの王位とは神がお決めになることで、ダビデの嫡子だからというようなものでもないことは、重要な視点である。アドニヤはそれを忘れているようだ。

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第一列王記 1:1-4

 年を重ねると新陳代謝が低下するので、布団にくるまっても寒いという状況はよくあることだ。赤ん坊に添い寝をしていると湯たんぽのようなもの、と言われるが、家来の意図は、そういう意味合いだったろう。まあ、そのために若い娘、という発想は、全くほめられたものではないが。ただ、若き頃から、女性遍歴の多かったダビデが、そういう気を起こさなかったという記録は、それだけダビデが衰えていたということを語ろうとしている。勇猛果敢にイスラエルを率いてきたダビデは、その生涯を終えようとしているのである。人には誰でも、そういう時が来ることを、その本人も、回りの者たちも、ちゃんと受け止めておくべきである。

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第一列王記を読む

 旧約に戻ることにして、どこへ進もうかと考えていたのですが、年代順にということで、サムエル記の後は列王記、ということにしました。歴史の部分が続いているので、預言書などに飛ぼうかとも思ったのですが、やはり、まずは出来事を抑えていただくのが良いだろう、ということです。では、明日から始めて行きます。新しい翻訳の「新改訳2017」を元にしていくことにしますね。

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ルカの福音書 終わり

 ルカの福音書を読み終えました。1年と一ヶ月。マタイは10ヶ月でしたので、長さもあるのですが、ちょっとあれこれ考えながらという感じでしょうか。とても楽しいものでした。さて、次回は旧約に戻ろうと思っていますが、どこにするか。もうちょっと考えてみます。11/20からの再開、のつもりです。なお、新改訳2017が発行されたので、次からは、そちらを基準にして読んでいこうと思います。第三版と意味合いとしても違いが出ている場合には、そのことも触れておくようにしますね。ではまた。

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ルカ 24:50-53

 使徒の働きに詳しく述べられている部分を、簡単に記している。この部分がイエスの昇天に関することであるのは、新改訳2017の訳し方のほうがわかりやすい。ともかく、「まだまだ続くよ、次回をお楽しみに」というような意味合いを感じる。なお、昇天の場所はオリーブ山であるから、ベタニヤまで送り届けてくれたわけではなくて、そっちの方向性、ということであろう。これも、2017の訳では分かりやすい。

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ルカ 24:49

 ルカ福音書は、使徒の働きへと続いていく。この言葉は、その伏線とも言える。ここには詳しいことは書かれていないが、証人だと言っても、すぐさま飛び出していけという話ではないと、念を押されている。幸いにも弟子たちは、突進性のペテロも、イエスの言葉をちゃんと守って、聖霊の働きかけを受けるまでは動かなかった。直前の失敗で、自分自身の力に自信を失っていたということもあるだろう。人々の熱意は大事だし、価値あることだが、最も必要なことは、神ご自身の導きがあることであって、そこを軽視してしまったら、何も始まりはしないのだ。

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ルカ 24:47-48

 弟子たちに求められているのは、彼らの見聞きしたイエスのことを、彼らが指し示された福音を、他の人々にも届けることである。最初の弟子はごくわずかである。それで終わりで良いはずがない。これは全人類のために用意された神の道筋なのだ。だから、証人であれと言う。しょうにん、とパソコンで打つと、大概、商人が先に来る。商人たちは、もうけのためならば世界のどこまででも行くと言う。出掛けるだけがすべてではないけれど、各自それぞれに、自分のいる場所で、証人であり続けたいものだ。

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ルカ 24:44-49

 イエスは、ご自分の経緯について語る際に、明確に、それを旧約の言葉と重ね合わせておられる。福音書の中で、何度もイエスは、一切は前から予告されていたこと、神のご計画、それも、秘められた計画ではなくて、指し示され続けてきたことなのだと、そう告げられている。だとすれば、今も私たちは、この弟子たちと同様に、聖書を通して、キリストを知り、その御業の意味を、また、意義を知ることができる。実に幸いなことである。2000年の時を経て、とく言うけれど、イエスご自身、地上での歩みに先立つ多くの時を経て、神が事を進めてこられていることを、強く意識され、そのことを明示されているのだ。

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ルカ 24:36-43

 これほどの歓喜はなかなかあるものではない。絶望にいた弟子たちが、いくもの知らせによって希望を抱き始め、そしてついに、である。それにしても、朝に女性たちからの知らせを受けたとき、あんなにも邪険に扱ったことについて、彼らの反省はなかったのだろうか。あったと信じたいのだが。戸惑いすぎた弟子たちは幽霊だと思ったそうだ。それで、ちゃんと真実を見せ切れていなかったと、イエスはなおいっそう踏み込んで、事の真実を彼らに示している。それに、神の思いに中では、真の存在はやはり、肉体を伴うのだ。それがなくても済むのは、神ご自身だけであり、さもなければ派生的な存在たちだけだ。人は魂を持ち、肉体を持つ。だからこそ、よみがえられた主も、ちゃんとした肉体を持たれるのだ。夢でも幻でもない、生きた働いておられる主である。

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ルカ 24:33-35

 すぐさま戻ったということは、もともとやむを得ない事情での旅ではなかったということだ。幸い、距離にして11kmくらいだから、走ればそれほどの時間はかからない。おかげで、この二人も、イエスが弟子たちみんなの前に姿を現してくださった時に、一緒にそれを体験することができた。やはり、一緒にいなければ、である。離れてしまっていては、どうにもならない。それに、互いの間で共有されていく情報もまた、貴重なものである。ちなみに、イエスがペテロのところに現れたのは、やはりあの否認に関係するし、彼をきちんと立たせて弟子たちをリードさせる必要があったから、であろう。ペテロはその期待に十分に応えていくことになる。

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ルカ 24:30-32

 これを聖餐式の意義として語る必要性はないが、弟子たちが、何度も繰り返されてきたイエスとの食事を思い出したのは間違いない。教えに納得することだけでなく、共に歩み、共に語り合い、共に喜び、共に泣くことは、真実を見出すために必要なことだ。信仰は理念ではなく、教説でもなく、生活として扱われているのも、とても大切な観点である。彼らの目が開かれたので、それ以上はそこに留まる必要性がない。イエスは神としての特別な力を発揮して、他の場所へと急いだのだ。そして彼らも、この食事という以前に、すでに御言葉によって心が開かれていたことを、思わせられている。神の恵みは、すでに彼らに届いていたのである。

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ルカ 24:28-29

 先へ行きそうな、というのは、他の弟子たちにも会う必要があるから、ということのはずだ。この二人とは数時間、一緒に過ごし、語るべきことは伝えた。後は本人たちがどう受け止め、どう応ずるか、であるのだから、いつまでも一緒にいる必要性はない。そばに行って語りかけるべき相手はたくさんいるのだ。幸いにも、この時、彼らの心はすでに動かされていて、だからこそイエスを引き留めた。ご自分のほうから「私だ」とは言わないことにしていた様子のイエスとしては、ほころんでくる顔を押し殺していただろう。無理に願う、そのくらいの強い思いで求めることを、神は心から喜ばれるのだ。(マタイ7:7)

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ルカ 24:25-27

 イエスのなさり方に注目しよう。ご自分が復活したことを弟子たちに示すために、イエスは奇跡をしたわけではないし、彼らの心を神の力で揺さぶったわけでもない。イエスがしたのは、旧約に記されている神の言葉を指し示し、その意味を解説することによって、なるほど確かに復活は神の御心であり、当然にそうなるべきものなのだ、と彼らが理解するようになること、であった。これは神の御子でなくても、人にも同類のことはできる。でもそれこそが、最も意義のある業であり、教えであることを、そして確かな信仰につながるものであることを、イエスは明らかにしておられるのだ。これはルカ16:29-31とも合致する。

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