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2018年3月

第一列王記 19:15-18

 ここからが、神の支配の本領発揮である。エリヤは、イスラエルの王アハブを恐れている。だが神は、隣国アラムの王を任命するのはエリヤだと言う。さらに、イスラエルの次の王を任命するのもエリヤである。そして、預言者は自分一人だと嘆き、もうまもなく預言者の業はすべて失われるのだと言っているエリヤに、後継者エリシャの任命を告げる。つまり、この業は終わらない。たとえエリヤが殺されたとしても終わらない(実際にはエリヤは殉教していないのだが)。神の業は、アハブを完全に凌駕しているのである。人は、神の御業の視点で物事を見る必要がありそうだ。

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第一列王記 19:11-14

 神の真の支配が、単なる力による圧倒ではないことが、この場面からもわかる。人は、自分たちにとって分かりやすい偉大さを示してくれるようにと願うが、それは真にこの世界を動かすものではない。十字架のイエスに対しても人々は、そこから降りてきたら認めてやろうと言っていたが、たとえそうしたところで、人の心は動かないのだ。イエスがあれだけの奇跡を行い力を発揮しても、人々は信じなかったのである。もっとも、イエスの奇跡は人々を信じさせるためではなく、目の前にいる人々を助けるためのもの、であって、決して当てが外れたわけではない。

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第一列王記 19:5-10

 死を願うエリヤに対して、神は生きることを指し示されている。食べること、そして眠ることは、次へと進んでいくための力をもたらすものだ。そしてエリヤも先へと進んでいる。シナイ山についたときも、彼の絶望はまだ続いているが、死を願う言葉は消えている。それにしても、エリヤの言葉は、実に適格に彼の置かれている状況を示している。彼は万軍の主に仕えたのである。確かに敵は多く、厳しい状況は続いている。でも、彼が身を置いているのは、世界を支配されている神なのだ。神が弱いとは言っていないことは、とても重要な要素である。それにしても、18章の対決は全く触れられていない。力で圧倒するような勝利だけでは、実は何も動きはしないことを痛感させられる。

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第一列王記 19:4

 エリヤの言葉を、聖書が自死を肯定している、というふうに読んではならない。神はエリヤの願いを認めてはいないし、もともとエリヤは自ら行動を起こすつもりではなく、神の御手によって、を願っているだけだ。聖書は人の世の現実を赤裸々に語る。ごまかしや取り繕いはしない。だから、エリヤが示した弱さについても、ありのままに告げるのである。むしろ、そういう悲しみを抱えている人間たちと必死に関わって下さる神がおられるのだという、そういうことを指し示しているのが、聖書のこういう箇所の伝えてくれている様子だ。

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第一列王記 19:1-4

 人の恐れや疲れは、理論では片付けられないようだ。エリヤは前面勝利を果たしたところである。神の偉大さを人々の目の前で明らかにしたところである。神の前に、人は小さな存在でしかないことを示したばかりである。だが、イゼベルに脅されたら、震え上がって逃げ出した。疲れのためだ、とも言えるだろう。人は弱いのである。ただ、仕方がないとしてしまうわけにはいかない。エリヤが失われてしまうことを、神は決して諦めてはいない。彼は死を願っている。逃げたいということである。だが神は、正反対の道を指し示して行かれる。

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第一列王記 18:45-46

 雨が降った。それも激しい雨で、干ばつが終わったことが明確に示されている。むろん、これは季節の変化ではなく、神の意図的な関与の結果である。アハブを初めとしてイスラエルの人々は、神が国も世界も掌握しておられることを、痛切に思い知らされることになった。エリヤとアハブとの対決は、エリヤの全面的な勝利で終わった。そのはずだった。でも、イスラエルは神に立ち返ることはなく、そしてエリヤもまた、その様子が大きく変わっていくことになる。ドラマの中なら勧善懲悪のように事態はすっきりと進むのかもしれないが、現実はもっと複雑で、また厳しい。聖書はそれを告げている。

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第一列王記 18:41-46

 天から火を降らすことより、もっと現実的で、意味のある御業は、雨を降らせることだ。エリヤの言葉によって雨は止まり、再び神の御手によって雨は降り出した。自然を支配するだけでなく、イスラエルの国全体、そこに住む人々の心もまた、神の御手の内にあることを痛感する。エリヤと若い者の行動は、彼ら自身もまた神への信頼、信仰を問われているからこそ、である。火は一瞬で降ったが、今度もまたパッパッと簡単に進むとは限らない。神の御心は常に、忍耐して信頼して待つことを問い掛けている。

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第一列王記 18:39-40

 あえて言えば、この民は全く回心していない。この時は驚き、ひれ伏したけれど、北イスラエル王国が主なる神への信仰を取り戻した様子はない。市居の人々の間では、預言者たちの活躍がいくらか可能になる程度の支持が存在した程度まで、である。どれほど圧倒的な力を見せられても、人の心は奥底から変わることはない。キリストが支配権を振るったりはしなかったのも、これと同じ概念でもある。エリヤの命令に、私は賛同しない。預言者のしたことの全てが神によって肯定されているとは限らない。バアルの預言者を殺しても、それで事態が好転するわけでもない。神ご自身が、人々の心そのものを動かしてくださってこそ、であり、目に見える力に依存するのは危ういことなのだ。エリヤの思いには同情するが、これは解決にはならなかった。

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第一列王記 18:36-38

 エリヤは騒がない。神の注意を引こうともしない。淡々と報告をして、そして、神のなさることを待っているだけ、である。エリヤが事をなしているのではなく、神が事をなされ、エリヤはただの先触れに過ぎない。でも、だからこそ、事は圧倒的で、どれほど疑ってみていた人であっても感服せざるを得ないほどのものである。それがささっとなされている所に、神の真実な権威というものを感じずにはいられない。

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第一列王記 18:30-35

 エリヤは丁寧に準備を進めている。先ほどまでのバアル預言者らの大騒ぎとは全く別物だ。12の石のように意味を込めた行為だが、それによって効果が増したわけではない。それはむしろ、エリヤが祈り求める神が、この民全体にとっての本来の神であることを指し示し、その方が答えてくださるのだという、民に対する強い呼びかけになっている。水は、こっそり火をつけたと難癖をつけられるのを避けるため、だろう。エリヤはそんなことはしないのだが(神を信じているから)、他の人にもその信仰姿勢をきちんと示すこともまた、大事なことである。彼は十分に時間をかけている。人々はそれを見ながら、神が何をなさるのかを、固唾を呑んで見守る思いになっただろう。実に的確な進め方である。そう、人々の心を開いていく、備えさせる必要もあるのだ。

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第一列王記 18:25-29

 バアルの預言者たちは頑張ったのだが、つまり、何の答えもなかった、ということである。エリヤの言葉は、嘲りが大半、でも、この対決の趣旨からすれば公平でもある。真っ向勝負。そして、結果もはっきりと示されている。地上を支配されていのは主なる神であることを、明示している。

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第一列王記 18:19-24

 奇妙な合戦である。真の神は、という課題は、こんなに単純な話ではない。神があえて沈黙される場合もあるのだから。でも、今ここでは、この単純さが意味を持つ。民全体が王に影響されて道に迷っている今、わかりやすい対比を示すことは効果的だ。それに、民はエリヤの明確な問い掛けに応じていない(21)。かつてヨシュアが問い掛けたときには、民も真っ直ぐに応答したのに。実際には、この出来事があってもアハブ王が悔い改めたわけではない。でも、聞く耳のある者、見ようとする者には、しつかり指し示しておく必要はあり、それは預言者の責務である。

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第一列王記 18:16-18

 アハブの言い様は、この世においてしばしば見られるものだ。残念なことだけれど。自らのしていることの深刻さを分かろうともせず、でも、問題は起こっているので、どこかに責任を負わせられる相手を求めて、理屈が立たないことなどお構いなしに、無理やり押し付けてしまう。それで済ませてしまうことが大いにあり得るこの世界だが、神の前ではそうはいかない。エリヤは明確に、事を述べている。どうしても必要なことであるのだ。

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第一列王記 18:7-15

 冷静に言えば、オバデヤの不安は無用のものだ。この状況でエリヤが出てきたと言うことは、アハブ王と対決するという意味でしかなく、オバデヤを陥れるためという可能性はゼロに近い。ただ、ぎりぎりのところで生きてきたオバデヤの心境には同情する。エリヤもそうだが、オバデヤもまた四面楚歌の中で、しかも身を隠すこともできずに踏ん張ってきたのだ。このような場合にできることはただ一つ、エリヤがしたように、はっきりと断言してあげることだ。大丈夫なのだ、と。神が導いてくださることなら、そう断言できるはず。エリヤは、事の次第が神の御手の内にあることを確信している。

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第一列王記 18:2-6

 興味深いことに、アハブの側近に、神を慕い求める人がいた。この世にあって信仰を生きていこうとする際には、たとえ信仰的に異なる人々の間でも、それでもちゃんと認められるような仕事ぶり、生き方をしていくことは、大事なことなのだ。そうすれば、4節のようにして、大事なことを行う可能性も出てくる。偉くなれ、ということではないけれど、しっかり歩んでいくことは大きな意味を持っているのだと、新約でも語られている。(マタイ5:12-16など)

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第一列王記 18:1-2

 神ご自身の指示とは言え、17:3でアハブから逃れることができたのは、エリヤにとってもありがたいことだったはずだ。でも、ここまで歩んできて、彼自身もまた整えられ、だからこそ、改めてアハブとの対決が可能になっている。それに、干ばつはアハブの心を動かしてはいない。予想通りではあるけれど、全面的な対決が必要とされた。それは結果から言えば、王の心を動かすことよりも、民の中に神を慕い求める人々を起こしていく効果があったのだが。

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第一列王記 17:17-24

 さらに問い掛けは続く。この女性の問い掛けに、エリヤは何も答えられない。当たり前である。彼女の言葉はエリヤ自身の問い掛けでもある。だからこそ、エリヤはその子を神の御手に委ねている。それしかできないのでもあり、そして、そこにこそ光は見える。24節は、今まで疑っていたという意味ではない。神の確かさを、こうやって重ねながら確信していくのは、むしろ最も自然な信仰の歩みと言える。それは、エリヤ自身にも言えることだ。

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第一列王記 17:8-16

 第二の問い掛けには、二つの意味がある。まずは、異邦の民に自分の身を委ねる覚悟である。イスラエルだけでなく、この異邦の民もまた神のもとにあるのだと、神が全世界の神であることを信じるかどうか、である。もう一つは、彼らの持っている最後の粉を提供させる覚悟だ。もちろん、粉は尽きないのだと約束している。だが、もしそれがだめだったら、エリヤは彼らの最後のパンを奪ったことになる。その覚悟があるかどうか。ぎりぎりのことが問われていく。エリヤもすごいが、この女性もすごい。

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第一列王記 17:2-7

 神の偉大さを認めよと問い掛けられたのはアハブだが、宣告したエリヤ自身も同じことを問われることになっている。アハブの追っ手から匿ってもらうのは良いが、彼を支えるのは、すでに涸れそうになっている川と、それから、人の意思には全く従わない烏である。そんなものに自分のいのちを託す。それは、川や烏を確かに導いておられる神がいること、神にはそれだけの力があることを、いのちをかけて信じる思いがなければできないことである。主の約束を語る者は、自分もそれを信じるかを問われる。大事なことである。

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第一列王記 17:1

 エリヤの第一声は、神を無視しているアハブと北イスラエルの民に対して、主なる神が圧倒的な支配者であることを明確に示すことが意図されている。それで、神が許可しなければ雨は降らない、と告げ、その通りになっている。アハブは否応なく、神と向き合うように引っ張り出されているわけである。それに、彼が信奉していたバアルは豊穣の神であり、それが全く意味をなさないことを示す状況でもある。こういうやり方を神がなさることは滅多にないことだが、それは北イスラエルに対する神の深い憂慮、あわれんでおられるからこそ、でもある。そう、どうでも良い民なら、放り出せばよいのだから。

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第一列王記 17:1

 時代としてはアハブ王の治世であるが、聖書は明らかに、預言者エリヤの活躍を書き記す意図をもって、ここからしばらく話を進めている。預言者はどのようにして預言者になるのかは、イザヤなどのように明確に神から呼び出されたというケースもあるが、エリヤの場合には不明だ。聖書は彼が預言者として登場し、活動を始めたとして記している。その際に注目すべきは「主は生きておられる」という言葉である。これは慣用句としても用いられているが、エリヤの場合には、彼の活動全体の根拠、そこに神がおられるのだという、いわば、「私はある」とも似たような重みのある言葉として見ていくべきだろう。

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第一列王記 16:29-34

 いよいよアハブの登場である。聖書の読み手にとって北イスラエルの最も有名な王でもあるが、その理由は彼のしたことがあまりにもひどかったから、である。ヤロブアムの罪は、エルサレムの神殿の代わりに金の子牛を立てたことだ。そこには、自分たちをエジプトから助け出してくれた神を思いはするが、その内実は全く別物に変質されている、ということである。異端の位置づけに近いかもしれない。だがアハブはバアル信仰を引き込み、もはやエジプト脱出のことなど関係ない、自分たちにとって都合の良いものを選択するだけ、となっている。もっともそれは、イスラエルのたどった道筋からすれば、当然のことでもあるが。中途半端に主から離れる程度で留まるのはむしろ困難で、崖から落ちるようにしてこの世は神から離れて行ってしまうのだ。

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第一列王記 16:21-28

 民が選んだ王は、将軍オムリである。人望があったのだろう。それでも反乱の中でのことだから、ティブニという人が6年も対抗した。オムリの治世の半分だから、よほど頑強な抵抗だったということになる。残念ながら、オムリもまた信仰的には誤った道を歩んでしまった。ヤロブアムに始まった北イスラエルの状況は、加速度的に堕ちているとも言える。次の章でエリヤが登場するのは、神がこの民に与えたあわれみであることを思わせられる。

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第一列王記 16:15-20

 7日間の王位というのは、つまり、王権を確立はしなかったということでしかない。謀反を起こして簒奪した者を、イスラエルの民は認めなかったということだ。バシャの一族が滅んだのは神との関わりだが、そのこととジムリの行動が是認されるかどうかは別問題なのだ。後にバビロンが、ユダへの厳しい叱責として用いられたけれど、バビロン自身の罪ゆえに罰せられるのとも似ている。それが神のなさり方である。

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第一列王記 16:8-14

 バシャの家系は、息子の代で、あっという間に絶えてしまった。息子のエラも父と同じ道をたどったためであると、聖書は明言する。仮にも王とされたのに、情けないと思わずにはいられない。神をないがしろにして、家を滅ぼし、国を迷わせてしまう。あまりにも愚かな選択であることに、でも、人はしばしば気づくこともない。もっともジムリは神から任命されたわけではなく、単なる謀反に過ぎなかったのだが。その程度の者に滅ぼされてしまうほど、王家はすでに弱体化していたということか。

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第一列王記 15:33-16:7

 ヤロブアム王家に代わって北イスラエルの王となったバシャは、しかし、ヤロブアムと同じ道を歩んでしまった。失敗から何も学ばないということであり、また、ヤロブアムの影響が国全体に深く浸透してしまったということでもある。神から、ヤロブアムと同じ宣告が下されている(14:11)。彼らはなぜ、事の深刻さを思わないのか。主なる神の強さは承知しているはずなのに、それを無視する。冷静な判断としてはあり得ないことなのに、でも、それが人間の姿であることを聖書は悲しみを込めて記している。

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第一列王記 15:25-32

 北と南の王たちの系譜は、相手側の王の治世を基準として年代が記録されていく。ヤロブアムの後継者は父と同じ道をたどり、それで神は北王国の統治権を別の者に渡した。ここには神からの具体的な指示は書かれていないが(16章では語られている)、聖書は北イスラエルに関しても常に、王位は神による、という姿勢を貫いている。ヤロブアム王家はあっけなく壊滅し、バシャという人物が新たな王家を始めている。その後も王位は転々とし、ふと、士師記の様子を思い出した(そこではさばきつかさが次々と現れるのは、決して彼ら自身の課題ではないのだが)。

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第一列王記 15:16-24

 礼拝姿勢においては純粋なアサ王だったが、他国との関係では、外交関係をうまく利用する手腕を持っていたようだ。北王国と対立した際には、さらに北側に位置するアラムの力を借りて挟み撃ちを計画し、北王国の侵略を撃退する策を用いている。当時、北と南の勢力は、領土の広さも、土地の豊かさも、そして人口も、北側が圧倒的に大きかったので、正面からぶつかってしまっては厳しい。アサの取った道筋は王として知恵のあるものと言える。ただ、歴代誌はこの出来事を否定的に記録している。アサは神のみに頼るべきだったという趣旨で、その指摘を受けたアサが激怒したと書いてある。何に頼るのかというテーマは旧約において何度も出てくる。

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第一列王記 15:14

 高き所の扱いは、この後も王たちの評価における注目点である。もともとイスラエルの民は、良さそうな場所を選んで神殿を築き、神を礼拝していた。アブラハムもしていたことであり、そのこと自体は何も問題はない。ただ、そういう場所が次第に偶像礼拝に用いられたり、異なった教えに傾くことが多くなってしまっていた。それで、礼拝はエルサレムの神殿に統一する動きが出たのだ。神は決して、神殿に限定する命令を出していたわけではない。アサが高き所での礼拝をそのままにしていたのは、何もおかしなことではない。ただ後の時代には、その場所の放置は偶像礼拝の容認とも重なるようになった。アサの場合は12-13節での徹底的な態度からも、問題はなかったのだが。

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第一列王記 15:9-15

 治世が長ければ良いわけではない。だが、良き王が長期にわたって国を治めるなら、民にとっては有益なことだ。アサ王は、2代、いやソロモンの晩年を考えると3代と言うべきか、その後でようやく登場した良き王であった。ダビデと同じ、という言い方が、その姿勢の確かさを示している。アサの母はマアカで、これはアビヤムと同じなので、子と記されているが、弟に当たると推測できる。皇太子が弟というのはよくあることだ。アサの母という表記を「祖母」と解することのできるが、アビヤムが早世しているので、弟の方がよさそうだ。とすれば、アサの育った環境はかなり問題の多かったもののはずで、でも彼はまっとうな信仰を手にしている。彼を支援したのが誰かは書き記されていないが、実に幸いなことだ。南ユダ王国においては、悪い王も出るが、このように善王も登場し、おかげで国の信仰が何とか保たれて行っている。

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第一列王記 15:1-8

 アビヤムが南の王位に就いた。だが、たったの3年、そしてあっさりと書き終えている。ダビデのゆえに、神はまだこの民を見捨てはしなかったのだと告げられる際の引き合いに出されただけ、にも見える。そう、ダビデの名が、この後、繰り返し語られていく。その王の歩みがどうであったのかを示す、標準としてである。イスラエルの歴史を読む際には、ダビデの生涯を繰り返し、読み直した方が良さそうだ。

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