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2018年4月

第二列王記 1:13-16

 三番目の隊長も、もともとは決して主なる神を敬う人ではなかっただろう。でも彼は目の前に起こっていることから学ぶ姿勢があった。そして、主なる神は決して冒瀆して良い相手ではないことを悟った。彼は自分にできる最もふさわしい対応をしたのである。神は決して腹立ち紛れに八つ当たりしていたわけではないから、彼の態度を受け止めておられる。エリヤは王の元に行くことそのものを恐れたのではない。王ではなく神こそが支配者であることが明示されるなら、どこへでも出ていくのだ。むろん、王に対する宣告内容は変わらない。アハズヤは自らのいのちを助けるための機会を自ら逸したのだ。

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第二列王記 1:9-12

 アハズヤの意図も、派遣された部隊の意図も、力でエリヤを抑え込み、縛り上げて王の前に引き出すことである。隊長の言葉遣いには、王が優位であることを宣告し、黙って従えという意味合いが含まれている。それはエリヤに対してだけでなく、主なる神に対しても、王に従えと命じているに等しい。時に、諸国の王は自分の意向通りに神が動くべきという姿勢を示す。神も信仰も、人の従属物として扱われているのだ。でもこれは、本来の神との関わりからすると、決定的に深刻なものである。だからこそ、このような厳しい処置がなされている。放置できるものではなかった。

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第二列王記 1:3-4

 それにしても、アハズヤはエリヤのことなど考えていないのに、エリヤのほうから、つまりは神のほうからアハズヤに関わってこられているのは印象深い。人はしばしば神を忘れているのだが、神は人を顧みて、助けを与え、導きを与え、あるいは叱責し、とにかく、関わり続けてこられる。「イスラエルにはわたしがいるではないか」という主張にも、この国を、この民を、神が今もなお見捨ててはいないのだということがよく分かる。

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第二列王記 1:1-8

 アハブの後を継いで、息子のアハズヤが北イスラエルの王となった。彼の行状については第一列王記の終わりにあるとおりで、全く期待が持てないものだった。彼の早期退陣は避けられないものではあった。とは言え、彼の病が神ご自身が手を下したものというふうには記されていない。そして、3-4節の言い方からすれば、危急の事態に陥って、それでアハズヤが助けを求めているのがエクロンの神だったことが、この結末の理由とされている。ということは、もし彼が主なる神に助けを願っていれば、回復もあり得たということか。確かに神は、立ち返る者に対して、深くあわれみを注いでくださる。たとえどれほど悪に染まっていたとしても、である。

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第一列王記終了

 第一列王記を読み終えましたが、本来これは、第二へと続いていくものですので(コリント第一、第二とは違う)、このまま読み進めていくことにします。インターバルを置くのも、今回は割愛して、ということで、明日からは第二列王記です。

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第一列王記 22:51-53

 アハズヤは2年しか王位にいられなかった。その様子は次の章に出ているが、彼は父のアハブが至った最期の様子から何も学ばず、父と同じようにバアルを信仰し、さらに北イスラエルの伝統的偶像である金の子牛も拝んでいた。奇妙なことである。人は自分の得を求めるのだと言う。それなら、最も確かな主なる神に付き従うのが一番だ。でも人はしばしば、むしろ損な選択をして、豊かに力ある神を放り出して、何もしてはくれない神々、そうなのだとすでに明らかにされた、そういう神々に頼ろうとする。神が人の罪を嘆くのは、人々が自分自身を壊し、滅ぼして行っているから、である。

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第一列王記 22:44,47-49

 ヨシャパテ王は、北イスラエルと友好関係を持とうとしている。本来は二つに分かれても共に手を携えて歩むべき両者なのだから、ヨシャパテの姿勢は望ましいもののはずだ。ただ、その相手がバアル信仰に明け暮れていたアハズ王であったこと、結局、何らの影響を及ぼすこともできなかったことを思うと、ヨシャパテは友好の意味を取り違えていたと言わねばならないだろう。アハズヤとの連携を拒否したのは、アハブ王の最期などから、何か学んでいた結果であると良いのだが。聖書はこう言う部分については淡々と事実を書き留めるのみで、あまり詳しい評価はしないことが多いのだ。

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第一列王記 22:41-46

 ヨシャパテは43節のように、信仰的に良き王として位置づけられる。高き所には手を出さなかったので、民全体の状態を十分に改善するには至っていない。王としては、自分のことだけでなく、国民全体の様子を導いていく責任がある。ただし彼は46節、神殿男娼を排除しているので、単に不十分ということだけで片付けることはできない。人は結局、その時々に、自分のできることに取り組み、主の前に生きていこうとするのみではある。完全に成し遂げられるわけではない。だがそれでも、物足りなさという面を考えてしまうのは、神の前にまっすぐであることの幸いを思うからこそ、ではある。現代の私たちも、どこまでも不十分である自分たちという自覚は認めつつ、その上で、より良きものを願い求めていきたいものと思う。

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第一列王記 22:37-40

 アハブが乗っていた戦車を洗ったのは、ごく当たり前の行動で、格別の意図があったわけではない。だが、神が先に告げていた言葉を知っている者たちは、事がまさにそのとおりになっている事態に、震撼したことだろう。とは言っても、北イスラエル王国が信仰的に方向転換することはなかったのだが。それでもアハブは先祖の墓に葬られている。当時の社会では、そのことは重要なことの一つとされており、投げ捨てられての死ではないというのは、神の温情に当たるのだろうか。21:29との関連を考えても良いと思う。

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第一列王記 22:34-36

 流れ矢、というものだ。ねらったわけではなく、そこに王がいると思っていたわけでもなく、通常としては偶然という言葉を使うのだが、聖書は明らかに、神ご自身の支配を指し示している。アハブ王がどのような策を講じても、隣国の王を身代わりにしていても、神がこうだと決めた限りは、そこから逃れる道はない。エリヤと対決していたアハブの、権勢を誇り、信仰面において国を大混乱に陥れた王の、寂しい死である。

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第一列王記 22:29-33

 アハブは、自分のやりたいようにやる、ということで拒絶したものの、ミカヤの言葉を気にしてはいたようだ。それで、ヨシャパテに王様らしい格好をさせておいて、自分は隠れていようとしている。こういう見え見えのことについても素直に従うあたり、ヨシャパテは何とも愚かなものだ。彼は邪悪ではないけれど、ユダの王として民を導くにはあまりにもうかつすぎる。真実を見極めることのできる心を与えてくださいと、人はやはり祈り願うべきなのだ。

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第一列王記 22:24-28

 ゼデキヤの怒りについては先日述べたとおりで、彼は自分の能力に自信があったのだろうが、神が語られるかどうかは、彼の資質とは別の話である。そして王はミカヤの言葉を拒絶した。大事な、最後の警告でもあったはずなのに、それを拒んだ。もはや、そこには救出の道はない。自分でそれを閉じてしまったのである。

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第一列王記 22:17-23

 悪いことを預言するからまずいのだとしたら、もともとから神に尋ねる意味がない。それに加えてミカヤは驚くべきことを告げている。ゼデキヤたちは本当に聞いたつもりでいた、神は彼らに告げたのだというのだ。ただし、偽りを、である。それも、アハブ王を滅ぼすために無謀な戦いをさせようと神が仕組んだことであると言う。真実にこの通りの事があったのか、それとも、こういうふうに告げることによって、アハブに思いとどまらせようとしたのか(21:27では悔い改めた)。もし、神の意図がアハブを確実に仕留めることだったら裏を開かす必要性はないから、この言葉の意図は後者ではないか(実際に起こった対話だとしても)と考えられる。あいにく、この時のアハブはそんな温情にも耳を貸そうとはしなかったのだが。

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第一列王記 22:13-16

 使いの者の要請は、ようするに、神が何を語るかではなくて、つまりは真実は何かではなくて、その人が何をどう語るかがすべて、という概念だ。人を越えて働いておられる真実な神がおられることなど考えてもいない。これを人間に置き換えるなら、Aさんが何を語ったのかと尋ねられて、都合の良いように勝手に話を造り替えたら偽り者であるのに、神に対してはそれでもかまわないとするあたりに、神への真剣さがないことがはっきり示されている。ミカヤの15節の言葉は、態度言葉遣いなどから誰にでもわかるような嘲笑的なものだったのだろう。内容的にはそういう答えを期待していた王ですら、馬鹿にされたと怒るほどのものだったわけである。

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第一列王記 22:11-12

 このゼデキヤは何者か。6節で招集された一人とすればバアルの預言者だろう。ただ、「主」の名を口にしているし、24節ではミカヤの指摘に腹を立てているので、本気で自分は「主」の預言を受け取ったと考えているようでもある。多神教的な観念からすれば、何らかの神に仕える資質を持っていれば、他の神々の託宣も受け取ることができると考えても不思議ではない。ゼデキヤは自分にはいかなる神の声でも聞くことができる力があると考えていたのだろう。でも、聖書が語る本来の預言者とは、霊的な素養の有無ではなくて、もっと単純に、神がその人に語りかけて下さるかどうか、にかかっている。神が主体か、人の側の能力の問題か、ここにも主との関わりの意味合いを取り違えている人類の実例がある。

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第一列王記 22:5-9

 ヨシャパテはごく自然に、神の御心を尋ね求める必要性を語っている。このあたり、彼が信仰の中に育まれてきたのだなということが、とてもよく分かる。彼にとって、神と関わりつつ生きるのは、ごく自然なあり方だったのだ。でもイスラエル側は、すでにそういう常識を忘れている。400人の預言者は、バアルその他の神々に仕えていた人々だろう。自分に都合の良いことを語ってもらい、それで安堵するのであれば、神の言葉を尋ね求める意味が何もない。悪いことばかり預言する、ので拒否するのだったら、預言者など不要だ。具合が悪くて医者に言ったのに、たいしたことはない、という言葉しか語らないとしたら、行く意味がないのとも似ている。さすがにヨシャパテは困惑している。それは当たり前、であることを、ちゃんと覚えておきたい。

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第一列王記 22:1-4

 ヨシャパテは信仰的に良い王として分類される。だが、極悪とされるアハブと付き合っている。それはヨシャパテの家庭に混乱をもたらすが、その話は改めて、である。彼は自分が神を信じていれば問題はないと考えていたのかもしれないが、事態は彼が思うよりも深刻だった。信仰の異なる相手とは関わるな、という意味ではない。この信仰は排他性でもないし、純粋培養でもない。だが、自らが捕らわれてしまう危険性には常に留意すべきだし、離れているときよりもなおいっそう、相手の行動、自分の行動の是非について、個別具体的に確かめ続ける必要がある。

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第一列王記 21:27-29

 珍しいことに、と言っては何だけれど、アハブがへりくだった。赦しを請い、神の前にひざまずいたのだ。エリヤを通して告げられた神の言葉が現実になることを悟ったからだ。かろうじて彼は、神の言葉の真実というものに気づき得たということだろう。そして神の赦し、いや、猶予が与えられている。アハブなど赦す必要なし、と人は思うのだが、聖書は一貫して、どれほどひどくても、もし、立ち返るなら、いや、一時的にでも本気で赦しを願うなら、神はその求めに答えてくださるのだと言い続けている。ニネベの町も同様だった。アハブの子の時代に、と言っているが、もし、その子がへりくだるなら、再びの先延ばしは可能である。神の赦しは尽きる所がない。だが、求めなければ、請わなければ、事態は深刻なまま、である。

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第一列王記 21:15-26

 神からの鋭い言葉が、エリヤを通してアハブに告げられている。彼自身がしたことではなくても、事は明らかにアハブの責任の中にあることだ。もちろんイゼベルも責められる。アハブ自身の問題性と共に、隣で誘発したイゼベルの存在は、北イスラエル全体を大きく壊してしまっていた。この行為は個人としての罪という意味でも言語道断だが、国や社会を壊すという意味でも、決して許容され得ないものである。イゼベルを恐れていたエリヤの葛藤は、もはやここにはない。毅然とした預言者の姿があるのみだ。彼自身の頑張りというよりも、それほどにひどく、そして、神の激しい御心があったということでもある。

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第一列王記 21:5-14

 イゼベルは、もともと主なる神への恐れは皆無で、夫のアハブを越えて、事態を好きなように動かしている。まったくの偽りと強引さで、彼女は土地を手に入れた。しかも、ナボテの生命すら奪って、である。アハブが最初に願ったときは、ナボテが了承すればまっとうなことで済んだのだが、全面的に邪悪な行為になりさがってしまった。人の思いが悪に転落する事態を痛感する。十戒の、隣人のものをほしがってはならない、は重大な教えである。

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第一列王記 21:1-4

 珍しく、アハブ王は低姿勢である。王の力で奪い取りそうな所を、きちんと代価を払って取得することを願っている。それほどに、イスラエルの民にとって土地というものは、本来神からそれぞれに分与されたものだという認識がはっきりしていたからだろう。社会の根幹部分を崩してしまったら成り立たないことを、神から離反していてもなお、人々は認識していたということか。でも、だとすればナボテには断る自由があり、それは正当なもので、決して腹を立てたり、不満に思うべきではない。この怒りが事態を最悪のものにしてしまう。創4:7は大切なことなのだ。

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第一列王記 20:35-43

 35-36節は、この事態を神がとても深刻なものとして考えていたことを表している。アハブ王がアラムの王を逃したことは、後々、イスラエルの国にとって深刻な事態をもたらす。これは神がイスラエルの国に与えた大切な助けであったのだが、アハブは自分の身勝手な優越感によってそれを壊し、国自体を危機にさらしてしまったのだ。結局彼は、神が事を動かしてくださっていることをわかろうとせず、自分が中心だと思っている。彼は自らを滅ぼしていくだけでなく、民をも巻き添えにしている。これは神の嘆きである。(第一サムエル15:8,32-33も参照)

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第一列王記 20:31-34

 アハブ王は、アラムの王が自分に命乞いをしたことに、気をよくしたのだろう。今まで圧倒されていた相手が屈してきたので、自分が偉大な者であるように思い込んでしまったのだ。本来は神の御業であり、決して彼自身の功績ではなかったのに。32節の言い方は、とても偉そうである。これは柔和とは違う。温情でもない。単に自分の権勢を誇ってみせているだけである。こういう姿勢は、むろん、相手との和解をもたらすものではなく、むしろ、屈辱ゆえに反発を招くだけである。

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抜け落ちました

 すみません。ちょっとばたついていたら、更新が抜け落ちてしまいました。今日から再開です。

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第一列王記 20:23-30

 「神」の勢力を限定的に考えるのは、多神教においては通常のことだ。イスラエルの神と便宜上呼んでいるけれど、聖書は一貫して、この方が全世界の神であることを語り続けている。山の神という印象は、シナイ山の記憶か、あるいは神殿のあるエルサレムが山岳地帯にあるためか。サマリヤなど、北イスラエルの領土は平地なのに、王が否定する主なる神、あるいはエルサレムが引き合いに出されるのは皮肉なことだ。もっとも今彼らは、その神に助けられているのだが。

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第一列王記 20:16-22

 32人の王といっても都市国家のような時代のこと、アラムの王は別格としても、他は部族長のようなものだ。それでも、これだけの勢力が集まっているところに戦いを仕掛けるのは恐怖でもあっただろう。それでも、イスラエルの王は神の指示を受け止めて出ていったのだから、ダビデやヒゼキヤの場面だったら信仰深い姿として称賛されそうなところだ。前後からすれば、この王は神を本気で敬ったわけではない。ただ、ほんのわずか、部分的にでも神を信頼するとき、そこには大きな祝福が待っている、のではある。これは大事な指針であることを思う。

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第一列王記 20:13-15

 神が預言者を遣わしてアハブに助けを与えようとしたのは、無力とわかりつつも民を守るために抵抗しようとしたアハブの姿勢のゆえかもしれない。アハブは明らかに悪王だが、それでも神はイスラエルからそっぽを向いてはおられないのだ。大軍が少人数によって打ち破られるというのは、神が繰り返しなさっていることである。人の力ではなく、神の力によってこそ、と知ることは、その戦いだけでなく、以降のためにも必要なことなのだ。アハブにも、転機が訪れている。ただし、それをちゃんと受け止めるかどうかは別なのだが。

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第一列王記 20:1-12

 場面は一転して、イスラエルと他国との戦いが語られていく。エリヤとは対決ばかりのアハブだが、他の預言者を通しての言葉には、幾分か心を開いている様子がある。そう、預言者はエリヤ一人ではない。35節からも、たくさんいたらしいことがわかる。ともかく、アラムがイスラエルに脅しをかけている。国力の差があり、形式的な従属やある程度の貢ぎ物は覚悟しているアハブだが、根こそぎ持って行こうとする様子に、逡巡している。だが、抵抗できるだけの力はない。エリヤを圧倒していたアハブだが、彼自身が圧倒されている。

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第一列王記 19:19-21

 おそらくエリシャはすでにエリヤを知っていたのだろう。そして、エリヤの行動の意味も悟っている様子からも、召し出されればという覚悟もあったのではないか。以降、エリヤと完全に行動を共にする決意の表明が、親との別離をきちんとする行動の意味合いである。この場合は、決して、後ろを振り返っているわけではない。神が選んだ後継者は、おそらくエリヤの予測以上に、まっすぐに主に付き従い、エリヤを支えるものとなっていった。自分はひとりぼっちだとうめいたエリヤに対する、神からの温情あふれる贈り物とも言える。

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