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2018年5月

第二列王記 6:1-7

 エリシャの記事には、さほど重要とは思えないような出来事が時々出てくる。斧の頭を失ったのは本人にとって残念なことだけれど、あえて奇跡を求めるほどのことかどうかと、つい考えてしまう。だが、改めて思うと、物事の重要性に絶対的な基準などはなく、些細なことだから神に願う必要はない、などという部類のことはないのが真実だ。それに、こんなことで神の手を煩わせるなど、と遠慮する必要もない。神はどれだけ些細なことでも、たくさんのことでも、苦もなく対応されるだけの全能さをお持ちなのだから。遠慮することのほうが、わたしを信頼していないのかと神から問い質されそうでもある。

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第二列王記 5:20-27

 ゲハジはエリシャによく仕えてきていた人だ。強欲と言うほどでもない。ナアマンはもっと多くを与えようとしていたのだ。でも彼は、預言者の置かれている状況を見失っている。贈り物を受け取ること自体は些細なことで、格別悪いわけではない。だが、26節のように、その判断、行為は、今の時には全く反するものだった。厳しすぎるように見えるだろうが、北イスラエルの中で預言者たちの活動がどうなるのかをも左右しかねないことを、彼はやはり知るべきだったのだ。

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第一列王記 5:17-19

 これを偶像礼拝の許容と考えるのは間違いだ。偶像礼拝をしていると受け取られないようにというのが、ナアマンの意図なのだから。ナアマンの行為はあくまでも、王の支援にすぎない。人はそれぞれに自分の確信に基づいて礼拝をする。それを覆すのは言葉により、説得によりであって、力で妨害することは何の解決にもならない。だからナアマンは王がリモンの神にひれ伏すのを手伝うことはある。でも、自らの礼拝には決してしない。この違いをしっかり掌握していかなければ、事態は悪化するばかりである。

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第二列王記 5:15-17

 エリシャが贈り物を受け取らなかったのは、他国の将軍からというのは、イスラエルの中での誤解になることを案じたからだろう。人々に攻め立てる口実を与えるわけにはいかなかった。ナアマン自身は感謝を表明したいと思っただけのことなので、そっちは何も批判される必要性はないのだから。ナアマンも、事情を理解して、単なる遠慮ではなく、異邦人への忌避でもないことが分かったので、断られたことを根に持ってはいない。物事は、どんな状況でも変わらずになされるべきものと、その時々の必要を意識して対処すべきものがある。神の御心とは冷たい法則ではなく、まさに心であるのだから、慕い求め続ける必要がある。

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第二列王記 5:9-12

 それにしても、人々の反応がナアマンのようになりやすいのだったら、本質部分ではないにしても、ナアマンが受け止めやすいように提示するという選択肢もあるはずだ。福音を語る側にいる者として、割り引いたり、薄めたりはできないけれど、受け止めやすさの部分では配慮も必要かなと、そのようにも自戒する。パウロは、聞く相手のようになるのだと言っていた。エリシャのように、あえてこういう対応をすることで良き力を備えさせようという意図の場合もあるのだけれど。

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第二列王記 5:9-14

 エリシャの対応は礼を失するものなのかどうかは、単に人々の感覚や風習の違いのはずだ。大事なことは病が治るかどうかであり、エリシャは決して治してあげないと言っているわけではないのだから。でも、こういう部分で引っかかって、本当に大切なこと、価値あることを見過ごしてしまうことがあるのは、多くの人に見られる現実だ。幸いにもナアマンの場合は、しもべたちが主人のことを思い、その幸いを切に願い、憤る彼をなだめて、良き道へと引き戻してくれた。こういう人々が回りにいるかどうかは、私たちの人生にとって決定的なほどに大きな意味を持つ。

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第二列王記 5:8

 エリシャとしては、この出来事を通してイスラエルの王に思い知ってもらおう、という意図はない。それは容易ではないし、脅しても、外圧でも意味はない。それよりもナアマンを顧みて、彼を通じての広がりをこそ期待している。だから、愚痴るばかりの王に、エリシャのほうから連絡を取り、こっちに任せなさいとリードしている。神など、と言いつつ、任せるしかない王の姿は、何とも愚かしいものであるが、人の現実と言うべきだろう。

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第二列王記 5:4-7

 アラムの王としては、ごく当たり前の対応をしただけだ。王は国内の預言者を掌握している、少なくとも深い関わりを持っている、だから、王に頼めばエリシャに橋渡しをしてくれるのは当然だと考えている。でもイスラエルの王は預言者と良い関係を持っていない。だから、7節のような反応になる。「神」との関係をよくすることは統治者の基本的な資質であると考えるアラム王と(その相手はどうであるとしても)、神などとは関わりたくないと考えるイスラエルの王。イスラエルは神の民であることを思うと、何ともやるせないものである。

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第二列王記 5:1-3

 この出来事はゆっくり読んでみたい。ツァラアトは忌避されることが多かったのだが、ナアマンは病を患いながらも、王に仕え続け、徴用され続けていたのだとある。病そのものはつらいものだけれど、少なくとも周囲はそれで扱いを変えたわけではない様子だ。イスラエルのほうが忌避的な態度を示していることについては、深く問われるべきだろう。神は本来、いかなる人であっても、同様に扱っておられるのだから。それにしても、捕虜にされた娘がナアマンのみを案じているというのは、この人物の日頃の言動が誠実であったことを物語る印と言えるだろう。

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第二列王記 4:42-44

 イエスがなさった5000人のパンの奇跡を思い起こさせられる。むろん、こっちの方が先に起こったのだが。あっちは福音書記者皆に強い印象を与えたのに、こっちはあまり注目されていない。状況の違いもあるけれど、日頃から「日用の糧を」と祈ることに親しんでいる人々と、そのあたりを切り離して考えていることが多い社会の中での反応の違いか。現代、この類の奇跡に驚いているのだとしたら、それはつまり、日々の神の恵みと支えがあることを、私たちは結構忘れている、ということかもしれない。

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第二列王記 4:38-41

 人の世では、物事の重要度によって対応が変わるのが一般的だ。些細なことは後回し、あるいは無視されるほうが通例で、厚遇を受けたらむしろ批判されそうである。だが、神の業というものは、そういう軽重とはあまり関係なく、目の前にある人々の必要に応えてくださるもののようだ。この奇跡がなくても深刻な事態にはならないけれど、そこに必要を覚えている人があるなら手を差し伸べる。そういう方だからこそ、私たちもまた、どんなことについても遠慮せずに神に祈り求め、期待することができる。

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第一列王記 4:32-37

 子どもの死を知ったとき、エリシャも呆然としたことだろう。彼の行動は第一17:21に似ている。意識して師のエリヤに倣ったのか、それとも当時の人にとっては最初に思い浮かぶ所作なのかはわからない。それにしても、せっかく贈り物として与えられた子どもが奪われるというのは、28節の通りに、むしろ残酷と思えるようなものだ。エリシャとしては自分自身が揺さぶられる思いだったろう。神への祈りの言葉は何も書かれていないが、必死の訴えがなされたことは十二分に想像できる。神はその子をちゃんと戻してくださっている。この場合、神があえてこの母親あるいはエリシャに試練を与えたと考える必要はない。人は残念ながら、思いがけなくも死に至る。私たちのなすべきはむしろ、切に祈り、願いを訴えることであり、原因探求ではあるまい(医療的な意味合い等での探求が可能ならば、それは大事なことで、ここで述べていることとは別の話だが)。

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第二列王記 4:25-32

 当初、エリシャは事の次第をまだ分かってはない。母親の様子から、子どもの具合が悪いのだとは察したものの、すでに死んでいることまでは気づいていない。預言者は万能ではない。神が指し示されるまでは、何の力も発揮はできないのだ。そういう限界の中で、でも、思いつく所の中で精一杯取り組んでいこうとしているエリシャの姿は、預言者というよりも、一人の信仰者としてのあり方として、私たちにとっても手本になるものと言えるだろう。分からなくても、今の自分になしえること、なすべき事はありえる。

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第二列王記 4:18-28

 せっかく与えられた子が死んだ。様子からすると幼稚園児くらいだろうか。母親は、子どもの死を夫にも誰にも告げずに、エリシャの元に駆けている。神が与えてくださった子どもだから、神がその子を助けてくださるに違いないと信じたのだ。それ以外の誰にも、この事態を扱うことはできないとの思いは、幾分か突飛に思えるかもしれないが、最も望ましい姿勢であった。24節のように必死で走る光景は、神への信頼と共に、彼女が今まさに必死であること、切羽詰まっていることを、よく物語っている。きっと、私たちにもそういう切なる嘆願があるはずだ。

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第二列王記 4:11-17

 彼女は見返りを求めて行動していたわけではない。むしろ、十分に幸いに生かされているからこそ、神の働きのために尽くしたいと思っただけである。だから、子どもが生まれたことは神からの一方的な贈り物である。こういうふうに、強いられてでもなく、義務としてでもなく、ただ相手を思う心のゆえに、自ら進んで事をなし合うような関係がこの世界に広がるとしたら、それはまさに御心に沿った光景と言えるだろう。そのためには、相手の状態を確かめるよりも、自分自身のなすべきことを自らに問う所から始めるのがよさそうだ。

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第一列王記 4:8-10

 この女性は何か特別な恩義を受けていたわけではないし、何かの願い事があったわけでもない。日頃の守りと支えを主なる神に感謝して、それ故にこそ、預言者のために手助けしたいと願ったのである。何もいりません、と差し控える必要はないが、すでに十分に受けたのだという感覚はより光り輝くものと言える。エリシャだけでなく、神に仕える人々は、こうやって周囲の人たちに支援されつつ、その業を全うしていた。この構図はなかなかに好ましいもの、だろう。

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第二列王記 4:1-7

 第一17章のツァレファテの場面に似ているが、エリシャ自身の信仰が問い質される部類のものではなく、神の祝福と温情を強く意識させられる出来事だ。この女性の姿に注目したい。彼女はエリシャが神の人であること、期待して間違いないのだと強く確信している。それは徹底的に器を借り続けている様子にも現れている。神に祈り願うときには、遠慮は無用だ。私たちの求め通りにしてくださるかどうかは別だが、神がそのつもりなら、油はいくらでも出てくるのだ。それに7節からすれば、すでに十二分なだけの油が手に入った様子だ。求めれば与えられる、のである。

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第二列王記 3:26-27

 モアブ王は決死の覚悟で切り込もうとしたわけだが、それも果たせず、万策尽きた状態である。子どもをいけにえにするのは、モレク神への信仰の中で見られるもので、主なる神が最も忌み嫌うと告げているものでもある。ただ、それはモアブ王の行動だから、このことでイスラエル側が神から叱責されるわけではない。27節の言い方は、モアブ側の中に、イスラエルに対する激しい抵抗感が増して、その反発に圧倒されて退散した、ということだろう。レジスタンスのようなものである。

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第二列王記 3:21-25

 王たちが求めたのは飲み水だったが、神は同時に、モアブに対する勝利も与えた。この戦いもまた、軍隊の力ではなく、神ご自身の業としての勝利になっている。モアブ側は勝ったものと思い込んで駆け込んできたのだから、臨戦態勢の連合軍に打ち負かされるのは当然である。神によって滅ぼされるのだと言っていたヨラムだが、その神が自分たちを助けてくださり、勝利まで与えてくださったことの重みを、彼はどれだけ真剣に受け止めたのだろうか。人には、神の心を知る機会はいくらでもあるのだと、そう痛感する。

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第二列王記 3:13-20

 ヨラムは相変わらず、主によって滅ぼされるのだと言っているが、エリシャの態度は関係ないと告げているのと同じである。むしろ、ヨラムに関わるつもりはない、という姿勢であるが、これが実は人にとって最も厳しいことである。ユダの王をここで滅ぼすつもりはないので助けてあげるのだ、という言葉に、ヨラムやエドムの王は何が真実かを悟ってほしかったものであるが、残念ながら、そうは事が進まない。それでも、神はこの民のために水を与えている。

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第二列王記 3:9-13

 モアブは隣国だから、道に迷うような場所ではない。策を講じるつもりで墓穴を掘ったのだろう。水の欠乏を神に由来すると考えるのは、少々迷信的である。イスラエルの王は神の存在や力を否定はしていない。神の機嫌を損ねたら大変、とは思っている。エリシャに助けを求めるためには自分たちが出向く、という姿勢もある。ただ、そうやって認めていることと、神の御心を信頼し、期待し、慕い求めることとは意味合いが異なる。ヨラムの姿勢ならば、相手は主なる神でも、金の子牛でも、あるいはバアルでも何でも良いことになる。それは神との向き合い方ではない。

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第二列王記 3:4-8

 アハブ王とは懇意にし、アハズヤ王とは疎遠、そしてヨラム王には好意を示す。ユダ王国のヨシャパテ王は、相手の信仰的状況ではなく、政治状況を見計らって付き合い方を決めていたようだ。結局のところ、信仰は各人がそれぞれに決意するもので、神ご自身も強要はしていない。とすれば、信仰を理由につきあいを拒むのは妥当とは言えない。ごく一般的なことではあり、聖書はヨシャパテのことを叱責しているわけではない。ただ、こうやって行動を共にするたびに悲惨な目に遭うことが繰り返されていることから、ヨシャパテはやはり、誰とどういうつきあい方をすべきかを学び取る必要はあったと言える。

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第二列王記 3:1-3

 悪さの度合いでまだましと評されるのは、何とも嘆かわしいことだ。アハブ王の後を継いだヨラムは、バアル信仰はやめたようである。イスラエルにとっては外国勢力に侵食される意味合いもあったからだろうか。ただし、エルサレムに対抗する目的で作り出された金の子牛を祭る形態は続けている。整理しておくと、バアル信仰はエジプトから解放してくださった神を捨てての行為である。金の子牛は、救い出してくださった神を捨てたつもりはなく、むしろ南ユダ王国またはダビデ王家との確執が動機だが、ただし、神ご自身が禁じ、あるいは忌避されているものを持ち出してのありようだから、全くもって論外のこと。それに気づいていないあたりが、金の子牛に執着する人々が実のところ神をないがしろにしているだけ 、という現実を示している。

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第二列王記 2:23-25

 この出来事は、そこまでする必要があるのか、という印象を持つ人は少なくないだろう。私もそう思う。聖書は必ずしも肯定されるべき事柄だけを記しているわけではなく、望ましくないことも書き留めているのだから、エリシャの行動をすべて肯定的に見る必要性はない。呪いの力については、神は人に様々な力を与え、それを善に用いることも、悪に用いることも任せているわけだから、熊が出てきたから神の意志とは言い難い。ただ、単なる悪口では済まされない事態だったことは伺いしれる。子どもらの言動は、つまり、ベテルの町の人々全体が預言者を認めていなかったからこそ、であり、今まさに預言者として活動を始めるエリシャにとっては、そういった町の状況と格闘することが大事な課題として意識されたのだと思われる。それでこういう対処が適切かどうかはまた別としても、だ。ただし、子どもだから大人とは違った扱い、という認識は、実は聖書には存在せず、大人であろうが子どもであろうが同じ基準で扱われるというのが、神の前に立つ者たちのありよう、ではあるのだが。


その上で、事の深刻さは何かと考える時、預言者を認めようとしないベテルの町の人々の思いが、子どもたちにも伝わっていたのだということは

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第二列王記 2:19-22

 エリヤの行動に比べると、小さな話のようにも思える。だが、民と共に生きることは預言者の基本であり、人々の必要に応えていくことを通して、人々もまた神が共におられることを知っていく。モーセも人々の細々したことに関わっていたし、イエスご自身もひっきりなしに集まってくる病人たちを癒すことに多くの時間を費やしておられた。北イスラエルは神を捨てた社会であるが、エリシャはそこの人々と共に生きる決意をしている。

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第二列王記 2:15-18

 仲間たちはエリヤをちゃんと葬りたいということなのだが、神が連れて行ったからには、その必要性はない。この様子は、エノクのこと(創5:24)、そしてモーセの最期(申34:6)を思い出させられる。それでも、彼らだけが特別扱いされたと考える必要はない。身体は人の手で葬られても、その人自身は神の御手の内に迎えられているのは同じである。そのことを分かっているエリシャは、もはや埋葬にはこだわりを覚えていない。御手に委ねる、ことの事例の一つである。

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第二列王記 2:11-14

 エリヤは竜巻に連れ去られた。でも、それはあきらかに神ご自身がエリヤを招かれたことの表れである。風はしばしば神の息吹でもあり、神の霊でもある。もともと同じ言葉でもある。神によって連れ去られる。残された者にとっては、それでもなお悲しく、寂しいのであるが、でも、御手の内にあることは、この別離にとって何よりも大切な慰めになることだろう。エリシャの嘆きが記されているが、神が召されたのだからこそ、前に進むことができる。

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第二列王記 2:6-10

 エリヤがどのようにエリシャを育てたのか、聖書には何も記されていない。だが、このやりとりからはエリシャがエリヤの信仰をしっかりと受け止めている様子が感じられる。同じ道を歩いて行きたいという願いとも言えるだろう。二倍、ということを、エリヤよりも優れた預言者に、というような意味で受け止める必要はない。人が違えば果たすべき役割は違う。むしろ、エリシャの覚悟表明と見るべきか。でも、それは神とエリシャ自身との間のことだから、エリヤが決められるものではない。その対応は、まさに的確なのだ。それにしても、このあたりのエリシャの様子と、15節以降の様子と格段の変化が見られるのは興味深い。師を見送って、彼は前に進み出たのだ。神がそうさせてくださったのだ。

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第二列王記 2:1-5

 仲間の預言者たちがエリシャに声をかけたのは、彼のことを思ってのものだろう。まもなく師が立ち去ることになる。張り詰めた顔をしていたエリシャを慰め、励ますつもりだったかもしれない。エリシャはそんな思いを受け取る余裕もなかった様子で、ただひたすらエリヤにだけ目を注いでいる。追い詰められた様子に様子だが、でもだからこそ、今の彼にできること、つまりは、師についていくこと、最期まで見届けることに専念しているのは、大いに意義深いことだった。

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第二列王記 2:1-5

 エリヤが最期を迎えようとしている。そのことは、周囲にもよく知られていたようである。エリシャはすでにエリヤの弟子としてよく仕え、経験も積んでいた。回りの人々も、彼が後継者になることは十分に意識していたはずである。エリヤがなぜエリシャを残していこうとしたのか、見捨てるようなことのはずはないので、ほかの用事をさせようとしたのかもしれない。でも今のエリシャにとって最重要はエリヤと共にいること。だからどこまでもついて行く。神に付き従う時の姿勢も似ていると、ふと思わせられた。様々に必要なことはあるが、一番に来るのはやはり、神と共にいること、であるから。ベタニヤ村のマリヤも思い出す。エリシャの対応に、彼の悲しみと寂しさが垣間見えるようにも思う。

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第二列王記 1:17-18

 アハズヤは自らが手にした権勢を誇りつつ好き勝手に生きようとしたが、神はそれを押しとどめた。彼個人だけではなく、イスラエルの民全体のことを考えねばならなかったのだ。アハズヤの治世は2年だけである。アハズヤの後を継いだのは、弟のヨラムである。ユダの王もヨラムと言うが、彼の妻はアハブの娘、つまりアハズヤやヨラムの妹か姉ということになる。ヨシャパテとアハブの親しい関係がよく分かる。

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