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2018年10月

使徒 4:32-37

 前にも述べたように、原始共産制のような、私有財産の否定といった概念はここにはない。あくまでも自主的に人々が持ち寄ったことを告げているのだ。全財産を捨てるという概念も存在しない。人々はむしろ、適切に儲けを生み出して、それを大いに人々のために用いていたと考えるのが妥当だ。実際には、こういうやり方をしても6章にあるような混乱は不足は生じたのだが。バルナバはおそらく、他の人よりも多くのものを提供したのだろう。慰めの子と称されている彼としてはごく自然な行動であったのだろうが。そう、彼がしたのは代金の提供だけではなく、日頃からの慰めと励ましであって、それはこの後も教会にとって、様々な人々にとって大きな力となっている。

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使徒 4:31

 聖霊の顕著な働きかけによる現象は、使徒の働きの中で見る限り、人々が戸惑ったり、不安を抱えるような場面で、神の確かな御手が働いていることを指し示すために発揮されている。旧約なら印としての奇跡が提示されるような場面である。それ自体が神の御心実現として不可欠ということではなく、人々の励ましのため、ということだとすれば、場面により、また時代状況により、励まし方に違いが生じたとしても不思議ではない。人はしばしばせっかくの御業を間違ったふうに扱うので、神は適切に受け止められるための道筋を用いて行かれる、それは当然である。

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使徒 4:23-31

 彼らの祈りの内容の大半は、神が全てを支配しておられる方であること、だから十字架のことも、今回の弾圧のことも、一切は神の御手の中にあることなのだという確認、確信の表明である。それはイエスご自身が語られていたことともつながる。苦難はあるのだが、その一切が神の御手の中にあるのだと知ることが、信仰の確かな力になることを聖書は告げている。その結論としての願いが印象的だ。彼らは迫害から守ってくださいと願うのではなく、大胆に語らせてくださいと前に進む道筋を求めている。神を信頼し、神に期待してからこそ、の姿である。

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使徒 4:19-22

 ペテロたちの応答は真っ直ぐなものである。なすすべのない指導者たちの脅しと、彼ら自身が体験している神の真実と、どちらを重視するのかは明白と言える。ただ、現実問題としてはそれは決して容易ではない。人は真実を選べるとは限らず、弱さを抱えている存在だからだ。だからこそ、神の前に祈り、助けを求め続ける必要もある。私たちは、正しいからそのように生きるのではなく、神に導かれ、神に支えられているからそのように生きる、のだ。

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使徒 4:13-18

 指導者たちの戸惑いは、ペテロたちの大胆さと、癒された人自身が生き証人がそこにいること、事実関係を否定はできないという事態に直面したからだ。ペテロたちがイエスの弟子であったことに気づかなかったというあたりは、弟子の存在を全く重視していなかったことの表れで、一連のことが神の御業として起こっている示唆のひとつのだが。この事態に至っても、力で黙らせれば済むと考えているあたりが、事の真剣さを全く理解しない愚かさと言える。彼らは、神ご自身の御業も含めて、自分たちの思いを越えたことなどありはしないのだと思い込んでいる。

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使徒 4:8-12

 弟子たちにとって、この尋問は良き機会だった。彼らはイエスを指し示したかったのだから、大歓迎の質問だったことだろう。そして、あの奇跡もまたイエスがキリストであることの証拠としても活用され得る。祭司長たちが問い質したとおりに、これがイエスの権威によるものであれば、イエスには本物の力があることの印でもある。弟子たち自身が勇気を増し加えられつつ、毅然として語り続けたのだろう。12節の言葉は有名で、イエスこそが救い主であること、他には神への道はないことを明言する。自分で自分を救い出すことができないことも含めて、受け止めておきたい言葉である。

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使徒 4:5-7

 指導者側の問いかけが興味深い。していることを悪いとは責めず、根拠を問い質す。神の権威を重視するユダヤならではでもある。もっとも彼らとしては、目の前の良き業そのものは否定できないので、権威の点で攻撃材料を見つけようとしたのだろうが。でも、弟子たちも、イエスご自身も、それに正面から応答していく様子から、権威の問題は大事であるのを痛感させられる。その良きことが本物であるため、継続するため、その場限りでなく後々まで広がっていくためにも、神ご自身の後ろ盾、リードがあってこそというのが不可欠だからだ。ペテロたちとしてはむろん異論はない。彼らはまさに神の権威によってこそ、事に望んでいる。彼らの思いによるものではないのだ。

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使徒 4:1-4

 弟子たちが捕らえられた初の場面だ。十字架の時も弟子たちには追っ手はかからなかったので、彼らとしても大いに緊張する事態だったはずだ。理由は「祭司長たちが苛立った」からである。復活を語ることについては、パリサイ派の人々はそれを肯定していたので(イエスが、という部分は別としても)、指導者の間でも食い違いが生じてきている様子が見える。なお5000人は、この日だけで5000人と考えても構わないが、これまでの累計として5000人に達したと理解しても良いだろう。大事なことは、弾圧は始まったけれど、人々の反応はすこぶる良くて、弟子たちの活動は豊かな結果をもたらしていた、ということである。その中での逮捕だった。

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使徒 3:20-26

 救いの約束が語られて、今度はそれを実現してくださる方、つまりイエス・キリストについての説明となっている。救い主がもしも頼りにならないとしたら、この約束は全面的に瓦解してしまうからだ。ただ、この時点でイエスは目の前にいない。それが何ら案じる必要のないことである点が旧約から告げられ、さらに、与えられている約束は間違いないことも旧約から指し示されている。こういう引用の仕方は難解でもあるけれど、この話は神殿でのもの、人々は十分に理解できるという前提でもある。

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使徒 3:17-20

 2章の説教がすでに語られているので、ここではもう一歩踏み込んだ話になっている。17-20節では、悔い改めの必要と神の助けが用意されているという約束が明言される。神に背いた罪は確かにあるが、それならもうだめだ、という結論にはならない、のだ。これは多くの人類にとって、とりわけ神に対して真剣であろうとしている人々にとって、驚きだろう。でも、それを実現するためにこそ神の御子がこの世に来てくださって犠牲を払ってくださったのだから、この約束は真実であり、大切な要である。

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使徒 3:12-16

 人々の戸惑いはペテロにとって、福音を指し示す絶好の機会となっている。まずは、イエスが真の救い主であることを証明する出来事として、人々の前に指し示している。復活はイエスがキリストであることの軸となる証拠であるが、実際には見ていない人も多い。むろん、弟子たちの確かな証言というものも効果的だが(神に関することでは嘘は言わないというユダヤ人の基本概念もある)、合わせて、こういうふうに弟子たちが力を発揮することは人々にとって分かりやすい印となっている。信仰者の生きる姿は、確かに豊かな福音の提示となり得る。

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使徒 3:9-11

 人々の驚きは、今さっきまで歩けずに座っていた人が歩き回っていたことが一つ、それから、ペテロたちによる奇跡だったことにある。ペテロたちがイエスの弟子であることは気づいていたとしても、彼ら自身はただの人だとの認識だったのに、その彼らが特別な力を発揮している。イエスの力と権威はそこまでの確かさを持っているのかと、人々は目を開かれる思いをしたのだ。何ものでもないはずの者たちが、でも、神によって生かされていくときには力を得るということ、それは大きな証となりえる。

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使徒 3:6

 この歩けない人が求めていたのは金銭である。歩けるようになる可能性など、全く意識していない。彼はイエスの評判も、弟子たちの評判も聞いてはいなかったということか。弟子たち自身、こういうことになるとは考えてもいなかったわけで、まさに、神ご自身が導いてくださっての機会である。金銭も神が与えてくださるものだから、手にしているものが金銭であるのなら、それはそれで十分に意義あることだけれど、神はこの人のためにさらに良いものを用意しておられた、ということだ。橋渡しをする役目を果たす者たちも、自分たちの思惑を越えて神が祝福をもたらしてくださる可能性を、決して忘れてはならないのだ。

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使徒 3:1-8

 福音書にはいくらでも出てくる事柄である。そう、イエスがなさったのであれば、ごく日常的な行動だ。でも、それと同じことが弟子たちによってなされている。それは、彼らが救い主として紹介しているイエスが本物であることを指し示す印となった。弟子にも同じことをなさせえる力は、まさに本物であるからだ。それにしても、彼ら、さほど気負いもせず、当たり前のことをしているだけ、という様子で事に臨んでいるのは感慨深い。彼らにとっては奇跡の力より、そこで困っている人がいて、それを助けられるのは幸いなこと、という思いのほうがずっと大事なのだ。とても有意義なことである。良き業は、常にそうありたいものだ。

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使徒 2:43-47

 この様子を、原始共産制というふうに呼ぶ人もあるが、そんなに複雑な話ではなくて、困っている人がいれば互いに助け合ったという、最も素朴な行動を告げるものとして考えたほうが良い。私有財産を否定したわけではない。もし、裕福な人々が財産をすべて放棄してしまったら、たとえそれを教会に献金したとしても、すぐに全体が貧困化するだけである。財を与えられているのなら、きちんとそれを用いて富を増し、そうすることでなおいっそう他の人々を助けることもできる。別の理念を持ち込むと話が混乱する。

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使徒 2:41-42

 ここから教会としての活動が始まった。キリストを信じる者の群れは以前からあったのだが、この世に対して自らを示し、その歩みを通して福音を証する存在という点では、まさにここから、である。弟子たちはイエスの指示通り待ったが、それが豊かに花開いたのだ。3000人というのは、おそらく、イエスに関心を持ちつつも様子見をしていた人々が一気に、ということでもあろう。イエスの回りには男だけでも5000人が集まっていたこともあるのだから、決して多くはない。42節は教会の最も基本的な姿として受け止められている。つまり、キリストに発する教えを聞き、応答し、互いに支え合い、聖餐式を行い、共に神に祈っていたということである。クリスチャン生活の基本要素は礼拝にあると言われるが、キリスト教の礼拝は、この4項目を軸にしていると言っても良いだろう。

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使徒 2:37-40

 人々の驚愕は当然である。むろん、皆がそう思ったわけではなく、あいかわらず、イエスなど気にする必要なしと考えていた人たちも多かったのは事実だが。ともかく、真実に気づいた人々はこの事態を何とかせねばならないと気づいている。ペテロの呼びかけはまさに福音の内容そのもので、償いではなく、善行でもなく、神に願い求めることしかないのだと、そう告げている。その言葉のとおり、神からの呼びかけは、人々の悪を糾弾するものではなく、断罪で終わるものではなく、そういう者たちを助け出すことにこそ神の願いがあるのだと、聖書はずっと告げている。人々が応じていったのは、むしろ当然のことであろう。

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使徒 2:33-36

 加えて、今現在の現象である。預言通りのことが起こっているのは、イエスが特別な方であるとの立証にもつながる。とすれば、この方はキリスト、約束の救い主であることは明らかだろうと、ペテロは人々に呼びかけている。そうすると、キリストを拒んで投げ捨てたのだと気づいた時に、人々の驚愕、動揺は尽きることがない。それは一切を壊滅させる事態を自ら引き寄せてしまったことになる。ペテロは人々の責任(十字架刑についての)を問い質しているわけではない。イエスを誰だと認めるのかと問い掛けているのである。

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使徒 2:32-35

 ダビデの言葉は、やがてくる特別な方についてのものであることは、人々も納得することだった。そうすると、人々の目の前には二つの点が突きつけられる。まず、イエスの生涯は神の御心に適うものだったはずで、それが理不尽にも殺された。とすれば、神はその人を捨て置くはずがない、という点。次に、イエスの復活について弟子たちが皆で証言しているという点。当時のユダヤでは、神に関わることで複数の人が証言するなら、それは真実なのだと認められるという大前提があった。皆で嘘をついているとか、皆で夢を見ている、という概念はない。現に祭司長らも、イエスの復活そのものを否定しようとする動きは見せていない。彼らは何があろうとイエスは認めない、と言い続けたのである。この二点がある時、人々は問い質される。あなたはイエスを何者だと認識するのか、と。

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使徒 2:24-32

 十字架までのことは、町の誰もが知っていることだった。弟子たちが人々に告げたのは、イエスの復活である。むろん、荒唐無稽な話にしか聞こえないだろうということは承知していた。それで、ダビデの言葉を引用して、神が関わってくださるなら死者からの復活は十分にあり得ることだと指摘している。その言葉の解説として、ダビデはやがて来る特別な存在のことを告げていたのだと説き明かしている。旧約をよく知っていた当時のユダヤ人は、ペテロの論理に納得したのだろう。旧約からの引用にはいろんなタイプがあるが、人々の思いを喚起して、真実へと向かわせるための手がかりとして機能する場合もある。

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使徒 2:22-23

 ペテロはまず、イエスの生涯を語っている。その内容は、ユダヤにいた信仰的なことに関心のある人なら、誰でもよく知っている事柄だ。人々は、その通りだ、と頷いて聞いていただろう(神が、という部分は省いて)。この段階では、人々はまだイエスを殺したことについて、自分たちに正義があると思っている。ただ、ペテロが説明した内容は、よくよく考えれば、十字架刑の是非について、強い疑義をもたらすものである。イエスは、奇跡を行い、それは人々を助けるためにこそ発揮されてきた。その教えも旧約に依拠するもので、人々はそれを好意的に受け止めてきたはずであって、何ら批判されるべきものなどなかった。ところが、そのような人を民は、神を卑しめるものだと責めた。ただ、それなら自分たちの手で処罰すれば良いのに、異邦人の手に渡す。何かおかしいぞと考え始める人たちが出てきて当然。事実を述べているだけだが、人々の心に問い質す力強い呼びかけだ。

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使徒 2:14-21

 声を張り上げ、とあるので、騒然としている街の中で、ペテロたちは必死になって呼びかけようとしていたのだと分かる。幸いにも、その言葉は人々の耳に届いたようだ。彼はまず、今の事態が何なのかを説明している。ヨエルの預言が成就するのだという話は福音書には出ていないはずだが、事が神の御業であることは、イエスの約束に従って待っていた彼らには明白なことだったので、この預言を思い起こしたのだろう。復活後のイエスが言及していた可能性もあるが。人々も、目の前の不思議が預言通りの神の業として受け止めるのが最も納得のいくことだったので、その説明を受け止め、なおさら、ペテロの語ることに注目したようである。野次が飛んだ様子はない。

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使徒 2:5-13

 人々の当惑は、様々な所から来ている自分たちの言葉で弟子たちが語ったことにある。まず現状に驚き、そして当然に、何が語られているのかに注目が集まっていく。もっとも、事の重大さに目を向けようとしないで、ただの騒動として見ていた人たちもいたわけで、結局は、何が語られようとも、それを聞こうとする人々なのかどうかが鍵、でもある。イスラエルの歴史は、どれほど偉大な神の業がなされても、信じる人もいれば、そっぽを向く人もいる、ということの実際例でもある。イエスご自身もルカ14:16-24のように語られた。

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使徒 2:1-6

 この始まりには、町の人々に対してだけでなく、弟子たち自身にとっても印象深いものであった。それは、これから始まっていくことが神ご自身の御業であることをはっきりと指し示すためであり、そのことは後々まで大事な指針となって行っている。確かに、こういうふうにして事が動いていかなければ、彼らはどのようにして歩み出せばいいか、分からなかっただろう。物音に驚いた集まってきた人たちがいたからこそ、彼らは語り始めたのでもあるから。

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使徒 2:1-4

 なぜこの日だったのかは、神様に聞いてみないと分からないけれど、多くの人が祭で集まっていた機会を用いられたのだと考えるのがちょうど良さそうだ。そして、諸国から人々が集まっていたからこそ、神の力が発揮される奇跡もまた、諸国の人々の言葉で語ること、だったのだ。この現象は、不可思議な言葉を発したということではなくて、そこにいた人々に彼ら自身に馴染みのある言葉で福音を伝えるためのものだったということである。不思議さにばかり目が向きやすいが、大事なことは、届けたい、伝えたいということにある。まさに1:8の使命の始まりである。

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使徒 1:23-26

 ここでの選び方は、使徒の役目にふさわしい状況の人を彼ら自身が選び出し、その上で神の直接指名を意味するくじに委ねるというものだった。今日、くじという方法はあれほどの信頼性は与えられていないので、それに倣うべきとは思わないが。でも、総会などでの選挙は、この感覚に似ている。候補にするためには、様々な知恵や判断が駆使されるのだが、最終的にどうなのかは、人々それぞれの判断による投票に委ねていこうとする。衆愚という言い方があるように、投票が常に良き結果を示すとは限らないのだが、でも、会衆制教会などでそれを大切に扱っているのは、つまりは、人の知恵や判断を大切にも思うけれど、神ご自身の直接介入ということをも意識している、そのための投票であることを思っておくべきだろう。あの投票は決して、人間たちの思惑によってどうこう、などというためのものではない。

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使徒 1:21-22

 使徒の意味合いは、後の時代に大きく誤解されたように思う。この箇所によれば、彼らの意義は、イエスの生涯の目撃者で、それを他の人に証言できる者たち、ということにある。資質や賜物でもないし、まして、特別な権能が与えられていたということでもない。イエスが12人を特別に訓練されたのは確かだが、とすれば、後から入った人はそれに該当しなくなってしまう。聖書は、神のなさっていることは、とてもシンプルであって、何か神秘的な不可思議な現象の類ではない。そんなものに頼らなくても、単純に神の御業があり、約束があり、それが伝えられていく所にこそ、祝福は実現するのだと、それが聖書の示す道筋である。

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使徒 1:15-22

 ユダの結末はペテロの話の本筋ではない。ルカが読者のために説明として入れたもので、ペテロが言いたかったことは、自分たちの仲間から失われた者が出たので、代わりの者を立てる必要がある、という点である。それは、イエスご自身が12人を立てたということ、そして、12という数字が十二部族のように、大事な意味を持っているものとして扱われてきたことに関連する。それに、弟子の使命はキリストを証言することで、これからその役目は大きくなっていくことを考えると、実質的な必要性もあると考えたのだろう。むろん、聖書の引用があるように、それが御心と確信してのことであるが。

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使徒 1:12-14

 イエスの言葉に、弟子たちは従ったのである。父の約束を待てとの言葉通りに、彼らはエルサレムの町に留まり、事が起こるのを祈りつつ待っている。11人の弟子の名が記されており、イエスの兄弟、つまりヤコブたちも加わっている。15節には120人と記されている(第一コリント15:6では500人)。核になる、始まりの人々が心を一つにして備えていたということが、大事な点である。

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使徒 1:10-11

 主の昇天は弟子たちには予告されていたはずだ。それでも茫然自失していた弟子たちに、天使らは力強い約束を与えている。その実現は彼らが生きている間ではなかったけれど、民が神のもとに立ち返ることの実現という願い(6節)と重ね合わせると、キリストの支配は何も変わっていないことを語るその約束は、とても力強いものとなったはずだ。同じ有様、というのは、全く同じ姿格好という意味の必要性はなく、変わらずに神であり人である方として、という趣旨が重要である。ただ、実質的に全く同じであっても、もちろんいっこうにかまわない。もしそうだったら、私たちもまた、あの時地上を歩まれた主の顔を見ることができるという、なかなかにワクワクする思いもある。いずれにしても、これは大切な励ましの約束である。

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使徒 1:9-11

 イエスは地上を離れた。それは肉体を持った、人間としての存在でもあることを選択された(クリスマスの受肉)ことからすれば、必然的でもある。1000年、2000年と不老不死状態の御子がこの世に居続けることは、この福音の理解にも混乱を来すし、弟子たちの行動にも良き影響は与えない。彼ら自身を歩んで行かせようされて、そのことが物理的に言えば拡大になることを意図されていたことからすれば、主は地上に留まらないことが最善であるのは明らかだ。むろんそれは、手を引くことではないし、神の助けが薄くなることでは全くないのだが。

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