聖書

マタイ 28:20

 マタイ福音書の最後の言葉は、実に大きな、大きな一言だ。いつもあなたがたと共にいる。1章で、インマヌエルとしてお生まれになった方は、最後にもまたインマヌエルであることを高らかに宣言しておられる。そう、こここそ重大。どんなに立派であろうが、犠牲的であろうが、知識に精通していたとしても、神が共にいてくださるのでなければ全ては無意味。ここにこそ最大の祝福があることを、何よりも慕い求め続けていたいものだ。そのためにこそ、神の御子はこの世においでくださったのだから。ヘブル1-4章あたりを読んでみることをお薦めする。[マタイ終了]

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マタイ 28:18-20

 キリストが与えられた大事な命令である。それは、人々に神の祝福を届けて、共にその喜びを歌い祝おうということである。間違っても、キリスト教勢力の拡大がどうの、というふうに思うべきではない。幸いを届けるためだからこそ、苦労し、犠牲も払い、なのだ。
 ここに、弟子とし、バプテスマを授け、キリストの教えを守る、という3点が挙げられていることに注目すると、いずれもキリスト発でありつつも、本人も自発的になす必要のあることである点に共通性がある。信仰は脅して服従させることではなく、無意識に陥らせて支配してしまうことでもなく、本人が主の幸いに気づいて求める時にこそ成り立つ。そのことの実現のために奮闘せよと言われている。これはもはや義務ではなくて、楽しみと言えるのではないのか。伝道は、そういう心持ちでこそ臨みたい。

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マタイ 28:16-17

 指示通り、ガリラヤでの再会である。すでに復活のことはエルサレムにいた間に確認済みだ。ここでは、これからの歩みのことが取り上げられる。だから、「疑った」という人々も、復活を信じられないと言っていたわけではない。彼らは目の前にキリストを見ているのだ。さわることもできる。その違いは、キリストの指し示す道を歩んでいこうと決意するのか(それが礼拝だ)、それとも、戸惑いを捨てきれずに立ち止まってしまうのか、である。復活を見てもなお、立ち止まる者はあるのだ。それが人間たちの現実である。気楽に考えるわけにはいかない。ただし、そうやって戸惑う者に対しても、キリストはちゃんと語りかけ、呼びかけ、あきらめずに関わり続けておられることは忘れるまい。

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マタイ 28:11-15

 ごまかしは常に愚かさと表裏一体である。番兵が寝ていたのなら、弟子たちが盗んだとはわからないはず。分かっていて放置したのなら職務怠慢も甚だしい。いや、寝ていること自体、厳しい叱責を受けて当然。盗ませないようにと立てた番兵が失敗したのを、祭司長たちがかばうこと自体が不可解。でも、人は好きなように理屈をつけ、それがまかり通り、せっかくの神の御業を無視する者たちは決して少なくない。そう、人は目の前にある真実を見るわけではなく、自分の願うこと、求めることを見るばかりとなりやすい。神の語られること、なさることは、しばしば人の思いに反する。でもそれはむしろ、神が真実であることの重大な印と言えるのではないか。神の不可解さを避けるべきではない。分かりやす過ぎるのはむしろ不安である。

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マタイ 28:10

 ガリラヤで会う、という話は、天使もそう言っていた。この言い方からすれば、再会はガリラヤにて、という印象だ。でも実際には、エルサレムの町ですぐにキリストは弟子たちに姿を現しておられる。とすれば、なぜこんなことを言われたのか。
 やはり、弟子たちがしっかりと信仰に立って、これからの歩みを進めていくためには、いったん、原点に戻す必要があったからだろう。復活したキリストに会えたと喜んでいるだけでは足りないのだ。彼らの前にはなかなか厳しい道も待っている。だからこそ、よくよく整えていこうとなさっている。ルカ福音書では、聖書の御言葉を用いつつそれをなさった様子があり、ヨハネではペテロへの三度の問いかけがあり、いずれも弟子たちに最終的な訓練をしておられるのだ。
 だからガリラヤ。キリスト教信仰はしばしば原点に立ち返ることを大事にしている。何よりも、神の御言葉そのものにこそ立ち返って。

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マタイ 28:8-9

 この記事からすれば、復活されたキリストに最も早く会ったのは、この女性たちということになる。彼女たちの率直さへのご褒美かな、と思う。安息日が明けて、墓に行けるようになったとたんに駆けつけた女性たち。復活は忘れていたけれど、遺体の世話をしたいという厚い思い。そして、天使の知らせにびっくりしながらも、喜び勇んで仲間のところへ走っている姿。綿密な理解も必要だ。慎重な取り組みも欠かせない。掘り下げていかなければ、岩地の種のようにすぐに枯れてしまうかもしれない。それでも、彼女たちの率直な姿はやはり心地よい。こういう態度を忘れずに、真っ直ぐに主を見上げている者としてこそ歩み続けていたいものだ。(ちなみに、マグダラのマリヤはこの中にはおらず、ヨハネ福音書にあるように、後でキリストに会っている。そう二番手なのだ。)

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マタイ 28:5-7

 天使はキリストの復活を告げたのだが、そこには大事な要素がある。それは、「前から言っておられたように」という点だ。復活は、突如として起こったわけではなく、すでにキリストご自身によって予告されていたことである。
 神の御心も、その御業も、人の思い描いていることを遥かに越えているものだ。でも神は、何も人をびっくり仰天させようとしているわけではない。手品師のイリュージョンは人を驚かせること、アッと言わせることが目的だ。でも奇跡は、その過程よりも実益を目的とする。病気を治したり、空腹を癒したり。復活も驚かせることが目的ではない。それはすでに告げられていたこと。これは神の御業全般に言える。
 だとすれば、御業に驚き慌てているとしたら、それは単に私たちが語られている御声を聞いていなかっただけ、ということか。私たちは少々驚きすぎているかもしれない。

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マタイ 28:2-4

 復活が、まずは天使によって知らされたことは、かなり意義深い。福音書によっては、弟子たちがキリストに直に会うまでには、まだまだそうとう時間が過ぎてから、という扱いになっているものもある。理由は二つあると思う。一つは、キリストが最初から姿を現しても、曇らされている目は、それと分からずに行きすぎてしまう可能性があったから。実際、エマオの二人は分からなかった。神のなさることはあまりにも偉大すぎて、人はそれを見誤ることがある。だからこそ主は、御業の前にまず、御言葉によって、つまりは聖書によって、そのことを指し示し、私たちの心を準備なさる。バプテスマのヨハネの存在も同様であろう。もう一つは、やはり天使、ただの人ではなくて、特別な、特別な使者が用意された。神がこのことに思いをこめておられるのが分かる。全能の神ではあるが、御子を死者からよみがえらせるというのは、ただ一度だけの御業であり、激しく特別なのだ。

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マタイ 28:1-7

 復活の朝、弟子たちの間に期待感は何もなかった。女性陣のほうが積極的だったけれど、それでも遺体の世話をしようというだけのものだ。でも、神の業はそんな人間たちの思惑を横目に、力強く展開されている。そう、誕生の時もそうだった。御子の到来を期待する者もなかった世に、神は救い主を送り込まれた。そして、死は全てを終わらせるのだとしか考えていなかった人々の真っ直中で、キリストのよみがえりは実現した。この異常さ、突拍子のなさ、いや偉大さこそが、失望落胆している人間たちに新たな道を切り開いてくれるものとなる。「どうせ」という言葉を飲み込ませてしまうような、そんな出来事である。

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マタイ 27:62-66

 反対者のほうが、キリストの言葉をよく聞いていたということになる。もっとも彼らのしたことは、せっかく耳に入っている言葉と直に向き合うのではなく、自分の思いというフィルターにかけて、全く別のものにしてしまうことだった。それでも、全く覚えていない弟子たちとの差を感ずる。
 にしても、彼らの思いは、弟子たちへの警戒心までしか進んでいない。神が何か特別なことをなさる、ということについては、何も推測していないようだ。そうでもなければ、ただの番兵を派遣したりなどするはずもない。人の思い、人の常識、大事なことではあるが、それが全てではないことを、まもなく彼らはまざまざと見せつけられるのだ。目を上げて、そこに神がおられることを知るべきなのだ。何としても、である。

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