創世記

創世記 50:22-26

 アブラハムからヤコブまでに比べると、ヨセフは短命である。兄たちよりも早く死んだようにも見える。とは言え、エジプトの大臣になってから80年を過ごしているのだから、十分に活躍したとも言える。ゆっくりと長く生きるのと、燃えさかるように短く生きるのと、どちらを好むかは人によって違うだろうが、でも、人の命を決めるのは神ご自身であるからして、私たちは目の前の今を生きる以外にはない。まあ、110歳は現代の感覚では十分に長いだろうが。
 この終わりの時になって、ヨセフは初めて、カナンへの帰還について語っている。今はあくまでも一時避難に過ぎないのだということを、ヨセフは悟っていた。彼らのいるべき場所は、そして、アブラハムに託された使命をはたいていくための場所は、このエジプトではない。イスラエルは結局、エジプトの民とは同化しなかった。そうなっても不思議ではなかったのに。それゆえに厳しい事態に至るのだけれど、その方向性は神が与えられたものだ。この世に住み、かつ、この世に同調せず。この生き方が神の民には問われている。

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創世記 50:15-21

 赦しというのは、赦す側にとって難しいことであると共に、赦される側にとっても難しいことであると痛感する。兄たちは、赦されたことを確信できず、不安におののいている。ヨセフの涙は、自分の言葉が信じてもらえなかったことに対するものだろう。でも、人間同士のことで言うならば、これが現実なのだと思う。
 けれど、この赦しには神が関わっている。ヨセフは、自分がエジプトに来たことは神の計画だったのだと告げていた。もちろん人間的な感情としても赦した。それだけでなく、神の配慮があって、一族が助かるためのものであったことを含めて、彼はあの厳しい日々を恨みはしないのだと言ったのだ。むろん、兄たちは、結果が良かったのだからと威張るわけにはいかない。でも、ヨセフの確信を受け止めて、彼の赦しが本物であることを信じるものではありたいものだった。
 人と人との間の憎しみは、簡単には消えない。そこに神が関わっておられることを知るときにこそ、赦し、赦される関係への確信を持つことができる。広い心で受け止めよ、ではなく、神に委ねよ、というのが、聖書の教える赦しであるのだから。

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創世記 50:1-14

 エジプトの国を挙げて荘厳な葬儀は、ヨセフがこの国のためにどれほど貢献したかを示している。彼は、飢饉のために滅びかねなかった国を守ったのだから。人々のために尽くす行為は、後にキリストが「隣人を愛せ」と語られた言葉にも通ずる。ヨセフほど大きな話ではなくても、人は誰でも、その人のなすべき「隣人を愛する」行為が求められているはずである。それに気づくかどうかは、大きな違いとなるのだが。
 イスラエルの一族は、この葬儀のためにカナンに戻った。しかし、彼らがエジプトに戻るつもりであることは、子どもたちを残してきたと8節に記されているところからも、かなり強調されている。この時点でのそういった選択について、聖書は何も評価はしていない。エジプト滞在はこの民が増え広がるためには良き環境でもあっただろう。けれど、たとえ良い結果を含む行動であったとしても、そのすべてが本当に良いことであったかどうかは、一概には言えない。まもなく創世記は終わる。そして聖書は、あの奴隷時代を語るのである。

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創世記 49:28-33

 神の言葉を受け取って他の人々に伝える役目は、後には特殊な人々にのみ与えられた資質と考えられるようになったけれど、この頃は神との深い関わりを持つ者たちは、皆、他の人に対して神の心を伝える役目を果たしていたのだと言える。本来は、それが当然のありかたである。今の私たちにしても、である。
 イサクの最期の言葉は、埋葬地に関するものだ。彼は、アブラハムの約束を受け継いだ者として、同じ墓に葬られることを望んでいる。埋葬ということに関して、彼らはかなり重要な事柄として意識しているのが分かる。もちろん、日本のようにご先祖様が守ってくれる、ということではない。神ご自身が守り支えてくださることの、大切な表明の場としての墓であった。私たちが人を葬る時にも参考になる記載である。

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創世記 49:27

 ベニヤミンは年若い子であったはずで、すでに成人していたにしても、ヤコブにとってはいつまでも末っ子であったはずだ。それにしてはなかなか厳しい言葉である。
 これと関連して思い起こすのは、士師記の終わりのほうで、ベニヤミン部族があやうく消滅する事態になったことである。その光景は、まさに狼のようであった。この事件はおぞましいけれど、後でしっかりと読んでいただきたい(士師記18-21章)。

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創世記 49:22-26

 途中の者たちは割愛する。ヤコブの思いは、ヨセフに向けられている。だが、今度は単なる依怙贔屓ではない。神がヨセフを選び、ヨセフを用い、そして今の安全もあるのだということを意識してのもの。今度こそ彼は、神の御心に従って後継者を選んで行っている。それはユダではなく、やはりヨセフが柱となっていくのだ。
 後に、エフライムは北側の部族の中心となり、イスラエルを繁栄させるのに大いに貢献し、そしてまた、分裂後の中心ともなっていく。確かにヤコブの言葉通りであるが、それだけでは真の祝福には至り得ないことが分かるだろう。

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創世記 49:9-12

 ユダは、ヤコブの最初の子どもたち一弾に属する。そして、兄たちが資格を失っていく中、総領息子的な立場をすでに持っていたのだろう。この子に任せるしかない、という思いが見えるようだ。ヤコブの言葉そのものは、そのあたりの程度を意味したのだと思うが、この言葉は後のダビデ王家を真っ直ぐに指し示すことになっている。初めから神はユダから王をと決めていた、というふうに受け止めるのは考えすぎである。だが、ヨセフとの対峙の中で示したユダの資質は、確かに王位を継いでいくのには適したものだったと言える。後々、ユダ部族が良く整えられていく様子からも、こういった資質をしっかり次の者たちに伝えていく、養っていくことに、彼らは成功したのだと思われる。そこには、ユダ自身が失敗から学ばせられたことも大いに関わっているはずだ。

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創世記 49:5-7

 シメオンとレビのしでかしたことは、34章にあるシェケムの町でのものである。彼らなりの理由はあり、決して私利私欲のためではないけれど、でも、考えがなさ過ぎ、かつ、卑怯でもあった。ヤコブはそれを抑えられなかったけれど、決して認めてはいなかったのである。こういった宣告の重さを、よくよく考えて、受け止めていく必要がある。
 なお、後にシメオンは独立した民族としては成り立たなくなって、ユダに吸収されていく。レビは、その理由は全く別にあるのだけれど、イスラエルの中で独立した領地を確保せずに、諸部族の中に住み、人々輪仕える役目を果たしていく。彼らは「散らされた」のである。

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創世記 49:1-4

 ルベンは、父ヤコブのそばめと関係を持った。長男であり、年齢的な近さがあったのだろう。でも、古代であろうがなかろうが、これは認められない。彼にはヨセフの事件にも見られるように、年長者としての落ち着いた判断などは見られるし、弟たちへの思いやりも見られる。だが、悪くない資質を持っていたとしても、そこに重大なあるとしたら、その影響は決定的に大きくなってしまう。彼は、長男としての資格、立場を失うことになる。
 罪の結果は重い。気の迷いであるとか、他の価値を考えれば、という論理は、神の前には通用しない。聖書は罪の結果を厳しく語る。そして、だからこそ、神ご自身の犠牲によって与えられる、特別な「赦し」が必要となるのだ。

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創世記 49:1-27

 ヤコブの遺言であるが、預言的な意味合いも見出される。この言葉によって十二部族の命運が規定されてしまうわけではなく、それぞれの行く末は、それぞれの時代の各部族のあり方によって定まっていくのではある。それでもなお、ヤコブの言葉には考えさせられるものが含まれているので、そのあたりに注目しつつ、後々の歴史をも読んでいただきたい。全部は取り上げないけれど、数日にわたり、注目点をいくつか上げる。今日はまず、全体を流して読んでみて欲しい。

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